大戦艦 1
The Big Battleship : HMS Agincourt (1)
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この小文は、Richard Hough の "The Big Battleship" からの翻訳を中心にしています。
ダインコート:Sir Eustace Hugh Tennyson d'Eyncourt
発音としては、デインコートもしくはデインカートが近いようだ。
第1章・有能なるセールスマン
19世紀末から20世紀初頭、各国の海軍はようやく開発方向の安定してきた大型軍艦の整備に乗り出しつつあった。戦艦や大型の装甲巡洋艦は、国家のステイタスであり、その能力が国家の地位を表してもいた。しかし、最先端技術の結集でもあった高性能軍艦を自国の造船所で建造できる国は少なく、多くは先進国からの輸入に頼らなければならなかった。
ところが国家の造船所である海軍工廠は、基本的に外国向けの軍艦を建造しないから、これらは民間の、軍艦建造技術を持った造船所に発注するしかない。大規模な設備を抱えている造船所としても、こうした受注は大きな利益に繋がるから、こうした会社のセールスマンは、注文を求めて世界中に散らばっている。
とはいえ、見本を持って歩くわけにはいかず、舌先三寸の売り込みも難しい商品だから、彼らは普通のセールスマンとは少々毛色が異なる。現代であれば、新興の脱開発途上国に長距離巡航ミサイルや原子力潜水艦の売り込みをしているようなものだろうか。
一隻の新型戦艦の売却契約は、数百万ポンドという対価の支払いを意味し、その手数料も莫大な額に上る。現代であればいくらになるかは換算が困難だが、おそらく円で百億の単位になるだろう。
この巨大な金額を取り引きするセールスマンは、直接、間接に、造艦造兵能力を持つ国家の財政と外交を支える存在でもあった。世界中どこへでも出掛け、その国の主だった人々と密接な交際を持ち、貴重な示唆を与え、有能な融資の窓口係ともならなければならなかった。時には、政府を後ろ盾にして政治的圧力を用いる才覚さえ必要とされたのである。
当然、このセールスマンは同時に優秀なエンジニアでなければならず、有能な助言者としての能力も持たねばならない。彼らはスケッチや仕様書を持ち歩き、必要であれば設計図や模型まで携えていく。
しばしば彼らは現地に堂々たる住家を求め、優雅な生活をし、気前のよい貴人として振る舞った。さもなければ高級ホテルの長期滞在客となるのである。
巨大兵器産業であるクルップ社は、コンスタンチノープル郊外に豪華なレジデンスを持っていたし、フランスの会社は、南米での売り込みに失敗したとき、2万5千ポンドもの経費を費やしている。
アメリカ合衆国海軍が、南米チリのヴァルパライソへド級戦艦2隻を派遣したときも、この機会を利用しようとしたフォア・リバー造船所が、チリの海軍大臣と高級士官たちを戦艦へ呼んで売り込みを図った。彼らもまた、失敗したのではあるが。
1914年に至る20年間、世界をリードする巨大兵器会社である、ドイツのクルップとブロム・ウント・フォス、アメリカのニュー・ヨーク造船所とフォア・リバー社、イギリスのヴィッカース社やアームストロング社、さらにはフランスやイタリアを代表するそれぞれの会社は、世界各国からの軍艦建造受注競争に血道を上げ、これはさらにドレッドノート熱によって加速されていた。
もちろん、すべてが競争に勝てるわけもなく、フランスのラ・セーヌ社はスペインの巡洋艦で、フィラデルフィアのクランプ社はトルコの防護巡洋艦で我慢しなければならなかったし、エルビングのシーヒャウはロシアとルーマニアに駆逐艦を、イタリアのオルランドとアンサルドの会社はポルトガルとアルゼンチンに巡洋艦を、それぞれ売り込めただけだった。
これらの中でもクルップ社は、どこにいても活発だった。その間隙を縫って、イギリスの会社はメキシコとペルーに巡洋艦を、トルコ、チリと日本に戦艦を売っている。また、アームストロング・ホイットワース社の製造する砲と砲弾もまた、巨大な収入をもたらした。
アームストロング社は、イギリスの北東部ノーサンバーランド、タイン川北岸の町ニューカースルに広がり、ニューカースルはまさにアームストロング社の企業城下町とでも言うべき様相を呈している。最盛期には3万人が雇用され、その家族、彼らを支える町を構成する人々で、ニューカースルは空前の賑わいを見せていた。大砲製造工場と造船所は、川沿いにスコッツウッドからエルジックを経てウォーカーにまで広がっている。
この焼け焦げ、煤けた町の興亡は、世界の不安定さと相似形を描いている。
平和会議は衰退をもたらし、好戦的な南アメリカ、バルカンの火種は、夢中になって遊ぶ子供たちのピンク色の頬のように、町に色彩をもたらす。
アームストロングは、世界で最も成功した軍艦輸出業者と言えるが、これは彼らの卓越した技術ばかりでなく、巧みな売り込みテクニックにも負うところが大きかった。
1904年、アームストロング社は非常に優れたエンジニアを得た。ダインコート Eustace Hugh Tennyson d'Eyncourt は、その卓抜した能力で軍艦設計に新機軸を打ち出し、最高級の品質を誇る工場の技術を活かした製品を作り出す。
彼の後ろ盾と人脈は卓越したもので、その長身痩躯、面長の理知的な顔立ちは、まさにこの仕事に打ってつけだった。顧客となる国の海軍大臣は、彼の計算され尽くした物腰、知性、穏やかな言葉遣いが表わす人柄に魅入られてしまうのだ。
彼の叔父の一人は英国海軍の提督であり、いとこは後に著名な詩人となるテニソン Alfred Lord Tennyson である。船はダインコートにとって子供の頃から慣れ親しんだものであり、彼の体の一部とも言える存在だった。幼い頃から、家の別荘の近くにあった湖に、自分で作った模型の船を浮かべて遊んでいたのだ。
学業を終えた彼は、ごく自然に海軍の軍艦建造に携わる仕事へ就いた。そして誰よりも優れた才能を発揮し、様々な世界にとって、なくてはならない存在となったのである。
当時の海軍主任造船官サー・ウィリアム・ホワイトは、ダインコートを見込んでアームストロング社に紹介し、そこで実務を学ばせた。ダインコートはここで6年間、フレーム立てから鋲打ち、鋳掛け屋の仕事や船大工の実際を学ぶ。彼は直接に工員の間に入ってこれらを身につけ、ついには戦艦の隅々までを知り尽くした。
これはさらにグリニッジの海軍学校で、エルジックの設計部でも洗練された。最後にはクライドの造船所で仕上げられ、1902年にアームストロング社へと戻っている。
2年後、ダインコートはオリエント急行に乗ってコンスタンチノープルを訪れ、アームストロング社が納入した3隻の船の運用に貴重な助言を行った。この中には、サルタンのために建造された過剰なほどに豪華なヨットも含まれている。
この実績により、トルコのサルタンや海軍大臣は、さらなる艦船をアームストロング社へ発注した。
ダインコートは初めての海外での売り込みに成功したが、彼らの海軍を完成させるには、さらなる軍艦が必要なのは明白だった。これは、彼がエンジニアとセールスマンの二つの顔を使い分ける仕事として初めてのものだったけれども、これ以後彼は、フランス、イタリア、ギリシャ、中国、日本、スペイン、さらには南アメリカ諸国をも訪問し、アームストロング社に多大の利益をもたらしている。
彼はその多くに妻を同伴しており、ライバルたちとの売り込み合戦では、彼の広範な知識ばかりでなく、奥方による心のこもった接待もが顧客の心を掴んだのである。さらには、彼の奇妙に子供っぽい軍艦への憧れ、愛情ともいうほどの傾倒ぶりもまた、彼のエンジニアとしての能力を助けていた。
こうした中、南アメリカ列強諸国の間に芽生えた建艦競争は、世界最大の軍艦を保有したいという願望の形を取った。
これらの国家の中でも、ブラジルは一頭地を抜いており、また特異な立場にもあった。彼らの隣国に対する態度には、情けというものがない。当然、国境を接する国々は過去に手痛い経験をしているから、その軍備増強に対する反応も激しいのである。
また、背中合わせに国境を接するチリとアルゼンチンも、長年に渡って反目を続けてきている。それぞれは過去に数え切れないほどの小競り合いを繰り返しており、この三国以外の南米国家を巻き込んだ係争は、ヨーロッパのそれの縮小版とも言えるものだった。
ただ、これにはアメリカ合衆国という大きな存在が近くにあり、その影響力はどうにも無視できない大きさでもあった。さらに1895年のクリーブランド大統領以来、アメリカが彼らへのヨーロッパの影響を排除しようとしてきた歴史もある。
南米列強の軍備競争は徐々に激しくなり、世紀の変わりめ頃から急激に盛り上がってきた。これは、ちょうどティルピッツの台頭によって、ドイツとイギリスの海軍競争に火がついたのと時期をともにしている。
イギリスとドイツばかりでなく、アメリカと日本を含んだその他の国々をもこれにならい、各国は毎年莫大な金を投じて海軍の拡充を図った。そしてこれは、「ドレッドノート」の登場を迎えて新たなスタートラインが敷かれたことで、いっそうの激しさを増していった。
まず、チリが1901年に、はるかに優勢な海軍力を持つアルゼンチンに対抗しようとしてイギリスに働きかける。イギリス海軍の造船官リード Sir Edward Reed は、チリのモウト Moutt 提督とアームストロング社の仲立ちをし、2隻の戦艦を建造することとした。
これは『コンスティチュシオン』 Constitution と『リベルタード』 Libertad であったが、建造費が巨額だったのと、アルゼンチンとの危機が回避されたために緊急性が薄れ、日露戦争に関連してこれらを買い戻そうとしたイギリスの申し出を、彼らは二つ返事で受け入れたのである。
しかしながら、これらが起工されたということは事実であり、当然相手国から対応を引き出すことになった。危機を感じたアルゼンチンは、イタリアから高速装甲巡洋艦を買い付ける。ブラジルもまた反応し、その長い海岸線と広い国土に見合うだけの、さらにはライバル、アルゼンチンに追従できない規模の海軍を建設しようとした。
ブラジル議会は1904年12月14日、大統領に対して29隻を下回ることのない軍艦の建造権限を与えた。これは3隻の戦艦、3隻の装甲巡洋艦を主力とし、さらには6隻の駆逐艦、12隻の水雷艇、はては潜水艦まで含まれていたのである。
これは世界に対しても存在を誇示できるだけの海軍であり、南アメリカでは突出した実力を持つだろうと期待された。
戦艦は、いわゆる前ド級戦艦として究極のものが考えられたが、その決定を見る前にこれを知ったダインコートは、ブラジル海軍大臣に対して決定を延期するように助言し、まもなく全貌が知れ渡ることになるだろう存在について、そっと耳打ちした。
実際、彼らが決定を延期してすぐ、単一巨砲戦艦『ドレッドノート』 Dreadnought が、その卓越した威力を高らかにして発表されたのである。ポーツマスにこれが姿を見せるだろう1年後、すでに建造中のものを含め、世界の戦艦はすべて「旧式艦」になると宣言されてしまったのだ。
この瞬間、ブラジルは自らの決断ひとつで、世界を先駆ける存在となりうるターニング・ポイントを迎えた。アームストロング社はブラジル政府に、『ドレッドノート』をさらに上回る強力な戦艦を提案する。この提案は歓迎され、12インチ砲を『ドレッドノート』より2門多く持つ戦艦が発注された。
第1艦は1907年初頭に、アームストロング社のエルジック工場で起工され、数カ月後、第2艦がヴィッカーズ社のバーロゥ造船所で起工される。第3艦は、宿敵アルゼンチンの出方を見る目的で発注を保留された。
ブラジルは1910年頃には、出遅れたヨーロッパ列強や日本をさしおいて、世界に冠たるド級戦艦2隻を保有することになったのである。
この2隻は『ミナス・ジェライス』 Minas Gerais と『サン・パウロ』 Sao Paulo で、長くブラジル海軍にあって二つの大戦に参加し、数多くの反乱鎮圧にあたった。しかし、これらはブラジルに到着する以前に、南米の軍事バランスを大きく揺り動かすことになっている。
アルゼンチンは、手始めにアームストロング社から1千トン級の砲艦2隻を買い入れる。その海軍委員会がヨーロッパを歴訪して最新の軍艦技術に接したのに続き、アルゼンチン議会は1908年12月、1千1百万ポンドの予算で海軍の拡大を決定した。
これにはブラジルのものを凌駕する2隻の戦艦が含まれており、当然にブラジルから新たな対応を引き出すことになった。保留されていた3隻目の戦艦の実現である。
この頃、イギリスとドイツは熾烈な建艦競争に突入しており、イギリスでは「我々には8隻が必要だ。我々は待てない。 We want eight!; We won't wait!」というスローガンが叫ばれていた。
戦艦の価格はうなぎ登りとなり、南米の建艦競争はまったく別な敵を持つことになった。アルゼンチンの2隻の、アメリカにおける建造予定価格は、その歳入の5倍にまで達したのである。
それでも好戦的な強硬派は、イギリスとドイツの宣伝合戦に乗るようにして声を張り上げる。また、軍備縮小を唱える穏健派も黙っていなかった。
「ブラジルには、防衛のためと言うならば、これ以上強力な戦艦など必要ではない」
ブラジル海軍にしても、「けっして見せ物や飾りのために艦隊を造っているわけではない」と言うしかなかった。アルゼンチンのマスコミは「戦力の均衡」を唱え、隣国に呼びかける。両国ともに、国内の強硬派と穏健派が争ったまま、互いとの競争を続けざるを得なかった。
イギリスで建造された2隻の戦艦がブラジルに到着したとき、一部から、「片方をアルゼンチンに譲り、残りの計画を破棄する」という提案が成されたものの、いずれの国もこれに同意はしなかった。
アルゼンチンの誇りは、ブラジルの新戦艦によっていたく傷つけられ、3隻目の建造が噂されると、これが『ドレッドノート』の2倍の排水量を持つ「究極の戦艦」だという噂を産み出す。
遠雷を聞きつけるように、アームストロング社はアルゼンチンのブラジルに対する反応を聞きつけた。ブエノス・アイレスでは、この9月にも『ミナス・ジェライス』よりずっと強力な新戦艦が発注されると噂されているという。
ダインコートは急遽アルゼンチンへ渡る。海軍大臣との非公式な会見がもたれ、ここでブラジルの敵となる、別な状況が生み出されていることを知った。すでに20年、アームストロング社はアルゼンチンのために軍艦を建造していない。
その備砲を供給していながらも、彼らは軍艦そのものは主にイタリアから輸入しているのである。ダインコートはここで、彼らの競争における重大な問題点を目の当たりにした。ひとつは、イタリアから輸入した装甲巡洋艦の評判がよく、海軍がこれに満足していることであり、もうひとつは、アメリカの提案している戦艦の価格に比べて、アームストロング社のそれが非常に高価であることだった。
「かなり難しいことになる」、ダインコートはそう直感している。
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