大戦艦 2
The Big Battleship : HMS Agincourt (2)




Minas Gerais

ブラジル戦艦『ミナス・ジェライス』 Minas Gerais

 常備排水量:19,281トン、全長:165.5メートル、21ノット、12インチ45口径砲連装6基12門、4.7インチ砲22門



第1章・有能なるセールスマン・承前

 およそ3ヶ月間、ダインコートは現地に滞在して情報を集め、状況を把握してイギリスへ戻った。
「この競争に加わる意味があるだろうか」
 彼の言明は当然のものとして受け止められた。すでにアルゼンチンの軍備増強計画はあまねく知れ渡っており、ブエノス・アイレスにはイギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリアから、およそ戦艦を建造しうる企業のほとんどすべてが集まって、その数は20を越えていたのである。

 まだブラジルの新戦艦について、何の情報も明らかでないにもかかわらず、提案は更新され、新たな仕様書が提出された。これは非常に高価な競争であり、本気で加わった企業は、多くの時間と数万ポンドもの費用を負担しなければならなかった。
 競争は激しくなり、そうなればなっただけ発注者側には都合のよい状況となる。アメリカは国務省のノックス長官を動かし、イタリアもまた積極的だった。ダインコートをはじめとするイギリスの業界も、通常とはかけ離れた体勢で、事に臨んでいたのである。

 まずフランスが競争から脱落した。
「すでにフランス、ドイツ、イギリスは、三度も詳細な仕様書を提出させられている」、1909年12月のフランス新聞には、このような記事が掲載されている。「これは我々の軍機密が、すでに取り返しのつかないほど漏れてしまっていることを確信させるに十分だ」
 秘密は競争相手の手に渡り、特にイタリアがこれを入手したと疑われている。
 アルゼンチンはさらに、4回目の競争仕様提出を求めている。すでにこの競争のために数十万ポンドもの金が費やされているにもかかわらず、だ。

 それでもアームストロング社は競争を諦めなかった。図面一式を携えて1909年12月、ダインコートは妻を伴ってブエノス・アイレスへ渡る。
 一方アメリカ合衆国国務省は、この戦艦受注に大きな意義を見出していた。東海岸の造船所は仕事を獲得する必要に迫られており、特に多額の投資をしたばかりのベスレヘム・スチール社は、装甲板を大量に生産しなければ投資を回収できない状態にあったのだ。この現実の前に、利潤は問題ではなかった。

 またマサチューセッツ州クインシーのフォア・リバー社は、イギリスの独壇場となっている世界の戦艦建造市場に、一矢を報いる必要があると考えていた。
 彼らは足並みを揃え、ノックス長官の後ろ盾を得て、とうてい利益を生み出さない、2隻で440万ポンドという破格の値段を提示した。これはダインコートの成功をあと一歩のところで奪い去り、彼は一敗地にまみれ、大きな屈辱を味わったのだ。
 打撃はこれだけではなかった。アルゼンチン滞在中に、ダインコートを支えていた妻が重病に冒され、わずか一週間後、ブエノス・アイレスのホテルで息を引き取ったのである。
「妻を埋葬するために本国へ戻る、この二週間は、惨めとしか言いようのないものだった」

 イギリスへ戻り、ダインコートが妻の葬儀を終えたわずか一カ月後、アメリカ人たちはロンドンのサヴォイ・ホテルで祝賀会を開いた。列席したのは、ノックス長官、ベスレヘム・スチール社のアーチボルド・ジョンストンとアルゼンチン海軍高級士官たちで、招待主はフォア・リバー社のボウルズ提督だった。
 この会合そのものは、別段変わったものではなかった。しかし、それがロンドンの中心地で行われたということは、アームストロング社やダインコートにとって、故意に行われた侮辱以外の何物でもなかったのである。

 アメリカで建造される戦艦の工期はギリギリに切りつめられ、ほんの3年後には、アルゼンチンがブラジルをしのぐ、海軍の中心となるべき2隻の戦艦を保有することになると考えられた。
 このような困難さも、ダインコートにしてみれば、ともすれば悲しみに打ちひしがれてしまうような状況で、邁進できる仕事を与えられたとも言える。彼はリオ・デ・ジャネイロの友人たちとともに、ブラジルの3番目の戦艦に没頭することができた。
 ダインコートのセールスマンとしての能力は閉ざされることなく、よりいっそう大きな成果を求めていく。

 南米三つ目の大国チリは、ブラジルとアルゼンチンの軍備拡大を目の当たりにし、先に行った2戦艦の売却によって失われた地位を取り戻そうと決意する。
 1906年2月にはすでに、ドイツの新聞「海軍評論 marine rundschau」が、チリ政府の決定を報道している。それは、戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻を建造するというものだった。

 新戦艦の仕様への変更、支払方法の確定とその信頼性調査などに時間が費やされ、この計画はなかなか確定しなかった。
 それでも、ブラジルが2隻の戦艦を建造し、アルゼンチンがこれの対抗計画を進める中で、これらをしのぐべき戦艦建造についての国民合意が醸成されていた。1911年にはブラッセイ卿がこれに言及している。

 チリ海軍省は、情勢を安定させるためには、1隻ではなく2隻のド級戦艦が、それもアルゼンチンのものよりも、ブラジルのそれよりも強力なものが必要であると確信するに至った。これの受注を巡り、またも激しい競争が繰り広げられる。そして最後に残ったのは、またもアメリカの造船所とアームストロング社だった。
 しかし今回は、アームストロング社は見事に凱歌を上げ、この2隻は彼らのものとなった。(14インチ砲10門を装備した2万8千トンの戦艦、後の『カナダ』 Canada と空母に改造された『イーグル』 Eagle )

 軍備拡張熱という伝染病は、南米各国に急速に蔓延しつつあり、弱小国家までもがこれに冒されていく。
 ウルグアイはドイツへ巡洋艦を発注し、ペルーはフランスから古い装甲巡洋艦を買い、これに新式の6インチ砲を装備するべく、イギリスに同艦を回航しようとしている。ベネズエラは、アメリカがマニラで捕獲したスペインの小型砲艦を購入し、エクアドルもまた、旧式の水雷艇を入手した。
 わずか4年の間に、南米の海軍力は数倍に増強されることとなったのである。そしてまた、それゆえとも言える半ば必然的な事故も倍増してしまった。

 ウルグアイの巡洋艦がまず、ブラジルへの親善訪問の途中、リオ・グランデの海岸で失われた。続いてチリの巡洋艦『プレジデント・ピント』が、タルカフアノで座礁し、わずかに砲だけが回収されている。
 ブラジルもまた、 新たに建設された海軍基地へ当時最も強力だった3隻の軍艦を派遣したとき、大きな災厄に遭遇している。1905年1月21日、装甲砲塔艦『アキダバン』 Aquidaban が突然爆発し、3人の提督を含む223人の死者を出してしまったのだ。
 この他にも多くの小事故があり、その原因は多く、海軍の急速な拡張にあると考えられた。そして、この問題はまた、別な形での災厄をももたらしたのである。

 海軍力は、ただ高価であるというばかりではなく、国家にとって諸刃の剣でもあったのだ。急速な拡張は、ほぼ不可避的に、その構成員の質の低下を招いた。組織の膨張は運用資金の不足を招き、ただでさえ貧しい兵員たちに支給するべき金に滞りが生まれる。そして強大な軍艦は、彼らのあまりにも身近に、強力すぎる武器を提供したのである。
 すでにブラジルはこの十年、この問題に深い傷を抱えていた。前大統領ペイクト Peixoto の政策は危険な反応を呼び、反乱はリオでの市街地砲撃につながって、多くの人命を失わせていた。それでも、その反乱以後、ド級戦艦の建造までのブラジルは比較的平穏で、大きな反乱騒ぎは起きていなかった。

 1909年の終わり、ブラジルの海軍拡張計画は、3番目の戦艦とともにその絶頂期を迎えようとしていた。クリスマスの直前、アレンカー Alexadrino Faria de Alencar 海軍大臣は議会で演説し、「私は、この内閣の任期末である1910年の11月15日までに、リオ・デ・ジャネイロの港に、2隻以上の戦艦、2隻の偵察巡洋艦、10隻の駆逐艦を見るべきであると希望する」と述べる。
 この言明は、あるいは国民にとっては不幸であったかもしれないが、その通りに達成されるはずであった。

 ブラジル最初のド級戦艦は、1910年1月5日に完成し、公式に引き渡された。べらぼうな数の旗が熱狂的雰囲気の中で掲げられ、代表が腕を振ると21発の礼砲がタインの寒風をつんざく。砲公試は成功裡に終了し、最大級の斉射弾量をもって行われた一斉射撃は、アルゼンチンの武官を含んだ見学者たちに強い衝撃を与えた。

 『ミナス・ジェライス』の本国回航は、死去したブラジル大使の遺体をワシントンへ運ぶアメリカ軍艦を、ノーフォークまで護衛するために迂回したくらいで、大きな事件などはなかった。しかし8カ月後、姉妹艦『サン・パウロ』がブラジルに回航されるときには、大きな影響を残す事件に遭遇している。

 1910年10月5日、『サン・パウロ』は、ポルトガルを訪問していた次期大統領候補のフォンセッカ Hermes de Fonseca 元帥を便乗させるために、リスボン近くに停泊していた。新戦艦は、当時のポルトガル海軍艦艇の全火力を合わせたよりも強力であり、最大の軍艦の5倍も大きかった。その印象は、強烈と言うほかなかったのである。

 フォンセッカ元帥が宮廷で晩餐会に参列していた晩、ポルトガル艦隊に民主主義者の反乱が起こり、1隻の巡洋艦を除いたすべてがこれに同調した。彼らは士官を殺すか、艦内に監禁する。宮殿、海軍省、協会へ向けて砲撃が行われ、多くの人々が傷ついた。
 翌日、逃亡した王の所在を求めて、反乱兵たちは『サン・パウロ』の臨検を要求する。ブラジル士官はこれを拒否し、その12インチ砲は、彼らに戦艦への実力行使をためらわせる十分な威力を持っていた。

 ポルトガルを離れる前、元帥を乗せた『サン・パウロ』の乗組員は、唯一国王側に残っていた巡洋艦『ドン・カルロス一世』 Don Carlos I 艦上で、士官たちが民主主義反乱者たちに虐殺される光景を目の当たりにした。後甲板を照らしだした探照灯の光束の中で惨劇は行われ、それをホテルの屋上から見守っていたデイリー・クロニコルの記者は、「犠牲者たちには、まったく抵抗の素振りなどなかった」と書いている。
「彼らの黒っぽい制服は、白い光束の中でくっきりとしたシルエットになっていた。隠されていた機関銃が閃き、待機していた一団が艦内へなだれ込む。横たわった人影は、すべて息絶えているように見える…」

 このポルトガル革命の真の意義は、ほとんど教育を受けていない有色人種からなる、『サン・パウロ』乗組員の理解を超えていた。
 海軍に半ば暴力的に徴用され、イギリスまでけっして快適とは言えない旅をしてきた彼らの大半にとっては、真新しい戦艦についての知識を叩き込まれている途上でもあり、この出来事を霞のかかったようにぼんやりとした他人事としか受け止められなかった。
 それでも、神のような士官たちが、銃で撃たれれば血を流す、自分たちと同じ人間であるという事実は、彼らの意識の奥底に刻み込まれる。一部の乗組員は、傲然と振る舞う士官連が、ああまであっさりと打ち破られたことに大きな驚きを覚えていた。都市への砲撃のすさまじさもまた、強い印象を残している。

 『サン・パウロ』にはまだ、造船所のイギリス人技術者が調整のために便乗している。この回航の残り半分には事件らしい事件もなく、アレンカー提督が言明した期限に2週間を残して、戦艦はブラジルへ到着した。フォンセッカ新大統領就任の日、全ブラジル艦隊は表敬の意味を持ってリオに集結している。この艦隊は南アメリカにおいて卓抜した存在だった。
 しかし、その裏側では、反抗の囁きが下甲板に広がりつつあったのだ。『ミナス・ジェライス』下甲板の片隅で、乗組員のカンディド Joao Candido が反乱の画策をしていた。艦内には不満が充満しており、素地は十分に育っていたのである。

 11月22日、『ミナス・ジェライス』のネベス Joas Baptistu Los Neves 艦長は、数人の士官たちとともに、リオを訪問していたフランス巡洋艦での会食に出席していた。彼らが10時になって艦へ戻ったとき、出迎えたのはライフルの銃弾だったのである。艦長と二人の士官が死亡し、一人が瀕死の重傷を負った。
 この反乱はただちに艦隊の他の艦へ伝達され、他艦では血を見ることなく反乱が成功し、士官たちは陸上へ放逐されている。

 艦隊には赤旗が掲揚され、海軍の無線基地へ対して、無電による要求が突きつけられた。曰く、良好な居住環境、まともな食事、体罰の禁止、反乱首謀者の免罪である。
 返答のないままに時間が経過し、しびれを切らせた反乱兵たちは、砲の威力を試してみることにした。散発的な砲撃が要塞、兵器庫や政府の建物へ向けられたけれども、まともに観測もしていないのだから正確な射撃になどなるはずもなく、被害は周辺の一般住民へのほうが大きかった。人々は避難し、いっさいのビジネスが停止してしまう。政府はこの事態に対して有効な手段を編み出せず、苦境に立った。

 水雷艇で雷撃しようというアイデアもあったが、買ったばかりで破壊するには、戦艦はあまりにも高価でありすぎる。イギリスも、自国の技術者がまだ便乗したままであることから、これに反対した。
 反乱者側とて、何に自信があるわけでもない。カンディドは翌朝、メッセージを送ってくる。
「もし、我々の免罪が約束され、兵の待遇が改善され、体罰が禁止されるのなら、我々はこれ以上の抵抗を行うことなく投降する」
 しかし、具体的な行動は何もなかったから、議会ははっきりと反応せず、議論は紛糾してまとまらなかった。

 正午過ぎ、反乱艦隊は港外へ出ていく。そして、議会が反乱者の要求を受け入れるという決定を下すまで、港へ戻ってこようとはしなかった。
 大統領は特使を派遣する。特使は戦艦の甲板に立ち、それが通常と同じく整頓された状況で、狼藉や破壊の跡をとどめていないことを見いだした。乱暴者も、酩酊した者もおらず、異常に静かだった。カンディド以下の反乱首謀者およそ40人は、政府の態度に不安を覚え、耐えきれなくなってすでに脱走したあとだったのだ。

 この反乱は、実際のところ強い思想的背景などなく、思いつきで行われたに近かったのである。そして、国家の力の象徴である強大無比な戦艦が、ひとつ間違えば国家そのものを脅かす存在で有り得ることを実感させた。
 政府は慎重になり、海軍はその形を変えはじめる。ブラジルの隣国にとっては、彼らの脅威である戦艦が、必ずしも鉄壁でないことは歓迎すべき事実だったが、戦艦先進国であるイギリスやアメリカには、あまり認めたくない出来事だった。

 『ミナス・ジェライス』と『サン・パウロ』の12インチ砲はしかし、まもなく首都に再び砲声を轟かせ、人々を驚かせたのだった。海軍の反乱から2週間後、1910年12月9日の夜、今度は海兵隊が、それも政府が最も信頼を置いているとされた連隊が、反乱を起こしたのだ。彼らの宿舎があるコブラス島でそれは起こり、すぐに近くの要塞が彼らの手に落ちた。
 今回、大統領は素早く、また強力な手段で対応した。

 首都には戒厳令が敷かれ、新たな士官によって統率された2隻の戦艦に出動命令が下る。夜が明けるとともに、戦艦はその砲を反乱軍が占拠している施設へ向けた。ほどなく、2百名もの死傷者を出した反乱軍は休戦を求め、ついで降伏した。
 戦艦は政府が期待したとおりの働きを示し、これらのことは海軍省を勇気づけ、結果として第3の戦艦を求める熱意へと変化していった。第3の戦艦は急速に現実化し、具体的な性能が論じられるに至る。

 さて、ここで少し時間を戻さなければならない。本題であるブラジル第3の戦艦の仕様決定について、その変化の理由を述べておかなければならないのだ。
 カレンダーは1910年暮れから、その春まで後戻りする。



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