『キャプテン』 と コールズ艦長
HMS Captain and captain Coles


 1870年に完成した英国軍艦(HMS="her majesty's ship")『キャプテン』は、囲砲塔を発案したコールズ Cowper Phipps Coles 艦長の提唱による、コールズ主導の設計になる航洋砲塔艦である。ここでは、この艦の生い立ちとその特徴、そして、その悲劇的な最期に触れていきたい。
 コールズは英国海軍において艦長の資格を得ながらも、新しい軍艦について一家言を持っており、クリミア戦争当時から熱心に砲塔艦の優位を説いていたのだが、保守意識の塊のような海軍にはなかなか受け入れられなかった。ところが、南北戦争におけるモニターの活躍は保守勢力を沈黙させ、大衆や王室の支持を得ることで、その構想を実現できることになる。



HMS Captain starboard view

右舷真横からみた『キャプテン』の全容

 不鮮明だが、船体の三分の一ほどのところに、くりぬいたように見える部分が砲塔である。
 最上部のマストが通常と逆向きに接続されているのに注意。
 低い位置に白く見える線が上甲板縁である。煙突は引き込まれている。
 British Battleships 1860-1950より



 砲塔艦として最初に造られた『プリンス・アルバート』 Prince Albert(1862年起工)と『ロイアル・ソヴリン』Royal Sovereign(1862年改造開始)は、実験艦的な存在であって、航洋性も不十分なため英国海軍の主力とはならなかった。
 この時期、イギリスの民間造船所では、各国海軍向けにかなりの数の小型砲塔艦が建造されており、海軍もこれを無視しきれなくなっている。これらは不十分ながら一応の航洋性を持ち、帆を装備して燃料の不足を補っていた。この頃、航洋軍艦には帆装が必須であり、完全な汽走艦は沿岸や内水でしか用いられなかった。

 そこで、十分な帆装を保持しながら、大口径砲を装備した砲塔を効率よく運用できる大型艦が造られることになり、海軍省の主任造船官であるリード E. J. Reed が『モナーク』 Monarch を、レアード社技術陣の補佐を受けたコールズが、『キャプテン』を設計した。これは、イギリス海軍向けに建造された、最初の、そして唯一の、プライベートに設計された主力艦である。
 リードはコールズを、所詮アマチュアであり、やることなすこと皆間違っていると非難するが、コールズには膨大な大衆の賛同があり、同様に王室の支持をも受けていた。誰もが、卵を顔に叩きつけられた海軍省を見たがっていたのだ。
 事実、コールズは彼の回転式砲塔に対して、誰よりもアルバート王子からの激励を賜っていた。夫君の崩御後、ヴィクトリア女王は、若い発明家に対する援助の継続を、夫の半身像を送るという最大限の賞賛によって表した。

Captain Cowper Coles

 コールズ艦長の肖像画



 まったく新しいものとはいえ、コールズの砲塔艦についての理念は比較的単純である。彼は、舷側に並べられた大量の滑腔砲の代わりに、全方位に指向できるターンテーブルに載せた大口径施条砲によって、はるかに大きな破壊力が獲得され得ると主張した。これはごく単純な発想で、「船を、ではなく、砲を回す」のである。
 『キャプテン』は、船首楼、船尾楼と中央部の幅の狭い上構を持ち、これらを高い位置でつなぐフライング・デッキ(空中甲板)が顕著である。三つの船楼の間には、12インチ(305ミリ)砲を2門装備する砲塔が1基ずつあった。帆装は不釣合なほどに大きく、支索を減らすために三脚檣を採用していて、帆装索具は広いフライング・デッキ上で操作されるので砲塔の射界をほとんど妨げないが、比較的大きな船楼の存在のため、前後方向への射界は狭い。それでも中心線から15度以上離れれば、少なくとも1門は指向できた。

HMS Captain

 『キャプテン』の艦型略図・塗色、範囲などに強い根拠はない。



 一方『モナーク』は、通常の船体の上に砲塔を乗せ、さらにそれらを跨ぐように幅の狭い空中甲板を設けている。帆装索具は射界を大きく遮り、これを格納しなければ砲撃の爆風によって損傷してしまう。
 やはり4門の12インチ砲を2基の砲塔に装備していて、射界は『キャプテン』と大差ない。主砲の射界は両舷で300度ほどにもなるが、これは当時の一般的な主砲舷側装備艦のそれが片舷のみで、せいぜい90度ほどだったのに比べて非常に大きい。また、砲身重量が25トンもある重い12インチ砲は、砲甲板での操作が非現実的なシロモノだった。

HMS Monarch

 『モナーク』の艦型略図・塗色、範囲などに強い根拠はない。



 『キャプテン』の方式では、戦闘にあたって索具などを格納する必要は少なく、『モナーク』では1時間半を要したという準備作業には、ほとんど時間が掛からなかったと言われる。フライング・デッキが充実しているので、低乾舷の砲塔艦と見るよりも、砲廓の代わりに砲塔をはめ込んだ艦と解釈する方が自然だろう。大型装甲艦としては初めての2軸艦である。

 中心線上に置かれた2基の主砲塔は『モナーク』とほぼ同じで、若干背が高く、直径はわずかに小さい。口径12インチの前装施条砲をそれぞれに2門ずつ装備し、自由に旋回させることができた。
 砲塔の直径は9メートルほどもあるものの、甲板上の高さは2メートルそこそこである。砲軸は甲板から70センチ、海面から2.7メートルの高さでしかなかったが、これでも通常の舷側砲門艦よりは高かった。上甲板はいくらかでも波があれば水を被るので、砲塔周辺からの浸水には常に気を使わなければならなかった。

 水線装甲帯は、中央部で7インチ(178ミリ)、艦首尾で4インチ(102ミリ)だが、砲塔の下では8インチ(203ミリ)となっている。砲塔正面は10インチ(254ミリ)、側面は9インチ(229ミリ)である。
 首尾線方向の死角をカバーするため、口径7インチの前装施条砲が艦首尾に無装甲で1門ずつ置かれていた。装甲重量は全部で1,190トンである。ちなみに、この当時の一般的な装甲艦の舷側装甲は、最厚部で203ミリ程度だった。

 そもそも排水量6,960トン、乾舷2.6メートルで計画されたのだが、設計変更や計算ミスによる800トン余りの重量超過で乾舷は2メートルに減少してしまい、主甲板は水面下に位置することになった。当時としては長さと幅の比率が相当に大きい細長い船体を持っており、幅と吃水の比も小さいので、吃水の増加によって安定性はかなり損なわれただろう。
 上部重量の増加によって、転覆する許容傾斜角度は、『モナーク』の40度に対して21度でしかなかったとされる。しかし、強風の中で帆を張っていなければ、問題はないものと判断されている。
 リードは、この設計を非難し、安定性が悪いために転覆するだろうと予言しているが、明確なデータに基づいたものではなかったようだ。大衆とマスコミは完全にコールズの側についており、彼の成功を期待していた。誰しも、尊大で保守的な海軍に不満を持っており、海軍省の面目が潰れるのを密かに期待していたのである。
 それでも、建造したレアード社は、懸念を抱いて海軍省に傾斜試験を願い出ている。テストは実行され、少々意外ではあったものの、結果は良好だった。

 公試での速力は、『モナーク』の14.9ノットに対して14.25ノットにとどまったが、『キャプテン』の方が出力は小さいし、『モナーク』は当時最も速い主力艦と言われ、そのタイトルをしばらく保持し続けたほどだったから、けっして『キャプテン』が遅かったわけではない。
 2軸のスクリューは、帆走時には空転させられるようになっていたものの抵抗が大きく、旋回性能に悪影響が出たけれども、それほど大きな欠点とはされなかったようだ。砲熕公試も成功し、新型艦の滑り出しは上々と思われた。

Captain's deck and turret

The Royal Navy in Old Photographs所載の『キャプテン』艦上でのスナップ

 右側が後部砲塔で、左舷後方から見ている。
 砲塔下端のボルトは、浸水防止のための皮覆いを取り付けるためのもの。
 上端の爪は装甲鈑を支えるためと思われるが定かではない。
 空中甲板はかなりの重構造である。砲塔の真上は吹き抜けになっている。



 1870年、『キャプテン』はポーツマスで就役し、処女航海では『モナーク』他を伴って、海峡艦隊へ参加するためにいくつかの試験を行った。試験はおおむね成功し、本艦はただちに海峡艦隊に配属されている。
 リードは一応の賛辞を並べながらも、アマチュア設計者と商業造船所のでっちあげたものとする非難の態度を変えていない。しかしなお、大衆とマスコミは完全にコールズの側についており、彼の成功を期待していた。疑問点は看過されたのである。
 第一海軍卿のヒュー・チャイルダーズ Hugh Childers にしてからが、政治的にもコールズと新型艦びいきだったのだ。こうして『キャプテン』は、艦隊中で最も優れた戦闘艦であると広く認められることになった。

 1870年5月29日、艦隊は荒天に遭遇したが、『キャプテン』の安定は非常に良好だったとされる。このときの司令官シモンズ Symonds 提督は、「これは最も強力な軍艦であり、私の信ずるところでは、そのずば抜けた兵装は、艦隊すべての舷側砲門艦を打ち破り得るだろう」と記している。コールズ自身も「この艦は水上を命あるもののように進んで行く」と書いた。
 シモンズはまた、2隻の砲塔艦が荒天中でも砲力を発揮できるものの、スクリューの抵抗のために、帆走では艦隊内で位置を維持できないだろうとも報告している。しかし、安定性については何も触れられていない。二度目の航海では大きな出来事もなく、単独でスペインのヴィゴへ往復しただけである。

HMS Monarch

右舷真横から見た『モナーク』

 訓練中の写真で、戦闘準備を終えた状態である。
 起倒式ブルワークはすべて倒されている。
 マストの支索がたるみ、上部のマストが短縮されているのは、
 支索が砲塔からの射界を遮らないようにするためだった。
 この作業には一時間半を要したという。



 1870年9月6日、『キャプテン』を含む11隻の主力艦からなる海峡艦隊はビスケー湾にあり、コールズは『キャプテン』に同乗している。司令長官ミルン A. W. Milne 提督は、朝から『キャプテン』を訪れ、訓練を査察した。
 この日は南微西の風、風力は6と記録されている。多くの艦が一日中ロイヤルスル(最上帆)をあげたままだったくらいだから、昼間はそれほど風も強くなかったのだろう。午後4時頃、風は勢いを増し、5時半、ミルンは『キャプテン』での晩餐を切り上げると、旗艦の『ロード・ウォーデン』 Lord Warden に戻っていった。位置は、スペインの大西洋岸フィニステーレ岬 Cape Finisterre の西、20浬(37キロメートル)である。

 艦隊は三列になって進行しており、右列先頭に旗艦『ロード・ウォーデン』があって、『マイノトー』 Minotaur、『エジンコート』 Agincourt が各列を先導していた。『キャプテン』は右列の最後方に位置している。命令によって各艦はロイヤルスルを畳み、そのヤードを格納した。一部の帆を張って、西南西に変わった風に向かう進路を保持している。緊急時に備えて蒸気も上げられた。風力は6ないし7である。
 午後11時、風はさらに募り、深夜にかけていっそう強くなった。午前1時、南西の突風が吹きつけ、横帆は裏帆を打った。「隊列を解け」の命令が掲げられ、ただちに応答があった。1時15分、『キャプテン』は旗艦の右舷後方にあり、1時半まで、その灯火は明瞭にとらえられていた。艦は右舷に大きく傾いていたが、赤い艦首灯は確認されている。しかし、その直後、強くなった雨に遮られて、視程は急速に短くなった。

 『ロード・ウォーデン』は、帆と蒸気によって艦を波に立てていたが、波は上部の通路まで打ち上げてきた。2時15分頃、風は北西に変わり、雨がやむ。風も弱くなり、雲はちぎれて月明りが海上を照らしだしたものの、旗艦からは、『キャプテン』が、いるはずの海面に見えないことしか判らない。位置を失しただけなのか、大きな災厄に見舞われているのかは知る術もなかった。
 夜が明けると、『キャプテン』が行方不明になっていることは明らかとなった。ミルンは各艦を散開させて捜索を命じたが、行方不明の『キャプテン』を発見することはできなかった。やがて数艦が浮遊物を拾い上げ、『キャプテン』は、おそらく沈んだものと推測された。生存者の姿はなく、発見できるのは浮遊する残骸ばかりだった。

Captain foundered

 荒波にもまれる『キャプテン』



 『キャプテン』では、わずかに17人がボートでの脱出に成功しており、フィニステーレ岬南方の海岸へ上陸していたが、その中にバーゴイン Hugh Talbot Burgoyne 艦長の姿はなかった。『キャプテン』に何が起きたのかを知るには、生存者の口からの断片的な情報をつなぎ合わせるしかない。
 彼等の弁によれば、艦は真夜中15分過ぎに沈没したという。ミルンが見ていた灯火は、どれか他の艦のものだったのだろうか。

 複数の口から語られたところによれば、真夜中過ぎに艦が大きく傾き、艦長が傾斜角度を読み上げさせていたことは確かなようだ。差し迫った声は、「18度! 23度! 28度!」と叫んでいた。
 まだ残されていた帆の索をやり放せとの命令があったが、実行されることはなかった。艦は舷側を下にしており、転覆しつつあったのだ。短い周期のひと揺れごとに、船体は海面から飛び上がり、叩き付けられた。白く泡だった波が艦を覆い、海中へと押さえ付けている。
 ボイラー室では、火夫たちが二つの災厄の間で苦悶していた。焚口の扉が壊れ、火のついた石炭が降り注いだのである。さらに海水がこれにふりかかり、沸騰して蒸気を吹き上げていた。火にあぶられ、生きながら皮を剥かれる彼等は、誰一人として上甲板までたどりつけなかった。
 バーゴイン艦長は、一部の乗組員と共に小ボートで脱出したものの、ボートが転覆したために沈んでしまったという。コールズの姿を見たというものは、誰もいなかった。

 軍法会議は、バーゴイン、コールズの両艦長と500人の命を奪った災厄に対し、追及の手を緩めなかったが、特に有罪とすべきものはなく、形式的にならざるを得なかった。
 技術的な証拠の中からは、『キャプテン』のマストが頑丈に過ぎて、他の艦であれば帆が吹き飛ばされてしまうような強風であっても、これを保持してしまうという点が指摘された。さらに、本艦が当時としては最も痩せた船型をしており、そこにイギリス装甲艦中で最大級の帆装を装備していたことが明らかになった。まさに、リードが予言した通りの事故だったのである。
 実際問題としても、低乾舷のコールズ式砲塔艦では、砲塔を装備するための大きな開口が上甲板に開けられており、ここからの浸水が予測される。また砲眼孔からも浸水するだろうし、船体に無理な力がかかれば、開口部が変形することも考えられるのだ。
 残されている設計図を元になされた現在の推測では、安定性は下限に近く、わずかでも浸水があれば、安定は容易に失われただろうという。大きすぎる帆も、復原性に悪影響を及ぼすばかりである。

picture of Captain

 『キャプテン』の全容を描いた絵画



 軍法会議の評決では、この艦は、外洋で用いるには安定性が不足しており、せいぜい沿岸防御に供される程度の性能だったとしている。建造されたこと自体がそもそも間違いであり、「大衆に迎合した異質な艦」で、「海軍の首脳や部局の意見を受け入れなかった結果である」とした。会議の言及は、「だから、言ったではないか」調である。
 しかし、チャイルダーズ第一海軍卿はリードに反撃を加え、『キャプテン』の安定性不足について、彼の疑念に基づく忠告を怠ったとして、職務怠慢の廉で告発した。これは、コールズの設計に対するリードの職業倫理上の問題に過ぎないのだが、チャイルダーズとしては、政治的にもスケープ・ゴートが必要だったのである。
 結局、チャイルダーズとリードの争いは引き分けに終わり、リードもまた、職を辞さなければならなかった。

 この転覆事故によって、各国の砲塔艦計画は大きな影響を受けた。イギリスでは、『デヴァステーション』 Devastation の姉妹艦『サンダーラー』Thunderer の工事が停止され、三番艦『フューリー』 Fury は設計を改めることになり、後に『ドレッドノート』 Dreadnought として完成した。ロシアの砲塔艦『ミーニン』 Minin は建造を中止し、設計を変更して通常の砲廓艦になっている。
 しかしなお、すべてが失われたわけではなかった。事件から10カ月後、最新の装甲艦、帆装を持たない砲塔艦『デヴァステーション』が進水したが、これは、ただ一カ所を除いてリードの設計になる。しかし、その砲塔だけはコールズ式であり、海軍省はその設計を使用するために、彼の未亡人に莫大な特許料を払うことを認めなければならなかったのである。



■『キャプテン』 HMS Captain
種別:航洋砲塔艦、国籍:イギリス
建造所:レアード社、バーケンヘッド造船所
起工:1867年1月30日/進水:1869年3月27日/完成:1870年1月/1870年9月沈没

常備排水量:7,767トン
垂線間長:320フィート (97.5メートル)
幅:53フィート3インチ (16.2メートル)
吃水:24フィート10インチ (7.57メートル)
主機:煙管角型缶8基、4気筒水平トランク機関2基、2軸
出力:5,400馬力、14.25ノット
石炭:600トン
帆装:3檣シップ、帆面積:2,445平方メートル(補助帆とも:3,530平方メートル)
乗員:500名
装甲:錬鉄:水線部203〜102ミリ、砲塔254〜229ミリ、司令塔178ミリ
兵装:12インチ(305ミリ) 前装施条砲4門(連装2基)、7インチ (178ミリ) 前装施条砲2門

■『モナーク』 HMS Monarch
種別:航洋砲塔艦、国籍:イギリス
建造所:チャタム海軍工廠
起工:1866年6月1日/進水:1868年5月25日/完成:1869年6月12日/1905年売却

常備排水量:8,322トン
垂線間長:330フィート (100.6メートル)
幅:57フィート6インチ (17.5メートル)
吃水:24フィート3インチ (7.4メートル)
主機:煙管角型缶9基、ハンフリーズ&テナント社・2気筒水平還動機関1基、1軸
出力:7,842馬力、14.94ノット
航続力:2,000浬、石炭:600トン
帆装:3檣シップ、帆面積:2,573平方メートル
乗員:530〜575名
装甲:錬鉄:水線部178〜114ミリ+背板305〜254ミリ、砲塔254〜203ミリ、横隔壁114〜102ミリ、司令塔203ミリ
兵装:12インチ前装施条砲4門(連装2基)、7インチ前装施条砲3門



参考文献
●All The World's Fighting Ships 1860-1905 / Conway Maritime Press
●Battleships in Action / H. W. Wilson (1926) / Conway (1995 reprint)
●British Battleships 1860-1950 / Oscar Parkes / Seeley Service
●Disaster at Sea / John Marriott / Ian Allan
●Naval Blunders / Geoffrey Regan / Guinness
●The Royal Navy in Old Photographs / Pym Trotter / Purnell Book Services



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