翼をなくした大鷲 CSSヴァージニア物語・第六章 Unflyable Eagle: CSS Virginia stories 1862 |
第六章
『モニター』の乗組員はずっと少なくて60人ほどだったが、排水量は3分の1しかなく、容積は輪をかけて小さかったから、その生活は『ヴァージニア』に比べて、けっして優雅でも安穏でもなかった。そもそも乾舷が30センチしかないのだから、艦内はすべて吃水線下ということになる。側面に窓などあろうはずもなく、空気の出入りする穴は数えるほどしかない。これでは艦内奥深くに空気が流通しないので、換気筒の下にブロワーがあり、強制的に外の空気を取り入れるようになっている。
入った空気はボイラーで使われるか、乗組員が吸って吐き出す。古くなって汚れた空気は、煙突もしくは砲塔から排出された。エリクソンは砲塔を排気筒代わりに使うことで、開口を減らすと同時に、砲塔内の火薬ガス排出の効果を狙っていた。
しかし、蒸気が上がっていないときにはブロワーは動かず、煮炊きをするスペースもないから、食事の支度はもっぱら上甲板で行なわれる。ちょっとでも波が立ったり、強い雨が降れば何もできないので、人間の食べ物とは思えないような保存食を、丈夫なだけが頼りの胃袋に委ねるしかなくなる。
今、ジェームズ川を目指して大西洋へ乗り出すために、砲塔前の天窓は完全に閉鎖された。煙突と通風筒が立てられ、砲塔は一度持ち上げて、はめ込まれている窪みとの隙間を塞ぐためにウエスが挟みこまれた。砲眼孔にもしっかりとカバーがかけられて、艦へ出入りできるのは、砲塔上にある二つのハッチからだけになっている。
3月6日、『モニター』は種々の問題を抱えたまま、蒸気曳船『セス・ロウ』 Seth Low に曳航されて、11時に錨を上げた。艦長はウォーデン Lt. John L. Worden である。彼は開戦直後に南軍の捕虜となり、7ヶ月の収容期間を経てから、交換によって北軍へ戻っていた。艦が小さいので、正規の艦長職資格者ではない。副長はグリーン Lt. Samuel Dana Greene、機関長はスタイマーズ Alban C. Stimers である。スタイマーズは正規の乗組員ではなく、資格上は便乗者の扱いだった。
昨日は一度出港したものの、元々から状態の悪い舵が言うことを聞かなくなり、Uターンしてニューヨークへ戻っている。これが二度目のチャレンジだ。
ニューヨーク海軍工廠のポールディング司令官はウォーデンに、「貴官は合衆国軍艦『モニター』を指揮し、天候の許す限りにおいて、可及的速やかにハンプトン・ローズへ進出すること。到着後は、現地先任指揮官に到着を報告すること」などと命じている。命令書の末尾には、「貴艦の安全な航海を祈る」という決まり文句が付されていたけれども、今回に限っては、とうてい常套句とは言えない航海になると予想された。
2月19日に一応完成した『モニター』は、エンジンの調整に問題があって出力が上がらず、舵も舵板そのものの構造がよくないため、修理調整を繰り返していた。エリクソンの独善的設計は、他者のノウハウの導入を拒絶し、あちこちの問題点が現実となって露呈するまで改善されないから、無駄な手間と時間が消費されていたのである。
政府の態度にも無理解な部分があり、出港直後には大統領周辺からウェルズ海軍長官を経由して、『モニター』をポトマック川へ回航し、首都ワシントンを『メリマック』の脅威から防御すべしという命令が出されていた。しかし、これに賛成しないポールディング司令官は、この命令を握り潰し、ウォーデンへは伝達されないままに終わっている。
3月6日夕方、ウォーデンは水先案内人を降ろし、彼にウェルズ長官へのメッセージを託している。「水先案内人の協力よろしきを得て、我々は午後4時、外洋への境界線を越えた。蒸気曳船『セス・ロウ』が本艦を曳航し、汽船『カムタック』 Camtuck (『カリタック』 Currituck とも)、『セイシャム』 Sachem が随伴している。天候は良好」
乗り組んでいたのは、士官16名、下士官兵49名で、全員が志願者だった。その夜と翌朝までの航海は順調で、およそ5ノットで問題なく進めはしたものの、それでも上甲板には波が上がり、外へ出るのは制限しなければならなかった。まだ真っ暗な午前3時には、西方にアブセコンドの灯台を見ている。アトランティック・シティの沖合を通過したわけだ。
翌日は正午頃から風が強まり、波が高くなってきた。艦首の錨を吊ったマンホールには、その一番高いところに錨鎖を艦内のウインドラスへ引き込むための穴が開いている。そもそも上甲板が海面上30センチしかないのだから、この穴はそれより低い部分にあるので、いくらかでもピッチングすれば、当然に水が入ってくる。海水はドレンで処理しきれず、床を経てビルジポンプまで流れたため、艦首側の士官居住区は水浸しとなった。
艦首上甲板を乗り越えた波は、分厚い鉄板でできた操舵室をまともに叩くから、スリットからは海水が操舵手めがけて飛び込んでくる。ベテランの操舵員は、その瞬間を読んで顔を下げ、顔面への直撃を避けているものの、ずぶ濡れになってしまうのは避けようもなかった。とうてい長時間は続けられないが、操舵室を放棄するわけにもいかなかった。
曳航される場合でも、される側が舵を操作し、いくらかなりとも推進力があれば、作業はずっとやりやすくなるからだ。それに、『モニター』にはエンジンを回しておく理由があった。
ほとんどの開口を閉鎖してしまっているから、艦内の換気はブロワーによる空気の取入れしかない。ひっきりなしに水が入ってくるので、排水ポンプも止められない。そしてこれらはどちらも蒸気で動いているし、ドンキー・ボイラーはないから、メイン・ボイラーを焚いていなければならないのだ。それなら、エンジンも回していたほうが良いということになる。
わずか30センチという乾舷で、しかも艦首に波切りも何もないから、うねりはそのまま艦の上へあがってくる。士官居住区には厚いガラスをはめ込んだ丸い天窓があるのだが、ここから上を見ると、艦はすでに沈没しているとしか思えなかった。空ではなく、渦巻く海水しか見えないのだ。
漏水防止のため砲塔の下に挟んだウエスには、海水が染み込んで内部へ滴り落ちてくるようになり、真下の水兵居住区は雨漏りしているような状況になった。寝られたものではないけれども、そもそも眠れる人間がいなかったのだ。
デラウエア湾へ出たところで、大きくなったうねりに『モニター』は翻弄されはじめる。重い艦はうねりに乗るのではなく、頭を押さえられての不自然な揺れ方なのだが、波が高くなるにつれて動きは複雑になり、予測のできない運動を始める。海に慣れているはずの乗組員も、この経験したことのない揺れ方に船酔いするものが続出し、ウォーデン艦長自身も青い顔をしていた。
こみあげるものは、外へ出られないからバケツで処理するしかなく、艦内には異様な悪臭が充満している。排泄物はエリクソン特製の水洗便器があり、ポンプと複雑なバルブ操作によって、直接艦外へ排出できる。しかし、操作を誤ると高圧の海水とともに自分の現物を浴びることになるし、現に何人もが浴びていたから、あまり人気はなかった。やはりバケツのお世話になる者が多い。
艦内には、石炭を燃やした煙がうっすらと漂っているけれども、これもいつものことだ。換気の悪いことにかけては、この艦を上回るものはないだろう。
午後4時頃、機関室付近で異様な物音が始まった。キャーキャーと何かが鳴くような音だ。あまり大きな音ではなく、エンジンの騒音にまぎれて、注意していないと聞こえない程度である。
「なんでしょう?」
「はてな。あまり聞かない音だが、どこからしているんだろう」
音は振動を伴わず、どこからか明らかに空気を伝って聞こえてくる。狭い艦内で響くので、方向が判らない。壁に耳を当てたり、周辺の機械にドライバーの先端を当てても、音に重なるような振動は伝わってこない。スタイマーズ機関長と助手のニュートンは、あちこちへ頭を突っ込んで音源を探る。
「バンシーの泣き声って、こんな感じですかね」
「気色悪いたとえだな。いずれ、なにか機械の音なんだろうが…」
「主機関ではなさそうですね」
音は一定に継続するのではなく、変化したり消えたりするから、どこから音がしているのか掴めない。機械類に異常も発生していない。見る限りでは、どの機械もちゃんと動作している。やがて、音はだんだん甲高くなると、小さくなって消えた。いや、なにか奇妙な感覚は残っているのだが、それが何なのかが判らないのだ。周囲にはこれといって変化も起きていない。
ときおり、忘れた頃になると、短いかすれた悲鳴のような、泣き声のような音がして、また静かになる。機関は順調に動いており、その騒音のほうがずっと大きいから、原因を追うこともできなくなった。
「なんだか暑くありませんか?」
「ふむ、気温が上がっているな。水温はどうだ」
「外の水温には変化がないようです。蒸気が落ちています。…おーいボイラー、蒸気が落ちているぞ!」
返事がない。
「ボイラー、返事をしろ!」
「どうしたんだ? ちょっと見てくる」
機械を回り込むと、すぐに異変が明らかになった。誰かが倒れている。
「おい! ジャック、しっかりしろ!」
ボイラーの前には、さらに何人かが倒れている。スタイマーズ機関長は、何が起きているのか、漠然と理解したままでニュートンへ向き直った。
「人数を集めろ。ボイラー前で酸欠が起きているようだ。皆を引っ張りだせ。艦長! 艦長!」
『ウォーデンだ。どうした』
「スタイマーズです。ボイラー室で酸欠が起きています。応援をよこしてください」
『わかった。すぐに行かせる』
艦内に警報が響く。とは言っても小さな船だ、状況はすぐに全体へ知れ渡った。スタイマーズはボイラーへ戻って火を消す。
「上へあげるんだ! 砲塔だ! 外の空気を吸わせないと死ぬぞ!」
垂直のラッタルで人間を担ぎ上げるのは不可能に近い。上から下から、寄ってたかってぐったりとした体を押し上げる。何人かはすぐに元気を取り戻したが、意識が混濁したままの者もいる。
「一酸化炭素中毒だな。気がつくのがもうちょっと遅かったら、下は全滅してたぞ」
「機関長、ブロワーが止まっています!…いいえ、機関は回っているんですが、ファンがほとんど回っていません。ベルトが濡れて、滑っています。空回りしているんです!」
あの奇妙な音は、それだったのだ。吸気筒が緩んで漏水し、ブロワーに海水が掛かってベルトが滑りはじめ、キーキーと音を立てていたのが、完全に滑ってしまったから音がしなくなったのだ。空気が入ってこなくなったので、ボイラーが不完全燃焼を起こしたわけか。
「蒸気がどんどん減っています。エンジンが回せません!」
「いかん、エンジンはともかくだが、ポンプが止まるぞ。排水できなくなる!」
「手動ポンプを回せ。ミスタ・グリーン、人数を付けろ!」
「アイ・アイ・サー!」
窒息の次は沈没の危機だ。浸水は多くないが、もともと予備浮力はほとんどない。わずかな水もすぐに出しておかないと、危険な状態になれば余裕はまったくないのだ。
「ブロワーを修理しろ! 漏水を止めて、ベルトを拭くんだ。急げ!」
しかし、吸気筒の隙間は外からしか塞げないし、外へ出れば波にさらわれてしまう。
「『セス・ロウ』に信号しろ。救難信号だ! ちくしょう、あっちじゃ、こんな海くらいは屁とも思っていないんだろ」
実際、海の様子は、慣れた船乗りなら眉も動かさない程度のものだ。『セス・ロウ』もピッチングしてはいるが、危険を感じるような状態ではない。危険なのは『モニター』だけで、こちらの能力が極端に低いということにほかならない。
救難信号を見て、『セス・ロウ』が曳航をやめ、ゆっくりと近付いてきた。メガホンの声が問いかけてくる。
「どうした!」
「水が掛かってボイラーの火が消えた! もう少し波の低いところを走ってくれ!」
「了解! 援助が必要か?」
「ノー・サンキュー。まだ自力で処理できる!」
「わかった。頑張れよ!」
『セス・ロウ』は針路を変え、陸へ近付いていく。それでもデラウエア湾を渡りきってしまうまでは、近くに陸地などないから、『モニター』は浸水と戦い続けるしかない。
手動ポンプのホースが、砲塔の上から突き出され、ビルジの海水が押し出されてきた。少ない。
「排水ポンプ! 人数はいるのか?」
「定員付いています! 排水しています!」
「スタイマーズ君! ビルジは減っているか?」
「いいえ、減っていません。わずかですが増えているようです。ポンプは回っているのですが」
「いくらも水は出ていないぞ。故障しているのか?」
「正常だと思います。調べてみます」
機関長はポンプを止めさせ、ホースのジョイントを外した。
「回してみろ」
乗組員がハンドルを回すと、水は脈動を伴って吐き出されてきた。ポンプに異常はない。
「繋げ。もうひとつ上のジョイントを外してみろ」
ホースが詰まっているのかもしれない。砲塔の中あたりにあるジョイントを外してみれば判るだろう。
「回せ!…どうだ?」
「水は出ていますが、量は少ないです。詰まっているんでしょうか」
「先端を下へ降ろしてみろ。なにか詰まっているなら出てくるかもしれない」
ネズミの死骸が挟まっていたりすることもある。ネズミを取りに行った猫かもしれないって? まさかな。ホースの先端が砲塔から下りてきた。
「押さえていろ。…回せ!」
水は勢いよく吐き出されてくる。異物があるような様子はない。
「止めろ!…異常はないな。繋ぎ直してみよう」
ホースは再び連結され、ポンプが回る。水は出てくるのだが、極端に少ない。
「いかんな、ポンプの中でスリップしているんだ。水圧に負けて部分的に逆流している。ありていに言えば、高さに対して能力が足りないんだ。…艦長、排水ポンプは能力不足です。手動では排水しきれません」
「むう…やむを得んな、全員でビルジからバケツ・リレーだ。ミスタ・グリーン、全員を配置しろ。スタイマーズ君、バケツを集めろ。この際、水が溜められるものならなんでもいい」
「ばかもん! コップじゃ話にならん! ギャレーに鍋があるだろう!」
「洗濯用の大桶を持って来い! ビルジの水をそこへ出すんだ。ポンプのホースを一連だけ残して外せ!」
直径1.5メートルくらいの大きな桶が床に置かれ、そこへビルジの水が吐き出される。綺麗な水で、吐しゃ物や排泄物は見られない。この艦がいかにたくさん浸水し、たくさん排水してきたかが判る。
「汲み出せ! バケツを渡していくんだ。声をかけろ。リズムを取れ!」
無理だった。平らなところでバケツを渡していくなら、リズムを刻んで効率よく進めることもできるが、狭い砲塔への昇降口を通すのでは、リズムに合わせられない。かえって乱れてしまう。しかも戻ってくるバケツと交錯し、ひっくり返して中身を下にいる人間に浴びせかける始末だ。
「下りのバケツは反対側の昇降口を使え! 頭を働かせろ!」
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