ハバナ沖の戦い Naval Engagement off Habana : 1870.11.9 |
普仏戦争中の1870年11月9日、カリブ海はキューバのハバナ沖で、交戦国の軍艦同士が中立国港で出くわすとどうなるかの典型的な戦闘がありました。 ( Habana は Havana, Havanna とも綴るようです)
普仏戦争は、ドイツがプロイセンを中心にした統一国家になる時に起きた三つの戦争のうちの最後に起きた戦争で、結果はプロイセンの大勝となり、フランスは国土の一部を奪われる屈辱を味わっています。
戦闘はほとんど陸上でのみ行われ、海軍の活動はフランスによる沿岸封鎖だけと言ってもよい状況でした。その中で行われた、ほんのわずかなプロイセン海軍の活動のひとつが、この戦闘です。
戦ったのは、フランスの通報艦 (aviso = despatch boat) 『ブーヴェ』 Bouvet と、プロイセンの砲艦 (kanonenboot = gun boat) 『メテオール』 Meteor で、『ブーヴェ』の指揮官はフランケ Franquet、『メテオール』の指揮官はクノール Knorr でした。二人とも正規の艦長ですらない、ちっぽけな小船同士の戦いです。
別掲の「ヤスムントの海戦」同様、この戦闘も記録が少なく、洋書でもほとんど記載はありません。ただ参加した艦の数が少ない(一対一)ので、その点では疑問も少なくなります。いずれ下記の文章は、その大半が、1884年にロンドンで出版された Elihu Rich の筆になる [A Popular History of The Franco-Prussian War] からの翻訳です。
■ハバナ沖の戦い (Naval Engagement off Habana)
[Franco-Prussian War]:chapter 45の一部から
フランスとプロイセンが戦争を始めると、戦前の予想に反してコントラストがくっきりするほど両軍の戦闘力に差があり、フランス軍はほとんど一方的に追いまくられてしまった。
1870年9月2日には、セダンで包囲されたナポレオン三世が降伏して、国家元首が捕虜になるという異常な事態になる。パリは取り囲まれるものの、それでも戦争は終わらず、ダラダラと奇妙な状態が継続していく。
そんな中、海外にあって閉じ込められなかったわずかなプロイセン軍艦の1隻、砲艦の『メテオール』は、当時中立国のスペイン領土だったキューバ島、ハバナへ到着した。
港へ接近すると、見張りが港内に三色旗を発見する。近づいてみれば、これは敵対しているフランスの通報艦『ブーヴェ』だったのである。
11月7日、相前後してハバナへ到着した両艦は、互いに敵意と誇りを持って無視し合い、港の両端に投錨している。『ブーヴェ』は575馬力、90人が乗り組み、艦首に24ポンド旋回砲1門と両舷に小砲4門を装備していた。『メテオール』は300馬力、乗組員は70人、24ポンド砲1門、12ポンド砲2門を搭載している。
ハバナ港はたちまち大騒ぎになる。仏独両国が戦争状態にあることは知られていたし、仮に知らない人間がいたとしても、半日の間にすべての人が事情通になっていただろう。
ここにはフランスの郵便船『ヌーボー・モンデ』 Nouveau Monde も停泊しており、ほどなく出帆の予定だった。これを巡って2隻の軍艦が何を始めるのか、街には無責任な噂が飛び交うが、なまじ実力が伯仲しているだけに、どうしても対決の図式になってしまう。下馬評では、大きさで『ブーヴェ』が、装備するクルップ砲で『メテオール』が有利と見るのが大勢を占めたようだ。
2隻の軍艦の艦長は、中立国内で戦いをするわけにいかないから、不測の事態を避けるために乗組員の上陸を最小限にとどめようとする。しかし、どちらの艦にも補給は必要であり、互いの様子を窺いながらの手探りが始まった。
『ヌーボー・モンデ』が予定通り出港しようとしたところ、『メテオール』がこれを追う気配を見せたので、郵便船は慌てて港に引き返している。いよいよもって街には勝手な意見や推測が飛び交い、フランス贔屓とドイツ贔屓が激論を戦わせ、やがて2隻の軍艦の決闘は避けられない情勢となった。ここで引けば、乗組員は「臆病者」のレッテルを貼られてしまうに違いない。
8日午後1時、『ブーヴェ』が出港する。国際法の条項によって、交戦国の軍艦は24時間以内の出港が禁止されるため、『ブーヴェ』は港外で『メテオール』を待ち受けることとなった。この隙に『ヌーボー・モンデ』も出航し、さっさと姿をくらます。もう、誰もこの船のことなど気にしていなかった。街では莫大な賭が行われていたけれども、オッズは『メテオール』にいくらか有利であったようだ。
9日、ハバナの街には群衆が溢れ、『メテオール』の出港準備が見守られていた。午後1時過ぎに『メテオール』の錨が上げられると、軍司令官をはじめとする観戦を切望する軍人、役人、町の有力者たちを乗せたスペイン軍艦2隻が、これに追随している。群衆は港から丘の上、家々の屋根へとぞくぞくと移動しはじめ、町の望遠鏡は残らず動員された。
港外に『ブーヴェ』の姿はなかったが、ほどなく9マイル程の沖合に、北東へ向かう船影が発見された。『ブーヴェ』に間違いない。『ブーヴェ』もただちに『メテオール』へ向けて転針する。
2マイルまで接近したところで『ブーヴェ』はいったん変針し、檣頭に大きな戦闘旗を掲げると、再び『メテオール』への直進針路を採る。『メテオール』もありったけの旗を翻していた。
距離は急速に詰まってくる。この時点で両艦は海岸から約7マイル離れており、互いに1マイル半を隔てるのみであった。
2時33分、まず最初の1弾が『ブーヴェ』から発せられたが、射程はいくらか短かった。海面に落ちた砲弾は、波に叩かれて跳ね上がり、3度バウンドして海中に消える。
続いて『メテオール』も発砲したが、やはり近弾となった。『メテオール』は前進を続け、『ブーヴェ』は2回の射撃を行ったものの命中していない。
半マイルの距離で擦れ違いながら、『メテオール』はたてつづけに2発を発射したが、これも命中しなかった。『メテオール』は『ブーヴェ』の艦尾を回り、互いに相手を追うドッグファイトとなったものの、半マイルほどの距離は保たれている。
互いに数門しか砲を持っておらず、速射砲もなかった時代である。射撃は間欠的で、閃光と煙が上がると砲弾の発射されたことが判るだけだ。スペイン船の観戦者は、テニスの試合よろしく相手側に視線を移し、着弾を見守る。水柱が上がる頃、砲声が海面を伝わってくるのだった。
海面には靄気があり、陸からは砲声を聞くだけで、ほとんど何も見えなかったらしい。
やがて『ブーヴェ』は針路を大きく変えた。大きさと乗員の数の多さを頼みに、切込み攻撃を目論んだらしい。接近して猛烈な砲火を交したが、フランス側のほうが若干発射間隔が短いようである。2隻は絡み合うように舳先を交える。
衝撃には失敗したものの両艦は接触し、『メテオール』の主、後檣が『ブーヴェ』のトップ・マスト・ヤードに絡んで折れ、舷外へ転落してしまった。『ブーヴェ』は蒸気と煙に包まれている。
すれ違った2隻はそのまま離れるが、どちらにもそれまでの勢いはない。ぶつかりあってよろけるように、力無く離れていく。
それもそのはず、『ブーヴェ』は機関付近に砲弾を受け、蒸気管が破れて機走不能となっていたのである。艦長は戦意を喪失し、戦いを切り上げることにしたようだ。ただちに帆が広げられ、帆走でハバナ港目指して航行が始められる。
『メテオール』は、折れたマストから落下した索具がスクリューに絡みつき、一時的に行動不能となっていた。それでも、何発かの砲弾を『ブーヴェ』に見舞うのを忘れてはいなかった。もっとも、当たりはしなかったようだが。
やがて破砕物は切り離され、スクリューに巻き付いたロープを苦労して解き外すと、逃げていく敵を追いはじめる。
『ブーヴェ』はまっしぐらに港口へ向かっており、15時28分、陸岸から5キロメートルの距離に達したとして、監視にあたっていたスペイン軍艦『エルナンド・コルテス』 Hernando Cortez は号砲を発した。
ついでフランス艦へ通知が送られ、艦がスペイン領海にあることと、戦闘を有利に継続するための修理は許可されない旨が伝えられた。しかし、港に戻るのであれば、いかなる便宜をも図るとの申し出も同時に送られている。
医療班はすでに両軍艦へ向かっており、『ブーヴェ』に対しては曳船が派遣された。17時には『ブーヴェ』が、18時には『メテオール』がハバナへ戻っている。
『ブーヴェ』では1名が負傷し、2名が火傷を負った。『メテオール』はマストを失いはしたものの損害は軽かった。それでも乗組員では3名が戦死、1名が負傷している。これは、接触した時に『ブーヴェ』からマスケット銃で狙撃されたためである。
11月10日、両艦は修理を開始した。ハバナではプロイセン側戦死者の埋葬が盛大な葬儀とともに行われ、ドイツ系住民がこぞって参列していた。両艦はともに勇敢に戦い、名誉は保たれたが、プロイセン砲艦側は勝利を主張し、ドイツ系住民は『メテオール』士官に賛辞を与えるとともに、大パーティを催している。
戦いそのものは小規模であり、戦争の結果に影響を与えるようなものでもなかったが、そのことは二人の艦長を始めとする乗組員たちが勇敢に戦った事実を、何ら損なうものではない。
◆『ヌーボー・モンデ』が出港しようとした時、後を追おうとした『メテオール』は止められなかったようだが、当時のスペインがプロイセン寄りだったために、当局が見て見ぬふりをしようとしたのかもしれない。
しかし、『ブーヴェ』との戦闘は決闘に近いものだったから、法は遵守されなければならず、24時間条項が厳密に適用されたのだろう。
◆2隻の軍艦の決闘が現実となったとき、スペイン当局は領海内での戦闘が行われないよう、船を出して監視する必要があった。戦闘の局外者であるスペイン人にとって、この監視船に便乗して戦闘を観戦する誘惑は、どれほどのものだっただろうか。
闘牛に慣れ親しんだスペイン人、有り余る時間、慰みの少ない植民地生活、降って湧いたような船と船との決闘、絶対安全な中立という立場、これらを考え合わせれば、乗り込むために行使された影響力の嵐は想像に難くない。あなただって見に行くに違いないのだから。
原文ではこれを、"large numbers of officials, who were anxious to see the fight" と記しているが、単語と単語の間に実際の状況が透けて見えるようだ。
◆"Battleships in Action"によれば、『ブーヴェ』では10人が死傷し、『メテオール』では2人が戦死、1人が重傷を負ったという。
★ハバナ沖の海戦におけるプロイセン、フランス両艦の要目
■プロイセン
●機帆装砲艦・『カメレオン』級・『メテオール』 Meteor
建造所:リューベック、1865年完成
排水量:415トン、全長:43.28m・水線長:41.02m・幅:6.96m・吃水:2.67m
乗員:71名、帆装:3檣バーケンチン
主機:水平往復動機関、1軸
出力:250〜320馬力、9〜9.25ノット
兵装:24ポンド砲1門、12ポンド砲2門
■フランス
●機帆装スループ(通報艦)・『ブーヴェ』 Bouvet
建造所:ロシュフォール、1866年完成
排水量:748〜787トン、水線長:55.63m・幅:8.56m・吃水:3.94m
乗員:85〜99名、帆装:3檣バーク
主機:楕円缶2基、水平複合機関1基、1軸、石炭:90〜100トン
出力:575馬力、10.7ノット
兵装:163ミリ砲1門、120ミリ砲4門
参考文献
●All The World's Fighting Ships 1860-1905 / Conway Maritime Press
●Battleships in Action 1-2 / H. W. Wilson (1926) / Conway (reprint 1995)
●Cuirasse Bouvet / L. Feron / Collection Technologie Navale Francaise
●Die Schiffe der Deutschen Flotten 1848-1945 / H. J. Hansen / Stalling
●German Warships 1815-1945 vol.1 / Groner / Conway
●Handbook of 19th Century Naval Warfare / S. C. Tucker / Sutton
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