サモアの災厄
Disaster at Samoa : 1889.3.15〜16


HMS Calliope

英国機帆装巡洋艦『カライアピ』(カリオペ)


 1889年にサモアで起きた軍艦の大量遭難は、最盛期にあったヨーロッパ帝国主義国家間のつばぜり合いがもたらした災厄と言えよう。
 人間にとってプライドは、その存在に必要欠くべからざるものではあるが、これが何らかの組織を背景にすると、往々にして理解に苦しむような判断の誤りにつながることが多い。



Map of West Samoa

サモア島の略図


 1889年3月、南太平洋の島王国サモアのウポル島、アピアの狭い湾内には、アメリカ艦3隻、ドイツ艦3隻、イギリス艦1隻が蝟集していた(表参照)。彼等は国家を代表する存在として、それぞれの権益の保護を名目に停泊していたのである。
 豊饒なサモアには水も豊富で、昔から貿易船や捕鯨船の補給地として人気が高く、当然、海軍の拠点とするには好都合だったのだ。アメリカとドイツがここに大きな権益を持つようになると、互いに部族を援助して王国の主導権を握らせようと画策しはじめる。イギリスの利権は大きくなかったが、最も古くから貿易を継続していたのは彼等だった。それぞれに大国をバックにした部族間の権力争いは激化し、たびたび艦隊の陸戦隊をも巻き込んだ戦闘が行われている。

 首都アピアの前面に広がる湾には、各国の軍艦がひしめきあっていたものの、直接戦闘を行うことはなく、権謀術数の渦はサモアの人々を巻き込み、サモアにとっては彼等こそが災厄の種だったと言えよう。この状況を反映して、艦隊の停泊地には特定の名が付けられず、単に「泊地」と呼ばれていた。
 ヨーロッパ人にとって、共通したもうひとつの敵は自然である。アピアの泊地は珊瑚礁に囲まれているだけで、入口が真北を向いて外洋に直接口を開いているから、波こそある程度さえぎられているものの、風を防ぐものは何もない。台風の襲来は予測されており、その威力も過去に経験済みであった。それでも、今までは乗り切ってきたのだし、今度はそれができないという理由はどこにも見つけられなかった。



sketch of Calliope

カライアピの略図



当日アピア湾に在泊した各艦の要目                
国籍 艦     名 建造 排水量 出力 速力 乗組員 兵装
カライアピ Calliope 1884年 2,770t 3,000hp 13.75kt 317名 6インチ砲4門,5インチ砲12門
トレントン Trenton 1877年 3,900t 3,100hp 12.8 kt 416名 8インチ前装砲10門
ヴァンダリア Vandalia 1876年 2,033t 1,150hp 12kt 230名 前装砲8門
ニプシック Nipsic 1879年 1,375t 800hp 11kt 193名 前装砲6門
オルガ Olga 1881年 2,387t 2,200hp 13.5kt 269名 15センチ砲10門
アドラー Adler 1879年 1,024t 950hp 11.25kt 127名 15センチ砲1門、12センチ砲4門
イーベル Eber 1887年 723t 760hp 11kt 81名 10.5センチ砲3門



SMS Adler

ドイツ砲艦『アドラー』


 3月14日、気圧計は急速に降下し、天候の悪化が明らかとなってきた。各国の指揮官は荒天準備を命じ、各艦はあるだけの錨を入れ、トップ・マストやヤードを下ろすと、蒸気を上げて台風を待ち受けることになった。しかしながら、狭い湾内に多くの艦が集まっているため十分に錨索を伸ばす余裕がなく、最も大きな『トレントン』は、ほとんど湾口に位置している。

 15日、台風は最高潮となり、北風は遮るもののない湾の入り口から吹き込んできた。下級士官たちは、錨を上げ湾外へ出て広い海で嵐を乗り切るべきだと進言するが、指揮官たちは誰も、最初に逃げ出す形になるのを嫌って出港を許さない。
 もちろん彼等は老練な船乗りであり、艦や乗組員に無益な危険を冒させるようなことをする人々ではない。また、何が危険であり、何をなすべきかも、よく知っていたはずである。それでも、国家を代表していると考える自負は判断を歪め、集められる情報からは、ことさらに楽観的な部分を取り入れるまま、とうとう最後の機会を逸してしまったのだ。



Apia 1889/03/15 before hurricane

各艦の碇泊位置

 赤は英艦、青は米艦、黒は独艦、緑は商船 (p.g = Peter Godeffroy)


 最初に、最も小さいドイツ艦『イーベル』が坐礁した。午後5時頃、珊瑚礁にぶつかり、甲板を海側に向けて転覆したため船体はたちまちバラバラに破壊され、80人の乗組員は、たまたま陸上で勤務に就いていた5名の他には6人が助かっただけである。他艦も援助どころではなく、自艦の安全を図るだけで精一杯だった。夜になり、各艦は錨を引きずっているのだが、闇夜の中で艦の位置を知る術はなく、夜が明けてようやく、それぞれが危険なほどに岸に近付いていることが明らかとなった。

 アメリカの『ニプシック』は煙突を吹き飛ばされ、波に揺すられるたびに火の粉を飛ばしている。煙は上甲板を覆い、ときおり炎が巻き上がって甲板作業は危険に晒されたが、推進力を失うわけにもいかなかった。それでも午前7時頃、艦は珊瑚礁を越えて岸に押し上げられてしまっている。7人の乗員が失われたものの、船体は比較的安全な状態に落ち着いた。

 『アドラー』は大波に錨索を引きちぎられ、艦長は重傷を負った。それでも彼は、艦を救う望みがなくなったことを悟ると、ボイラーの火を落とさせ、でき得る限りの対策を講じている。そうこうするうちに途方もなく巨大な波が艦を持ち上げ、珊瑚礁の上に投げ上げてしまった。幸運にも船体は破壊されず、船底を海に向け、左舷を下にして横たわっている。波に洗われる珊瑚礁を渡っての脱出が試みられ、20人が命を落としたが、サモア島民の命懸けの努力もあって多くが救助されている。一部の生存者は、嵐が静まるまで転覆した艦内に止まっていた。



Adler turn over

珊瑚礁に投げ上げられ、横たわる『アドラー』
 舵もスクリューもなくなっている
 艦尾底にぽっかり開いている穴は、スクリューを引き上げるためのレセス


 『ヴァンダリア』と『オルガ』は、絡み合うようにして岸に吹き寄せられ、船底を破られて沈んだ。『ヴァンダリア』は43人の多くを失ったが、これは、わずか20メートルほどの距離にある岸まで泳ぎ付こうとして、海に呑まれた者が多かったからである。あいにく沈んだ場所は河口であり、打ち寄せる波と川から流れ込む濁流のために、渦を巻く海は片端から不運な人間を呑み込んだのだ。もし、島民の献身的な援助がなかったら、もっと多くの男たちが命を落としたことだろう。彼等は手に手をつないで人の鎖を作り、溺れる者たちを海中から引き上げたのである。



aground Trenton & Submerged Vandalia

着底した『トレントン』、すぐ手前に『ヴァンダリア』が沈んでいる
 右端遠方の艦影は『カライアピ』ではないが英国艦らしい
 左側の岸の上には、ひっくり返った『アドラー』の姿も見える

 手前砂浜の二又は、沈没艦から大砲を引き上げるためのもの


 こんな中、唯一のイギリス艦『カライアピ(カリオペ)』は、やはり同様に錨を引きずり、他の艦と危険なほどに接近しながらもきわどくこれを躱していたが、ギリギリの瞬間に決断を下し、悪魔の顎(あぎと)と化した湾からの脱出を試みた。単独であったことが判断に余計な要素を持ち込まさせず、かろうじて間に合わせたのであろう。
 錨を捨て、主機室には全力での前進が命じられる。蒸気は最後の1ポンドまで使い尽くされ、スクリューのひとかきひとかきが、わずかずつだが艦を推し進めていった。本来14ノットを発揮し得るエンジンは、風と波に抗してわずか2ノットほどしか出せなかったのだが、これも突風が吹き付けるとたった半ノットに落ちてしまうほどだった。

 アメリカの旗艦『トレントン』はよく抵抗していたけれども、艦首の一部が破壊されたために浸水しており、午前10時にはポンプが故障してしまった。艦は錨を引きずりながらゆっくりと岸に向かい、命運は尽きかけている。その時、彼等の目前に黒い大きな船体が近付いてくるのが見えた。ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと『カライアピ』は接近し、ちょうど湾口を塞ぐ位置にいた『トレントン』の至近を通過していく。ヤードの端が艦の上を通ったと言う者もあった。
 アメリカの提督と乗組員たちは、声を限りにイギリス艦に声援を送る。ケーン艦長を始めとする『カライアピ』の乗組員たちは、感激と共に勇気を与えられ、これに応えた。艦は4隻のボートを失い、マストやヤードに損傷を被りながらも、船体と機関は持ちこたえ、安全な広い海面へと乗り出していく。機関士のミルトンはメイン・バルブにしがみつき、スクリューが水から出るとこれを閉じ、水中に入ればバルブを開けて推進力を絶やさなかった。彼は、これを12時間にわたって続けたのである。



Apia 1889/03/16 after hurricane

岸に吹き寄せられた軍艦の位置



 『トレントン』も結局『ヴァンダリア』の脇まで流され、これに並んで沈座し、砲甲板まで水に漬かった。それでも死者は1名だけで済んでいる。これらの中では『ニプシック』と『オルガ』が再浮揚され、修理を受けて本国へ戻ることができた。『カライアピ』も、4日後にはアピアへ戻ってきている。



Olga after return

本国へ帰還し練習艦に改装された『オルガ』



 『カライアピ』の名は、試練を乗り越えた艦として世界中に知れ渡った。海軍省は、艦長と乗組員に深い賞賛の意を表し、各界から賛辞が送られている。それでも彼等は、有形無形の栄誉を受けながら、船を造った人々にも同様の栄誉を与えてほしいと言い、あの嵐を乗り切った堅牢な船体と、連続した全力運転に耐えた機関の製作者に感謝を惜しまなかった。イギリス海軍将兵のシーマンシップと、最良の状態に整備された機関の能力が実証されたのだ。
 とはいえ、この災厄が、やらずもがなのものであったことに変わりはない。国家の威信を体現する指揮官たちは、その重さに負けて判断を誤り、多くの人命と艦を失った。舞台となったサモアは後に二分され、ドイツの統治を受けた西サモアは、戦後イギリスの旗下に移り、後に世界で最後に日が沈む国として独立したが、東サモアはいまだにアメリカの統治下にある。



Fully dressed Calliope

満艦飾を施した『カライアピ』


 この『カライアピ』と同型の巡洋艦『カリプソ』 Calypso は、現在もまだカナダのニューファンドランドに船体が残っているとされる。



参考文献
●All the world's fighting ships 1860-1905 / Conway Maritime Press
●Seamanship, Steam and Steel / D. K. Brown / Warship XII / Naval Institute Press
●The Imperial German Navy and The Hurricane at Samoa / Gerhard Koop / Warship XII / Naval Institute Press
●The American Steel Navy / Naval Institute Press



―*― ご意見、ご質問はメールまたは掲示板へお願いします ―*―

スパム対策のため下記のアドレスは画像です。ご面倒ですが、キーボードから打ち込んでください。

mail to



to wardroom  ワードルームへ戻る