遠き祖国 2
Far from My Fatherland 2





 このページは、以前に三脚檣掲示板で連載した「遠き祖国」のイラストページに、短縮した本文を加えたものです。割愛したのは主にフィクション部分ですので、全体としては史実に沿っています。




Rear-Admiral_Cradock

イギリス巡洋艦戦隊司令官クリストファー・クラドック少将

 1862年ヨークシャー生まれ、1875年海軍に入隊、1910年少将に昇進



 イギリスを中心とする連合国海軍では、この頃シュペーの意図を測りかねていた。ドイツ艦隊の出現情報が太平洋を東へ東へと渡ってくるにつけ、もう燃料が尽きる、機関が故障して動けなくなるはずだという推測は、ことごとく裏切られ続けてきた。
 この頃、世界中に散らばっていたイギリス艦隊は、ほとんど振り回されているだけとも言える状態で、シュペー主隊の捕捉どころか、アメリカ西海岸の『ライプチヒ』、東海岸の『ドレスデン』、インド洋の『エムデン』、『ケーニヒスベルク』のいずれをも捕らえられず、やっと発見した『カールスルーエ』も取り逃がす体たらくで、ただ艦隊を右往左往させているだけだった。
 地中海では『ゲーベン』と『ブレスラウ』に翻弄され、この戦争に関する限り、イギリス海軍遣外艦隊は、開戦劈頭にほとんど点数を稼いでいない。敵の遣外艦艇は、根拠地に閉じ込めるか、開戦前に所在を突き止めて優勢な艦隊を尾行させ、開戦と同時に撃滅するのが最上の戦略であるのだが、これがまったく実現できなかったのだ。

 シュペー艦隊の東進に対し、徐々に危険の度合いを増していたのは、その行く先にあたる南大西洋だった。南米西海岸には中立国しかなく、イギリスの通商も希薄だったから守るべき存在が乏しく、警備艦隊は配置されていない。ホーン岬という出口の先で、シュペー艦隊の脅威を受け止める立場にあったのはイギリス海軍のクラドック少将だったが、彼の艦隊には必要なだけの強力な艦が存在していなかった。しかし、イギリス海軍本部は、これに十分な補強を行っていない。
 クラドックの、せめて最新型装甲巡洋艦をという増援要求に対して、作戦本部はシュペー艦隊がアジアへ戻るものと思い込み、有力艦の増援は中止されてしまった。ようやく、旧式戦艦『キャノパス』(1899年完成、13150トン、12インチ砲4門、6インチ砲12門、18ノット)が派遣されるだけである。

 これを知らせる9月14日海軍省発の訓令を受け取ったクラドックは、そこに内在する矛盾をどう解決するべきか、頭を悩ませた。すなわち、戦艦『キャノパス』は速力が遅く、現状では最大でも17ノット程度しか発揮できないはずなので、これを帯同していたのでは、20ノット以下の艦を伴わないシュペー艦隊を追跡できるはずがないから、戦力集中と、捜索、追撃が、相反する問題になってしまうのである。『キャノパス』を分離すれば、現在の艦隊では全シュペー艦隊に対抗できない。




HMS_Good_Hope

イギリス装甲巡洋艦『グッド・ホープ』

 1901年2月12日進水、14150トン、9.2インチ砲2門、6インチ砲14門、23ノット



 9月末になって、開戦時大西洋にあったドイツ軽巡洋艦『ドレスデン』がホーン岬を越え、太平洋側へ移動したらしいことが判明する。
 クラドックは、麾下艦隊のうち軽巡洋艦『ブリストル』と装甲巡洋艦『コーンウォール』を南米東岸のパトロールに残し、『キャノパス』の到着を待つことなく、自らの旗艦、装甲巡洋艦『グッド・ホープ』とともに残余の艦隊を率いてホーン岬へ向かった。これは軽巡洋艦『グラスゴー』(1910年完成、4800トン、6インチ砲2門、4インチ砲10門、25ノット) のルース艦長を先任とする支隊で、装甲巡洋艦『モンマス』(1903年完成、9800トン、6インチ砲14門、23ノット) と、仮装巡洋艦『オトラント』(元客船、12124総トン、4.7インチ砲4門、18ノット) からなる。

 『ドレスデン』を追ったクラドックは9月28日、マゼラン海峡内にある港町プンタ・アレーナスで情報を受け取り、彼らが秘密裡に、太平洋側海峡出口に近いオレンジ湾を根拠地にしていると考えた。そこではつい先頃「1914年9月11日、ドイツ帝国軍艦ドレスデン」とペンキで書かれた木板が発見されており、彼らがそこに停泊したことに疑いはなかったのである。(これは当時の船乗りの慣習みたいな行為だった)
 集められた情報は、同地に『ドレスデン』か『ライプチヒ』、ないしは数隻の仮装巡洋艦や石炭船がいると示しているが、直前にタヒチ島が襲われたことからして、シュペーの主力装甲巡洋艦が近くにいないことも明らかだった。

 仮泊地にある軽巡洋艦を、蒸気を上げる暇もなく急襲すれば、必ずや血祭りに上げられると考えたクラドックは、完璧な作戦を立て、艦隊に戦闘準備を整えさせてマゼラン海峡を渡り、天明を期して一斉に各水道から湾内へ突入したのである。作戦は確かに完全で、完璧なタイミングで実行された。しかし、そこにはなんら敵影はなく、情報のすべてが、希望的観測の織り込まれた誤りであったと知れただけだった。
 クラドックは失望し、『モンマス』と『グラスゴー』にヴァルパライソまでのパトロールを命じると、自らはフォークランドへ戻り、石炭の補給をしなければならなかった。この失敗は、クラドックの心に強い焦りを生んだものと思われる。敵に先んずることができない指揮官がどう見られるか、なんとしても結果を出さなければならない、と。




 ホーン岬という名は、南米大陸の大まかな地図を眺め、その先端を角に見立てて付けられたように思えるが、実際には1616年、これを最初に通過したオランダの船乗り、ウィレム C. スホウテン Willem C. Schouten の出身地である、ホールン Hoorn という町の名に因んだものとされる。オランダ語では Kaap Hoorn、ドイツ語では Kap Hoorn で、元来は南米大陸南端部にある島嶼の最南端に位置するホールン島の名であるが、その南部にある特徴的な岬のほうが有名になった。
 しかし、英語民族が自国語化するときに、上記のような理由で horn の語をあてた可能性はある。現地スペイン語では、オルノス岬 Cabo de Hornos と呼ばれる。




 10月4日、ドイツ艦隊間の無線傍受によって、彼らが東太平洋をイースター島へ向かっていると知れ、西太平洋には『エムデン』以外に重大な脅威がないとはっきりした。北米西海岸には、軽巡洋艦『レインボウ』、『ニューカースル』、日本の装甲巡洋艦『出雲』があり、さらに戦艦『肥前』が増援されているので、不安はなくなっている。
 イギリス海軍本部は、ラプラタ沖にあるストッダート少将の装甲巡洋艦『カーナーヴォン』に、装甲巡洋艦『コーンウォール』と軽巡洋艦『ブリストル』、さらには仮装巡洋艦『マケドニア』と『オラマ』を加えて別艦隊を編成し、これに南大西洋の警備を分担させることによって、クラドック艦隊の負担を減らそうとしている。しかし、増援されるべき新型装甲巡洋艦『ディフェンス』にはストッダート艦隊への加入を命じ、クラドック艦隊は弱体のままに残された。
 海軍本部とすれば、クラドックには旧式とはいえ戦艦をあてがってあるのであり、机上の戦力としては十分だと判断したのだろう。その戦艦が、張り子の虎どころか、入院を要するほどのポンコツになっているとは、書類に書かれた数字からは読み取れなかったに違いない。




HMS_Monmouth

イギリス装甲巡洋艦『モンマス』

 1901年11月13日進水、9800トン、6インチ砲14門、23ノット
 写真はマルタ島で撮影、奥の戦艦は『インプラカブル』



 10月15日と予定された『キャノパス』のフォークランド到着は、悪天候もあって遅延し、22日となった。さらに機械の故障のため、3日間は出港できないことが明らかになる。
 ヴァルパライソから戻った、『モンマス』、『グラスゴー』とともに戦艦の到着を待っていたクラドック提督は、訓令にあった艦隊の集結と南米西海岸の捜索とが両立できず、不十分な艦隊を率いたまま再びホーン岬を廻り、太平洋へ入っていった。後続の『キャノパス』にはマゼラン海峡通過を命じ、自らは敵との遭遇を予期しつつ迂回航路を取ったのである。

 イギリス海軍本部は、北米西海岸にある『ニューカースル』、『出雲』、『肥前』の艦隊を南下させ、オーストラリア艦隊を東に向かわせれば、シュペーはホーン岬へ向かうしかなく、クラドックの艦隊に接触せざるを得なくなる。『グッド・ホープ』、『モンマス』、『グラスゴー』に『キャノパス』が加われば、それぞれが優勢な三艦隊による包囲が完成するのであり、必ずやシュペー艦隊を撃滅できると考えていた。しかし、こうした具体的でない計画は前線の手足にまで伝わるものではなく、クラドックの心にある焦りもまた、海軍本部へは伝わるわけもない。




HMS_Canopus

イギリス戦艦『キャノパス』

 1897年10月12日進水、13150トン、12インチ砲4門、6インチ砲12門、18ノット



 このときイギリス海軍は、中立国のチリ領土であるチョノス群島内 (Chonos Is. 南緯45度、西経75度付近) に秘密の泊地を設けており、一時的な根拠地として用いていた。ここに到着して石炭を補給したクラドックは10月27日、『グラスゴー』をコロネルへ派遣し、さらに『オトラント』をチリ鉄道の終末点であるプエルト・モントへ送った。いずれも目的は情報の入手である。
 30日、『キャノパス』の鈍足にしびれを切らせたクラドックは、秘密泊地を出て、おそらくはシュペー主隊から分離しているだろう軽巡洋艦を捕らえようと考えた。ちょうどそのとき、輸送船を従えた『キャノパス』が到着したけれども、主機に故障が発生しており、修理に24時間が必要という見通しが通知される始末だった。その存在にまったく失望するだけのクラドックは、同艦に停泊修理を命じ、自らは急ぎ足で出立する。
 彼には、このオンボロを戦力と見ることができなかった。与えられた戦力で何ができるかではなく、自分の意図する作戦に使えない艦としか考えられなかったのだろう。

 10月29日、イギリス海軍本部では人事刷新が行われ、ドイツ系貴族であるバッテンバーグ卿が退き、その後を襲って第一海軍卿となったフィッシャーは、ただちに『ディフェンス』のクラドック艦隊合流を命じ、クラドックには『キャノパス』を伴わずに行動することを禁じた。しかし、当時の通信技術では遠隔地への直接無線通信は難しく、中立国を経由する中継を要するために数日の遅れは当然であり、この電報は、ついにクラドック提督の手元へは届かなかったのである。
 クラドックは『グラスゴー』に、コロネル入港と港内探索、情報収集を命じる。ここで『グラスゴー』は、にわかに忙しくなったドイツ海軍の通信を傍受した。暗号ゆえに通信内容は把握できないものの、その中に『ライプチヒ』の呼出符号を見つけだす。

 これを知らされたクラドック提督は、ドイツ軽巡洋艦が偵察と商船襲撃の目的で、本隊から分離しているに違いないと考えた。『ライプチヒ』ならば速力も速くない。必ずやこれを捕捉、撃滅しなければならない、と。
 ただちに『グラスゴー』を出港させ、翌11月1日正午に、コロネル沖での会同を命じる。これに合わせて艦隊を北上させるのだが、『キャノパス』はようやく修理が終わったばかりで、まだ追いついてきていなかった。『キャノパス』を待っていたのでは、『ライプチヒ』を取り逃がしてしまう。クラドックは『キャノパス』に後を追うように命じると、蒸気をあげて北へ向かった。彼の頭の中では、水平線のすぐ先に『ライプチヒ』が隠れているように思えたのだろう。

 このとき、『グラスゴー』のコロネル入港を聞いたシュペー提督は、同艦が単独行動していると考え、これを捕らえるべく行動を開始している。
 クラドック、シュペーの両提督は、互いに敵艦隊から分離している軽巡洋艦を捕らえようと、南北から接近していった。どちらも敵の全力がそこにいるとは知らないのだが、『キャノパス』を分離してしまっているクラドックは、全力で衝突すれば勝ち目が薄いことを知っている。シュペーはイギリス艦隊の完全な構成を知らないけれども、援軍の可能性はないから、手元にある艦隊の全力をぶつけるしかない。




HMS_Glasgow

 イギリス軽巡洋艦『グラスゴー』

 1909年9月30日進水、4800トン、6インチ砲2門、4インチ砲10門、25ノット
『ブリストル』、『ニューカースル』も同型艦



 『グラスゴー』は、24時間の滞在期限を待たず、11月1日朝にコロネルを出港して、西方50浬の集合地点へ向かう。正午に集合した艦隊は、ドイツ軽巡洋艦捕捉を狙って行動を開始した。
 14時半、クラドックは艦隊を北へ向け、捜索列への展開を命じる。最も東側に『グラスゴー』を配し、西へ向かって『オトラント』、『モンマス』と並べ、西端に旗艦『グッド・ホープ』が位置するのだ。艦隊は10ノットで北上しながら針路を開き、櫛状に散開していく。南南東の強風があり、追い風を受ける艦隊は、苦労しながら捜索列を形成していった。

 未だ艦列が完成しない16時26分、東端にあった『グラスゴー』は、北東方向に煤煙を認め、東へ転舵して正体を確認しようとした。5分後には、まだいくらも離れていなかった『オトラント』が、さらには『モンマス』も同じ煤煙を発見する。これこそ、ここにはいないはずのシュペー艦隊、それもほとんど全部だったのである。
 報告を受け、ただちに東へ艦を回したクラドックは16時47分、艦隊に集合を命じた。一再ならず敵を取り逃がしている提督には、ここで劣勢を自覚し、いったん逃げるというような、消極的に見える策を採る余裕がなかった。南半球の11月は春の盛りで、日は長くなっているが、日没は19時12分とされる。




The_Pacific

コロネル海戦までのシュペー艦隊の足跡

 ファン・フェルナンデス諸島は、西側がマス・ア・フエラ、東側がマス・ア・ティエラ



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