三脚檣写真帖 (4)
Photo Album 04 (Figurehead 2)




 ようこそ三脚檣写真帖へ

 ここでは昔の軍艦の写真を中心に、普通の書籍やホームページでは取り上げないような、一風変わったものを集めてお目に掛けます。

 このページは艦首尾飾りの続きで、ロシアとドイツのものを扱っています。まずはロシア艦から。



Knjage Pojarski

 装甲艦『クニャージ・ポヤルスキー』(Князь Пожарский 1867)の艦首

 黒塗りの船体によく映えています。前マストの直下に見える錨は大きく、爪の片方を差し込む穴が船体にあり、できるだけ砲の射界を妨げないように工夫していました。


Pojarski's figurehead

 同じく『ポヤルスキー』の艦首像

 そういうキャプションなんですが、前掲の写真と比べると不自然な部分が多く、別艦ではないかとも思われます。ただ、これだけ具体的な像ですと、わかる人には一目瞭然のはずなので、間違うとも考えにくいんですが。これだけ船体から離れていると、大波一発で消えてなくなりそうですけど、大丈夫だったのかな。
 像の頭の上にある金属製の枠のような構造物ですが、前掲の写真と見比べると、どうもバウスプリットに関連する鎖などが、たるんで像を殴らないための保護枠ではないかと推測されます。


Minin

 装甲艦『ミーニン』(Минин 1869)

 これも人物像ですね。ミーニンは17世紀、ロマノフ王朝の成立に功績のあった人物と言われています。


Rurik

 装甲巡洋艦『リューリク』(Рюрик 1892)

 砲口栓のページで紹介した艦の先代で、日露戦争時に蔚山沖海戦で撃沈されました。塗装作業中のようですが、大きな錨の収納に苦労している様子がよく判ります。錨の爪を入れるための穴がはっきり見えます。


Pamiat Azova

 巡洋艦『パミャーチ・アゾヴァ』(Память Аэова 1888)

 キャット・ヘッドに吊られた錨が印象的です。錨に水をかけていませんし、汚れている様子もないので、投錨準備中でしょう。艦首のマークは、これも砲口栓のページにあった戦艦『アンドレイ・ペルウォスワニイ(ペルヴォズヴァヌイ)』の砲口栓文様とよく似ています。やはりマルタ十字なんでしょうか。


Pamiat Azova

 計画時の艦首飾り

 『パミャーチ・アゾヴァ』の計画時にデザインされた飾り。かなり派手なもので、実艦ではずいぶんと簡略化されたのが判ります。ただ、進水時、完成時にどのような飾りが付けられていたかは、定かではありません。
 ここにも十字文様がありますが、他で見るマルタ十字には、先端部分が二股になったような窪みがあり、ちょうど矢羽のように見えます。同じものなのかなあ。こうした十字は、ロシア正教がらみではあたりまえのものでもあるそうですが。


Sinop colour illust

 装甲艦『シノプ』(Синоп 1887)のカラー・イラスト

 当然ながら実艦のカラー写真など存在しませんので、色についてはこういうイラストも参考にしなければなりません。紋章の中央は鷲でしょうか。完成時には金箔押しでも驚きませんが、一度外洋航海をしたら全部剥げてしまうでしょうね。後はひたすら塗装するのかなあ。


Retvisan colour illust

 戦艦『レトヴィザン』(Ретвизан 1900)のカラー・イラスト

 アメリカ製の戦艦で、ロシア太平洋艦隊に所属し、旅順港内で沈没。後に日本海軍の『肥前』になりました。副砲以下の砲廓は開口部が大きく、かなり風通しのよい艦だったように見えます。弾丸も突き抜けるだろうけど。


Tsessarevitch stern

 戦艦『ツェサレヴィチ』(Цесаревич 1901)の艦尾

 それほど大袈裟なレリーフではありませんが、おそらくロープなどを引っ掛けないための保護棒が取り付けられています。大きなガラス窓が、いかにもフランス建造艦と言わせるところです。舷側の曲線の妙もご堪能あれ。


Bayan

 装甲巡洋艦『バヤン』(Баян 1900)の艦首

 がっちりと保護棒が取り付けられています。つまりは平時の航海中には、これは付けたままだったということでしょう。菊の御紋章が質素に見えますね。失われた艦の代替として再建造された同型艦と、どちらなのかはっきりしませんが、おそらく先代のほうでしょう。


 以下はドイツ艦です



SMS Preussen

 砲塔艦『プロイセン』(Preussen 1873)の艦尾飾りを描いたイラスト

 いかにも神話の好きな国らしい飾りですね。下にぶら下がっている鎖は、『カレドニア』と同じ応急操舵用です。上にあるホーズパイプが邪魔になるため、飾りは低い位置に取り付けられています。ホーズパイプは、艦内のキャプスタンの位置などによって設けられる甲板が決まってしまうため、その位置に特定のルールはありません。簡単に移動もできません。
 イギリスの『ヴァルカン』、『ナイル』の艦尾飾り周辺にある車輪のスポークを模したような文様の描かれた、円形、楕円形の突起物は、ここに見える穴の蓋に描かれた文様です。本艦では図案の邪魔になりますから、おそらく黒無地でしょう。


SMS Frithjof

 装甲艦『フリッツヨフ』(Frithjof 1891)

 上下に膨らみのある直線部分があるのは、図案というより模様にロープなどを引っ掛けないためと思われます。錨鎖がモロに乗ってますし。


Siegfried class

 装甲艦『ジークフリート』級の艦尾

 『フリッツヨフ』の8隻ある同型艦のどれか。艦名は判らないのですが、詳しい人ならこの飾りから推測できるかも。中央の部分は人の顔かなあ。Wか、Vが二つ重なっているのか判りませんけど、詳しい方に解説をしていただきたいところです。

 調査の結果、この円形の盾のようなものは、魚雷発射管の蓋と判明しました。それゆえ、顔のように見える部分は蝶番、髭に見える部分は蓋を保持する補強材の可能性があります。このクラス8隻は、外見上の差異は小さいものの艦内の防御要領に大きな違いがあり、この発射管を持たないものが2隻ありますので、対象は6隻に絞られるのですが、それ以上は判りませんでした。
 普通なら、この角度からの写真で艦名表記が見えないことはないはずなんですが、ドイツ艦のそれは非常に見つけにくく、あっても小さなネームプレートであるため、ほとんど読めません。この写真のトリミングした外側にも、明確な艦名表記は見当たらないのです。


SMS Kurfurst Friedrich Wilhelm

 装甲艦『クルフュルスト・フリードリッヒ・ヴィルヘルム』(Kurfurst Friedrich Wilhelm 1891)の艦首

 中央にある「プロイセンの鷲」がはっきりと判ります。全体の印象は『フリッツヨフ』によく似ていますね。右下、錨鎖口後方で目のように見える穴は魚雷発射管です。

hush 薀蓄
 双頭の鷲は神聖ローマ帝国にも受け継がれます。
 J.F.ワーグナーの双頭の鷲の旗の下にでも有名なこの紋章は、オーストリアのハプスブルグ家のものとして知られますが、これを持ち込んだのは神聖ローマ帝国の摂政であったジギスムント(後に皇帝)で、1401年のことです。ハプスブルグ家のマクシミリアン1世の即位は1493年です。
 プロイセンがドイツを統一したときに双頭の鷲を単頭の鷲に変えたという話もありますが、プロイセンが1701年に王国になった時には単頭の鷲であったようです。神聖ローマ帝国に属していたので鷲を使用したものと思われます。






 同型艦『ヴェルト』の艦首カラー・イラスト

 上掲の白黒写真とはかなり印象が変わって、ずいぶんと派手ですね。魚雷発射管に蓋がついています。なんで艦首に旗棹がないのかな。

SMS Braunschweig

 戦艦『ブラウンシュヴァイク』(Braunschweig 1902)のカラー・イラスト

 あまり細かくは描き込まれておらず、細部は表現されていません。縦に何本か銀色の線が見えますが、ロシア艦に見られたのと同じ、引っ掛かり防止用の保護棒かも。そんなもん描かなくたっていいのに。
 こちらの場合には、主砲が発射されているように戦闘状態ですから、艦首の旗棹は倒されているでしょう。手すりも邪魔になるので倒されています。


SMS Wittelsbach

 戦艦『ヴィッテルスバッハ』(Wittelsbach 1900)

 不鮮明な写真一枚しか見つかっていないので、どんなものだが明確ではないのですが、えらく立派な半身像のように見えます。しかも保護枠まで組まれているし。どなたか、これの鮮明な写真をお持ちではないでしょうか。


SMS Kaiser Friedrich III

 戦艦『カイザー・フリードリッヒ三世』(Kaiser Friedrich III 1896)

 で、トドメの一枚がこれ。拡大しすぎて酷いモアレが出ておりますが、ご容赦を。見つけたときには思わず笑ってしまいました。どなたの胸像かは言うまでもないでしょうな。いつごろまで、こんな凄いのを付けていたんでしょうか。


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