英露戦争危機 1
The 1884 crisis of war (1)




英露戦争危機

 明治17年から18年 (西暦1884年から85年)、ちょうど隣国は対仏戦争の災厄に呻吟し、明日は我が身と日本が冷汗を流していた頃、クリミア戦争以来対立していたイギリスとロシアは、戦争一歩手前まで関係を悪化させていました。
 1877年に露土戦争でトルコを屈伏させながら、列強の干渉によって条約を撤回させられ、南への出口を塞がれたロシアは、その矛先を中央アジアへ向けていたのです。
 今般のソビエト連邦の消滅に伴い、中央アジアでは民族自治を掲げた多くの国が独立しましたが、彼らがそもそも独立を失ったのは多くこの時期だったのです。ユーラシアの陸奥での出来事に、牽制や威嚇を行うだけだったイギリスも、その先鋒がアフガニスタンへ達するに及んで、インドへの脅威を正面から受け止め、対策を講じはじめました。

 黒海からの進出を阻まれたロシアは、次の出口をアラビア海へ求めたわけです。当時の中央アジアにおける治安、交通路状況を鑑みれば、ここに安定した回廊を求めるのは難しいと思われるものの、できてしまってからでは手遅れになるので、イギリスはロシアの前線が海岸線へ近付くにつれ、態度を硬化させていきます。
 この時の対立は、19世紀後半のイギリスとロシアの間に生まれた危機の中でも最大のものとされ、一時は一触即発の状況にまで至りました。

 今回ここに紹介するのは、そのような世界情勢の中、日本の港で起こった両国軍艦の「鞘当て」とも言える椿事です。ひとつ間違えば、日本が両国間戦争の発端の場所となった可能性もあり、非常な緊張が読み取れるでしょう。また、局外中立という立場をとるのがそれほど簡単ではなく、唱えれば成就するような軽薄なものでないこともお判りいただきたいところです。また日本自身、朝鮮での事件を巡る清国との対立の渦中にありました。

 以下の文中、 (…) でくくったものは原文の注記。 [斜体] は私の付した注です。

 ここにある日付はすべて1885年(明治18年)ですが、歴史上この戦争危機は、それが始まった1884年の西暦を冠して呼ばれていますので、ここでもそれに倣っています。




東京日日新聞より・英露緊張に関連する記事抜粋

明治18年1月30日 (金)
英国議会におけるブラスシーの演説 [ブラッシーか?]

 我が海軍の現状、および海軍の政策について、いささか小見を述べるにあたり、各国軍艦の詳細な比較を示そうとも考えたのだが、非常に困難と思われるので、ここでは英仏両国の装甲艦を対比してみる。
 イギリスは1885年になれば、最新式の装甲艦30隻 (210,403トン) を保有し、フランスは19隻 (127,828トン) を所有するようになるだろう。また、半廃艦 [予備役もしくは旧式艦の意か?] の数は、イギリスにおいて16隻 (115,520トン) 、フランスは12隻となるはずである。また、イギリスは「ターレット」艦5隻 [モニターのことか? 砲塔艦ならばもっと多い] 、フランスは3隻を備えることになる。

 およそ我国で最近建造されている戦艦は、速力16ノットを常とし、45トン砲 [12インチ後装砲] 、あるいは63トン砲 [13.5インチ後装砲] を装備している。中には100トン砲 [不明] を備えるものまであるのだ。 (上記の砲は、みな他海軍のものより巨大である)
 また、非装甲艦の完成しているものは33隻で、合計トン数は89,650トンに及ぶ。13ノット以上の速力を持つ巡洋艦は特に重視されているもので、砲力、速力は増強されつつある。水雷艇に至っては、我が国の技術進歩は他国の追随を許さないものの、これは沿岸防御に用いられるもので、洋上では使用できない。
 当局者が常に意識しているのは、装甲艦の増加とその整備であり、その状況は前述したとおりだが、最近は外国海軍の充実が著しく、十分とは言えなくなってきた。
 我が国の膨大な貿易を保護するためには、さらに予算の増大を求め、海軍を拡張しなければならない。ここにあって、私はただちに一等装甲艦ならびに装甲巡洋艦 [Belted Cruiser] を増加し、別に水雷艇の小艦隊を設けるべきと主張する。我輩が通常の予算の他に310万ポンドを支出するよう求めるのは、以上のような理由による。

 この金額ならば、一等装甲艦1隻、装甲巡洋艦5隻、水雷衝角艦2隻、偵察水雷艦10隻、水雷艇30隻 (水雷艇は毎年10隻を建造すべき) を建造できるが、我が海軍省の計画はこれにとどまらず、通常予算の他に一等装甲艦4隻を建造しようと考えている。うち2隻は海軍工廠で、2隻は民間造船所で建造させ、いずれも18インチの装甲鈑で防御され、110トン砲 [16.25 インチ後装砲] を備えて、15.5ノットを発揮させようというものである。
 装甲巡洋艦3隻は、その建造に遅れを取らないため、すでに2隻は建造中である。また偵察水雷艦10隻、水雷艇数隻も起工されようとしている。
 海軍省の計画はこのようなものであるが、現在建造中のものは、その完成を早め、1885年ないし1886年に29,810トンを増加させようとしている。

 最近、我々の石炭積み入れ地の保護はさらに切実となっており、その状況を見れば、一等石炭地の警備には976,871ポンドが必要であって、そのうちインドおよび植民地における経費は33万ポンドに及ぶ。また二等石炭地にはおよそ15万8千ポンドが掛かっている。しかしながら、保護を必要とするのは石炭地ばかりでなく、貿易港もまた我が政府の保護を必要としているのである。この他、海軍砲の製造に必要な費用は160万ポンドに及ぶ。
 以上、概説した軍艦建造費、大砲製造費、及び石炭積入地保護費などは、みな条規外の経費であるから、今後5年間に渡って支出すべきである。…うんぬん [原文ここまで]

 100トン砲には該当のものがありません。当時最大の16インチ前装砲は80トン砲で、100トン砲はイタリアに採用された17.72インチ (450ミリ) 前装砲です。これと同じものは、ジブラルタルの要塞に配備されていましたが、英国艦でこれを装備したものはありません。




明治18年2月1日 (日)
軍備は平和の後詰なり

 我が輩は昨今英国の新聞に接して、その国論がひとつに海軍拡張へと集まっているのを見るにつけ、その国権を維持するのに熱心な様に感じないではいられない。かのイギリス海軍は雄を称すること久しく、欧州大陸に十万の軍勢を持つ国が少なくないとは言っても、海上においてイギリスに一歩を譲る最大の力は、重装甲艦の数が非常に多く、他国が敵し得ないからでこそあろう。
 しかるに、最近フランスにおいては海軍拡張に力を入れて、装甲艦、巡洋艦の数を増やし、その勢力をイギリスに匹敵させようとしている。これを見たイギリス国民は、皆心安からぬ想いをしている。こうなっては、イギリスは海上第一位の地位をフランスに譲ることになるかもしれず、そうなれば大英帝国の国威は光輝を失い、東西諸州に散在する領地は保護をおぼつかないことになる。実に由々しき事態であると論じ合っている。

 中には英仏両国の海軍を比較し、その優劣を批評する者あり、あるいは攻守の形勢を観察して、その難易を議論する者もある。はなはだしいのは、現在の軍艦ではフランスに対抗できないから、ただちに軍艦を倍増させなければならないとまで言い出して、もっぱら海軍の拡張にのみ熱心である。
 しかしながら、我が輩が局外から傍観するところでは、今のイギリス海軍はどこと言ってフランス海軍に譲る部分を持つわけではない。また、現在の英仏両国の関係は極めて友好的なもので、いささかも両国を離隔するような争い事はない。なぜ、今、にわかに軍備の競争をする必要があるだろうか。
 イギリス国民が熱心に海軍を拡張したがるのは、ただ海軍の拡張が太平無事な今日を導くものであり、海軍に覇を唱えなければ国威を維持できないと考えているからであろう。平和の維持は海軍の充実にこそあると言うのではないか。

 我が国を顧みると、識者は陸海軍軍備を拡張することが、我が国の権威を保障し、平和を固めるのに必要であると軍備拡張論を主張する。廟堂においてもこのことの必要を理解して、ここ数年来拡張を計画し、ようやくその緒に就いたところである。
 しかしながら、世間に目を向ければ、常に政治論議に熱中する論者も、このことには冷然として意に介さないように見える。中には国事多忙の今日、軍備の拡張は無用であると反論するものまであるのだ。さらに軍備の盛衰は国権の隆盛の表れであるのに気付かず、我が輩が拡張に熱心で廟堂の国是を称賛するのを攻撃して、国金を浪費する者のように言う輩もあるのは、読者もよくご存じであろう。
 同じ論者は、一旦朝鮮事変が起こったのを聞けば、腹を立てて清国の行状を不問に付すべきではないとし、要求を呑まないのであれば、ただちに戦争に訴えるべきだと大声で吹聴している。この開戦論者は、すなわち昨日の軍備非拡張論者である。
 我が輩は、朝鮮事変において清国に対し、問うべき確証があり、条理があるのだから、もとよりこれを不問にしていいとは考えないが、和戦の選択は彼等に任せて、もし彼等が戦争を求めるのであれば、その不幸も敢えて厭わないと論ずる。

 我が輩は普段、軍備の拡張を主張するものであるが、開戦を簡単には考えていない。それなのに常には軍備拡張を嫌う人が、今日には主戦論者とはいったいどういうことなのだろうか。それならば普段から軍備の拡張を論じればよいではないか。
 現在の我が陸軍は、予備役を招集してもその数は二、三万よりは多くない。海軍が実際に運用できる軍艦は十五、六隻よりも多くないのだ。これが実に、我が日本帝国の軍備なのである。清国を見れば、その将校兵士の勇怯、兵器の精粗を第二のこととすれば、不十分ではあっても、まず一通りの防御は準備があると考えられる。もし、開戦論者の言うように遮二無二清国の罪を言い立てて攻撃しようとすれば、いったいどこへ向かって攻撃すればいいのだろうか。

 フランスが現在行っている台湾占領のような戦略は、土地を侵略するには得策であろうが、要求を達するためとすれば老象の尻辺を叩くようなもので、いたずらに兵を疲弊させるだけである。一直線にその喉首を締め上げるような戦法を採らなければならない。
 このためには艦隊を渤海へ進め、太沽の砲台を打ち壊して陸兵を揚げ、北京に攻め入って城下の盟を成させなければならない。これを実行するためには、清艦を沈め、砲台を破壊するに足りる艦隊が必要であり、陸軍は少なくとも1軍団5万の兵を要するだろう。数隻の艦隊、数千の将兵では、いくら日本陸海軍が戦いに長じ、勇敢であって一能く十に当たれるにしても、僻地ならばともかく、直隷山東においては決して十分とは言えない。いわんや海軍に至りては、彼等はすでに我々に伯仲するだけの準備をなしている。

 こう言ったからとしても、我が輩はもとより長井の斉藤別当を学び、敵を称賛して我が身を貶め、士気を阻喪させようとしているのではない。やむを得なければ1軍団も2軍団も繰り出し、国力を挙げて勝利を求め、勝算は必ずあると信じている。ただ、清国を敵として開戦するのは、軽々しい問題ではないのを理解しているのだ。
 現に、清国が陸上においてはネグリエー将軍に東京を破られ、海上にてはクールベ提督に福州を破られたのを見れば、その技量もたいていは推し量れるもので、恐れるほどでもないと見えるから、ただちに開戦すれば勝利はこちらの目算どおりになるかもしれない。それでも、その一事だけをとらえて陸海軍備が十分であるとは、どうにも同意できないところなのだ。我が国の現在の軍備においては、東洋に雄を称するには遠く足らず、いわんや欧米諸国に対して侮りを防ぎ、国威を保持するにはとうてい届きもしない。
 清国に対する今回の案件は、平和に帰着する形での戦いの如何を論ずるべきだが、キリのないようなことだからこれで終りにする。論者に望もう、もしも事ある時に開戦を論じるのであれば、まず普段に軍備の拡張を主張するイギリス国民の海軍におけるように、平和の後詰たらしめることに努めるべきだ。それが、我が輩が開戦論者に希望するところである。

 明治18年は日清戦争からもまだ10年近く前です。清国に対するフランス戦略の批判は、後に専門家によって行われたそれと軌を一にしています。




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