翼をなくした大鷲 CSSヴァージニア物語・第十二章 Unflyable Eagle: CSS Virginia stories 1862 |
第十二章
「撤退? ノーフォークを捨てるのか?」
「ヒューガー将軍は、そのように申されています。それに沿った対策を立ててくださるように、と」
「むう、…ここを捨ててどうなると言うんだ」
軍勢は持てるだけのものを持ち、退路を断たれる前にリッチモンドへ転進する。水路が使えず、ノーフォークから南へ向かうしかない鉄道は、いつ北軍に押さえられてしまうかもしれない。時期を失すれば、軍隊はノーフォークに釘付けとなり、包囲殲滅は必至である。
ノーフォークは三方を水に囲まれており、海を支配している側からは攻めやすく、陸側は守りにくい。ポーツマスの町やゴスポートは、間にエリザベス川を挟んでいるから、両方を守ろうとすれば軍勢を二分しなければならず、敵は任意に戦力を集中できる。
川に備えた軍を動かせば、川を取られて戦力は分断され、それぞれが包囲された形になる。『ヴァージニア』も、狭い川の中では動くことさえ難しい。冷静に考えれば、撤退は賢明な決断かもしれない。
陸軍の撤退を目前にして、街は騒然としていた。3月の『ヴァージニア』の勝利が頂点となり、その後は北軍の足音が迫るばかりであって、ジェームズ川の水路はとうとう開かれなかった。『モニター』の出現が、『ヴァージニア』の勝利を決定的なものにさせず、状況を保存されてしまったのである。
5月9日、クレイニー島の近くからスウェルズ岬を見た『ヴァージニア』は、そこに南軍の旗がないと気付いた。ただちに偵察に向かった士官は、すでに砲台が放棄されており、ウール将軍の北軍が、川を渡って上陸しつつあるのを見た。
「我々に何も知らせずに逃げたのか?」
「なにか手違いがあったのかもしれません」
「それにしても…」
エリザベス川を遡ってみれば、ゴスポート工廠も火の海だった。陸軍は水上の『ヴァージニア』に何も知らせないまま、すべてを破壊して撤退していたのだ。何隻かいた砲艦も、すでに1隻も残っていない。タットノールは激怒したが、すでに後の祭だった。彼の手元に残ったのは、わずかな物資と『ヴァージニア』そのものだけでしかなかったのである。
撤退にあたり、『ヴァージニア』は、その吃水が許す限りでジェームズ川を遡り、浮き砲台として活動するはずだった。しかし、河口からそう遠くないジェームズタウン島付近には、水深が6メートルほどしかないハリソン・バリアという瀬があり、6.5メートルほどもの吃水がある『ヴァージニア』には、とうてい通り抜けられない。
この問題への解決を含め、『ヴァージニア』を今後どのように用いていくかの方針は、まだ十分な結論を得ていなかった。彼らは突然、まったく支援を期待できない状況に置かれ、自分たちだけで問題を解決しなければならなくなったのである。その肩に掛かっているのは、彼ら自身の生命であり、『ヴァージニア』の勝利という、「過去」になりかけている名誉だった。
「二つの道があります。ひとつは物資を満載して、モンロー要塞を突破、外洋へ出て、チャールストンないしはサヴァナを目指すことです」
「もうひとつは?」
「できる限り軽くします。戦闘ができないような状態にはなりますが、吃水を18フィート (5.5メートル) まで減らせば、バリアの上へ抜けられます。そうすれば、リッチモンドから40マイルほどのブランドン農園までは遡上できるでしょう。パリッシュとライトはそう言っています。通り抜けてさえしまえば、状況に余裕ができますから、向こうで再装備して、また戦えます」
タットノールは、ピンと背を伸ばして話をするジョーンズを見詰めた。『ヴァージニア』の士官室で、士官全員を集めての作戦会議だ。すでに陸軍が撤退し、周囲に味方が残っていないこの状況では、350人の命を費やして戦い続ける意味はない。一時的に勝っても、まさに徒花にしかならず、結局は討ち取られてしまう。それでは自殺と同じだ。
検討されていない三つめの選択肢は、この場で『ヴァージニア』を捨て、乗組員だけが陸路を逃れることだ。今ならまだ、ヒューガー将軍の軍と合流でき、安全に撤退できる。しかし、それは最善の努力とは言ってもらえまい。
「それぞれの問題点は?」
「外洋へ出るには、いくつか障害があります。まず、『モニター』を始めとする北軍艦隊の存在です。簡単ではないにせよ、突破そのものは可能だと思いますが、追跡してくる彼らを振り切ることは、まず無理です。次にモンロー要塞の砲台です。リップ・ラップとの間は狭く、夜間の突破は困難ですし、そもそも見られずにそこまで進めません。モンロー要塞には15インチ砲があると聞いています。その待ち構えている中へ飛び込むことになります」
今夜も月は高く、夜は明るい。新月を待つ時間はない。
「もうひとつ、これが大問題なのですが、仮に突破できたとして、『ヴァージニア』の機関がチャールストンまで動いてくれるかは、保証されません」
ラムジー機関長は何も言えず、下を向いた。このふた月、どれほど苦労したか言い表せないほどだが、機関が順調に働いたことはほとんどなかった。工廠の援助が受けられない状態では、ひとつの部品の破損でも、行動不能に直結する。
「そいつは保証どころか、壊れると考えるほうが順当だろう。洋上でフリゲイトに取り囲まれ、機関が故障して動けなくなれば、好き放題にされる」
いくら装甲があっても、死角から撃ちまくられれば堪ったものではないし、そうでなくても、この鈍重な船が、大西洋のうねりの中を何事もなく航海できるとは考えられない。そもそも、そういうことはしない前提で造られているのだ。うねりの中で立ち往生すれば、旗を降ろす以外の選択はなくなる。そうとは口に出せないが。
「私もそう思います。…艦を軽くした場合には、吃水線付近に脆弱な船腹をさらしたまま、ニューポート・ニューズの砲台の前を通ることになります。撃たれるのは、そう長い時間ではないでしょうし、15インチ砲に比べれば豆鉄砲ですが」
「わかった。選択肢はひとつしかないと思うが、皆の意志を聞こう。遡航に賛成の者」
全員が手を挙げた。意味のある戦いを続けられるのであれば、誰しも当然その道を選ぶ。
「決まったな。艦を軽くしよう。石炭も必要最小限にして、18フィートまで吃水を減らすんだ。…皮肉なものだな、ついこの間は、重くするのに苦労していたのに」
時間に猶予はない。すでに対岸のノーフォークには敵軍が迫っている。彼らは罠の心配をしているから、夜中に町へなだれこまないだけだ。町の人々がどんなに不安な夜を過ごしているか、気にはなるが、どうできるわけでもない。せめて、北軍が手荒く扱わないでくれることを願うばかりだ。
敵艦隊だって、明日の朝にはエリザベス川を遡ってくるかもしれない。水路の狭い川にいたのでは、この艦はほとんど動くこともできない。川岸の砲台も、腹背に敵を受けたのでは戦えまいが、すでにどれだけ兵が残っているか、あてにできる状況ではない。
乗組員は夜通し、総出で艦を軽くする作業にかかった。不要な調度品などは残らず捨てられる。艦底のバラストはすべて投棄され、石炭も、一部の砲弾すらも捨てられた。吃水は18フィートに近付いている。なんとかなるかもしれない。
夜明け近く、水先案内人のパリッシュが、血の気の引いた顔で艦長室に現れた。ジョーンズ副長も一緒だ。
「提督、風が変わっています。西風が吹いているんです!」
「だから?」
「川の水が、風に押されて海へ出ていってしまいます。水深が浅くなります。18フィートでも通れないかも…」
「なんだと…、そんなことは何も言わなかったじゃないかっ!」
思わず立ち上がったタットノールは、平手で激しく机を叩く。
「すみません…」
パリッシュは縮こまってしまったが、それで状況が変わるわけではない。艦はかなり軽くなっているけれども、川はその努力をあざ笑うかのように、バリアを高くした。神は、『ヴァージニア』を召し上げるつもりなのだ。
この状態では、留まって戦闘することはできない。無防備な吃水線を露わにしているのは、ひと目で判る。吃水線を狙い撃たれれば、たちまち撃沈されるだろう。
勝ち目のない戦闘をして、撃破、撃沈、戦死という結末は、自分のほうにだけ問題があるわけではない。戦って敗れるということは、その直接の敗因が何であるにせよ、敵に名を成さしめるということである。
死んでしまう自分は構わないが、残った者たちは、敵の自慢話を聞かされるだけなのだ。艦が万全な状態であれば、敵艦隊の中へ突入して、何隻かを道連れにできるかもしれないが、こんなプカプカ浮いた状態では、戦うもなにもあったものではない。それでは抵抗ですらない。敵を利する行為なのである。
戦闘になって敗れれば、350人の乗組員はあらかた脱出できまい。死ぬか、捕まるかだ。その場合、南軍は確実に350人を失うことになる。ただでさえ人間の少ない南軍にとって痛手は大きいし、彼らはただの350人ではなく、勝利の経験を持つ350人なのだ。無意味な戦闘で失うには重すぎる。
では、戦闘を放棄し、艦を動かせる最小限の人数だけで、単純な突破ができるだろうか。…足が速ければ、それも可能だろうが、プカプカ浮いているということは、スクリューが水面に顔を出すということでもあり、空気を巻きこめば効率はガタ落ちになってしまう。ただでさえ遅いのに、だ。しかも、その先で結局は身動きがつかなくなる。乗組員がいなければ戦えず、せいぜい障害物として沈めることができるだけだ。
タットノールは、苦汁を飲み込むしかなかった。しばし絶句した提督は、決断へ踏み切るのに、大きな深呼吸をひとつ必要とした。それはため息にも聞こえた。
「ミスタ・ジョーンズ、艦から戦闘員以外の者を降ろしてくれたまえ。やむを得ん、本艦を処分する」
「はい、提督。…残念です」
処分するとなれば、万が一にも北軍に回収されてはならない。まったく手の届かない深みまで持って行かれないからには自爆するしかないが、ここでやれば、ポーツマスやノーフォークの町にどんな被害が及ばないとも限らない。もう少し町から離れた場所へ移動しよう。
5月10日夜、『ヴァージニア』は静かに動き出し、川を下っていく。イースタン・ブランチの入江を越え、クレイニー島へ近付いた。川岸にある砲台、あの日、『ヴァージニア』の凱旋を歓呼の声で迎えてくれた砲台には、まったく人影がない。ランプの明かりひとつ見えない。すでに全部隊が撤退したのだ。
ナンセモンド川まで行って上陸すれば、リッチモンドへはずっと楽な行程になるものの、『ヴァージニア』の吃水ではクレイニー島の先に連なる浅瀬を渡れない。いったんジェームズ川との合流点、ハンプトン・ローズを通らなければならないのだが、水先案内人も解雇してしまったので、夜間にここを航行するのは自殺行為だ。たとえ測深しながらでも、行き止まりの水路に迷い込む可能性が高い。小回りの利かないこの艦では、動くこともできなくなる。
「クレイニー島へ向けてくれたまえ」
終焉の場所は決まった。水路から外れた『ヴァージニア』は、静かに水底の砂へ艦底を食い込ませる。軽い振動があり、艦は停止した。もう、二度と動くことはない。
「提督、擱座しました」
「うむ、ご苦労だった。乗組員を順次上陸させてくれ」
「はい…」
2隻のカッターが下ろされ、砲兵隊員たちが陸へ送り届けられる。『ヴァージニア』の吃水を反映して、陸まではけっして近くない距離が残っていたから、カッターは漕ぎ手を交替しながら、何度も陸と『ヴァージニア』とを往復しなければならなかった。
しらじらと夜が開ける頃、最後の兵を乗せたカッターがようやく艦を離れた。タットノール提督は先に上陸して、部隊の一部を先行させるべく指揮にあたっている。近くに敵がいるかどうか、情報は何もない。
艦の処分を任されたジョーンズは、弾薬庫へ導火線を引き、しばし感慨にふけっている。一応、この艦は建造された目的に合致した性能を示し、それなりの戦果を挙げた。3月8日には、敵味方ともが、その無敵ぶりに震撼したのだ。しかし、無敵だったのはわずかその1日だけで、『モニター』が出現したために、その存在は大きく薄められてしまっている。
あの日、引潮とともに戦闘を打ち切った後、ゴスポートへ戻る決断をしなければ、また違った結末があったかもしれない。様々な不利ばかりを目の前に積み上げ、気弱な結論を出さなかっただろうか。あのまま戦い続けていれば、少なくともこんな不面目な最期を、この『ヴァージニア』に与えることはなかっただろう。こういう結末になると知っていれば、あの日、結果を得ないままに帰るなどという決断は、しなかったに違いない。石を積んででも、戦い続けることはできたのだ。
炎の中からよみがえりし大鷲は、焼かれた翼を捨て、その身に鎧をまとうた。
いかつい嘴は鷹を捕らえ、鋭い蹴爪は白頭鷲の腹を引き裂く。
突如踊り出た敏捷な獣とは、牙と爪を激しく撃ち合わせるものの、長い戦いはともに鎧を破れず、ついに雌雄を決しなかった。
四方を囲まれ、翼をなくして飛べぬ大鷲は、自らの身に火を放つ。孤高の誇りを保つために。
結果として、自分たちは生きており、『ヴァージニア』は死ぬ。これにどういう違いが有り得たにせよ、いまさら書き換えることはできない。過去にイフはないのだ。いつまで悔やんでいても、どうなるものでもない。ジョーンズは手に持った導火線の切れ端にランプの火をつけ、パチパチとはぜる火を確かめる。ひと息おき、屈みこんで火を甲板の導火線に移す。まったく同じように、両方の火は進みはじめた。
二つの同じ火が、よく似てはいるものの、まったく違った結末へと繋がっている。一方はすべてを消してしまう爆発へ続き、もう一方はどこへも繋がっていない。まるで俺たちの未来みたいだな。
ジョーンズは導火線の切れ端を海に捨て、カッターへ移ると、『ヴァージニア』に背を向け、振り向くことなく艇尾に腰を下ろす。
「ジョーイ、出発だ」
滑るようにカッターは進みはじめる。号令に合わせてオールが水をかき、岸へと向かっていく。陸まで行けば十分に安全距離だろう。それほど遠くで、『ヴァージニア』は尻をついたのだ。あの吃水は、最後まで足を引っ張ってくれた。
1862年5月11日午前4時30分を過ぎた頃、夜明けの直前に、『ヴァージニア』は爆発した。7トンあまりの火薬が、火山を思わせるような火柱を噴き上げ、長さが10メートル以上もある巨大な装甲壁の一部は、元あった位置から200メートル近くも空を飛んだ。地響きが伝わり、津波のような大きな波紋が広がって、海岸に打ち寄せる。南部連合海軍の勝利の象徴は、ここに潰えたのである。
火柱が消え、後に残る巨大な煙の柱が、きらめく朝日を遮っている。『ヴァージニア』があったあたりには、たくさんの木片が浮いていた。人々はじっとたたずんでいる。
砲兵隊に整列を命じる号令が叫ばれ、隊伍を整えた陸軍は、足並みを揃えて行進を始めた。その後ろを、三々五々、ルーズな塊になった水兵たちが続いていく。馬車どころか馬の準備もなく、士官たちも歩いて西へ向かう。斥候は20キロほど先に、ヒューガー将軍の隊列があると知らせてきた。
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