合衆国軍艦『ラデツキー』
USS Radetzky & USS Zrinyi


Post Card : Zrinyi Firing

 絵葉書より・砲撃する『ツリニー』



 第一次大戦でオーストリア帝国が解体され、オーストリア本国は海岸線を失った。カール皇帝はその海軍艦艇を基本的にユーゴスラヴィアへ受け継がせたけれども、賠償の問題が未決定の間、海軍は不安のただなかに置かれている。
 ポーラ軍港においても、海軍軍人たちは差し迫ったイタリア軍進駐に浮き足立っていた。

 そんな中で、宿敵イタリアに彼らの軍艦を奪われることを嫌った一部のユーゴスラヴィア人将校は、『ラデツキー』 Radetzky と『ツリニー』 Zrinyi を彼らに渡すまいと考え、同調する水兵をかき集めて1918年11月10日、強引にポーラを出航させる。

 彼らは防波堤を出たところでイタリア艦隊を発見した。ギリギリで間に合ったのだ。足止めされないための窮余の一策として、二隻はアメリカ国旗を檣頭に掲げる。これでなんとか、イタリア軍には追求されずに済んだ。
 彼らは南へ向かい、スパラト Spalato 近くのキャステリ Castelli 湾へ投錨する。そしてアメリカ軍へ通信を送り、ここへ来て彼らの降伏を受け入れて欲しいと要請した。



Three Radetzky Class in Pola

 ポーラ軍港におけるラデツキー級戦艦

 手前から『エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナンド』
 『ラデツキー』と『ツリニー』



 たまたま近くにいたアメリカ海軍の潜水艦追跡戦隊 US Navy submarine chasers の指揮官スパフォード Spafford 少佐は、この通信を受け取ってキャステリ湾へ赴いた。彼はそこで、いかにもアメリカ海軍軍艦のように星条旗を掲げた二隻の戦艦を発見する。
 申し出を受け取ったアメリカ海軍はしかし、彼らを検査、監視するだけで、和平会議に問題を持ち込むようなことはしなかった。二隻の運命には、何も変わりはなかったのである。 



SMS Radetzky

 オーストリア=ハンガリー帝国戦艦『ラデツキー』の勇姿

 艦首の主砲塔は左舷側を指向している



 彼らを検査したアメリカ海軍士官の一人ハズレット中佐 Hazlett は、この戦艦について以下のようなレポートを残している。
「美しい線を持った平甲板船で、煙突は2本、上部構造は小さく機能的で、いかにも軍艦らしい」、しかし、甲板下へ下りた彼は続ける。

「この戦艦は、どう見ても快適さを目的に建造されたとしか思えない。…それもまったく士官だけのだ。乗組員の生活環境は狭く、薄暗くて息が詰まりそうだ。
 その一方で、士官室は広く、ほとんど『窓』とも呼べる大きさの舷窓を持っている。下級士官の居室にもバスが付属しており、個人的な従者のための小部屋も用意されていた。艦長室は艦尾回廊まで備えた七部屋続きの豪華さで、艦尾一帯を占領している。
 乗組員の居住区がまったく不充分なだけでもともかくなのだが、上甲板にはなおおぞましい一角があった。12部屋のひとかたまりになった営倉があり、その中央にはいくつかの処刑台が存在していたのである。壁の金具には、皮ひもと小球でできた物体、そう、世にも恐ろしい『猫ムチ』が下がっていた」



Captain's Day Cabin

 『ツリニー』の艦長執務室

 座っているのは艦長のマキシミリアン・ダブルブスキー Maximillian Doublebsky 伯爵



Elisabeth's wardroom

 当時の主力艦士官室

 写真は装甲巡洋艦『カイゼリン・エリザベート』のもの



crew's lower deck

 オーストリア軍艦の兵員居住区・艦名不詳



Bordarrest

 オーストリア軍艦の営倉・艦名不詳



 オーストリアの海軍幹部は、彼らの軍艦に何もしてやれなかった。ポーラに残った『エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナンド』 Erzherzog Franz Ferdinand は、他の船と共に、1919年3月のヴェニスにおけるイタリアの戦勝パレードへ参加させられた。
 その時でも、艦はイタリア人の手で航行されている。彼らは、ドイツ艦隊が北海を航海してスカパ・フローへ向かったような、最期を自国民に看取らせることもしなかったのである。
 3月24日、『エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナンド』は、イタリアの旗を掲げ、イタリア人の手によってイタリア国王の前を航進していった。
 講和条約は、この3隻をすべてイタリアの手に渡した。『…フェルディナンド』は1920年に解体され、『ラデツキー』と『ツリニー』も、アメリカから正式にイタリアへ渡され、同様に解体されている。



◆スパラトは現在のスプリト Split で、ポーラから南東250キロメートルほど、例のリッサ島 (ヴィス島) 近くの本土にあります。近くのキャステリ湾が、どれを指すのか手持ちの地図に記載がないので判りませんが、あまり大きな町の近くには行きたくなかったでしょう。官憲に乗り込まれる可能性がありますから。
 ちなみに手元の地図では、ポーラは「プラ」または「プーラ」となっています。

◆イタリア艦隊が彼らを見過ごしたのには、いくらか意外の念を持たれるかもしれません。しかし、それほど接近した様子ではありませんから、遠くから檣頭の旗を見れば、イタリア艦隊指揮官が敢えて追求しようとしなくても、異常なことではないと思われます。
 進んでアメリカと揉めたくはないでしょうし、自分の受けている命令がポーラ軍港進駐であれば、そちらが優先するのは当然とも言えます。

◆検分したのが、よりによってアメリカ士官であるのに留意してください。これがヨーロッパの他の国であれば、感想はずいぶんと違ったものになったでしょう。ムチはともかく、艦長室の豪華なことなら、けっして引けは取らないでしょうから。
 この時のオーストリア海軍艦艇の末路には記録の残っていないものが多く、だいぶ手ひどい扱いを受けたように思われます。ちょっと古いフネは行方不明ばっかりですから。



Neptune's Revel

 オーストリア軍艦艦上での記念写真

 1900年に撮影された赤道通過祭の様子
 中央右、長い髭を着けて王冠をかぶっているのが海神ネプチューン役の水兵
 手に持っているのはトライデント trident (三叉鉾)



●戦艦『ラデツキー』 Radetzky の要目
  建造所:トリエステ造船所= "Stabilimento Tecnico Triestino"
  起工:1907年11月26日、進水:1909年7月3日、完成:1911年1月15日
  計画常備排水量:14,508トン、満載排水量 15,845.5トン
  全長:138.8m、水線長:137.5m、幅:24.6m、吃水:8.1m
  乗員:876名
  主機:水管缶、垂直倒置三連成機関、2軸
  出力:19,800馬力、速力:20.5ノット
  装甲:水線装甲帯 230-100mm、砲塔 250-60mm、副砲塔 200-50mm、砲廓 120mm、甲板 48mm、司令塔 250-100mm、水雷防御隔壁 54mm
  兵装:30.5cm45口径砲4門(連装2基)、24cm45口径砲8門(連装4基)、10cm50口径砲20門、47mm44口径速射砲4門、47mm33口径速射砲1門、66mm18口径野砲2門、45cm魚雷発射管3門(水中・両舷各1門、艦尾1門)



参考文献
●All The World's Fighting Ships 1906-1921 / Conway Maritime Press
●Austro-Hungarian Battleships / Paul J. Kemp / iso
●Als Die Adria Osterreichisch War / Horst F. Mayer & Dieter Winkler / Edition S
●Osterreichs Marine und Kuste auf alten Postkarten / Pawlik & Baumgartner / H. Weishaupt Verlag-Graz
●Die Schiffe im Bild 1896-1918 / Lothar Baumgartner & Erwin Sieche / Mittler



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