ライバル・一刀両断 The Rivals : A Chop and Blow up HMS Indefatigable and SMS Von der Tann |
このページは、第一次世界大戦当時海軍の花形であった巡洋戦艦を、それぞれに比較しながら紹介していくものです。
この第一部では、イギリスの『インデファティガブル』とドイツの『フォン・デア・タン』を取り上げてみた。
『インデファティガブル』と『フォン・デア・タン』の2隻は、いずれもいわゆる巡洋戦艦と呼ばれる軍艦で、第一次世界大戦の直前に完成している。ともに快速を誇り、強大な攻撃力を持つ艦隊の尖兵だった。
巡洋戦艦という軍艦の種別名称は、戦艦並の武装を施した大型の巡洋艦につけられた名の日本語訳であり、そもそもはこうした軍艦を英語で "Cruising-Battleship" と呼んだ書物があって、そこから和訳されたらしい。本家のイギリスでは、最初の存在である1908年建造の『インヴィンシブル』を当初は装甲巡洋艦と呼んでいて、後にその隔絶した能力差から新しく "Battlecruiser" または "Battle-Cruiser" という呼称を創出して用いている。
この名を正しく訳すのならば「戦闘巡洋艦」となるのだろうが、日本語訳ではそのまま「巡洋戦艦」が定着してしまい、実際の存在とはいささかニュアンスの異なる名称になってしまった。
ドイツでは事情が異なり、19世紀末の海軍法から装甲巡洋艦を「大型巡洋艦」 "Grosser Kreuzer" と呼んでおり、『フォン・デア・タン』以降の超大型装甲巡洋艦も同じ名で呼び続けている。そのため、微妙に日本語の巡洋戦艦とはイメージの異なる存在が、それぞれ違った名前で呼ばれることになるわけだが、ここでそんなややこしい話に踏み込みたくはないので、一般の書物に用いられているように双方とも「巡洋戦艦」で呼び表すことにしよう。
ここでは、その初期の存在であるイギリスの『インデファティガブル』と、ドイツの『フォン・デア・タン』を詳細に比較し、それぞれの特徴を描き出していこうと考えている。
海軍戦史に詳しい方ならすでにお気付きのことと思うが、この二隻には単純に同時期の存在というだけではない因縁があり、この話も結局はそこへ行き着いて終わることになるのだが、かつて細かな部分を直接比較されたことはないと思われるので、お楽しみいただければ幸いである。
もっとも私は、ボードゲーム系の情報にはとんと疎いので、そちら方面では類似の記事が存在したかもしれない。
『インデファティガブル』 Indefatigable は、イギリス海軍に特有の形容詞艦名で、「疲れを知らない」とか、「根気強い」という意味である。少々意訳すれば「不屈の」とか、「とことんやる」とかとも言えるだろうか。元の語は fatigue のようだ。
日本人の感覚では奇妙だが、それなりに由緒のある名前で、先々・?・代はナポレオン戦争時代にフリゲイト艦として勇名を馳せた。少々長すぎる名は「インディ」という愛称で呼ばれる。ホーンブロワーファンには馴染みのある名前だろう。
『インデファティガブル』:1909年2月23日デヴォンポート海軍工廠で起工、1909年10月28日進水、1911年2月完成
『フォン・デア・タン』 Von der Tann は、強陸軍国で海軍に歴史の乏しいドイツらしく、陸軍の将軍の名を戴いている。この人は普仏戦争に活躍したバイエルンの歩兵大将で、正式な名前は Ludwig Samson Heinrich Arthur Freiherr von und zu der Tann-Rathsamhausen (1815-1881) だそうだ。読みは、ルートヴィヒ・ザムゾン・ハインリヒ・アルトゥル・フライヘア・フォン・ウント・ツー・デア・タン=ラートザムハウゼンだと、ご教示をいただいたドイツ語に堪能な「大名死亡」氏は言うておられる。男爵だそうだが、長すぎて私には自分の名前だとしても覚えきれないに違いない。
艦の名としては正式に『フォン・デア・タン』なので、ご心配なく。日本語の読みとしては他に、フォン・デル・タンという表記を見ることもある。
ドイツ海軍では同じ時期の同類もやはり陸軍の将軍の名で、『モルトケ』や『シャルンホルスト』などは軍艦の名としてより、将軍の名として有名である。
『フォン・デア・タン』:1908年3月25日ブロム・ウント・フォス社で起工、1909年3月20日進水、1911年2月完成
前述のように、この艦種の正式な呼称は、イギリスではバトル・クルーザーであり、装甲巡洋艦の攻撃力と速力を極端に強化した存在として産み出された。重量の制約から防御は置き去りにされている。その第一号は1908年に完成した『インヴィンシブル』で、『インデファティガブル』は3年遅れて計画された改良型である。
『フォン・デア・タン』は、ドイツとしては最初の巡洋戦艦であり、正式には大型巡洋艦である。しばしばイギリスの初代巡洋戦艦『インヴィンシブル』と比較されるが、建造時期的には改良型である『インデファティガブル』のほうが近く、『インヴィンシブル』に対応するのは装甲巡洋艦の枠を抜け出していない『ブリュッヒェル』であって、これは一般に情報戦における失敗から生まれた半端な性能の艦と評価されている。
なお、『ブリュッヒェル』は通常『ブリュッヒャー』と表記されており、現代ドイツ語では後者の発音が正しいようだが、私の個人的な好みで、このホーム・ページでは古典的な読み方である『ブリュッヒェル』と書いている。
さて、『インデファティガブル』は1909年2月の起工とされるから、前級『インヴィンシブル』が1908年6月に完成したのを見てから工事を始めたことになるのだが、その割には改良点が小さく、半年後に起工された『ライオン』が排水量で40パーセント増し、主砲口径も配置も速力も装甲もはるかに強力であることからすると、なにか中途半端な存在に思われる。
目につく改良点は、『インヴィンシブル』ではほぼ左右並列に置かれていて実質的に反対舷への射撃ができなかった中部砲塔を前後に分離し、70度ほどの範囲でだが反対舷へも発砲できるようになったくらいである。主砲は同じ、速力も防御も大きな変化はない。あとは航続力が大きくなっているくらいか。
同型の『オーストラリア』と『ニュー・ジーランド』は、それぞれの名が示す植民地の予算で建造されており、計画年度が遅くて完成は後継の『ライオン』よりも遅れているので、いわば完成時から二流の存在だったことになる。
こうしたことから、いっぱい食わされたドイツ海軍が、『インヴィンシブル』を対抗馬として建造した『フォン・デア・タン』を性能的に引き離すことができず、おおよそ拮抗した実力を持つにとどまった。
『フォン・デア・タン』の建造は1908年3月に始まっているから、『インデファティガブル』より一年近く先行しているわけだが、建造期間の違いからほぼ同時期に艦隊へ加わった。
これらの日付はおよそ100年前のことであり、細かな数字は資料によって微妙な差がある。この完成の日付にしても、『フォン・デア・タン』では1910年9月から11年2月までの幅があり、『インデファティガブル』でも1911年2月から4月の開きがある。
船が「完成した」という日付には、進水式のように明確な事象がなく、完成公試、造船所からの引渡し日、正式な就役日などいくつか「完成」とされうる状態があるので、どの日付が何を示すのかを正確に把握しなければならないのだが、細かな仕上げ工事の最後がいつだったのかなどわからないし、100年も前の外国の話をそこまで突き詰める理由もないから、だいたい同じ頃ということにしておく。
実際には未完成のまま、名目的に完成してしまったことにし、名簿に載せてしまう必要があるという政治的状況があったり、完成はしたのだが予定された性能が得られず、造船所との間ですったもんだがあったり、新型の大砲が出来上がらないので丸腰のまま就役したりとか、観艦式に並べるために大砲の代わりに丸太を取り付けたりとか、いろいろと大きな声で人に言えないことをしているのが海軍だから、正確な日付にこだわってもあまり意味はない。
こうした曖昧さは、軍艦の場合けっこうあたりまえに存在するので、装甲の厚みなど、いまだに正確に解明されていない軍艦もある。軍事機密の壁と意図的に流される偽情報、実物に物差しを当てる困難さ、相手が大きすぎて掴みきれなかったり、一部だけのデータを全部と誤解したりの間違いがどこにでも転がっているため、この先に比較するデータでも、「?」の付くものはいくつか出てくる。そうした不確実さは、「当然にあるもの」と考えてほしい。
ここでは、基本的にコンウェイの ”All The World Fighting Ships 1906-1921" に掲載されている数字を基準としていく。他の資料に大きく異なった数字があるものや、明らかな間違いがあれば、そのつど注記していこう。
以下、二つ並んだ数字は、<<◆>>を挟んで左側が『インデファティガブル』、右側が『フォン・デア・タン』である。
<排水量>
船体が浮かぶために押し退けた海水の体積を重量として計算したもので、船の水中部分の体積から計算され、船そのものの重量ということになっている。100年前の当時、正確に「計測する」方法はない。
ともにワシントン軍縮条約以前の建造であり、どちらも条約発効の1922年にはすでに現役として存在していないので、条約で定義された「基準排水量」という数字は存在しない。データがあれば計算は難しくないけれども、この時代には標準排水量と満載排水量が一般的な指標である。単位はロングトンで、1トンが2240ポンド、約1016キログラムだ。
●標準排水量:18470トン<<◆>>19064トン
常備排水量とは、軍艦が完全に装備を整え、出撃し、戦場へ到達したときの状態を仮想して、消耗品などを満載量からある程度減らした状態での排水量である。一般に減るのは燃料、真水、食料などで弾薬は全量を搭載しており、減らす量の定義は国や時代によって異なる。
19世紀には、平時、日常での排水量という概念もあり、常備=standing に対して、標準=standard という語があてられていて、これがワシントン軍縮条約での基準=standard と同じ語であるため、誤解があちこちに転がっている。
この時代には、常備排水量とされていても内実は標準排水量である場合が多く、ここでもその例に漏れないので、標準排水量の定義を用いていく。その中身については、おいおい説明していこう。
定義の違いはともかく、双方の差は3パーセントくらいで、ほぼ同じ大きさと言えるだろう。『インデファティガブル』の数字には資料によって18470トンから18800トンの幅があり、どれが正しいのかは明確でない。『フォン・デア・タン』にも19000トンから19400トンの開きがある。数字を拾った時期によって、改装などで艦の重量が実際に変わっている場合もあるから、どれかが間違いと言い切れるものでもない。
2万トンを乗せられる秤もなかったから、数字は計算で求められたものであり、端数まで意識しても始まらないのだが、単位違いの換算などで出てきた端数を丸めない人がいるので、話がややこしくなる。公式の書面上の数字は、現実とはまた別なものであって、軍縮条約以後の軍艦にはまるっきりのウソが書いてある奴もいる。
イギリス、ドイツとも、この時期には主ボイラーが石炭焚きであり、重油系燃料を混焼できるようになっていただけだが、石炭の搭載量には「標準」と「最大」の二つの数字があり、どちらの艦も1000トンほどを標準搭載量としている。常識的に考えれば、普段は1000トンの範囲で消費と補給を行い、必要に応じて最大量を積むとしていそうなものだが、この時代には石炭が重要な防御用品であって、主に機関部の上を石炭で覆い、砲弾の破壊エネルギーをバラ積みされた石炭に吸収させようとしているため、炭庫に石炭がないと所要の防御力が得られない。それゆえ全搭載量を積んでいるのがあたりまえで、使用を許されるのが標準搭載量なのだ。
平時の長距離航海ならば、防御用の石炭を使ってしまっても問題はないが、戦時には使えば鎧を脱いでいるようなものなので、特に装甲の薄い巡洋戦艦では標準搭載量以上の石炭は使いたくないのである。巡航速力でも一日に150トンを燃してしまう艦であり、全速力で突っ走れば1000トンなど一日あまりで使い切ってしまうため、巡洋戦艦の運用者は非常に短い航続力しかないと考えていて、ちょっと走ればすぐに補給を心配するようになってしまっている。
ここでの標準排水量の数字も、石炭は標準搭載量を全量積んでいるだけの状態を示しているようで、満載との差の大きさを見ると上記の常備排水量の想定とは異なるようだ。それゆえ、この状態で戦うのは怖いから、次の満載排水量が戦いに臨む基本状態と考えなければならない。
●満載排水量:22080トン<<◆>>21700トン
標準排水量との差は2600トンから3000トン以上もあり、その差が戦場への航海で減る量を示していないのは明らかである。
『インデファティガブル』の詳細を記した資料*によると、「満載」に含まれていて「標準」に入れられていないものには、弾薬の戦時搭載量と平時搭載量の差、石炭の最大搭載量と標準搭載量の差、重油系燃料の全量、予備缶水、若干の備品 (おそらく潤滑油や予備部品、戦時のみに搭載される特殊備品) が列記されている。つまり上記の標準排水量は、「平時の普段の状態」を示していると考えられる。この資料の筆者はそのことを意識しているようで、語としては "load condition" と "deep condition" が使い分けられている。
両艦の差は非常に小さいけれども、数字は逆転している。これは航続力要求の違いから、燃料の最大搭載量が異なるためで、積めるだけ全部積むと『インデファティガブル』のほうが重くなってしまうのだ。
『インデファティガブル』は全海洋を支配するイギリスの軍艦だから、世界中のどこへでも出動できなければならないが、ドイツ海軍は北海の奥に閉じ込められていて、とりあえず目の前のイギリスやフランス、ロシアの艦隊を殴りに行きたいだけだから、それほど長距離を走れなくても困らないのである。
この数字も資料によってそれぞれ、20000トンから22130トン、21000トンから21700トンの開きがある。
戦時に不要となる什器備品は、そもそもこうした排水量に含まれているか疑問だ。乗組員の身の回りの品と同一視されているかもしれない。また、実際に戦闘に臨む場合に降ろされることがある艦載艇や平時専用の用品も、数字上どのように扱われているかまではわからない。
*資料=Battlecruisers : John Roberts : Chatham pub. 1997
<燃料搭載量>
話のついでに、積める燃料の量を比較しておこう。
●石炭:3340トン<<◆>>2960トン
●重油系:870トン<<◆>>200トン
両方を合わせると『インデファティガブル』のほうが、かなり量が多いとわかるだろう。これはほぼそのまま航続力の差となって現れているが、双方の性格を反映している部分でもある。
いずれも積むことのできる区画を容積で計算し、それぞれの比重をかけて求められたものだから、石炭の質や塊の大きさによっては器に入れたときの比重に違いがあるため、実際に積める量と一致しているとは限らない。油にも種類によって比重の違いがある。また質の悪い石炭は半分石だったりするので、燃して得られるカロリーも等しくない。これは当然、最大速力や航続力に影響する。イギリスは国内に最高品質の石炭を産するが、ドイツ産はそこまで良質ではない。いずれも油はほとんど輸入に頼るだけだ。
イギリスは世界中に領土や植民地、租借地、経済利権などを持ち、傘下にある友好国も多く、保護を必要とする可能性のある対象が世界中に広がっているから、必要に応じて軍艦を派遣できなければならず、巡洋艦の最大種である巡洋戦艦もそれを意識した性能を持たされている。
とはいえ、燃料は実際に使うときまではデッドウェイトであって、通常は余分な燃料を持って歩きたくはない。しかし、それが防御の一部であるからには、たくさんあったほうが心強いし、減らせば不安が大きくなる。このジレンマはカタログ上の航続性能と、作戦中の艦の行動との落差になって現れ、理解に苦しむような奇妙な行動に繋がることがある。
『フォン・デア・タン』は完成時、速力性能を低下させるビルジキールを持たず、減揺タンクを装備していた。これは17度の横揺れを11度に低減させる効果があったとされるが、いろいろと不都合なこともあったようで、タンクは石炭庫に転用され、ビルジキールが追加されている。これによって石炭の積載量は200トンほど増えたとされている。
<航続力>
●航続距離:
10ノットで6330浬<<◆>>10ノットで6500浬
16ノットで5100浬 (6970浬)<<◆>>14ノットで4400浬
23ノットで2470浬 (3360浬)<<◆>>22.5ノットで2500浬
石炭のみでの航続力、( )内は重油燃料を併用した場合
もうひとつついでに、航続力も比較しておこう。これは公試のときに燃料と水の消費量を計測し、全燃料を使った場合にどれだけの距離を走れるかを計算したもので、実測値ではない。運用中の工夫や適切な改造、燃料の質などによって数値は変わるのだが、公試時以外の数字は、あまり発表されることはない。
数字は必ず速力と併記され、特定の速力でどれだけ走れるかの目安になるが、戦闘時のように全速準備のまま行動していれば、速力が同じでも平時の巡航とはかなり消費量が異なってくる。
また最大速力では非常に燃料の消費量が大きくなり、石炭庫からボイラー前への移送が間に合わなくなって速力を維持できないこともある。この2隻はどちらもタービンを主機にしているけれども、減速ギアのない直結タービンであるため、低速力では効率が悪く、速力を落としてもあまり移動可能距離は大きくならなかった。
『フォン・デア・タン』は小型の巡航タービンを装備していて、10ノットの低速だとかなり長い距離を走れるのだが、これは当然ボイラーも最小限しか火を入れないということだから、戦時に使える数字ではない。『インデファティガブル』は巡航タービンを持っていないが、主タービンに巡航段落はあったようだ。
この速力は艦隊運用を意識したもので、ある特定の速力での航続距離が算出されているのであって、最も経済的な速力ではない。単独行動が基本の巡洋艦では、経済速力は重要な要素なのだが、通常の書物に記載されることはまずない。
艦と機関の相互関係の中には、特定の速力範囲で燃費率が大幅に悪くなってしまうというクセがあったりするので、艦隊速力がここにはまってしまうと非常に具合が悪い。また振動の問題で共振を避けたい回転数があったりもするから、平時に完成した艦は時間をかけてこうした不具合を見つけ、対策を講じることができるものの、戦時に完成した艦では調整する暇もなく実戦投入などということにもなってしまう。
直結タービンは、スクリューにキャビテーションの問題があるため、タービンとしては考えられないほど低回転で回さなければならず、これらの機関では全速でも毎分300回転くらいであり、これでもスクリュー側から見れば限界的な高回転になる。回転数と速力がおおよそ比例するとするなら、10ノットの巡航速力では一秒に2回転くらいしかしないことになる。
この状態はプロペラ側には適当な回転なのだが、タービン側では非常に効率が悪いので、さらに遅く走るとタービンはまともに使えない状態になる。スクリューも毎分300回転などという高回転にピッチを合わせているため、低回転での効率がよくないから、速力を落とすとどんどん燃費が悪くなってしまう。ある程度速く走っているほうが効率は良く、速力の速いほうが、航続距離は長くなる場合もあった。
両者とも全速25ノットでは、速力を維持できるとしてもおそらく三日くらいで燃料を使い切るだろう。常用石炭庫の1000トンだけしか使えないと考えれば、丸一日で空っぽということになってしまう。後に30ノットを超えるような高速軍艦が、最大速力などごく短時間しか使えなかったのは、あまりにも大量に燃料を消費するからなのだ。主機の強化や船型の改良によって最大速力は上げられても、燃料の消費が増えるのを避けることはできない。
<船体寸法>
●全長:590フィート=179.8メートル<<◆>>171.7メートル
●水線長:588フィート=179.2メートル<<◆>>171.5メートル
●垂線間長:555フィート=169.2メートル<<◆>>データなし
ともに艦首に衝角は持っていないが、クリッパー式に上部が前方へ突き出した形ではなく、船首材は垂直に近くて、吃水線付近がわずかに前方へ長くなっている。イギリスはヤード・ポンド法を用いているので、そのままの数字とメートル法に換算した数字を併記しておく。
どちらも艦首のシアーは大きくなく、主砲を艦首正面近距離へ発射できることが重視されていた。上甲板の横への広がりであるフレアもあまり顕著ではなく、『フォン・デア・タン』では乾舷も不充分で、うねりの中で速力を上げればいろいろと障害が発生した。
『インデファティガブル』は、前級『インヴィンシブル』より全長を7メートルほど大きくしているものの、砲塔配置に無理があるので艦首尾の砲塔がそれぞれ船体末端に寄せられ、艦首尾甲板が短くなっている。このため幅の狭い部分に重量物が存在する形になり、ピッチングに対するモーメンタムが大きくなって航洋性に悪影響があった。
●幅:80フィート=24.4メートル<<◆>>26.6メートル
10パーセント近い差があり、長さは『フォン・デア・タン』のほうが短いので、よりずんぐりしていることになる。計画速力や出力にほとんど差がないから、それだけ速力発揮に有利な船型をしているということなのだろう。
イギリスではドックの幅に制限を受けることがままあったけれども、同時期の戦艦は25メートル以上の幅を持つので、この場合にはあまり大きな制限ではなかっただろうと思われる。
●常備吃水:26フィート6インチ=8.1メートル<<◆>>8.1メートル
●満載吃水:30フィート=9.1メートル<<◆>>9.0メートル (9.17メートルという数字もある)
ほぼ等しい。当時のスエズ運河の吃水制限が30フィートなので、これが意識されているのかもしれない。ドイツの場合にはキール運河やヴィルヘルムスハーフェン軍港周辺の吃水制限もあり、干潮の時には軍港から出動できないなどという、海軍としてはあるまじき状況も発生している。
船体形状は双方ともに船首楼を持つブロークン・デッカーだが、『インデファティガブル』の中部砲塔は長い船首楼甲板にあり、『フォン・デア・タン』のそれは一段下の上甲板にある。さらに舷側の高い『インデファティガブル』には副砲砲廓がないので、舷側はのっぺりとしてずらりと並んだ舷窓が目立ち、いかにも薄っぺらでひ弱に見えてしまう。
実際に舷側装甲帯の上にはまったく装甲がなく、装甲帯の上端に接する主甲板より上には、バーベットに乗った砲塔と司令塔が生えているだけで、煙路や吸気筒に薄い装甲が巻かれているだけだった。大出力のボイラーをまかなうため給排気口は大きく、上甲板は穴だらけだ。
『フォン・デア・タン』にしても基本的には同じで、副砲砲廓にそれなり装甲があり、甲板装甲は上甲板と主甲板二層にそれぞれ施されていたけれども、十分な厚みはなく、開口部が多いのも同様である。
水中船体には大きな特徴がなく、『フォン・デア・タン』では当時のドイツ艦の流行のままに、艦首底が大きく切り欠かれた形状をしていた。旋回性能が良くなるおまじないらしい。後には使われなくなった形状なので、あまりご利益はなかったのだろう。
<主機関>
●ボイラー:バブコック・アンド・ウィルコックス水管缶32基<<◆>>海軍省式水管缶18基
数にはあまり意味がない。一つひとつのボイラーが大きいか小さいかの問題で、単純にどちらが有利といえるものではない。『インデファティガブル』のボイラーを31とする資料もある。
『インデファティガブル』はこれを五つのボイラー室に分散し、第一缶室に5基、第二缶室に7基が第一煙突へ、第三缶室に4基、第四缶室に8基が収められて第二煙突へ、8基を持つ第五缶室が第三煙突へ排煙している。『インヴィンシブル』で煙害に懲りたため、第一煙突は高さが増され、露天艦橋のさらに上から煙を出すようにされた。
三本の煙突は間に砲塔を挟んでほぼ等間隔に並び、ボイラー数の少ない第三煙突がやや細い。外見上の印象はそれぞれだろうが、どこか間延びして立ち並んでいるだけで、工芸品的なデザインは感じられない。
『フォン・デア・タン』は、18基のボイラーを二列10室に分けて搭載しており、最も前のボイラー室二つだけがそれぞれボイラー1基を収容し、他の区画は2基ずつを収容していた。前煙突には6室分10基の排煙が集められ、後煙突に4室分8基が排煙している。第一、第二と書かないのは、ドイツでは後ろから前へ向かって番号が振られているので、紛らわしいからだ。
●主機関:パーソンズ直結タービン二組4軸<<◆>>パーソンズ直結タービン二組4軸
主機が二組で4軸を駆動するというのは蒸気タービン機関に特有の構成であり、ボイラーで作られた蒸気がまず高圧タービンで使われ、次に低圧タービンに導かれるという一連の蒸気の流れの中で、高圧、低圧のタービンが別々のケースに収められており、それぞれが別な推進軸に接続されていることを意味している。内燃機関がひとつの固まりになっているイメージからだと想像しにくいだろう。
そうしなければならない理由は、速く回りたがるタービンと、一定の回転以上になられては困るスクリューとの物理法則上での兼ね合いなので、具体的な解説はここでは割愛する。ご要望があれば、専門家がキーを叩いてくれるかもしれない。
両艦の基本構成は同じだが、中身は同一ではない。『インデファティガブル』のタービンは外軸に高圧タービンが、内軸に低圧タービンが接続され、それぞれに後進用タービンが付属していた。主高圧タービンに巡航段落はあったが、別体の巡航用タービンは持っておらず、比較的単純な構成である。蒸気圧力は250psi=17.6kg/平方センチだった。
『フォン・デア・タン』のそれも田の字型の4室に分かれ、前2室に外軸に繋がった高圧タービン、後2室に内軸に繋がった低圧タービンがあり、低圧の後進タービンはこれと一体になっている。高圧の後進タービンも後室にあり、貫通している外軸に取り付けられていた。また右舷前室には右内軸に繋がった高圧巡航タービンが配置され、左舷前室に左内軸に繋がった中圧巡航タービンがあった。蒸気圧力は235psi=16.5kg/平方センチである。
●舵:平衡型並列2枚<<◆>>平衡型並列2枚
●計画出力・速力:43000軸馬力・25ノット<<◆>>43600軸馬力・24.75ノット
●公試最大出力・速力:55140軸馬力・26.89ノット<<◆>>79007軸馬力・27.4ノット
基本的な性能に大きな違いはない。『フォン・デア・タン』の公試最大出力は異様に大きいが、この当時には珍しいことではなく、かなり無茶な過負荷をかけて計測されたものである。
公試最大値はどちらもテストのために発揮された数字であり、さまざまな条件が異なるので鵜呑みにはできない。石炭焚きのボイラーではときおり内部の灰出しなどをしなければならず、30もあったらどれかは必ず止まっているような状態になるから、たいていはボイラー側に余裕があるので、これを全部つぎ込めば他の能力が飽和しない限り一時的な出力は大きくなる。確かにピークではそうした出力が発揮できるだろうが、それなりに準備が必要だし、当然に持続はできない。
<兵装>
●主砲:12インチ=30.5センチ45口径砲8門<<◆>>28センチ45口径砲8門
古い資料では『インデファティガブル』の主砲を12インチ50口径砲としているものがあるけれども、これは45口径砲が正しい。イギリス海軍の故意に誤った発表と、時期的に改良されているはずという認識から50口径砲と思われたらしいが、写真からも45口径砲で間違いないようだ。
ともに連装砲塔4基に装備して、艦首尾の中心線上に1基ずつを置き、艦首のものは高い船首楼甲板に、艦尾のものは一段下がった上甲板にある。さらに中央部の両舷に梯形配置にして2基を装備しているのだが、左右どちらを前にするかでは、見事に逆になっている。
イギリスには前世紀から中央部に砲塔を梯形配置にした中央砲塔艦があり、伝統的に左舷側を前に置いているけれども、ドイツにはこうした配置の経験がなく、どういう理由か右舷側を前に配置している。どちらが有利というような問題ではなかったようだが、同じにしたくなかっただけなのだろうか。
梯形配置は、ただでさえ高い船首楼甲板にある艦首砲塔に、さらに重ねて背負い式配置を採用するのをためらったために用いられたものだ。
標準型戦艦の連装2基4門による砲撃力をおおよそ2倍に拡大するならば、艦首へ向けられる砲が4門必要になるのだが、背負い式配置ができないとなると、艦首に砲塔を並列に置きでもしない限り、艦橋構造物が邪魔になって射界を確保できない。そこで、中央部の中心線を外した位置に砲塔を置き、幅を狭くした上構の脇から首尾線方向を撃とうと考えたわけだ。並列にすることもできるが、そうすると反対舷へは射撃できなくなり、側面への射撃力が2倍にならないから、前後にずらし上構を整理して射界を開いているわけである。
発想は同じだが細部では異なり、どちらが前にあるかはともかく、『インデファティガブル』のそれは船首楼甲板にあってギリギリまで舷側に寄せられ、バーベットの装甲鈑が舷側から食み出すくらいの位置にある。このため片舷にほぼ180度の射界を持つが、反対舷には70度ほどの射界しかない。
『フォン・デア・タン』のそれはいくらか内舷側に入れられており、首尾線方向への射界はないけれども、反対舷へは90度ほどの射界を持っていた。首尾線からは仰角にもよるが、5度ないし10度くらい離さなければ発砲できなかったようだ。
合計した射界はほぼ等しいものの、実際に0度もしくは180度方向へ発砲すると、上構への爆風の影響が大きく、現実的でなかったとされる。その意味では、反対舷への射界を広く取った『フォン・デア・タン』のほうが有利だったかもしれない。中心線配置の場合では、一般に片舷への射界は120度ほどだから、合計した数値に大差はないものの、全砲を向けられる範囲は梯形配置のほうが狭くなってしまう。
こうした梯形配置での反対舷方向への発砲について、しばしば船体や備品の破損があったと述べられているが、これは爆風や衝撃波によって構造のひ弱なものが壊れるという意味で、船体構造が発砲の衝撃に耐えられないかのような書き方は誤りである。大口径砲を装備した軍艦は、そんなに華奢にはできていない。繰り返し衝撃を受けることで支持構造材にひびが入ったりする場合もあるけれども、それは発砲の方向とは関係しないし、中心線配置の砲塔でも起きることだ。
●砲塔:Mk VIII<<◆>>DrhLC/1907
揚弾機構はどちらも大差なく、砲室直下に換装室があり、上部揚弾機と下部揚弾機の間で積み替えが行われている。『インデファティガブル』は全俯仰角範囲で装填が可能な装填装置を持っていたが、砲を動揺に対してスタビライズすることはせず、ローリングの周期に合わせた発砲を行っていた。『フォン・デア・タン』は固定仰角装填だが、装填後の砲身は砲手の手動によってスタビライズされ、随時発砲が可能だった。
実戦ではほとんど発射速度に差はなかったようだが、一般にイギリス艦は全砲での一斉射撃を、ドイツ艦では連装を片方ずつ発射する交互斉射を行っていた。もちろん、逆の場合もある。
なお砲塔の呼称は、『インデファティガブル』では前から「A」、「P」、「Q」、「X」 (「P」を「B」、「X」を「Y」とする資料もある) で、『フォン・デア・タン』では前から「A」、「B」、「D」、「C」である。イギリスの呼称は、艦首の砲塔をA、B、C、中部砲塔をP、Q、後部砲塔をX、Y、Zと呼ぶ特有のものだが、ドイツではアルファベットを艦首から時計回りに振っているので、艦尾の砲塔が「C」、左舷側の砲塔が「D」になるわけだ。
●砲身:12インチ Mk X (304.8ミリメートル、45口径)<<◆>>28センチ SKL45 (283ミリメートル、42.4口径)
●最大仰角、射程:13.5度、18630ヤード=17000メートル<<◆>>20度、20800メートル
●初速:2700フィート/秒=823メートル/秒<<◆>>855メートル/秒
●徹甲弾重量:850ポンド=386キログラム<<◆>>302キログラム
●装薬量:258ポンド=117キログラム<<◆>>105キログラム
最大俯角は5度と6度である。『インデファティガブル』のほうが砲弾は重いけれども、初速や最大射程は『フォン・デア・タン』のほうが大きい。いずれ、まともに測距できず、ろくに当たらないために最大射程での撃ち合いは考えられておらず、実用的な最大射程は15000メートルくらいだった。そのため、ドイツの後継艦『モルトケ』では、構造を簡略化する目的で最大仰角を13.5度に抑えている。ところが戦訓から戦時中に最大仰角の引上げ工事が行われていたりするので、あまり先見性があったようには思えない。
どちらも弩級艦直前頃から用いられだした砲だが、尾栓方式はまったく異なり、『インデファティガブル』は段隔螺旋と呼ばれる特殊なネジの形式で、蝶番によって支持された尾栓は砲身に挿入されると16分の1回転で密閉できた。『フォン・デア・タン』の尾栓は水平鎖栓と呼ばれ、砲身薬室の後部を横向きに差し込むブロックで塞ぐようになっている。このため燃焼ガスの漏れが止められず、薬莢によって隙間を塞いでいる。
28センチ砲の実口径は283ミリであり、砲身長は45口径とされるが、ドイツでは尾栓支持部を含めた砲身の全長を比率の対象にしているので、イギリス式の尾栓前面から砲口までの長さだと2.5口径ほど短くなり、本砲では42.4口径程度になる。
砲弾の搭載定数は、『インデファティガブル』が1門あたり平時で80発、戦時で110発とされる。『フォン・デア・タン』は艦全体で660発といわれる。配分は定かでないが、図面を見ると防御甲板下に前後の砲塔下部を繋ぐ縦通通路があるので、弾薬庫間で砲弾の融通ができたようだ。『インデファティガブル』では徹甲弾や通常榴弾を混載したが、『フォン・デア・タン』では徹甲弾だけだったとされる。
装薬は、『インデファティガブル』では絹のバッグに収められ、人力での扱いが可能なように一発分が二包に分けられていた。『フォン・デア・タン』では薬莢に入った主装薬と袋詰めの副装薬に分割されていたが、主装薬は79キログラムに薬莢の重量が加わるのでかなり重く、人力では扱えなかった。
●副砲:なし<<◆>>15センチ (149ミリ) 45口径砲10門
●水雷艇防御砲:4インチ=102ミリ50口径砲16門<<◆>>88ミリ45口径砲16門
副砲の有無は、両者の性格を大きく分けている要素のひとつである。『ドレッドノート』の思想として「単一大口径砲」という命題があり、戦闘を行うとき同時に発砲する異種砲があると、着弾観測などに支障がでるという主張が根底になっている。そこでイギリスでは重量を節約する目的から、一切の副砲を排除してしまったのだ。
確かに主砲と口径の近い中間砲にはこの弊害があるのだが、人力で速射のできる6インチ程度の砲は、比較的短距離で砲戦が始まると予想される天候の良くない北海では依然有効であるとして、ドイツでは装備を継続している。
これにはもうひとつの見方があり、主力艦を単独で運用する場合には、接近してくる魚雷攻撃目的の小型艦を迎撃するのに効果的な砲が必要だとする意見が存在した。これらにより、イギリスとアメリカの初期弩級艦以外では、120ミリから170ミリ程度の副砲を多数装備するほうが主流であり、特に主砲以外に3インチ=76ミリ砲しか持っていない『ドレッドノート』は、明らかに能力不足と考えられている。
ここでの両者は巡洋艦種であり、本来ならば根拠地を離れた場所での単独運用が考慮されてしかるべきなのだが、いずれもその要素は薄いから、副砲の有無は前者の理由だけになるのだろう。
単独運用では、相手によって武器を使い分けられないと不自由であり、隙を作ることにもなる。イギリスの前級である『インヴィンシブル』では、3インチ砲だった計画を急遽4インチ砲に改めているけれども、装備位置がなくて主砲塔上にまで配置している。しかし主砲砲戦時には砲塔上には配員できないから、これを除くと8門しかなく、片舷4門では駆逐艦迎撃にはとうてい足りない。なぜか、船体内に装備することは考えられていなかったらしい。
『インデファティガブル』ではすべてが上構内に装備されているものの、口径が小さいために相手が大型駆逐艦以上になると主砲を用いざるを得なくなり、限られた砲弾を浪費することになる。艦隊運用では、イギリスには潤沢な軽巡洋艦と砲戦能力の高い駆逐艦群があり、これが防御スクリーンを展開することによって、主力にかかる負担は減らせると考えられていた。
また、主力同士の艦隊戦闘中に、駆逐艦が集団で組織的に魚雷攻撃を行うという戦法は、第一次大戦中に発達した戦術であり、それまではそうした思想が乏しかったのも事実である。仮泊地にある敵艦隊を襲撃したり、海戦前後に夜襲をかけたりする戦法はあっても、魚雷の最大射距離が短いのと駆逐艦の通信能力では連携が困難だったため、戦列から落伍した艦ならともかく、日中に健全な主力艦隊へ襲撃をかけるのは自殺行為でしかないと考えられていたのだ。
速力の速い巡洋戦艦では、速力を利せば駆逐艦によってたかられる事態は防ぐことができるとも言われるが、駆逐艦相手に逃げなくてはならないのなら、主任務である強行偵察は成立しないことになる。実際に後継のイギリス巡洋戦艦は、副砲を強化する方向へ向かっており、やはり持っていないと不自由だったのだろう。
『フォン・デア・タン』の装備方法は前時代とほぼ同じで、舷側に設けられた砲廓に片舷5門ずつを並べているが、主砲塔と干渉するので左右では非対称になっている。また、中央部に寄せられているために艦首0度方向へは指向できない。最も浅い角度で15度くらいのようだが、3門がやっとだ。指揮装置は砲廓内にあり、測距儀がちょうど舷側砲塔を背負う位置に突き出している。これにも、砲口径の実寸は149.1ミリだとする資料がある。
88ミリ砲は上構上のほかに艦首と艦尾に砲廓を持っているが、後者は航海中には波をかぶって使用できにくいので、停泊中に用いるのが基本的な用法である。
砲廓最後尾にある15センチ砲は、船体が大きく切り欠かれているために180度方向への射界を持つけれども、この切り欠きは必要以上に大きく、幅2メートルくらいは余分にスペースが取られているようだ。そのぶん艦内容積が小さくなる不利が発生するのだが、どうやらこれは艦外との交通に用いられるユーティリティ・スペースであるらしく、前弩級戦艦に多く見られる配置でもある。後部に主砲塔を背負い式に配置するようになると低くなった後甲板がこの目的に用いられるようになり、舷側の切り欠きは縮小され、必要最小限の大きさになっていく。
ここがそうした用法に使われていない場合に、士官が歓談している写真が残っているので、これはスターン・ウォークの代わりでもあったようだ。ドイツの戦艦にはスターン・ウォークをもっているものがほとんどなく、『フォン・デア・タン』以降の巡洋戦艦にも見られない。それ以前の装甲巡洋艦には装備されているので、運用が本国周辺に限られた艦では省略されたのだろう。理由としては重量の節約が主目的だろうが、ロシアと同様に着氷の問題があったのではないかと想像される。
●高角砲:3インチ=76ミリ20口径砲1門<<◆>>88ミリ45口径砲4門
どちらも戦争が始まってから装備されたもので、『インデファティガブル』では後部上構上に置かれ、『フォン・デア・タン』ではやはり後部上構に既存の88ミリ砲と交換で装備されている。
●魚雷:18インチ=450ミリ水中発射管3門<<◆>>450ミリ水中発射管4門
いずれも固定された水中発射管で、『インデファティガブル』は艦尾に1門と後部砲塔の直前に左右に1門ずつを装備していた。艦尾のものは大戦が始まってまもなく撤去されている。2門になってからの魚雷搭載数は12本である。資料によっては21インチ=533ミリ魚雷とするものがあり、18インチとしているものも、実寸は17.72インチ=450ミリだとされる。
『フォン・デア・タン』は艦首砲塔の直前に左右1門ずつ、艦首に正面を向けて1門、艦尾に真後ろへ向けて1門を装備している。魚雷搭載数は11本だが、配分は不明。こちらも資料によっては500ミリ魚雷とするものがある。
45センチ級魚雷の有効な最大射距離はせいぜい5000メートルで、主砲の射程と比べると能力不足であり、役に立つ距離に入る頃には、主砲弾が雨あられと命中する状況になっているだろう。なかなか沈まない相手にトドメを刺すくらいの役割しか期待できない。
<マストと指揮所>
●前後とも三脚檣<<◆>>前後とも棒檣
『インデファティガブル』では船体寸法が厳しく、艦首砲塔直後の司令塔に半ばかぶさるように航海艦橋があり、直後の第一煙突との隙間に三脚檣を立てている。後檣は後部上構の後端に寄せられ、中央脚が上構上に置かれる艦載艇を揚降するデリックの支柱を兼ねていた。前後檣間の間隔は非常に大きく、ただでさえ間延びした艦容をさらに引き延ばして見せている。
大戦中に改装を受け、前檣頂部に方位盤を装備したが、後檣上の指揮所は煙のため役に立たず、他の同型艦ではフラットがあるだけで、指揮所は置かれなかった。
『フォン・デア・タン』は前後とも棒檣で、頂部には見張り台があるだけでしかない。後に射撃観測所が設けられたとされるが、大きなものではなく、見張り所に射撃指揮所への直通電話があったくらいだろう。やはり艦首砲塔直後に司令塔があり、これを取り巻くように航海艦橋が設けられている。
ドイツでは測距儀の精度は高かったけれども、射撃指揮装置の開発が遅れ、大戦中にはイギリス並みの方位盤は実用にならなかった。砲塔の指向方向をコントロールできただけとされる。しかし手動とはいえ砲身をスタビライズしていたのだから、外から俯仰をコントロールすることはできないし、仰角が安定していれば発砲は若干タイミングがずれても問題にならないので、大きな欠点とは言えない。それでも戦闘が長引くと、砲手の疲労とともに精度が落ちる難点があった。
<装甲>
●主装甲帯:6インチ=152ミリ<<◆>>250ミリ
これも両艦の性格を大きく隔てる要素である。いずれもクルップ鋼だが、『インデファティガブル』の152ミリは9.2インチ=234ミリ砲を装備していた『マイノーター』級までの装甲巡洋艦の水準であり、200ミリくらいの砲弾までなら止められても、28センチではよほど斜めにでも当たらないと耐えきれない。『フォン・デア・タン』の250ミリは、まずまず12インチ砲弾とは見合うので、この数字だけを見ると防御能力には絶対的な大差があることになってしまう。
『インデファティガブル』の装甲帯は、長さが298フィート=90.8メートルの範囲しかなく、ほぼ機関部と中部砲塔の弾薬庫を覆うだけである。高さは11フィート=3.35メートルで、常備状態で三分の一ほどが海面下にあった。前後砲塔の弾薬庫側面では102ミリしかなく、艦首尾では64ミリに減らされている。艦首側では高さを増しているものの、艦尾では減らされ、ほぼ甲板一層分しかない。装甲横隔壁は前後砲塔の外側、102ミリの装甲帯に接続していて、艦首側で102ミリから76ミリ、艦尾側で114ミリである。
危険の大きい弾薬庫部分で装甲が薄くなっているのは奇妙だが、弾薬庫そのものが64ミリ程度の装甲で形成されて二段防御の様式を持たされ、さらには間に予備炭庫を設けて防御を図っているのだ。
同型艦である『オーストラリア』と『ニュー・ジーランド』では、かなりの装甲仕様が異なるので準姉妹艦として扱われていることもあり、級としてのデータにそちらが使われている場合がある。
『フォン・デア・タン』の装甲帯は、艦首砲塔前から艦尾砲塔までを覆っており、長さは108メートル、高さは甲板二層分ほどもある。もっとも250ミリの厚みがあるのは吃水線近辺の1.25メートル幅だけで、上下はそれぞれ150ミリの厚さまでテーパーして減らされている。前後端は230ミリの横隔壁で閉ざされているが、120ミリから80ミリ程度に薄くなった装甲帯は、艦首まで延長されていた。艦尾にはわずかに無装甲部分があるものの、装甲帯の末端は100ミリの横隔壁で防御されている。
●上部装甲帯:なし<<◆>>150ミリ
副砲の砲廓部分の装甲である。『インデファティガブル』には砲廓はなく、主装甲帯の上にはまったく垂直装甲がない。煙路や開口部コーミングに38から25ミリ程度の薄い装甲が巻かれているだけだ。
●甲板装甲:水平部38ミリ、傾斜部51ミリ<<◆>>水平部25ミリ (二層)、傾斜部50ミリ
いずれも吃水線直上の主甲板を防御甲板とし、舷側末端を下へ折り曲げて装甲帯の下部に連結している。『フォン・デア・タン』ではさらに、主装甲帯の上端に接する中甲板にも25ミリの装甲を張っており、二枚の防御甲板を持っていた。
いずれも、大戦中に戦闘距離が伸び、15000メートル以上での撃ち合いが常態化すると、大落角の砲弾に対しては能力が足らず、簡単に突破されるようになってしまう。このことは双方ともに致命傷となりうる損傷に繋がっているのだが、結果は対照的だった。
もっとも、落角は10度以下だったものが15度からせいぜい20度くらいになった程度で、「垂直に近い」という表現は大げさに過ぎる。
●砲塔前面:7インチ=178ミリ<<◆>>230ミリ
●砲塔側面:7インチ=178ミリ<<◆>>170ミリ
●砲塔天蓋:3インチ=76ミリ<<◆>>90〜75ミリ
砲塔天蓋は、『インデファティガブル』では均一な傾斜で全体を覆っているが、『フォン・デア・タン』の砲塔は前端の一部に傾斜があり、90ミリあるのはその傾斜部だけで、残りは75ミリ厚の装甲が水平に張られている。
●司令塔側面:10インチ=254ミリ<<◆>>250ミリ
●司令塔天蓋:3インチ=76ミリ<<◆>>80ミリ
ほぼ等しい。
●バーベット:7インチ=178ミリ<<◆>>230ミリ
●バーベット下部:2インチ=51ミリ<<◆>>30ミリ
円筒形をしていて被弾径始が良好であることを考えれば、『インデファティガブル』のものでも致命的に薄くはない。しかし、どちらもこの下列の数字に表された部分に、大きな欠陥が潜んでいた。
前述の甲板装甲が不十分であることと、舷側装甲帯の水平方向からの影になる部分でバーベット下部の装甲が劇的に減らされていることが、その欠陥になる。すなわち、弾道が水平であれば、仮に砲弾が装甲帯を突破しても、その威力は大きく減じられており、ほとんど勢いがなくなっているか、炸裂して破片だけが飛んでくる状態と推測でき、両艦ともこの部分のバーベット装甲を極端に薄くしているのである。
しかし、砲戦距離が伸びて砲弾の落角が大きくなると、薄い甲板装甲を突破した砲弾がほとんど威力を保ったまま、薄いバーベット下部へ命中する可能性が出てくるのである。そして少なくとも『フォン・デア・タン』では、この命中弾が現実となったのだ。
●水雷防御縦壁:2.5インチ=63.5ミリ<<◆>>25ミリ
数字だけ見ると『インデファティガブル』のほうが優秀に見えるけれども、『フォン・デア・タン』のそれが舷側からかなり後退した位置にあり、艦首砲塔弾薬庫の側面から艦尾のそれを覆う範囲まで連なっているのに対し、『インデファティガブル』のものは弾薬庫部分側面に存在するだけで、機関部は石炭庫がある以外は無防御なのだ。
さらに舷側砲塔の下部では、揚弾機の下端が舷側近くに降りてきているため寸法が取れず、無理やり隙間に押し込まれた装甲隔壁は舷側から距離がなく、水雷の爆発を至近距離で受ける形になっている。砲塔を比較的内側へ入れている『フォン・デア・タン』では、この部分が特に弱点にはなっていない。
いずれも、大戦前の45センチ級魚雷や、炸薬重量100キログラムくらいまでの機雷の爆発から致命傷を防ぐのがせいぜいで、50センチ以上の魚雷の200キログラムクラスの炸薬量では耐え切れるものではない。『インデファティガブル』の機関区画にはまったく装甲防御がなく、炭庫の石炭が頼りなのだが、これには内側に扉がついているので、浸水はまず防ぎ得ない。被害があった場合に、爆発が直接内部に波及せず、乗員が必要な処置をして室外に退去できれば、それでよしだったのだろう。
それにしてはボイラー室が広く、最も大きな区画へ浸水すると、2000トンほどもの浮力が失われそうだ。
<その他>
●乗組員数・平時:約800名<<◆>>923名
●乗組員数・戦時:約1000名<<◆>>998名
中小口径砲の装備数に見合う程度に人数には差があるけれども、戦時にはほとんど同じになってしまう。『インデファティガブル』は艦内容積が大きく、長期航海中も相当な余剰人員を収容できるが、『フォン・デア・タン』にはそれほどの余力がない。あまり長時間の行動をする作戦環境にないから、居住性の問題はさほど重視されていないのだ。
●艦載艇
『インデファティガブル』は第三煙突と後部砲塔の間、機関室の上に比較的大きな上構を持ち、この上に艦載艇を搭載して主檣のデリックで揚降するが、『フォン・デア・タン』にはそうしたスペースがなく、平時は中央部舷側砲塔の脇にある、何もない上甲板に置いている。砲塔の上に乗せている写真もあるけれども、いろいろと不便だっただろう。
揚降のためのデリックは舷側砲塔の中間にある煙突に沿い、左右非対称に配置されている。この配置は後の『ザイドリッツ』まで継承された。この配置をしたドイツ艦では、戦闘が予測される場合にデリックのブームを外し、甲板上に寝かせているように思われ、普段の写真では非常に目立つのに、戦闘出動前後の写真ではデリック・ブームやワイア類の写っている写真が見当たらない。艦載艇もまったく乗せていないようだ。
●お値段:1,547,500ポンド<<◆>>1,825,000ポンド
『インデファティガブル』には、上は160万ポンドまでの数字があり、当時の為替だと64万ドルになるそうな。
『フォン・デア・タン』はおよそ3650万マルクということで、為替を計算するとこの数字になる。帳簿でも見なければ、どこまでが数字に含まれているのかわからないので、いずれ「このくらい」でしかない。
●常備状態での重量比率
船体:7000トン(37.3%)<<◆>>6004トン(31.5%)
機関・機械:3655トン(19.5%)<<◆>>3034トン(15.9%)
装甲・防御:3735トン(19.9%)<<◆>>5693トン(29.9%)
砲塔防盾を含む武装:2580トン(13.8%)<<◆>>2604トン(13.7%)
石炭:1000トン<<◆>>984トン
搭載物品:680トン<<◆>>645トン(データなし・推定)
その他:100トン<<◆>>100トン(データなし・推定)
合計:18750トン<<◆>>19064トン
武装はほぼ等しく、防御系に大差があるのは、これまで述べてきたところとほぼ一致している。どちらが良くできているかは、想定される戦場と相手とによって異なってくるわけだけれども、直接に対決した場合については悲しいかな、その結果は厳然とした史実として確定してしまっている。
対決までの経歴
1911年2月に就役した『インデファティガブル』は、4月に速力公試で最大26.89ノットを発揮するなど、慣熟訓練を経て第一巡洋艦戦隊に所属した。この戦隊は1913年1月に、第一巡洋戦艦戦隊 1st Battlecruiser Squadron へ改称されている。本艦は同年12月には地中海へ移されて、ドイツが送り込んだ巡洋戦艦『ゲーベン』 Goeben に対抗するものとされた。
そのまま第一次世界大戦を迎え、英独開戦前日の1914年8月3日に、僚艦『インドミタブル』 Indomitable とともに地中海西部で追跡していた、『ゲーベン』と軽巡洋艦『ブレスラウ』の艦隊に遭遇する。しかし、最後通牒は発されていたものの、その期限切れは同日深夜であり、戦争はまだ始まっていなくて戦闘を行うわけにいかない両艦隊は、戦闘準備を整えたまますれ違い、開戦の報を待つスリリングな大速力での追跡行となった。
公称25ノット、最大26.89ノットとされる『インデファティガブル』だったけれども、ドック入りをしての大整備からはかなりの時間が経過しており、やっと23ノットが発揮できる程度だった。先任艦『インドミタブル』はさらに実力が低下していて、これも整備不良で22ノット半程度の『ゲーベン』に追従できず、数時間の追跡の後に落伍してしまう。『インデファティガブル』が本当に追従できなかったのか、単独での追跡を禁じられたのかは定かでない。
その後、『ゲーベン』を東へと追跡しつつも、疑問の多い艦隊指揮と石炭の補給に手間取ったこともあって追いつけず、ついにそのコンスタンチノープル遁入を許してしまう。この事件については、当ホーム・ページの士官室にある「ゲーベンが開きし門」を参照していただきたい。
そのまま地中海艦隊の旗艦となり、『ゲーベン』の脱出に備えてエーゲ海にあった『インデファティガブル』だが、ダーダネルス海峡の要塞への砲撃を行って弾薬庫を吹き飛ばした後、1915年1月にマルタで小修理を受け、本国へ帰還して2月に第二巡洋戦艦戦隊へ加わった。この戦隊は同型艦『オーストラリア』、『ニュー・ジーランド』とで編成されており、1916年5月31日のジュットランド海戦を迎える。
一方『フォン・デア・タン』は、完成以来本国艦隊にあり、開戦時には、旗艦『ザイドリッツ』、『モルトケ』、『ブリュッヒェル』とともに第一偵察部隊に所属していた。11月にヤーマスへの襲撃を行った後、戦隊には完成したばかりの『デアフリンガー』が加わり、12月にはハートルプール、スカボローへの艦砲射撃作戦を実施している。
翌年1月のドッガーバンク海戦には、修理中であったために加わっていなかったのだが、撃沈された『ブリュッヒェル』にかなりの数の乗組員が応援で乗っており、北海の藻屑となってしまった。
スカボロー襲撃は過去にこのHPで扱ったことがあり、「ドッガーバンク海戦」については、ワードルームにサイトがある。
ジュットランド海戦:Battle of Jutland, Skagerrakschlacht
英国側呼称ではジャットランド海戦 (付近の海底丘の名)、ドイツ側呼称ではスカゲラック海戦 (海峡の名)、中立的にはユトラント海戦 (半島の名) と呼ばれ、「ジュットランド海戦」は、過去の日本語文献で最もポピュラーに使われている呼称だ。この、北海東部で発生した弩級戦艦を中核とした英独主力艦隊同士の史上最大規模の戦闘が、この2隻の運命を分けた。
状況については、当ホーム・ページのワードルームに「クィーン・メリーの爆沈」があり、ガンルームに「ヴィースバーデンの時計」があるので、ご参考になさっていただきたい。なお、雑誌「丸」の2007年7, 8月号に、木宏之氏の「ジャットランド海戦の真実」という記事があり、まとまった記事としては比較的簡単に入手できるだろう。この海戦についての詳細かつ信頼できるレベルの日本語文献は長く刊行されたことがなく、かなり古いものが高価な古書として手に入るだけでしかない。
1916年5月31日、北海東部へ出撃したヒッパー提督率いるドイツ海軍第一偵察部隊は、旗艦『リュッツオー』、『デアフリンガー』、『ザイドリッツ』、『モルトケ』、『フォン・デア・タン』の5隻の巡洋戦艦からなり、軽巡洋艦で編成された第二、第四偵察部隊と駆逐艦30隻を擁する水雷戦隊を傘下に置いていた。
その後方にはシェーア司令長官の率いるドイツ艦隊主力がおよそ2時間の間隔で続いており、ヒッパー提督の任務は、出撃してくるだろうイギリス巡洋戦艦を主力艦隊の強力な腕の中におびき寄せることだった。
この作戦の基本には、1915年1月のドッガーバンク海戦において、ビーティ提督率いるイギリスの巡洋戦艦隊が、後先顧みずに全速力でドイツ巡洋戦艦を追いかけ、これを捕らえようとした経験が下敷きにされている。
一方のイギリス艦隊は、ドイツ艦隊出撃の報を暗号解読から入手し、出撃したヒッパー提督の艦隊を捕らえようと、強力かつ快速の艦隊を用意して、北海東部へと西から接近していた。
指揮官はビーティ提督で、独立旗艦が『ライオン』、『プリンセス・ロイアル』(戦隊旗艦)、『クィーン・メリー』、『タイガー』が第一巡洋戦艦戦隊、『ニュー・ジーランド』(戦隊旗艦)、『インデファティガブル』が第二巡洋戦艦戦隊で、いずれも巡洋戦艦で編成されている。さらに通常であれば第三巡洋戦艦戦隊が配下にあるのだが、このときはたまたま訓練上の都合で同戦隊はジェリコー提督の大艦隊本体に所属しており、代わりに『クィーン・エリザベス』級高速戦艦で編成された第五戦艦戦隊、『バーラム』(戦隊旗艦)、『ヴァリアント』、『ウォースパイト』、『マレーヤ』の4隻がビーティの指揮下にあった。
第一巡洋戦艦戦隊の指揮官はブロック提督、第二巡洋戦艦戦隊の指揮官はパケナム提督、第五戦艦戦隊の指揮官はエヴァン・トーマス提督である。戦隊にあった『オーストラリア』と『クィーン・エリザベス』は、ともに修理、整備中で参加していない。
ドイツ主力艦隊の出撃は、その巧みな欺瞞戦術によってイギリス側に把握されておらず、ビーティ提督は敵主力がいないものとして作戦を開始した。
ジェリコー提督率いる大艦隊主力は、ビーティ隊援護の目的で出撃しているのだが、ドイツ側の偵察線に引っ掛からず、ドイツ側もまた敵主力の出動を知らない。いずれかが相手側主力の出撃を知っていたら、この後の大海戦は惹起しなかっただろう。ジェリコーがシェーアの出撃を知っていれば、ビーティの行動に枷をはめた可能性があり、シェーアがジェリコーの出撃を知れば、会敵を避けたのは当然であるからだ。
午後も遅い時間になって、敵を発見できないビーティ艦隊は東進をやめ、北へ針路を転じて、その東側水平線下にあったヒッパー艦隊とほぼ平行な針路を進んでいく。両者は辛うじて煙の見えない距離を開けており、運命の女神がいたずらをしなければ、そのまま相手を見ずに一日を終えたかもしれない。
両艦隊はともに軽巡洋艦と駆逐艦による警戒スクリーンを展張していて、ちょうどその中間点にノルウェーの小型船が挟まれる。
両軍ともがこの船を発見し、双方から臨検のために偵察艦が接近して、互いの煙を発見する。やがて相手を敵艦と識別し、ただちに報告が行われた。
最初に接近したのは、イギリス側が軽巡洋艦『ガラテア』で、ドイツ側は駆逐艦2隻だった。すぐに応援が駆けつけて戦闘が始まり、ビーティとヒッパーの主力も接近して、それぞれの存在を認識する。
このとき、北へ針路を取っていたビーティ艦隊は、南を頂点とした三角形に各戦隊を配置しており、『ライオン』と第一巡洋戦艦戦隊の北東に第二巡洋戦艦戦隊が、北西に第五戦艦戦隊がおよそ5浬の間隔をあけて、それぞれ単縦陣で航行していた。
敵艦隊発見の報告を受けたビーティは、ただちに艦隊を南々東へ反転させ、ついで衝突針路である東北東へ向かうが、第五戦艦戦隊のエヴァン・トーマス提督はこの変針命令の旗旒信号を見落とし、そのまま8分ほど直進してしまった。このため、5浬程度だった間隔は大きく開いてしまい、さらにヒッパー艦隊発見の報告を受けたビーティが、艦隊の集合を待つことなく針路を東へ向けて速力を上げたため、容易に追いつけない事態となってしまっている。
『インデファティガブル』が含まれる第二巡洋戦艦戦隊は、第一巡洋戦艦戦隊の北東側を並行する位置にあったが、ビーティの集合命令と、東への変針に機を捉えて巧みに合流し、その後尾へぴったりと位置を占めた。ビーティはヒッパー隊を視認し、なおも接近する。
軽巡洋艦を追って北西へ向かっていたヒッパーも、ビーティの煙を発見して大型艦と判断し、予定通りの撤退針路へ入る。両艦隊はおよそ15キロメートルの距離を隔てていた。
15時45分、ドイツ艦隊が先手を取って発砲し、ただちにイギリス艦隊も応戦する。ビーティは並行針路に転じ、南々東へ向かう針路でほぼ並んだ艦隊間に猛烈な大遠距離射撃が開始された。この段階でドイツ艦隊は巡洋戦艦5隻、イギリス艦隊は巡洋戦艦6隻が戦いに加わっており、第五戦艦戦隊は後方に遅れて射程に入っていなかった。
北海の戦場には靄が漂うものの、何も見えない霧のような状況ではない。それでも測距儀で見る目標はぼんやりと輪郭を崩しており、正確な照準は困難だった。当初、両艦隊は距離をかなり過大に見積もっており、互いに目標から1000メートル以上も離れた大遠弾を放っている。
ほどなく大外れの着弾を確認した各艦の砲術長は、的確な修正を行って砲弾を目標へ導いていく。このとき、命令の誤解からイギリス艦隊の目標は不均等に分散しており、あまり効果が上がらなかった。
先頭から順に砲火を分散したドイツ側では、最後尾の『フォン・デア・タン』が、イギリス艦列の5番目にいる『ニュー・ジーランド』ではなく、最後尾の『インデファティガブル』を目標としていたが、これはエラーではなかったようだ。
14600メートルから12300メートルの距離に接近しつつ、砲撃開始から15分を経過したころ、着実に目標を捕らえた『フォン・デア・タン』の砲弾は、『インデファティガブル』に最初の命中弾を与える。これによって、実力の拮抗したライバルと考えられていた『インデファティガブル』は、あっけなく最期を迎えてしまった。
観測によれば、まず後部砲塔周辺に2ないし3発の命中があり、内部爆発を起こした『インデファティガブル』は、速力が落ちて艦尾から沈みはじめたとされる。続いて斉射弾が艦首砲塔付近に命中すると大爆発が引き起こされ、急速に傾いた艦は数分のうちに沈没してしまった。
このとき、後方にいた駆逐艦隊には救助命令が発せられず、脱出した乗組員はそのまま海上に取り残されている。やがて、シェーア提督の主力を発見したビーティはほぼ180度回って撤退し、それを追ったドイツ艦隊の一部が『インデファティガブル』の沈没海面を航過して、2名の生存者を救助した。戦死者は1017名を数えたが、もっと早くに救助活動が行われていれば、生存者はより多かっただろう。
この爆沈までに、『フォン・デア・タン』は52発の28センチ砲弾と38発の15センチ砲弾を発射したとされ、4ないし5発の28センチ砲弾が命中したものと考えられている。『インデファティガブル』はおそらく40発ほどの12インチ砲弾を発射しているが、1発も命中していない。
『フォン・デア・タン』はこの後、後方から追いついてきた第五戦艦戦隊の砲撃を受け、この南下戦で3発、海戦全体で4発の命中弾を受けている。うち2発は15インチ=38センチ砲弾で、まず16時09分頃に17400メートルの距離から『バーラム』が放った1発は、艦尾右舷のほぼ吃水線にあたる部分の舷側装甲、100ミリと80ミリの装甲鈑の境目に浅い角度で命中し、貫通はしなかったものの、これを内側へ押し込んで水密を破り、およそ600トン (1000トンとも言われる) の浸水を引き起こした。このため舵機室にも浸水して右へ2度傾斜したけれども、舵は作動可能で、速力も大きく低下しなかった。
次に命中した13.5インチ=343ミリ砲弾は、16時20分頃に巡洋戦艦『タイガー』が発射したもので、1発は艦首砲塔のバーベット頂部に命中し、大穴を開けて破片が砲塔内部を破壊したため、艦首砲塔は右120度付近で旋回不能となり、戦闘できなくなった。
その3分後に同じく『タイガー』からの砲弾が命中し、これは『フォン・デア・タン』の弱点を突いている。砲弾は後部砲塔直前の舷側無装甲部分に命中し、25ミリの甲板装甲を突破、さらに二枚の薄い隔壁を破ってから甲板の下1メートルの位置で爆発し、3メートル×2メートルの大穴を開けた。
その位置は後部砲塔のバーベット直前だったのだが、この場所では装甲が薄くて30ミリしかなく、バーベットは内側に変形して砲塔のリング・サポートへ食い込み、これを損傷させて砲塔の運動ができなくなった。さらに貫通した破片が内部装置と下部揚弾機を破壊したので、砲塔が応急修理によってようやく3時間半後に機能を回復しても、揚弾は人力、旋回も俯仰も人力という始末だった。この一発で6名が戦死、14名が負傷している。
周辺構造の破壊も激しく、後部砲塔弾薬庫の非常注水バルブは瓦礫によって接近不能となり、火災のため艦は危機に瀕している。舵機室も20分にわたって接近不能となったが、舵は壊れなかった。主砲塔換装室には2発分の装薬があったのだが、爆発点から2メートルほどしか離れていなかったにもかかわらず、容器が破壊しなかったために誘爆をまぬかれている。前部砲塔の被害ともども、誘爆を防止するための運用が功を奏した形だ。
もう一発の15インチ砲弾は、ずっと後に戦艦『リベンジ』が発射したもので、後部司令塔付近の高い位置に命中して炸裂し、後部機関室などに煙が流入した。後部司令塔のスリットから破片が入り、中にいた4人を戦死させ、他の者も全員が負傷している。
一方、『フォン・デア・タン』自身は『インデファティガブル』を撃沈した後、目標を『ニュー・ジーランド』へ移し、さらに一時、後方から追いついてきた第五戦艦戦隊の『バーラム』を目標にした。しかし、上記の『タイガー』からの命中弾によって前後の砲塔が戦闘不能となり、左舷砲塔は右舷後方の『バーラム』に指向できないことと、戦艦に対して28センチ砲弾では効果が望めないため、目標を『ニュー・ジーランド』に戻している。
この間、『ニュー・ジーランド』へ向けて28センチ砲弾59発を、射程12800メートルないし18300メートルで発射し、『バーラム』へは34発を15500メートルないし17000メートルで発射している。双方に1発ずつの命中弾があった。『ニュー・ジーランド』への命中弾は後部砲塔のバーベットを破損させ、短時間砲塔の機能を停止させているが、砲弾は装甲鈑前面で炸裂し、貫通することはできなかった。
砲弾の命中被害ではないのだが、両舷の砲塔では激しい砲戦で砲身の推進機構がオーバーヒートし、16時35分頃から左舷砲塔の左砲以外は推進ができなくなって発砲不能に陥った。つまり、発砲の反動で後退した砲身を元の位置に戻せなくなったため、装填作業ができなくなったのである。単純に見れば、砲塔機構が連続射撃を持続できるだけの能力を持っていなかったということなのだろう。
この砲塔内部故障のため、『フォン・デア・タン』は一時全主砲の発砲ができなくなり、夕方以降はほとんど戦闘力を失っていた。17時以降の北上戦では、左舷前方を逃げる『マレーヤ』や駆逐艦へ向けて最大射程に近い距離から16発を発射できたに過ぎない。左舷砲塔の右砲は一時故障を回復したが、ほどなく左右とも相次いで同じ症状により発砲不能となり、主砲戦闘力をまったく喪失することになった。
この状態を誤解し、全主砲が破壊されてもなお、被害吸収のために戦列にとどまったとする記述を見ることがあるけれども、4発の命中弾で都合よく4基の砲塔がすべて破壊されるなどという偶然はあるはずもなく、単なる故障で戦闘力回復の可能性があったからこそ戦列にとどまっていたのである。攻撃力がない間はもっぱら避弾に専念していたから被命中弾が少なかったのは確かだが、夜に入って機能を回復した主砲は9発を発射したと記録されている。
休みなしにほとんど全力での運転を強いられたため、夜には機関の能力も落ち、大きな損害がなかったにもかかわらず最大速力は18ノットまで低下していたとされるが、それ以上の被害はなく、首尾よく母港へ帰り着いている。
この海戦全体では28センチ砲弾170発、15センチ砲弾98発が発射され、28センチ砲は6ないし7発の命中弾を与えたことになっている。副砲の戦果ははっきりしない。なお『フォン・デア・タン』では、11名が戦死し、15名が負傷した。
艦は8月2日に修理が終わって艦隊へ復帰したが、その後は大きな戦闘を経験することもなく、1918年の休戦によってスカパ・フローに抑留され、翌年6月21日の一斉自沈によって沈没した。その後、1930年末に浮揚され、1934年までかけてロサイスで解体されている。
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