ヴィースバーデンの時計 SMS Wiesbaden and The Watch 1916-5-31 |
●第一章・凱歌・その3
太陽の方向から見て、針路はほぼ南東。前方には巡洋戦艦の隊列がいるのだが、ここからでは艦の煙突が邪魔になって、わずかにたなびく煙が見えるだけだ。右舷前方に見える煙はまだ遠く、動きははっきりしない。時間は16時30分を過ぎている。蓋を閉じた時計を握りしめ、幸運を託す。
「艦橋から砲側へ。右舷の煙は敵巡洋戦艦6隻。発砲は控えよ」
情報を聞きつけたのだろう、艦内で休憩していた砲員がぞろぞろと出てきて、砲を煙のほうへ向けている。まだ届くような距離ではない。
「各砲、命令あるまで射撃するな!」
「見えました! 三脚檣です」
「距離は?」
「つかめません。ぼんやりしていて」
「代われ!」
リヒャルツ中尉を押しのけて、測距儀に目を押しつける。確かにぼんやりとした山形の影が見え、その形は識別図の「戦艦級の大型艦」に見えるけれども、確信は持てない。距離を計ろうにも、こうぼやけていてはどうしようもない。測距儀を右へ振ると、すぐ脇に別な影が見える。こちらは形すらはっきりしない。その右にはさらに小さな霞んだ影がある。
これはつまり、敵の艦列がこちらを向いていて、その列を斜め前から見ているということだ。交差方位を取っているか、こちらの前へ回り込もうとしているかまでは判らない。そのすぐ手前に小さな煙の列が見える。敵の駆逐艦だろうか。その煙が邪魔になり、巡洋戦艦の姿ははっきり見えない。
「よし、代われ。できるだけ追尾するんだ。左舷、後方の見張り諸君、見たいのは山々だろうが、持ち場から目を離さないように。突然、後ろからブスリは嫌だからな」
いくつかの返事が返ってくる。戦闘に見とれていて、反対側の敵を見ていなかったというのは、けっして珍しいことではない。特に艦隊のしんがりになった場合、これは非常に重要な問題だ。今は後ろに味方がいるから、そう神経質にならなくてもいいが。
「距離、およそ180ヘクトメートル」
「続けろ。頑張らんでいいぞ。どうせ届きゃしない」、カチコチになっているリヒャルツの肩を叩く。
「それとな、こういう場合は、距離よりも方位の変化に注意するんだ。その変わり方で、衝突進路にいるのか、前へ入られるか、後落しているかが判る。今の方位はどうだ?」
「ほとんど変化していません」
「それはつまり、衝突進路にいるということだ」
当然に教わっていることであり、航海術としてはごく基本的なことである。忘れていたというより、頭の中で両方が繋がっていなかったのだろう。リヒャルツの顔に理解が見える。
28センチ砲の戦闘距離でも、15センチ砲の最大射程である176ヘクトメートル以下ならば砲弾は届くだろうが、めったに当たりはしないだろうし、巡洋戦艦の射撃観測の邪魔になるから、撃つのは無意味などころか有害ですらある。艦橋も撃つなと言っていた。
敵の数はしだいに増えている。針路を変えたらしく、間隔が開いて、ひとつひとつの影が横に長くなってきた。平行に近い針路になったということだ。前に回り込まれる対勢ではない。まだ交差する針路に乗っているようで、影は徐々に大きくなってくる。
このまま接近すれば、距離が近くなりすぎて凄まじい戦いになるだろう。適当な距離をおいて砲戦をしようと考えるとき、どちらがどちらの針路に合わせるかで、対勢は変わる。イギリス側がこちらの針路に合わせれば、彼らのほうが若干前に出ることになり、ヒッパー提督がそうすれば、ドイツ側が前を走ることになる。これには、最終的にどこへ向かうのかという問題があるから、事は単純ではない。北海は狭く、全速力で走れば半日で陸地にぶつかってしまうのだ。
先にビーティが動いた。針路を南東に変え、ヒッパー提督より前を走ることを選んだのだ。こちらよりやや斜め前方に展開する敵艦隊は、それでもまだ接近するコースにあり、しだいに姿がはっきりしてくる。総勢6隻。
前3隻が『ライオン』級で、次がおそらく『タイガー』、その後ろにいる2隻は、煙突の間隔からして『インデファティガブル』級だろう。個々の艦までは識別できない。『インヴィンシブル』級の3隻と、『インデファティガブル』級1隻の姿が見えないことを、忘れないようにしなければ。まあ、10隻もいれば、1隻くらいはドックに残っているとしても不思議ではないが。
そろそろ敵の34センチ砲からの射程に入っているはずなのに、なぜか敵は撃ってこない。こちらの測距儀は連続的に距離を計っている。前方の巡洋戦艦隊が右へ一斉に針路を変え、梯陣となった。両艦隊は急激に接近していく。敵の射程に入ったと見たヒッパー提督は、一気に間合いを詰めるつもりだ。『ヴィースバーデン』は針路を変えず、巡洋戦艦隊の真後ろを過ぎて、非敵側へ向かっている。
「敵までの距離170ヘクトメートル…あまり自信はありませんが」
測距手を交替させ、それぞれに敵艦列を見させる。初めて見る敵艦に、若者たちは興奮を抑えきれない。それでも、敵艦の姿を見慣れておくということには意味がある。それぞれに距離を出させ、評価してやる。
いい訓練、というようなのんびりした状況ではないけれども、実際にそうであるには違いない。そろそろこちらの巡洋戦艦も射程に入るだろう。それにしても、射程に勝るはずの敵は、なぜ発砲してこないのか。
双眼鏡を持ち上げ、敵艦を眺める。砲塔は幅が狭くなっており、明らかにこちらを向いている。撃つ気がないわけではないらしい。考えながら双眼鏡を下ろす。
「『フォン・デア・タン』が発砲しました!」
ビーティ、ヒッパーの両艦隊が砲撃戦を始める直前の対勢で、第二巡洋戦艦隊は、一時南西に針路をふってビーティ隊の後方へ続いている。
その直後、ビーティは艦隊の隊形を変えるのだが、これが複雑な艦隊運動になったため、混乱に近い状態になった。この図はほぼそのときの状況である。
エヴァン・トーマス提督率いる『バーラム』に続く第5戦艦戦隊は、まだドイツ艦からは見えていない。
北西へ向かって逃げていた英軽巡洋艦8隻は、反転が遅れてこの図の左上あたりにいる。
ビーティ艦隊の変針の際、信号伝達に齟齬 (そご) があって、第五戦艦戦隊は変針が遅れ、通常の距離である5カイリの間隔が、10カイリ近くにまで広がってしまいます。この変針遅れはしばしば、ジュットランド海戦考察における、大きな命題のひとつとされます。 |
艦首側を振り向くと、右斜め前の巡洋戦艦は思ったより近づいており、その姿がはっきりと見えている。船体の向こう側にはもうもうたる煙の塊があり、主砲の斉射が行なわれたのは見間違えようがない。次の瞬間、轟音が波頭を伝わってきた。ズシンズシンと腹に響く音だ。これがもっと離れていると、ゴロゴロという雷のような音になる。
パチンと蓋を開き、時計を見る。時刻は16時48分。着弾までどのくらいか。28センチ砲の射表がここにあるわけではないから、その瞬間は判断できない。15センチ砲での最大射程の飛翔秒時を読み、おおよそと勘を付けて着弾を観測させる。
「測距儀、敵の5番艦を観測せよ」
そう命じておいて、自分はしんがりの敵艦に双眼鏡を向ける。向こうは6隻、こちらは5隻、『フォン・デア・タン』は、このどちらかを目標にしているはずだ。
「見えません。…まだ見えません。…敵が発砲しました!」
とっくに予想した時間は過ぎた。『フォン・デア・タン』の砲弾はどこへ行ったのか、こちらにも水柱は見えなかった。狙った的が違ったのだろうか。あの2隻ともを、誰も狙っていないなどということがあるだろうか。
敵の発砲を追いかけるように、『フォン・デア・タン』は次の斉射を放った。すぐに時計の秒針を確認する。もうすぐ、敵の砲弾が着弾するはずだ。まさか1発目から命中しはしないだろうが、どのくらい正確に狙っているのか判るだろう。もうそろそろだ。
着弾がない。どこにも水柱が立たないのだ。空砲じゃあるまいし、どうなっているんだ?
「水柱です。前方」
左舷側の見張りが叫んでいる。煙突の反対側へ出てみると、崩れた水柱がいくつか見えた。『フォン・デア・タン』からはずいぶんと離れている。何を狙ったのだろう。非敵側を走っている『レーゲンスブルク』のほうが水柱に近いくらいだが、手前にいる巡洋戦艦を無視して、遠くの軽巡洋艦を狙うわけがない。
敵の観測手が見間違えている可能性はある。測距儀は視野が狭いから、指示された方位が間違っていると、正しい目標を見つけられないこともあるのだ。
「下手…なんだろうか」、見張りの水兵の独り言か。
「たぶんな。あれが『フォン・デア・タン』を狙ったのなら、ずいぶんとお粗末な射撃だ」
びっくりしたように振り向いた顔に微笑みを返し、自信のほどを見せる。これなら勝てるさ。
急いで右舷側に戻り、『フォン・デア・タン』の着弾を見る。また水柱が見えない。どうなっているんだろう。なにか狐につままれたかのようだ。
「大尉…多分、水柱が見えたと思います。ほんのちょっとでしたが」
リヒャルツの声に戸惑いがある。射撃訓練では、着弾が見えないなどということには経験がない。
「どういうことだ?」
「ずいぶんな遠弾のように思えます。よく見えないので…」
敵もかなりの遠弾だった。
「距離は?」
「150から155くらいと思いましたが、はっきり測れませんでした」
「水柱です!」
また左舷側の見張りだ。敵もいいだけ遠くを撃っている。何が起こっているのだろう。
『ヴィースバーデン』は、『フォン・デア・タン』を右斜め前に見るようにして、その後方に続いている。全体が速力を落としているので、艦尾側には、はるかに離れていた第二偵察艦隊の僚艦3隻が追いついてきている。『ヴィースバーデン』は、本来あるべき位置、主力の前方に位置するために、隊列を追い越さなければならない。
とはいえ、あまり主力の近くを通るのは賢明ではない。あのヘタクソな射撃では、狙っていない的に当たるかもしれないのだ。さっきの砲弾は、ほとんどこの艦の真正面に着弾していた。
敵艦隊が針路を変えているようだ。シルエットの形が変わり、間隔も変化している。どのくらい向きを変え、どちらへ向かうのか、簡単には把握できない。
「夾叉しました!」
「代われ!」
リヒャルツを押しのけて測距儀を覗くと、敵の巡洋戦艦のしんがり、煙突の間隔からして『インデファティガブル』級と思われるシルエットの手前に、水柱がほとんど崩れるところだった。ダイヤルを操作し、ここぞと思うところで指標を読む。152ヘクトメートル。巡洋戦艦からなら20ヘクト以上近いことになる。ずいぶん近付いているな。
そうか、接近率を読み間違えていたんだ。二つの艦隊が、考えているよりずっと深い角度で接近していて、距離の詰まるのが速かったのか。それで、奇妙に遠くへばかり砲弾が落ちていたわけだ。
イギリス艦の砲弾は、まだ『フォン・デア・タン』にはとうてい当たらないとしか思えない位置に着弾している。その敵艦、艦列の最後尾の艦をまた、『フォン・デア・タン』の砲弾が夾叉した。もう、いつ命中してもおかしくない。
じっと測距儀を覗きこむ。本射になれば、28センチ砲でも20秒おきに発砲する。発砲の音はひっきりなしに聞こえてくるが、どれがどの艦のものか、聞き分けられはしない。もう着弾するはずだ。
「当たった! 命中したぞ!」
思わず声が出る。間違いなかった。水柱と一緒に小さな赤い火が見え、煙が上がった。後部の砲塔あたりだ。もうちょっとはっきり見えれば、何がどうなったか判るだろうが、ぼんやりとした影の中に閃光が見えるだけでは、敵の被害までは推し量れない。
周囲に歓声が上がっている。左舷の見張りの連中も、今はこれしか見ていないだろう。腹の中で数えていた数字が20を越えた。23、24、また、小さな赤い火。
「また命中したぞ!…ああっ」
ぼんやりした影が、突然倍ほどに膨れ上がった。船の形が崩れ、大きな丸い物体に変わっていく。突然それが、真っ黒な煙の塊だと気付いた。オレンジ色の火の玉が煙を吹き払い、海面を照らし出す。
測距儀から顔を離し、肉眼で敵艦を見る。びっくりするほど小さな姿の上に、赤い火の玉が見えた。すぐに測距儀へ戻る。
何か四角いものが、海面から斜めに突き出している。それが敵艦の艦首だと気付くまでに、何秒か時間がかかった。こんな光景を見るのは生まれて初めてのことであり、何が起こっているのかを理解できないのだ。
「敵艦が…爆発した?」
「そうだと思います。そうに違いありません。やったぜ、『フォン・デア・タン』!」、リヒャルツは有頂天だ。
確かにそうなのだろう。空中に突き出した四角い艦首は、奇妙に形を変えて先すぼまりの尖った形に変わった。…転覆しているんだ。あれはもう、助からない。
「やったぜ! すげえ!」
周囲の水兵たちは、口々に騒いでいる。
「静かにしろ! 見張りを怠るんじゃない」
そう言いながらも、自分は測距儀を沈没していく敵艦から離せなかった。すでに空中に突き出している部分はない。影はものすごい量の煙に包まれ、船の形はどこにも見えなくなってしまった。そこへ地響きのような爆発音が聞こえてくる。およそ50秒も前の音。
顔を上げると、兵たちは皆、これ以上ないほどの喜びを満面にたたえている。皆が吹き飛んだ敵艦に強い感銘を受け、強烈な印象を覚えているのだ。下の甲板では、砲手たちが舷側に並び、煙を指差しては口々に何かをしゃべりあっている。大きな声が下から聞こえた。
「砲術長殿、何が起きたのでありますか !?」
俺は次席だよ、ワイス掌砲長。だいたい君の持ち場は左舷の砲だろうが。まあ、今は気分がいいから見逃してやろう。息を溜めて、
「…敵の巡洋戦艦が爆発したんだ! 『フォン・デア・タン』が、敵を吹き飛ばしたんだ!」
ウオーッと大歓声が上がる。乗組員は拳を突き上げ、口々に『フォン・デア・タン』の手柄を祝っている。とりあえずヒマな巡洋艦の上では、祝勝会でも始めそうな勢いだ。
時計を見れば、時刻は17時を過ぎたばかり。敵艦爆沈の正確な時刻は見損ねた。蓋の裏の名前をなぞり、口の中でその名に幸運を感謝する。帰ったら話して聞かせることがいっぱいあるな。
リヒャルツの目が赤い。感激に興奮しているのだろう。
砲撃戦を始めた両軍巡洋戦艦隊は、それぞれの思惑があって種々に針路を変えている。
この図は、ちょうど『インデファティガブル』が爆沈したときの位置関係を示している。
十分に接近したとみたビーティは、艦隊を東南東へ向けるものの、このときに複雑な艦隊運動を命じたため、せっかく射程に入ったヒッパー艦隊を射撃する好機を失ってしまいました。距離を見誤り、まだ射程に入っていないと考えたともされています。 |
「凄かったな」
「見事でした。『フォン・デア・タン』生涯最良の日ですね」
「そうだな。…ん、どうした?」、戸惑ったような水兵が、こちらを見ている。
「後方に敵艦…のようです、大尉。『フランクフルト』が砲撃を受けています」
奇妙な報告だ。後方に敵艦?
「135…140度近くです。発砲閃光が…また、見えました!」
キラキラッと、何かが光っている。何か大きな軍艦がいるらしい。測距儀を回してみるが、何も見つけられない。測距儀は正確に目標へ向けなければ何も見えないのだ。リヒャルツに測距儀を渡し、観測を命じる。
今、ここには敵の巡洋戦艦隊がひとつ足らない。一番旧式の艦からなる艦隊が居ないのだ。おそらくそれだろう。離れていたのが追いついてきたのか。
両艦隊が遠ざかるような運動の直後、離れはじめた距離に反比例してドイツ側の射撃は正確になり、『フォン・デア・タン』の斉射が『インデファティガブル』を夾叉します。17時03分、『インデファティガブル』の弾薬庫に誘爆が起こり、大爆発とともに数分のうちに沈没しました。 |
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