英露戦争危機 3 The 1884 crisis of war (3) |
明治18年(1885年)5月5日 (火)
▲イギリス軍艦『チャンピオン』、横浜港外で『モノマフ』監視
さて、こうした国際的緊張のある世相の中、横浜港で椿事が起こりました。
明治18年5月8日 (金)
ロシア軍艦の挙動
横浜ヘラルド新聞によれば、一昨日の朝、イギリス東洋艦隊『アガメムノン』、『サフィール』、『スウィフト』の3隻が横浜へ入港し、『アガメムノン』がロシア艦隊の旗艦である『ウラジミール・モノマフ』の傍らを通過したとき、『モノマフ』は何を思ったか突然警戒を強め、戦闘準備をするとともに水雷艇へ発射管を取り付け、これを発進させる準備を行った。しかしながら『アガメムノン』が錨を下ろすと、普通に祝砲を発射している。
イギリス艦隊最先任のロング艦長は、『モノマフ』のロシア海軍少将から、どういう理由でこのような警戒態勢を取ったのか説明を待っている。信じていい説ではないけれども、あるいはロシア少将は、イギリス軍艦がどこへでも跡を付けてくるので、これを人を脅かすものとして不快に思っており、緊張を高めてイギリス艦に備えたのかもしれないと言う者もいる。
このような状況で、腹を立てた水兵たちの間に事件でも起こってはならないと、 [イギリス艦は] 石炭を積み込み、その夜には横須賀へ移った。
『サフィール』 Sapphire は『サファイア』です。さすがに英語でもサファイアですが、それっぽく読むとサッフィールになっちゃいます。各艦の要目は後述。 |
明治18年5月12日 (火)
誤るることなかれ
先日のイギリス軍艦『アガメムノン』他2隻が横浜へ入港するにあたり、停泊中のロシア軍艦『ウラジミール・モノマフ』が『アガメムノン』に対して警戒を強め、戦闘準備を行ったとして、横浜英字新聞のごときは口を極め、局外国の港でこのような振る舞いをするとは何事だと痛論している。『モノマフ』乗組みのロシア海軍少将が、日本諸港は局外地ではないと言ったとまで書かれている。
私は初めから、ロシア海軍少将がこのようなことを言うはずがないと考えているので、これを無視していた。ところが金曜日のヘラルド新聞は、日本の『筑紫』が今朝突然横浜へ入港し、ロシア軍艦の前に碇泊すると、双方の指揮官が面談を行ったという。この時ロシア少将クロウンは日本の中立を尊重すると発言したので、『筑紫』は碇泊位置を移したものの、ずっとその25トンの大砲をロシア艦へ向けたままだったと記している。
私はこのような事態は容易なことではないと考え、ただちにその筋へ問い合わせたが、『筑紫』が横浜へ入港し、ロシア艦の近くへ投錨したのは事実だけれども、指揮官の面談はこのような理由ではなく、入港した『筑紫』へロシア軍艦から士官が通常礼式の訪問を行ったので、この返礼として『筑紫』の副長がロシア艦を訪れただけのことである。中立うんぬんの話などなかったと回答を得た。
およそ両国間の外交上の重大事を、ろくに調べもしないで紙面に掲載することこそ不審千万である。読者はけっして、このような浮説を誤って受け入れないでほしい。
明治18年5月13日 (水)
横浜ロシア軍艦戒厳の件
昨夕発行の横浜ヘラルド新聞に曰く、先週横浜港においてロシア軍艦がイギリス国旗に対して行った一件は、ただちに電報で本国へ通知されたから、ロンドンの人々に衝撃を与えただろう。この件について、イギリス議会でどのような話し合いが持たれたかについては情報を入手していないけれども、風説によればイギリス外務大臣グランヴィル卿はおそらくペテルブルグに向かい、これについて協議するということである。
同じく昨夕のガゼット紙では、『ウラジミール・モノマフ』の提督クロウンから『アガメムノン』に向かって行われた行動に対する憤怒の感情は、すでに一週間を経過しているにもかかわらず、少しも治まる様子がなく、かえって激昂しているという。
イギリス軍艦がまだ横浜港にいたら、この近海での両国軍艦の衝突は避けられないと案じられている。この件はイギリス本国でも国民感情を悪化させており、火に油を注いだような状態になっている。
もし一朝事あれば、日本もその紛争に巻き込まれて迷惑を受けるだろう。それゆえ、我々は『アガメムノン』のロング艦長に、関係各国の利益のためにも、日本の中立を尊重するためにも、横須賀にとどまっていてほしいと望むところである。もし横須賀を出て横浜へ入港することでもあれば、日本の中立を危うくする事変が起こるかもしれないからだ。
一説によれば、本国からこの一件について東京のイギリス公使に訓令があったともいう。今、日本では、イギリスの先任艦長が横浜への入港を見合わせるという形で、安心させてほしいと願うばかりである。
イギリス軍艦『ダーリング』
長崎発の電報によれば、イギリス艦『ダーリング』は仁川へ向かって出港したと言われたものの、これは何かの誤りであったようで、昨日の横浜ヘラルド新聞には、『ダーリング』が横須賀へ到着し、ロング艦長 (『アガメムノン』の指揮官) の艦隊に加わったと報じられている。
明治18年5月15日 (金)
英国軍艦『アガメムノン』
ロシア軍艦戒厳の一件以来、各新聞上にその名を知られたイギリス東洋艦隊随一の軍艦『アガメムノン』は、イギリス海軍艦名表によれば二等戦艦の筆頭に掲げられるほどの強力艦であるという。この艦は巨大な円形の砲塔2基を有し、攻撃の時にはこの砲塔が甲板上に現れ出て一斉に発砲し、射撃が終わると機械仕掛けで砲塔は大砲共々甲板下へ沈み込む。装填が終われば再び砲塔が現れ、同様に一斉射撃を行うという。
なお、この軍艦はその船体を自由に水中に沈めることができ、長崎に碇泊していた時には船体を沈めて見せたそうだ。艦底が二重になっていて、その中へ海水を導入すると船体は残らず水中に沈んで砲塔だけが水上に残るという。なんとも恐るべき強艦と言うべきである。
さすがにこれだけの仕掛けを施した軍艦は存在しません。いろいろな情報が寄せ集まった結果なのでしょうが、当時はこれらの真偽を確認する方法に乏しく、一新聞社の記者程度では、正確な情報は持ち得なかったと思われます。ただ、艦内に海水を導入して吃水を深める設備を持つ軍艦は現実に存在し、砲塔内の大砲を甲板下へ降下させ得るものもありました。砲塔を引っ込めるまでの話は聞いたことがないものの、当時の砲塔の外見からは、そんなふうに見えないこともありません。 |
ではここで、ここに名前の出てきた軍艦の要目をご紹介しましょう。ランクとしては『アガメムノン』が二等級、『モノマフ』が装甲巡洋艦で、任務は異なるものの、格としては同等です。
『アガメムノン』 Agamemnon 1883年完成、中央砲塔艦 |
結局この戦争危機は、諸外国の仲裁もあって戦争に発展しませんでした。しかし、アフガニスタンでの出口を封止されたロシアは、さらに東へ向かって海への出口を求めます。さすがに崑崙山脈は越えられず、ゴビ砂漠も横断できないので、次の出口は極東ということになりました。
シベリア太平洋岸では、ロシアの領土がすでに海に達しており、これを防ぎ止める中立国は存在しません。直接太平洋に接している不凍港がないことと、陸路を効率よく移動する手段が未完成であるため、これまでは利用価値が小さいとして放置されてきた場所です。
1867年には、領土であったアラスカをアメリカ合衆国に金銭で譲渡しており、彼らがこの方面を重視していなかったのは間違いありません。しかし、他の出口がことごとく封止されたことと、シベリアを縦断する鉄道の建設に目途が立ってきたことから、1860年にスタートしたウラジヴォストークの開発が進められ、日本への直接の脅威となります。
お読みいただいたように、すでに日本には対ロシア恐怖が根付いており、ロシアの動きは日本人に大きな関心を持って見つめられていました。
その一方で、清国は次々とその弱みを明らかにしており、この頃に輸入されたドイツ製装甲艦『定遠』、『鎮遠』の威力に安心したのか、以後の軍備は低調となります。海軍費は宮廷費へ流用され、新型艦は発注されませんでした。
それでも1886年と1891年に両艦が日本を訪れたとき、その偉容に接した日本人は、ほとんどパニックとも言える反応を示しています。これについては過去に何度も取り上げられておりますが、最近ではすでに風化してしまったような感もあります。
当時、この二隻に対抗できる日本軍艦はなく、列強でも拮抗するだけの軍艦は極東に配備されていません。わずかに、ここで出てきた『アガメムノン』が唯一の存在でしょう。この艦の東洋派遣が、『定遠』、『鎮遠』を意識していたかは不確実ですが、タイミング的には一致しています。
『アガメムノン』は、イギリスの航洋主力艦として、初めて帆装を全廃した存在です。一般には、1873年の『デヴァステーション』にその起源が求められているものの、これは航洋性のない主力艦で、かなり特殊な用法を考えられていたものでした。
『アガメムノン』の原形となった『インフレキシブル』 Inflexible は、同様に主砲を連装二基の砲塔に収め、中央部両舷に梯型配置としていました。中心線上には細長い上構が設けられており、これが居住性に大きな意味を持ったのです。
砲塔を艦の中央部へ置くのは、初期の砲塔艦からの流れで、これを中心線上に置いたものは艦首尾への射界を持っていませんでした。梯型配置は、砲塔を舷側へ寄せることで、首尾線方向への射界を確保したものです。これはド級戦艦の時代に復活しました。(これについては、ワードルームの「中央砲塔艦と梯形配置」をご参照ください)
これからおよそ10年後、日本は清国との戦争へ突入します。列強へ向かっての背伸びと、朝鮮半島での思惑、ロシアの脅威が絡まっての戦争でしたが、これを戦ったことにより、列強の日本への評価が変化したことは否めません。
イギリスはこれにより、代理戦争をさせる格好の存在を見つけました。1897年の戦艦『敷島』の起工は、その後の六六艦隊の整備へ向けて、日本とイギリスの思惑が一致した具現でしょう。ちなみに『定遠』、『鎮遠』は、当初イギリスへの発注が目論まれており、ロシアとの関係を危惧したイギリス側が、これを断ったとされています。
もし、ロシアが太平洋に面した根拠地を手に入れた場合、香港を根拠地とするイギリス権益は、重大な脅威を喉元に突き付けられる形になります。その根拠地に配備されるだろうロシア艦隊に対抗するだけの艦隊を用意するには、大きな費用が掛かりますし、封鎖するとなれば巨大な艦隊が必要になります。日本の対露恐怖に上手く相乗りすれば、その戦力に期待することもできるでしょう。
今回掲載した諸文は、かなり政治的色彩の濃いものですが、百数十年前に当時の知識人が、かなり真っ当な目で列強の意図を読み取っていたのは間違いありません。
追いつき、追い越そうとする背伸びと、足下を支える基盤の弱さが、後に踏み台を踏み外す結果を招いたわけですが、この頃の日本人の意識は、けっして闇夜に薙刀 (なぎなた) を振り回すようなものではなかったのです。
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