清仏戦争・福州海戦 2
Battle of Foochow : 1884 (2)


Chinese Fu-Po

清国軍艦『伏波』Fu-Po

 1870年代の進水になる国産の木造スループ。排水量1258トン、長さ61メートル、10ノット、16センチ砲1門、12センチ砲4門
 本艦は福州の海戦で大破したが、修理されて1890年代まで存在した。同型の『飛雲』Fei-Yuan、『済安』Chi-An は、同海戦で沈没している。



戦況目撃者の話・・・明治17年9月15日 (月) 、17日、18日各号
 福州の開戦について、今日までに得た情報は、細大なくおおむね本欄に記載して読者に伝えてきたけれども、当時戦場に最も接近して目撃した、『グレンフィラス』号士官の談話としてヨーロッパ報に掲載された記事は、最も詳細に渡り、まだ聞いたことのない話を含んでいる。そこでこれを翻訳して読者の覧に供する。この記事が確実にして詳細であるのは、彼の船が戦闘中のフランス艦に舷を接するばかりの近さにあって、つぶさに状況を観察できたからである。他の船からでは窺い知れない話も含まれている。

 8月23日午後2時より13分ほど前、第3列にあったフランス砲艦『リンクス』より、最初の一弾が発射され、ただちにこちら側のフランス艦列、あちら側の清国艦列からすべての砲が射撃を始めた。
 風がなく、砲煙は水面に漂って互いの姿が認めがたくなったものの、注意深く双方を観察すると、フランスの砲撃が清国の軍艦と砲台にどういう損害を与えたかが見分けられた。

 クールベ提督の旗艦『ヴォルタ』は、主として『揚武』を攻撃しており、『ワイペール』、『リンクス』、『デュゲイ・トルーアン』の3艦は、羅星塔の対岸である税関の前に碇泊していた清国砲艦に向かって攻撃し、『ヴィラ』、『デスタイン』の2艦は羅星塔の下にある丘の砲台を攻撃している。この砲台はたちまち大きな損害を被ったが、最後まで抵抗を続けていた。清国砲艦3隻のうち2隻は10分くらいの間に沈められ、もう1隻は『デスタイン』とともに下流へ流れ去った。
 この時あたかも、フランス装甲艦『トリオンファン』は溯航して戦闘に加わり、『グレンフィラス』の前を過ぎるやいなや、一斉に清艦へ向かって砲撃を行った。この射撃は見事なもので、砲の整備、砲員の訓練も行き届いていたとみえ、砲弾は残らず清艦の船体を撃ち抜き、たちまち沈没させた。わが艦は旗を揚げてこれを祝したが、彼等もまた、戦闘中にもかかわらず旗を揚げて、これに答えている。

 この時、我々の艦は最も危険な位置にあった。すなわち、羅星塔まで続く各国艦船列の先頭にあって戦場の中央に碇泊しており、フランス艦に最も接近していたからである。それゆえ、わが艦においてはすべてのボートに進発の準備をさせ、万一の状況に備えていた。幸い1発の流れ弾もなかった。
 フランス艦の射撃の雨注は驚くべきもので、ことにガトリング砲やノルデンフェルト砲の弾丸の雨は、そのほとんどが清艦に命中している。

 のんびりしていた時代と、言ってしまえばそれまでですが、戦闘中に挨拶しあっている姿は、どこか牧歌的です。前掲の記事と照合すると、この士官は『トリオンファンテ』の第一射には気付いていないようです。おそらく『大沽』が発砲地点に近く、砲弾が通り過ぎただけの『グレンフィラス』では、目の前の光景に気を取られていたのでしょう。


 戦闘後の夜半、『デスタイン』を訪れたが、その乗組員の言うところでは、我々の船は『トリオンファン』が沈めた清艦と撃ち合った時に、そのすぐそばにあったためにフランス艦の進退を妨げたそうだ。あの時には『トリオンファン』が目標にされたために、これに覆われた形になった我々の艦が無事だったと言わざるを得ない。あの折の凄まじさは、確かに筆舌に尽くしがたいものであった。

 大砲の耳を圧する轟音と、ガトリング砲の響き、負傷した清兵の叫喚の声、フランス兵の吶喊 (とっかん) が相和し、実に「天柱も折れ、地維も裂くる (原文) 」と思うしかない、壮観と言うか、最も恐ろしい観物だった。
 清兵の死傷する様、軍艦の焼かれ、打ち沈められる様のごときは、いまだに眼前に彷彿する惨状であったのだ。生涯忘れることのできない光景であろう。一時は我が身の危険をも感じたが、今にして思えば希有の経験だったとも言える。この時、わが艦は羅星塔からの避難者でいっぱいであり、上甲板にまで民間人が群がる状況だった。印象に残っているのは避難者の婦人たちで、弾丸飛び交う中にあって少しも騒がず、子供を膝下に置いて静かに耐えていた姿である。

 フランス艦『ヴォルタ』、『アスピック』、『ワイペール』、『リンクス』は、戦い合った清艦を焼き沈めた後、舵を転じて馬尾の沿岸に係留されていた清船を攻撃した。その時、2隻の砲艦が下流へ流され、馬尾の近くで沈没した。
 攻撃を受けた清の砲台や軍艦は屈せず、最後まで戦ったものの、その技量は低く、フランス艦にはまったく命中しなかった。『トリオンファン』に撃沈された砲艦が、沈没間際に最後の一弾を放ち、沈んでもなお、その旗を水面上に翻していたのも記憶に残っている。また清艦は、降る雨の如くに注がれる砲弾の下にあって、ことごとく国旗を翻し、少しも挫けていなかったのも称賛に値する。

 1隻の炎上した清砲艦が我々の近くを流れていく時、その甲板を見れば、大砲の周囲には多くの士卒が血まみれになって倒れていた。フランス艦の砲弾が炸裂して船体が燃え上がると、難を逃れた水兵は水中に飛び込み、あるいは岸へ、あるいは他の船へと泳いでいった。税関近くに碇泊していた清艦が撃破されると、その水兵たちは皆水中に逃れたが、フランスの『リンクス』と『ワイペール』は、彼等をガトリング砲で狙撃した。さらにフランス艦はボートを出し、泳ぎ去ろうとする清兵に追いつくや、これを切り殺している。我々はこれを、ただ見ているしかなかった。

 また、燃える船体にしがみつく清兵は、助けを請うて叫ぶのだけれども、いよいよ船が沈むのに助けも来ず、ほとんどは溺れ死んだ。清艦からの砲撃が止んでからも、30分ほどはフランス艦の砲撃のみが聞こえていた。最初に清砲艦が沈められてから、砲台が残らず沈黙するまで、およそ45分でしかなかった。馬尾近辺に碇泊していた軍艦が最もよく戦い、数隻のフランス艦を相手に、およそ1時間半も応射していただろうか。哀れ、彼等も最後には炎に焼かれ、下流へと漂い去っていった。
 羅星塔の丘の上に据えられたクルップ砲もよく戦った。絶えずフランス艦への射撃を続けていたが、高所にあるためにフランス艦も容易にこれを攻撃できずにいた。けれども、やはり最後には打ち破られてしまっている。

 この戦いで、『揚武』は清国の最も有力な軍艦であったが、もっとも手酷い戦闘を強いられた。フランス艦は数回これを砲撃すると、2隻の水雷火船を送り出し、これに船底を破られてしまったので、艦長は自らこれに火を放ったのである。
 清国側で最もよく戦ったのは、税関の前にあった数隻の砲艦と、馬尾村の前面にいた数隻の軍艦であった。

Spar torpedo attack

円材水雷を装備した水雷艇による、清国艦への攻撃

 一般にこの絵は、福州海戦での水雷艇による『揚武』への攻撃と紹介されていますが、どう見ても夜間の描写であり、船も水雷艇ではありません。おそらくこの絵は、次ページで紹介する寧波(石浦)での戦闘を描いたものと思われます。



 夕方6、7時頃、まだ沈まずにいた清国砲艦などが、火災を発したまま流れに乗って、一団となって漂ってきた。また火薬の類を搭載した清国の火船も流されてきた。これらは敵艦に火災を発生させるためのものだったが功を奏さず、かえって局外国艦船にとって危険となった。
 『グレンフィラス』もこれを恐れ、ボートや縄梯子を下ろしておけば火が着くかもしれないと考えてこれらを収容した。7時頃、1隻の火船がドイツのバーク型帆船『シンコルガ』に衝突してこれに火が着き、同船は煙に包まれた。近くにいたイギリス艦がボートを派遣して、これを引き離そうとしたものの上手くいかなかったが、燃上した『シンコルガ』の甲板では消火に成功し、この火船はイギリス装甲艦『ヴィジラント』の力によって引き離された。

 しばらくして、羅星塔の岬を回って大きな炎が浮かび上がった。これは炎上した砲艦であり、フランス艦はこれを砲撃して沈めようとしたが成功しなかった。これまた我々の正面まで流れ寄って、おおいに慌てさせられたけれども、果たせるかな横ざまに我々の艦に打ち当たり、炎を甲板の上にまで噴き上げた。幸いにしてこれは錨の上あたりで沈没したため、事なきを得ている。
 また1隻の砲艦は我々の舷側から20フィートのところで沈んだから、潮が変わった時にこれに乗り上げるのではないかと危惧された。そこで青色の灯火を点じ、これを避けるように計らっている。クールベ提督はこれを見て1隻の軍艦を派遣し、救助しようと試みたものの、これには我々の艦を曳航するだけの力がなかった。そこで『デスタイン』に乗る水先案内人に託して夜間に移動すべく考えたが、彼はこれを夜中にやるのは無理だと言う。やむをえず潮の満ちるのを待って碇泊位置を変えようとすると、沈没船の船体を動かしたらしく、我々はその沈没船の物品をたくさん拾い上げた。この時、錨鎖が切断して、錨をひとつと105 尋の錨鎖を失っている。

イギリス装甲艦『ヴィジラント』
 該当艦はありません
 香港政庁に所属していた艦の中には、『ヴィジラント』 Vigilant の名があるものの、これは外輪の通報艦 dispatch boat とされています。詳細はまったく判りません。

 他の記事などから、付近にいたと思われるイギリス艦は下記の通りです。
コルベット『チャンピオン』 Champion、砲艦『マーリン』 Merlin、『リニット』 Linnet


 翌24日朝4時、清兵は変装した1隻の水雷火船を放って、フランス艦を攻撃しようとしたが、フランス艦に見破られて追撃された。清艦が後ろからフランス艦に追われる様はなかなかの観物だったが、ついに逃げ切れず、乗組員は水に飛び込んで船を放棄してしまう。フランス艦がこれを捕らえ、凱歌を揚げて船を曳航していったのは目覚ましいことだった。

 朝10時、『ヴォルタ』、『アスピック』、『リンクス』、『ウィペール』は、馬尾の火薬庫を攻撃しようとして出発し、砲声は一日絶えることがなかった。時々大きな爆発音が響いていたけれども、午後2時38分に火薬庫が爆発して、大音響と地響きが襲ってきた。この時には炸裂弾が飛び散り、いくつかは我々の頭上を越え、ひとつは近くで爆発さえしている。5時になって砲声は途絶え、フランス艦は元の位置に碇泊した。
 この時にもまだ清国の軍艦と村々は盛んに燃えていたが、残らず焼け落ちたという。この折、フランス艦と戦った清兵は、フランス艦からの砲弾が届かないところを選びながら、羅星塔の外国人住宅において公然と略奪を行った。

 翌26日の朝7時には、フランス艦は巨砲をもって羅星塔の丘陵上の砲台を攻撃し、これを破壊している。清兵の抵抗が少なかったので、フランス軍は水兵を上陸させ、2時間ほどの間にこの砲台を乗っ取って破壊し尽くした。
 この水兵たちが引上げた後、その砲台で大きな爆発があった。これは火薬をもって何かを破壊したもののようである。この時フランス艦はすでに遠く離れており、砲台には清兵が集まってあちこちに旗を立てていた。
 この時、フランス艦の一手は、税関の後方にあった清艦に攻撃を加えている。これは、対岸の戦闘を応援しようと多くの兵隊が乗り込むのを見たためである。

 9時30分に至って砲声はまったく止み、12時35分にフランス艦は錨を上げ、川を下って遥か下流にあるブラックポイントに碇泊した。午後4時55分、フランス艦は陸上の何かに向かって砲撃を行っていた。およそ1時間だっただろうか。
 『揚武』はまだ燃えていた。清国の陸兵は、羅星塔や馬尾の近辺において略奪をほしいままにしたが、わが艦に逃げ込んだ避難者は、財産を持ち込んでいたので奪われることなく、安心していた。
 7時55分、フランス艦は電気灯の光を向けて何かを砲撃した。川の南岸からは清兵がこれに応戦していたが、ほどなく砲撃は終わっている。電気灯は一晩中点灯されたままで、周囲を警戒していた。

 26日に至っても、フランス艦はおおむね同じ位置にいた。朝のうちは砲声がしなかったが、正午になってフランス艦隊は、金皮 (キムパイ) およびミンガンの諸砲台を砲撃しようとして行動を起こし、2時20分から黄昏に至るまで砲声が絶えなかった。フランス艦隊が再び下流に戻ろうとした時、両岸の砲台はことごとくこれに砲撃を浴びせた。 (フランス艦隊は) 水雷に当たらないようにと注意して進み、進行中に幾つかの水雷を拾い上げている。

 他の艦が下ってくる間、装甲艦『ラ・ガリソニエール』は、これに先んじて金皮峡の諸砲台と撃ち合ったが、清兵の砲撃は巧みで、『ラ・ガリソニエール』の士官2人、水兵4人を撃ち殺し、20人を負傷させている。また1発は機関室に命中し、これを損傷させた。そのため『ラ・ガリソニエール』は後退せざるを得なかったという。しかし、これらの砲台も順次鎮圧され、上陸したフランス兵の仕掛けた爆薬によって破壊されている。
 私は後に、その破壊された砲台へ登ってみたが、破壊された大砲には、50ポンド砲より大きなものはなかったように思う。

 23日の戦闘後、私は水先案内を依頼するためにフランス艦『ヴォルタ』を訪れ、また『デスタイン』をも訪問した。『ヴォルタ』の士官が話すところでは、23日の戦いで 『ヴォルタ』では水兵14人が戦死し、10人が負傷している。また船体には2カ所の穴が開いたという。水先案内人のトーマスも戦死した。『デスタイン』の艦長は、我々をできるだけの援助をすると約し、実際に実行してくれた。

 我々の艦が危険に晒され、イギリス海軍提督も我々が沈められてしまうと考えたほどの時にも、まったく1発の命中弾もなかったことは僥倖というべきだろう。
 フランス艦隊は、この戦闘において、けっしてヨーロッパ人の財産には損害を与えないと前言し、実際にその大砲の扱いは見事で、欧州人の家屋に近接した砲台を攻撃する時でも、まったくその家屋には損害を与えなかった。また砲撃同様、艦船の扱いも見事で、あれほどに船を扱う手腕は見たことがないほどであった。一方、清人は砲撃が得意でなかったようだが、それでも倒れてなお砲撃を続けたことには、感ずべきものがある。

French ironclad La Galissonniere

『ラ・ガリソニエール』 La Galissonniere

 二等戦艦で装甲艦、『トリオンファンテ』の準同型艦です。


 この戦いで沈没したとされる清国艦は、以下の通りです。
『揚武』ヤン・ウー Yang-Wu:1608トン、木造スループ
『飛雲』フェイ・ユァン Fei-Yuan:1258トン、木鉄交造砲艦
『済安』チー・アン Chi-An:1258トン、木鉄交造砲艦
★『福星』フ・シン Fu-Hsing:578トン、木鉄交造砲艦
★『振威』チェン・ウェイ Chen-Wei:578トン、木造砲艦
★『建勝』チィエン・シェン Chien-Sheng:256トン、レンデル砲艦
★『福勝』フ・シェン Fu-Sheng:256トン、レンデル砲艦

 (註)★を付した4隻の中国語艦名は、掲示板上で「宝剣柏葉騎士」さまからいただいた情報に基づいています。




  (当人にとっては気の毒なことだけれども=原文付記) 愉快な一事があった。『ガイジングスタール』という船の船長シユウイツチエル (シュウィッチェル?) 氏は、この砲撃の始まる時に、ちょうどボートに乗って自分の船に戻ろうとしているところだった。岸と船の中間まで進んだ時に砲戦が始まり、ボートを漕いでいた水手 (かこ・地元の人間だろう) は、水へ飛び込んで泳ぎ逃げてしまった。
 一人取り残された船長は、仕方無く自分でボートを漕ぎはじめ、ようやく税関近くの岸に漕ぎ着けて上陸すると、50ヤードほど逃げて大きな岩の影に入り、そのまま夜の12時まで身動きもせずに隠れていた。見付けた清兵はしばしばこれを誰何したが、船長は清兵が近くへ来れば巻き添えを食うと恐れて、これを追い払った。戦闘が終わった後、船長はようやく岩陰から這い出し、なんとか船に戻ることができた。

 二日ほど後、私も上陸してその隠れたという岩を見に行ったが、この岩はフランス艦の砲弾に当たって砕けていた。船長が隠れていた時に、たまたま砲弾が来なかったので無事だったのは、幸運でしかない。
 清船はどのヨーロッパ人であっても、上陸して家に帰ろうとするとこれを銃撃してきたから、我々のボートの水夫の一人は、足を撃ち抜かれて負傷している。そこでイギリス海軍提督のドヴイル氏は命令を発し、許可なく上陸することを禁じた。その後、同提督の乗る旗艦『ヴィジラント』は、陸岸に近付いて羅星塔の下に碇泊した。

 フランス艦の砲撃は、清艦の後部を狙って射撃されたので、砲弾はおおむね後部に命中し、艦尾から先に沈んだ。フランス艦の中で、最も激しい戦闘をしたのは『ヴォルタ』である。これにクールベ提督が座乗していたことは清軍も知っていたから、これを沈めれば戦闘に勝てると集中攻撃を受けたためである。同艦の死傷者が多かったのも、まったく当然のことであった。
 現在でも水面には屍が浮かび、潮に乗って漂う様は目も当てられない。それでも清人は、これを拾い上げて埋葬しようとせず、放置するばかりである。清艦の艦長にこの戦闘での死傷を尋ねれば、艦長5人、士官39人、水兵2千人が戦死したということであった。これが、私の目撃した戦闘のあらましである。

French Flagship Volta

フランスの旗艦『ヴォルタ』の艦橋付近を砲弾がかすめた瞬間

 ウィングにはクールベ提督と幕僚、艦長たちが居並んでいる。舷側の乗組員が小火器を持っているのに注意。 



補足資料・その1
 要地の入口を扼する要塞は、この戦闘のように、事前に入り込まれてしまった場合には無力化してしまいます。あげくに背後から攻撃されることになりますので、このような事態への対処は相当に難しく思われます。
 たとえば、東京湾の入口をいかに防御したとしても、戦争前に湾内へ入られてしまえば、何の役にも立たないわけです。19世紀当時では、東京湾は艦隊が行動するのに十分すぎる程の広さがあり、攻撃されるべき場所は多すぎるでしょう。陸上からの抵抗は困難としか言えません。

 戦争を政治外交の延長上にあると見る場合、このような事態に対抗する手段には、充実した海軍以外に有効なものが見出せません。それでも帆装軍艦の時代には、その運動性が悪かったことから港内での自在な作戦は不如意であり、碇泊したまま砲撃するくらいが精々でした。大きな脅威は陸戦隊で、ボートによる上陸で小地域を制圧することは多かったようです。この場合には、陸上側に兵力の大きい大都市などでは、逆に作戦が困難になります。
 ところが、蒸気船の時代になって、これは海軍側に有利となりました。戦力の集中は意のままとなり、射程が伸びたことと炸裂弾の存在もあって、陸側は対応に苦慮することになります。

 小型高速の水雷艇や機雷の発達、軍艦が高価になったことなどによって、この種の作戦は発生しなくなるのですが、明治初期にはまだまだ現実の脅威だったと思われます。
 港湾がもっと小さく、港内が陸上からの射程に覆われるような港では、要塞の一部砲眼が港内へ向けて設けられていたようです。これらは、その地理的特徴に大きく関わる部分なので、公式を導くのは難しいでしょう。

 クールベ提督はこの戦争で、本国からの訓令に従って台湾各所の港湾を封鎖しますが、イギリスはこれに抗議しています。クールベ自身は、台湾などでなく、もっと国家中枢に近い場所を攻撃したほうが得策だと建言しているものの、本国政府は諸列強への影響を案じて容認しませんでした。
 フランス政府は1885年2月20日、清国の封鎖されていない港湾においても、コメを禁制品とするとの発表を行っています。理由として、このような補給の停止のほうが、中国の港湾を直接封鎖することよりも、中立国の貿易に対するダメージが小さいとしています。イギリスは、コメをその輸送目的地とは関係なく禁制品として扱うことに抗議を行ったものの、この点が解決される以前に、戦争のほうが終息してしまいました。
 食料は基本的に戦時禁制品ではありません。国際世論に反してまで、これをあえて禁輸しようとしたフランスは、それだけ効果的な戦略的攻撃手段に窮していたということなのでしょうか。

 一方、清国はイギリスに対し、香港があたかもフランス海軍の基地であるかのように利用されていることに、強く反発しています。要塞を攻撃した時に損傷した『ラ・ガリソニエール』が、香港で修理を受けたことに対する抗議で、このため、1885年1月にこれを禁止する命令が出され、『トリオンファンテ』の修理は許可されませんでした。
 この種の問題では、アメリカ南北戦争の折に、オーストラリアのメルボルンへ寄港した南軍の通商破壊艦が修理と補給を受け、後にこれが中立違反であると咎められて、イギリス政府はアメリカへ賠償金を支払っていますから懲りているはずなのですが。…単に清国がなめられていただけかも。




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