ポポフ中将の偉業 Masterpieces of Vice-Admiral Popov |
リヴァディアのページにあわせて、同じくポポフ提督が設計した、有名な円形砲艦について解説します。比較的扱われることの多い(それだけゲテモノとして有名な) 軍艦ですが、あまり言及されることのない側面にも触れていきます。
ではまず、要目から
1−『ノブゴロド』 Новгород (Novgorod)
種別:円形露砲塔艦、所属:ロシア海軍・黒海艦隊、分類:沿岸防御砲艦
建造所:サンクト・ペテルブルグ → ニコライエフ造船所
起工:1872年、進水:1873年、完成:1874年、最終状態:1900年頃退役、解体
排水量:2,491トン
長さ:30.78m・幅:30.78m・吃水:4.11m
主機:円缶8基、ベアード社・水平複合往復動機関6基→4基、6軸→4軸
出力:3,360馬力、速力:6〜7ノット、改装後は2,000馬力、4ノット
石炭:160トン
乗員:士官15名、下士官・兵136名
装甲:錬鉄:水線装甲帯229〜178ミリ、バーベット280〜229ミリ、甲板70ミリ
兵装:完成時:280ミリ20口径砲2門(連装1基)、86ミリ砲2門
ポポフ中将が考案したため「ポポフキ」とも呼ばれる有名な円形砲艦の第一作。港湾や河川の防御用に計画され、サンクト・ペテルブルグで建造したものを分解、ニコライエフで組み立てられた。6軸にそれぞれ蒸気機関を備えるという非常に変わった配置だったが、後に外舷側の2軸は撤去された。船体は約70センチ厚の木材で覆われ、さらに銅板で被覆されている。
船体の中央に2門の280ミリ砲を装備した露砲塔を置いており、その中心に棒檣が立っていた。中心線上には上構があり、艦首では菱形に整形された居住区になっていて、ここにブリッジがあるものの、海図室は砲塔の後方に設けられた。最後部には六角形の銃室があって銃眼が切られているが、操舵機を防御しているのかもしれない。
水線装甲帯は甲板端部まで延長され、水線上45センチの高さから、水線下135センチまでを覆っていた。水線装甲帯の上半分90センチは229ミリ、下半分は178ミリの厚みである。甲板は中央部が盛り上がり、水線上高さ160センチに達した。バーベットは甲板から2.1メートルの高さがあって、直径は9メートル。並列に立てられた煙突や吸気筒も、その基部に高さ90センチ、厚さ114ミリの装甲を巻いていた。
円形という形状からの特性で、本艦には直進性がほとんどなく、流れや風波のある海面では使用に耐えなかったとされる。川の中ではくるくる回るだけで、進行方向が維持できなかったそうだ。
艦型図から見る限りでは、全長と幅がまったく同一寸法ということはなく、若干全長の方が大きいはずである。砲塔は固定され、旋回しないとする資料もあるが疑問。スパー・トーピードーを装備していたという資料もある。
艦名は、ロシア北東部にあった公国の名。都市名かもしれない。
1−『ヴァイス・アドミラル・ポポフ』 Вице−адмирал Попов (Vice-Admiral Popov)
種別:円形露砲塔艦、所属:ロシア海軍・黒海艦隊、分類:沿岸防御砲艦
建造所:ニコライエフ造船所
起工:1874年/進水:1875年/完成:1877年/最終状態:1900年頃除籍、解体
排水量:3,550トン
長さ:36.57m・幅:36.57m・吃水:4.11m
主機:円缶8基、ベアード社・水平複合機関6基→4基、6軸→4軸
出力:4,480馬力、速力:8ノット、改装後は3,066馬力、6ノット
石炭:170トン
乗員:士官19名、下士官・兵187名
装甲:錬鉄:水線装甲帯406〜356ミリ、バーベット406ミリ、甲板76ミリ
兵装:完成時:305ミリ20口径砲2門(連装1基)、86ミリ砲8門、2.5ポンド砲2門 (1ポンド速射砲とも言われる)
元の艦名は『キエフ』Kiev だったとされる。『ノブゴロド』の拡大型だが、装甲は『ノブゴロド』と同じものの上に、100ミリの木材を挟んで178ミリの装甲鈑を重ね張りしている。煙突の下部装甲は178ミリ、甲板も76ミリに増厚されていた。装甲鈑の水線上高さは45センチに過ぎず、全体でも1.8メートルの高さしかない。
露砲塔は水圧による昇降式とされ、バーベットの直径は約10メートルもあった。12インチ砲は『ピョートル・ヴェリキー』と同じもので、40トン砲である。
後に『ノブゴロド』同様、最も外側の推進機を撤去し、4軸となった。砲塔は固定され、旋回しないとする資料もあるが疑問。『ノブゴロド』とまったく同じ欠点を持ち、やはり直進性がないに等しかった。スクリューは、第2軸と第5軸のものが、他よりひとまわり大きかったとする資料もある。
上構は大きく拡大され、バーベットの周囲にも甲板室が設けられたし、後部の最上甲板上には、上級将校用と思われる甲板室も造られて射界を若干狭めていた。バーベット内の檣は2本に分けて後部上構脇に立てられている。後に86ミリ砲は撤去された。
艦名はこの艦を設計したポポフ中将の名だが、本人は亡くなったわけではない。王族でない人が生存中に名を軍艦に冠されるのは珍しい。改名の時期がはっきりしないのだが、まさかポポフ中将の死去 (1898年) 後ということはないだろう。仮にそうであれば、元の名のほうが一般的になっていると思われる。
さて、19世紀に、幅が30メートルを超える船を入れられるドックは、多分世界のどこにもなかっただろう。この2隻の整備は、どうやら特設のポンツーンを用いて行われたらしい。
一般にゲテモノとして扱われ、完全な失敗作という評価しかもらっていない円形砲艦だが、その発想の根源は一般に言われているのとは若干異なるようである。
下に掲載するイラストは、円形砲艦のより理想に近い姿を現している。砲は10門以上あり、それぞれが隠顕式砲架に載せられ、ある程度の範囲で旋回できた。全体は一個のバーベットで防御されており、非常に浅い角度で設置された装甲鈑は、まずどんな砲を持ってきても撃ち抜けないだろう。
おそらく直径は100メートルほどもあり、浮き砲台としては難攻不落だったと思われる。水線下側面が大きく傾斜しているのは、当時の水雷 (スパー・トーピードー) に対抗したものではないかと思われる。また、これに対する衝角攻撃は意味を成さず、逆に鋭く突き出した舷側部のため、攻撃艦が艦首を大きく破壊されるだろう。
当時の海岸要塞には、まったく円筒形の建物に砲眼を並べたものがあり、これらを見る限りでは、本艦は単なる思い付きではなく、それなりに根拠のある構想を実現するテストベッドだったのかもしれない。
ただ、それだと実績も見ないうちに2隻目を造った理由が解らなくなってしまうのだが。
もうひとつ、荒唐無稽なイラストをお見せしておこう。究極の浮き砲台とでも言えばいいのだろうか。
これは1798年にフランスで出版された事典に掲載されていたとされる。外輪を駆動する動力は、その直上にある風車!?であり、炉は砲弾を赤熱させるためのものでボイラーではない。中央の城砦上にはセマフォア通信機を備えている。用途はどうやら防御用ではなく、英仏海峡を渡るためのフェリーだったようだ。
これが18世紀末に考えられたという飛びっぷりはなかなかのもので、現代の架空戦記作家も、このくらい飛べば何も言われないだろう。相手にしてもらえなくなるだけかもしれないが。
参考文献
●Круглые Суда Адмирала Попова/В.Г.Андриенко
●Gebiete des Seewesens/Mittheilungen
●The Imperial Russian Navy/Anthny J. Watts/arms and Armour
●Naval Gun/Ian Hogg and John Batchelor/Blandford
ポポフが造った船は、軍艦ばかりではない。皇帝の要望を最大限に入れた皇室用ヨットがそれである。こちらはあまり有名ではないが、珍奇さではいい勝負だろう。下のリンクから、その奇怪な風貌をご覧になっていただきたい。
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