清仏戦争・福州海戦 1 Battle of Foochow : 1884 (1) |
清仏戦争・福州海戦の新聞記事
今回は、1884年 (明治17年) に行われた、当時の清帝国とフランスの戦争について述べてみましょう。これはかつて掲示板に連載したものですが、見ることができなくなっていました。
事の発端は、現在のベトナム北部に対する宗主権を巡る争いで、この戦いに勝ったフランスが、ラオス、カンボジアに続いてベトナムを保護国としたことから、第二次大戦時に日本軍の進駐したベトナムが、フランス領だったのです。
この状態は戦後、旧に復しきらず、北ベトナムの独立がフランスを南部へ撤退させ、共産化を嫌って肩代わりしたアメリカとの間で戦われた、かのベトナム戦争へと繋がっていきました。
この戦争について、日本語の一般的な中国史では、ごく簡単な記述にとどまっています。フランスの文献は見ていません。清国は滅びてしまいましたから、文献があっても、私などには手も触れられないと思います。また、当事者による脚色、潤色の恐れは排除できません。ですから、戦争の経緯などについては、興味のある方がご自分でお調べになることを勧めます。
ある意味、近隣にある中立国として、ヨーロッパ列強の軍事力を「明日は我が身」の面持ちで見つめていた日本が、最も客観的かもしれません。それでも文献はいくらも存在しないようなのですが、たまたま当時の新聞記事に福州海戦の詳細が述べられていました。外交交渉の記事などもあり、この戦争への危機感、野次馬的な興味、そんなものが新聞の行間から読み取れます。そこで、この新聞記事の一部を紹介してみようと考えたのです。
しかしながら、当時の新聞は言葉遣いが古く、そのままでは非常に読みづらいので、ここでは現代文に改めています。これからご紹介する現代文への置き換えに誤りがあれば、それは私の責任です。原文にあたりたい方は、ご案内いたしますので、それなりの場所で復刻版などを参照してください。最終回に当時の新聞の見出しを掲げるつもりです。これらの詳細を読めば、当時の日本世論が列強の軍事力について抱いていたイメージを、いくらかなりとも把握できるでしょう。
東京日日新聞記事より抜粋
福州戦報・明治17年9月3日 (水) 号・上海特報より
この記事は在上海の特派員から、去る8月27日の同地発広島丸便にて報じられたもので、福州の戦況をつぶさに報告しているから、是非ご一読いただきたい。ことに清軍艦『揚武 (ヤン・ウー) 』の働きや、クールベ提督の危機には見るべきものがある。
キールン (原文では鶏籠・現在では基隆) 砲撃後は、今にも両国が開戦するだろうと、各港は警備を強化して警戒心を強めていたが、幸いにどうということもなく、キールン砲撃は清国を脅かすに止まったようだ。去る23日正午には、上海が福州からの第一報を聞き、同地 (福州) にて同日ただちに開戦と言い、各新聞は号外まで発行してこれを伝えた。しかし、いまだに正式な開戦の報はなく、どうしたことかと思えば、翌日に掛けて続々と電報が届き、実質戦争状態にあると判った。
清国の軍艦は7隻が撃沈され、フランス軍艦は1隻が撃沈、2隻が損傷したと伝えられる。また、この戦いにおいて、 (戦闘開始は当初) 24日午前8時とフランス側から宣告されていたのだが、彼等は不意に攻撃を始めたため、清軍の敗戦報は数十を下らない。しかしながら、その発信人によっては清軍大勝とも言い、はなはだしいものに至ってはクールベ提督戦死と、その時刻、破損した軍艦まで一々伝えている。いずれ清国軍が勝ったのではなさそうだから、これらの電信だけではとうてい現地の形勢は把握できず、同地よりの船便を待つしかない。幸い26日に『大沽』号という商船が入港し、状況が詳らかになった。
23日、午後1時50分に最初の砲撃を始めたのはフランス艦『ヴォルタ』で、これは2時になって双方からの砲撃戦となった。この時、各国の軍艦や商船で羅星塔と蜘蛛島の間に難を避けたものは15隻に及ぶが、羅星塔より下流も、海に至るまで両国の戦場となった。
この時、フランス艦は11隻が在地している。これらの『デュゲイ・トルーアン』、 『ディスティンク』、『トリオンファン』は巡洋艦、『ヴィラ』、『ヴォルタ』、『スオン』は中等戦艦、『アスピック』、『ヴィヒエール』、『リンクス』は砲艦であって、他に水雷船が2隻あった。「その形捲雲の如く、甚だ猛鷲の者なりし (原文) 」
艦名と実際の艦種 |
フーチョウ=福州 Foochow マーウェイ=馬尾造船所(船政局) |
この11隻のフランス艦は、それぞれ清国の軍艦に接近して碇泊しており、船政局の砲台からは砲弾の届かないところにいた。また、清国の軍艦は9隻いずれも船政局の建造によるもので、船体はフランス艦に劣るもののクルップ砲を装備していて、威力は侮れないものである。この9隻の他には小型軍艦2隻、支那型戦艦2隻と無数の筏が用意されていた。これらの筏にはすべて油を用意しており、支那型戦艦もヤードに火薬包を取り付けて、敵艦に火をかけるべく準備していた。また水中には名前の判らない兵器も浮かべられている。
『ヴォルタ』の第一弾は『揚武』に命中し、同艦はただちに応戦した。両国軍艦は全砲をもって交戦し、2時15分には3隻の清国軍艦が砲火を浴びて沈没に瀕している。
『揚武』はなお抵抗をやめず、下流にいた『トリオンファン』は、『ヴォルタ』の手に余ると見て各国艦船の間を縫って接近し、『大沽』の至近から『揚武』に向かって発砲した。この砲弾はイギリス軍艦の近くに着弾しているが、幸いにも当たらなかった。
『トリオンファン』の第二撃は『揚武』に命中し、『揚武』は挟み撃ちの形になったものの、艦長は同艦を指揮してよく抵抗している。『揚武』の砲弾が『ヴォルタ』の操舵手に命中すると、その姿は粉微塵となって一毛も残さずに消え去った。クールベ提督はこの至近に立っていたが怪我ひとつなく、万死に一生を得たという。提督もいささか危険を感じ、水雷船をもって『揚武』を撃沈しようと、これを発進させた。
水雷船の接近を待つまでもなく、『揚武』はすでに大破し、半ば沈みはじめている。そこへ水雷が爆発したからひとたまりもなく、『揚武』はものの5分で沈没した。他の清軍艦も火災を発し、流れに乗って局外各国艦船の近くへと漂ってきた。先の筏にも火が着けられ、火災を起こした小型艦とともに流されてくる。その中の1隻はイギリス艦『グレンフィラス』にぶつかったものの、強い潮の流れに巻かれて沈んだ。他の1隻も同艦の艦尾に当たったが、何事もなく離れていった。
『大沽』も、これらの火船が至近距離に近付いたため、ただちに錨を捨て、後進してこれを避けた。これは弾薬に誘爆したらしく、ほどなく爆発して沈んだから、タイミングが悪ければ損害を受けたかもしれない。
また火災を発した小船が帆船『シンコルガ』へ接近したけれども、同船はとっさにこれを避けられず、イギリスの砲艦2隻がこれを排除している。撃破された清軍艦からは水兵たちが脱出し、フランス艦はなお彼らを狙撃したが、幸い局外各国の船舶はボートを出して彼等の救助に当たった。清兵の死傷はおよそ3千人に上るとみられ、フランス側は死者7名と言っているものの、そのうちの一人は水先案内人だと言う。
清軍艦の2隻は上流に逃げ、2隻は浅瀬に擱坐しているが、このうちの1隻には12の弾痕が見られ、もう1隻は無傷とされる。
居留地ではガトリング砲によって橋を守り、イギリス、アメリカの軍艦がこれを援護している。道台からは広東団兵が派遣されて各所を防備したから、フランス領事は平穏無事に済んだとイギリス領事に告げている。
『揚武』ヤン・ウー |
戦報拾遺・・・同じく明治17年9月3日 (水) 号より
羅星塔の碇泊所にあって、船内から戦闘を望見した人の報道を、北清日報が掲載している。おおよそは同じ内容だが、詳細な部分もあるので、これを翻訳し転載する。
8月23日土曜日の朝、『タークー (大沽?) 』船 (この記事をもたらした人が乗っていた船) の船上より望めば、フランスの軍艦は砲撃の準備を整え、砲手が整列している。清国の軍艦もまた同様であった。『タークー』船は戦闘が始まれば非常に危険な場所にいるので、ただちに蒸気を上げ、12時半頃には清国砲艦の前を回って安全な場所へと退いた。この船以外には動くものもなく、「港内外すべて寂として声無し (原文) 」
時刻は午後1時となり、商船では乗組員が日常の業務を始めた。午後1時半に至り、にわかにフランス艦から3発の砲弾を1秒の間に速射したのを合図にして、艦隊は皆、砲を清国軍艦へ向け、詰め替えの息つく暇もなく連射した。清国側もためらいなくこれに応じたが、最初に目標とされて集中砲火を浴びた砲艦3隻は、2時半には船体を撃ち抜かれて沈没してしまった。この時、1発の炸裂弾が『タークー』の近くに落ち、肝を冷やした。
沈みかけた2隻の砲艦は、潮に流されて『タークー』から3、4丁のところを通り過ぎてゆく。船体は燃え、砲弾が炸裂する。わずかに生き残った乗組員たちは、水に身を投じて九死に一生を求めるものの、清国の旗はなお檣頭に掲げられたまま翻っている。
戦いが始まってから5分ほどだろうか、フランスの『トリオンファン』が煙を吐いて川を溯ってくると、備え付けられた巨砲を清国軍艦に向けて撃ち出し、その弾丸は『タークー』やイギリス巡洋艦の間近をかすめて飛び去った。危険の極みである。
清艦『揚武』は、フランス艦3隻を相手として戦い続けていたが、散々に撃たれて抵抗もか細くなり、やがて水雷に撃破されて崩れ落ちた。
午後2時45分に、18トン砲を装備した清国砲艦1隻は、イギリス巡洋艦『グレンフィンラス』の船首に近付いて沈み、もう1隻もまもなく沈んだ。3時を過ぎる頃には砲声はしだいに少なくなり、数多の清艦が炎に包まれながら流れてくる。
燃料や石油、硫黄を積載していたり、檣頭に爆裂薬を装備しているこれらが、猛火を発しながら接近してくるのだから恐ろしい。1隻の清砲艦は、燃えながら『グレンフィンラス』に突き当たり、押し返されて『タークー』に近付いてくる。これは『タークー』の錨を切っただけで、2、3尺の近さを流れ去った。
これを見た汽船は、みな蒸気を上げ、錨を巻き上げて、火船の災いをかわそうとやっきになっている。6時に至って、1隻の焼け船が、『シンコルガ』号の舳先に引っ掛かって離れなくなった。イギリスの蒸気曳船などの助けを借り、『シンコルガ』はわずかに損傷しただけで危機を免れている。
7時半には、1隻の燃え上がった大型砲艦が羅星塔を回って流れてきたため、フランス艦はこれを砲撃して沈めようとしたものの上手くいかず、炎を上げたまま『グレンフィンラス』の間近まできて爆発し、そのまま沈んだ。『グレンフィンラス』も錨と錨鎖を失ったとされる。
他にも清国船の焼けたまま潮に乗って上下するものが多く、これらが皆沈んで火が見えなくなったのは、ようやく午前2時頃だった。
この戦いに挑んだフランス艦は9隻、水雷船2隻という。清艦は十数隻といえども、それなりの砲こそ装備しながら蒸気船としては芳しいものではなく、戦争とは言えないような戦いであった。清国側の死者は、種々噂があってはっきりしないが、およそ2千から3千に達するだろう。フランス側は戦死3人、負傷数人という。このうちの一人はイギリス人ということであった。
『グレンフィンラス』 |
この戦闘に参加したとされるフランス軍艦の要目 |
清仏戦争・福州海戦 2へ |
ワードルームへ戻る |