ヤスムントの海戦 Battle of Jasmund : 1864.3.17 |
この海戦は、1864年にプロイセンとデンマークの間で戦われたシュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の一部として行われたものであり、洋上での機帆装艦隊同士の戦闘としては、世界最初のものではないかと考えています。
私の知る限りでは、日本でこの海戦について詳述されたことはなく、本文の翻訳も私自身が行ったものですから、私の投稿が「Navy Fan」に掲載されたのと、過去に海防史料研究所の掲示板に本文を連載した以外、公開されてはいないと思います。
シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争は、ドイツ諸王国が、プロイセンを中心としてドイツ帝国を形成する際に行われた三つの戦争 (他は普墺戦争と普仏戦争) の最初のもので、以前から争われていたシュレスヴィヒ=ホルシュタイン地方の帰属を巡る戦いでした。
プロイセン側にはオーストリアが同盟しており、デンマークはフランスの支援を期待したものの、同盟はなされませんでした。この戦争では、北海でデンマークとオーストリア・プロイセン連合艦隊が戦ったヘリゴランド島沖海戦のほうが有名です。一般にはこちらが「世界最初の洋上における機帆装艦隊同士の戦闘」ということになっていますが、こちらは同じ年の5月9日に起きているので、ヤスムントの海戦のほうが50日ほど早いのです。
また、参加した中に装甲を張ったスクーナーがいたらしいのですが、裏付けは取れていません。もし加わっていたのならば、洋上における装甲艦の参加した海戦としても、世界最初のものになります。
ヤスムントの海戦は、オーストリア艦隊が到達していないバルト海側での戦闘で、参加兵力はデンマーク側7隻、プロイセン側3隻です。戦力的には圧倒的にデンマークが有利でした。当時のプロイセンはろくな軍艦を持っておらず、ここで参加した3隻は、当時のプロイセン海軍戦力の、ほぼ半数と見て差し支えないでしょう。
この海戦については文献が非常に少なく、洋書でもほとんどの文献に記載がないか、あっても「海戦があった」としか述べられていません。それゆえ、入手した資料の裏付けが取れないので、発表できるのは原著の翻訳にとどまるのです。内容についての信憑性は低くないと思われますが、確実なことは言えません。
原著は、1884年にロンドンで出版された [A Popular History of The Franco-Prussian War] で、著者はElihu Richです。
■ヤスムントの海戦 (Battle of Jasmund)
[Franco-Prussian War]:chapter 1の一部から
1864年3月17日の朝は、いかにも春らしい夜明けだった。空気は澄みわたり、金色の太陽が今にもバルト海を照らしだそうとしている。濃いエメラルド色の空を陽の光の輝きがゆるやかに押し分けてゆき、かすかな風のそよぎが穏やかに広がった。上天気を約束する純白の霧が、海岸とスヴィーネミュンデの港をガーゼのように覆っている。
霧が晴れると、海上に人々の立ち騒ぎが現れた。2隻の軍艦からなる小さな艦隊が、プロイセンの鷲をはためかせている。指揮官はヤッハマン Jachmann 艦長で、数日前に見掛けられた敵影を求めて、この海へやってきたのだ。
ティエソゥの沖で、『アルコナ』 Arcona と『ニンフ』 Nymphe は小型の通報艦『ローレライ』 Loreley と合流し、これで艦隊は42門の砲を持つことになった。
正午近く、大胆な冒険者たち (彼等の敵は170門の砲を持つ6隻の軍艦からなると見られているのだ) はグライフスバルト島近くに達した。針路は北。海は相変わらず穏やかで、早朝のように輝いている。水平線は好奇に満ちた目で見つめられていた。
ようやく、「前方に帆影!」の声が、前を行く『アルコナ』の見張りから聞こえてきた。
艦隊は11ノットの速度で突き進んでいくが、それでも待ち焦がれる乗組員を満足させられはしない。正体不明者のマストが水平線からどんどんと高くなっていき、先行する『アルコナ』の檣頭には「自由に戦闘せよ」 (Attack in open order) の信号旗が掲げられ、速度が落された。
『ニンフ』が速度を上げて風下側に付き、非力な『ローレライ』は2隻の姉貴の中間にかばわれる。隊列を整えた艦隊は全速力で走りはじめ、互いに 1ケーブル (およそ200メートル) の距離を保って横一線に並航していった。
デンマーク艦隊は、当初プロイセン艦隊の出現に脅威を感じていなかった。それは、彼等の煙突から煙が立ち上ぼっていなかったことからも明らかである。しかし、敵艦隊の攻撃意思が明らかになると、蒸気を上げ、隊列を整えて東西に二列縦隊を作った。
一方は、フォン・ドッカム von Dockum 中将の指揮する、砲44門のフリゲイト『シェラン』 Sjaelland に率いられ、もう一方は砲66門の戦列艦『スキョル』 Skiold が先導していた。『シェラン』の背後には、砲14門のコルベットと砲3門の装甲スクーナーが続いている。『スキョル』には、砲34門のフリゲイト『トルデンスキョル』 Tordenskiold と砲12門のコルベットが付き従っていた。
7番目の艦は通報艦で北方へ向かい、リューゲン島の反対側にいるフリゲイト『ギラーナ』 Gyllana に急を告げるべく、艦隊から離れていった。
依然、デンマーク側はプロイセン艦隊が本気で戦闘に及ぶつもりなのかどうか訝かっている。その時、『アルコナ』の艦首に閃光が走り、続いて白煙が彼等を覆い隠すのが見えた。やがて砲声が波頭を伝わって轟き、砲弾が鋭い音とともに空気を切り裂いて旗艦前方100ペース程のところに水柱を上げる。『アルコナ』上甲板から発射されたこの36ポンド砲弾こそ、ヤッハマン艦長がデンマークの提督に叩き付けた挑戦状であった。
それでも、デンマーク艦隊は落ち着いて応戦を控えている。彼等は準備を整えて砲側に待機しており、接近してくるプロイセン軍艦を、至近距離からのただ一撃によって粉砕しようと待ち構えていたのだ。
距離2,500ペースで、再び『アルコナ』の上甲板から閃光が発した。今度は水柱は上がらず、砲弾は見事に『シェラン』の艦首をとらえた。戦闘は今、デンマーク艦隊がヤッハマンの挑戦を受ける形で始まったのである。
『シェラン』と『スキョル』は風下に転じ、55門の重砲がまさに筒先を揃え、鉄の嵐を小生意気な襲撃者に浴びせかけようとしていた。この時、あたかもこの動きを予測していたかのように、『アルコナ』は痛烈な一斉射を見舞う。そしてただちに装填が行われ、14門がデンマークの55門に対して雄々しく立ち向かったのである。
すぐに『ニンフ』と『ローレライ』も戦闘に加わり、デンマーク艦隊から1,900ペースまで近づいた『アルコナ』に従った。『ローレライ』は旗艦とほぼ同じ距離、『ニンフ』は1,700ペースにまで接近している。両艦はデンマーク艦隊中で最も速く、最も接近していた『シェラン』に射撃を集中して旗艦を援護した。
当初、デンマーク側は『ニンフ』を取るに足りない小型艦と判断していたが、『アルコナ』に匹敵する戦力を持つことにようやく気付いた。どうやらドッカムには、自軍の強大な戦力に頼みを置き過ぎ、戦闘をほんの小手調べとなめていたフシがある。
新式のライフル砲はプロイセン艦隊に大きな力を加えていたけれども、デンマーク艦隊も旧式砲を有効に使い、敵艦の索具やマストにわずかずつとはいえ効果を及ぼしていった。
『アルコナ』では砲弾が命中するたびに索具が飛び散り、破壊が広がっていく。操舵手 (steersman) は倒れ、舵手 (helmsmen) のひとりも打ち倒された。先任士官のベルガー Berger 将校も、艦長に報告しにきて負傷した。水兵のひとりは飛び散った破片に殺され、二人が重傷を負っている。
これは後に、『アルコナ』の「血の洗礼」と呼ばれた。遺体は旗で覆われ、負傷者は水線下へ送り込まれた。血だまりには砂が撒かれている。水兵は依然砲撃を続けているが、もう、笑いもおしゃべりも聞こえてこない。
デンマークの提督は砲の精度における不利を悟り、『シェラン』と『スキョル』は根負けして『アルコナ』から離れ、今度は『ニンフ』に向かっていった。一斉射撃は失敗し、わずかに4発が船体に当っただけだったが、60ポンド砲弾の1発は煙突を撃ち抜き、蒸気管を引き裂いてしまった。飛び散る破片は索具を引きちぎる。
しかし『ニンフ』はついていた。ほとんどの砲弾は彼女を飛び越えるか手前に水柱を立てるだけであり、その間に煙突は修理され、再び蒸気を上げると距離を2,000ペースまで開いて風上へ出る。艦首の24ポンドライフルを向けられる位置に達してみれば、ちょうど『シェラン』が『アルコナ』の風下を離れ、再び『ニンフ』と『ローレライ』に片舷斉射を浴びせようとしていた。慎重に照準された24ポンド砲弾が発射され、それがフリゲイトの艦首に当ると大きな喚声があがる。砲弾が艦首から艦尾まで見事に突き抜けたのだった。
『シェラン』は、さらに離れてから『ニンフ』と『ローレライ』に斉射を浴びせたが、距離は5,000から6,000ペースと遠く、まったく当りはしなかった。24ポンド砲はよくその任を果たし、『ニンフ』は生き残ったのである。
デンマーク艦隊は『スキョル』が代わって指揮を取ったが、その背の高い船体はプロイセンのライフル砲にとって格好の標的にすぎなかった。プロイセン艦隊が距離を保つうちに戦場はティエソゥに近付き、砲艦が出動してきたものの、戦闘に参加するには距離がありすぎた。
両艦隊間の距離は相変わらず大きいままで、効果のある攻撃はできなかった。わずかにデンマーク艦隊の追撃砲とプロイセンの艦尾砲が砲弾を交換しているだけにすぎない。
午後5時、『ニンフ』が最後の砲弾を発射すると、2〜3時間に及んだ戦闘は終りを告げ、今や提督となるヤッハマンは歓呼の声に迎えられて母港へ滑り込み、人々の祝福を受けたのだった。
●註
・「ヤスムント」 Jasmund ・一部の地図では Fasmund と綴られているようだ。バルト海リューゲン島北東部の地名
・「スヴィーネミュンデ」 Swinemunden ・現ポーランド海岸西端、ポンメルン湾最奥部のシビノウイシチェ Swinoujscie のこと。当時は現在のリトアニアあたりまでプロイセン領である。
・「ティエソゥ」 Thiessow ・リューゲン島南東端の岬
・「グライフスバルト島」 Greifswalden oie ・リューゲン島南東にある小島
・『シェラン』 Sjaelland はデンマーク最大の島の名。正しくは3文字目の"a"と4文字目の"e"がくっついた一母音である。
・装甲スクーナー (armourplated schooner) ・該当するのは『アブサロン』 Absalon 級2隻がある。
・『トルデンスキョル』・ Tordenskjold とも綴る。
・ペース paces =「歩度」、距離の単位・1ペースは約80センチメートル。
★著者は原註で、英国にこの部分の資料がなく、独文の資料 "Das Buch von der Norddeutschen Flotte" by R.Werner (Leipzig 1869) によったと書いている。他の部分と文調が異なるように感じられるから、これは原書の翻訳なのかもしれない。
★ "Battleships in Action"によれば、戦死者はデンマーク側22名、プロイセン側13名と伝えられる。
★ヤスムントの海戦におけるプロイセン、デンマーク両艦隊の構成
■プロイセン
●機帆装フリゲイト・『アルコナ』 Arcona
建造所:ダンチッヒ、1859年完成
排水量:2,353トン、全長:71.95m・水線長:63.55m・幅:13.0m・吃水:6.35m
乗員:380名、帆装:3檣シップ
主機:水平往復動機関、1軸、出力:1,350馬力、12ノット
兵装:68ポンド砲 6門、36ポンド砲20門
●機帆装コルベット・『ニンフ』 Nymphe
建造所:ダンチッヒ、1863年完成
排水量:1,183トン、全長:64.9m・水線長:58.54m・幅:10.2m・吃水:4.47m
乗員:190名、帆装:3檣シップ
主機:水平往復動機関、1軸、出力:800馬力、12ノット
兵装:36ポンド砲10門、12ポンド砲 6門
●外輪フリゲイト・『ローレライ』 Loreley
建造所:ダンチッヒ、1859年進水
排水量:463トン、速力:10.5ノット、砲4門
■デンマーク
●機帆装戦列艦・『スキョル』 Skjold
1833年進水、1860年改装 (蒸気主機搭載)
排水量:2,550トン、速力:8ノット、30ポンド砲64門
●機帆装フリゲイト・『シェラン』 Sjaelland
1858年進水、排水量:2,320トン、速力:10ノット、30ポンド砲44門
●機帆装フリゲイト・『トルデンスキョル』 Tordenskjold
建造所:コペンハーゲン、1852年進水、1862年改装(蒸気主機搭載)
排水量:1,718トン、速力:9ノット、30ポンド砲34門
●コルベット・砲14門・『ダグマル』? Dagmar ?
●コルベット・砲12門・『トール』? Thor ?
●装甲スクーナー・砲3門・『アブサロン』級? Absalon, Esbern Snare
排水量516トン、水線装甲帯60〜50ミリ、6インチ (152mm) 砲3門
参考文献
●All The World's Fighting Ships 1860-1905 / Conway Maritime Press
●Battleships in Action 1-2 / H. W. Wilson (1926) / Conway (reprint 1995)
●German Warships 1815-1945 vol.1 / Groner / Conway
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