大戦艦 4
The Big Battleship : HMS Agincourt (4)




completing at Walker

ウォーカー工場で工事の進む「大戦艦」

 公試へ向かう数週間前の艦影。まだ後部砲塔群には砲身が見えない。



第2章:船はどこへ

 ニューカースル・アポン・タインは、19世紀の後半から船舶輸出が盛んになるにつれ、大きく発展していた。町へは世界各国から造船技術を学ぼうとする人が送り込まれ、国際都市の様相を呈している。
 輸出用の軍艦が建造されると、工事の進捗に伴って発注国の軍人や技術者が集まり、ホテルや下宿は大盛況となる。それは、南米の半ラテン、半インディオの浅黒い人々だったり、見慣れない東洋人だったりした。トルコの回教徒とギリシャの人々も、それぞれに自分たちの船ができあがっていく作業に立ち会うため、この町を訪れていたのである。
 初めて日本人が訪れたときには、その異質さが際だち、あちこちで世界地図が広げられると、誰かが地図の端っこにあるちっぽけな国を見つけるまで、知ったかぶりや勝手な想像が場を盛り上げていた。

 ときには尊大な貴族もおり、大英帝国海軍とは比べものにならないような弱小海軍の提督でも、ホテルでは身にふさわしい敬意を受けようとふんぞり返る。それはある種滑稽でもあり、一方で深刻なトラブルをも産み出した。表敬訪問のような一過性のものならば、町の対応もずいぶんと違っていただろうが、長ければ1年以上も住み着くのだから、郷に入って郷に従わない人々が騒動の種になるのは、仕方のないことだったのである。
 それでも、そういう人々がいるということは、ニューカースルに金が落ちるということであり、ここで生活する人たちの多くに収入をもたらすということでもある。生活をともにする客というのも奇妙な存在だが、これも造るのに時間がかかる、「船」という商品についてまわる特性と言えるだろう。

 イギリスでは1909年に8隻の主力艦が計画され、海軍拡張計画が絶頂に達して、国内の官民造船所は手一杯の仕事を抱えることになる。しかし、1910年に『ミナス・ジェライス』が進水し、イギリス海軍の戦艦2隻が完成したあと、アームストロング社では一時的に仕事が少なくなった。
 船台のひとつは2年間空いたままで、多くの職人は呼び出されず、当然に収入もなくなる。たくさんいた外国人も、船ができあがれば一斉にいなくなるから、町は火を消したように静かになっていた。
 『リオ・デ・ジャネイロ』の受注は、この状況に大きな光明をもたらす。続いてチリからの発注もあり、アームストロング社はにわかに活況を呈してきた。

 "Tilney's Cocoa Rooms"などというカフェ (1ペニーでお茶と丸ケーキ=bun が出される) やパブでは、「来週には鍛冶屋が呼ばれるそうだ」とか、「昼夜二交代制になるらしい」とか、さまざまな噂が飛び交っていた。しばらく見なかった顔が戻ってくれば、再開を祝す乾杯が行われる。知らない顔は値踏みされ、仲間と見なされれば歓迎の酒盛りになった。街には活気がみなぎっている。

 この頃、世界の海軍国では、イギリスとドイツが争うように先頭を走り、これにアメリカと日本が続いていたものの、日本はまだ戦艦建造技術を学びつつある途上で、一歩後れを取っている。
 南米三国の争いは、いわばマイナーリーグのようなものであり、これら自国建造のできる国々の競い合いとは異なった様相を見せる。海軍拡大のツケは、確実に外貨の支出となり、国民の生活に跳ね返るのだ。

 1911年初秋の頃、ニューカースルの町には浅黒い肌のブラジル人が増えはじめた。アームストロング社の船台には、それまで見たことのないほど長い竜骨が据えられ、絶え間ないリベットを打つ音とともに、骨組みが組み立てられていく。
 ブラジル人にとって、これは特別な船であり、彼らの誇りを体現するものだった。ニューカースルの職人たちにとっても、ただの690Aという番号で呼ばれる存在ではなく、親しみを込めて「巨人 the Giant」と呼ばれ、何か特別なものと扱われていた。

 その船体ができあがっていくにつれ、その前例のない大きさは誰の目にも明らかとなる。すぐ隣の船台では、チリの超ド級戦艦の建造も始まったが、14インチ砲を積むというそれより、ブラジルの戦艦『リオ・デ・ジャネイロ』は明らかに長いのだ。
 船体が形を成してくれば、それは対岸からでもはっきりと判るようになる。工事は大車輪で進められており、二交代制が敷かれ、残業も多くなった。
 契約では、1913年中の引き渡しが予定されており、これはアメリカで建造中のアルゼンチンの戦艦が、1913年の完成を予定していたことと関連している。チリのそれは第1艦が1914年、第2艦は『リオ・デ・ジャネイロ』が進水して空いた船台で建造され、1915年の完成をもくろまれていた。

 690Aの船体が形を成すにつれ、情報を入手したアルゼンチンには当然の反応が見られた。彼ら自身の第3の戦艦建造である。
 またもや拡張派と穏健派の戦いとなり、アルゼンチンの世論はまっぷたつに割れる。しかし、軍艦の建造は、ただでさえ高価な買い物と言うだけでなく、その維持に必要な諸設備、人件費などにやはり巨大な金額を要求する。穏健派の人々は、その金でアパートメントを作り、病院を建て、道路を、鉄道を、橋を造るべきだと訴える。大都市の30万と言われる子供たちに対して、学校には11万6千人しか収容できないのだ、と。

 イギリス自身でも、ここ数年で海軍予算は2千7百万ポンドから5千万ポンドに膨らんでおり、国庫を圧迫してはいたけれども、この金は基本的に国内へ還流しているのである。南米各国で国家予算の25パーセントにも達する海軍予算は、その大半が国外へ流出してしまうのだ。
 アルゼンチンの穏健派は、「際限のない拡張競争からは、なんの果実も得られない、こんな愚かなことは止めるべきだ」と主張する。しかしそれは、すでに自分たちの戦艦がアメリカであらかた形を成しているからこそ出てくる言葉であり、それを放棄して競争をやめるという話ではないのである。
 当初、1万9千トンとされた戦艦は、計画を変更して2万5千トンになっているし、さらなる変更によって拡大していることは、ブラジルにはまだ知られていなかった。(最終的には満載排水量30,600トン)

 そして、アルゼンチン国内の政策上の意見対立とはまったく別なところから、ブラジル海軍に対する火の手が上がった。経済危機である。
 1906年のコーヒー生産過剰による不況は、依然影響を残していたが、これ追い打ちをかけるようにゴムの不況が始まる。そもそもは、アマゾンのジャングルに自生していた自然木に依存している、投資は要らないが効率の悪い収穫物で、これに安定した供給をもくろんだイギリスが、マレー半島にプランテーションを拓いていたのが原因だ。
 これの生産が軌道に乗ってくると、ゴムの供給は過剰気味となり、価格の低落が始まる。ほとんどゴムと軍艦の物々交換だったようなブラジルの経済は、現金の支出を求められ、破綻の一歩手前へ追いつめられた。

 1912年11月、進水の日までおよそ2カ月を残すのみとなった頃、巨大な戦艦の船体はすでに形を現し、その上にはイギリス建造になる大型軍艦の特徴とも言える、がっしりした三脚マストがそびえ立っていた。22基のボイラーは据え付けられつつあり、2本の煙突と推進用のパーソンズ・タービンも、積み込みを待つばかりである。
 異様に長い船体上に、これも類のないほど長い船首楼が延びている。優雅な曲線を描く艦尾には、司令長官用の回廊も設置される。この船は、およそ戦艦というものを示す特徴を、余すところなく備えているのだ。

 1913年1月、起工から15カ月を数え、巨大な戦艦は生まれ出る準備を整えていた。すでに、それが世界最大の大きさを持つということは知れ渡っていたし、まだ砲こそ搭載されていないものの、七つの連装砲塔は中心線上にずらりと並んでいた。
 これは、それぞれが2門ずつの12インチ砲を持ち、おのおのが30秒ごとに、重量385キログラム (850ポンド) の砲弾を2万2千メートル (2万4千ヤード) のかなたへ撃ち込むことができる。副砲である6インチ砲は20門を数え、どんな駆逐艦も近寄れないとされた。灰色の巨大な鉄の塊は、まもなく生命を吹き込まれようとしている。その予定日は、1月22日と定められた。

 1月21日、この一大イベントに参加する人々で、市内は溢れかえっていた。造船所では、選抜されたチームが最後の仕上げとリハーサルに余念がなかったし、駅には次々と賓客を乗せた特別列車が到着している。
 ブラジルやイギリス国内ばかりでなく、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカから招待客が集まり、その中でも最も興奮していたのが、ライバルである南アメリカの国々から来た大使館付き武官だっただろう。船台の両側には特設の観客席がしつらえられ、舳先の真ん前には、式台が一段と高くそびえている。工員たちは進水台を隅々まで点検し、翌日の進水式を待つばかりとなった。

 1月22日の寒い朝を迎え、ニューカースルの街は、世界最大の戦艦の話で持ちきりとなる。人々は盛装を整え、造船所への坂を下り、次々に門をくぐって巨大な船体の近くへ集まった。
 特設会場には、ロイアル・ステーション・ホテルから運び込まれた昼食が並び、周囲にはきらびやかな人々が群がって、社交の世界は百花繚乱の装いを見せる。贅を極めた宴は、まもなく式典が始まるというアナウンスで打ち切られ、人々はそれぞれに定められた席へ着いた。

 午後3時、緩やかだが冷たい風が、灰色の空から吹き下ろしてくる。観客たちはコートの襟をかき寄せ、じっとその瞬間を待っていた。
 掌の中の懐中時計をにらむ造船所の監督は、部下に目を移して最後の工程を確認する。式台にはすでにアームストロング社のノーブル卿 Sir Andrew Noble がいて、命名をするブラジル海軍のバセラル Bacellar 提督夫妻と話し合っていた。

 式次第は順調に進み、タイミングを計っていた監督は、準備ができたことを確認すると、腕を上げて合図を送る。促された夫人は、最上の名誉を与えられたことに頬を染めながら、ゆったりと進み出る。ブラスバンドが演奏を始めれば、数千人もの観客は潮が引くように静まり返り、いよいよその時が来たと身構える。
 目の端に待ち構える部下を見ながら、監督は腕を上げる。夫人は腹に息をため、ポルトガル語で高らかに宣言した。
「汝を『リオ・デ・ジャネイロ』と命名する!」
 ブラジルの色、青と緑と金のリボンで飾られたシャンパンの瓶が、大戦艦の艦首に叩きつけられ、泡が飛び散った。監督は腕を振り下ろし、レバーが引かれると、水圧器が船を支えていた最後の爪を外す。

 巨大な船体は、最初はまったく動かないように見えたが、やがてわずかずつ進みだし、次第に速度を上げていく。後押しする歓声があたりを包み、進水式はクライマックスを迎えた。
 数千人の一致した興奮の中、船体は船台を滑り降り、艦尾から水中へと入っていく。艦尾が浮かび上がり、艦首の支台に船体重量の半分がかかるきわどい一瞬も、息を呑んで見守る監督には、何も異変は感じられなかった。『リオ・デ・ジャネイロ』はしっかりと水に浮かび、いささかの傾きも見せていない。ホッと安堵の吐息が漏れる。
 爆発するように、ブラスバンドがブラジル国歌の演奏を始めた。甲高いラッパの音が寒空をつんざき、船体上の人々は興奮に小躍りしている。タインの対岸はすぐ近くなので、船体に繋がれた鎖が行き足を止め、今は『リオ・デ・ジャネイロ』となり、命を吹き込まれた鉄の塊は、ゆっくりと向きを変えて川のただ中に停止した。

 人々は口々に成功を喜び合い、席を離れてありがたい暖かさを求め、お茶のテーブルに群がる。ノーブル卿はバセラル提督夫人に、優雅に運んだ式次第について礼を述べる。バセラル提督のスピーチは、ポルトガル語と英語の両方で行われた。
 その人混みのすぐ外に、一人の海軍士官がたたずんでいる。
「すばらしい進水式だった。しかし、我々のこの船だって、大きさでも、防御力でも、攻撃力でもけっして『リオ・デ・ジャネイロ』に劣ってはいないのだ」
 彼の目は、空っぽになった船台の隣で形を成しつつある、自分たち、チリの新戦艦『アルミランテ・ラ・トーレ』 Almirante La Torre を見つめていた。比較するもののなくなった今、それは以前よりずっと大きく見え、頼もしく思える。
「それに、我々はすぐに、同じものをもう一隻手に入れる」
『リオ・デ・ジャネイロ』が進水して空いた船台では、チリ2隻目の戦艦『アルミランテ・コクレーン』 Almirante Cochrane が建造される。そのための資材はすでに運び込まれており、片付けが終わればすぐに起工されるはずだった。




Chilien Almirante La Torre

チリ戦艦『アルミランテ・ラ・トーレ』

 戦後にパナマ運河を通行中の写真。着色写真と思われるが、細部まで色が回っており、カラー写真のようにも見える。撮影日時は不明。



 さて、ブラジルはすでにド級戦艦2隻を保有しており、これはある特定の時期、ド級戦艦の保有数において、イギリス、ドイツ、アメリカに次いで4番目に位置していた。
 1913年1月1日時点での、各国のド級戦艦保有数と、建造状況を見てみよう。

イギリス・完成数15隻、建造中9隻、他に巡洋戦艦7隻を保有、3隻を建造中
ドイツ・完成数9隻、建造中8隻、他に巡洋戦艦3隻を保有、3隻を建造中
アメリカ・完成数8隻、建造中4隻

ブラジル・完成数2隻、建造中1隻

オーストリア・完成数1隻、建造中3隻
フランス・完成数0隻、建造中7隻・最も早い艦は1913年6月の完成
ロシア・完成数0隻、建造中7隻・最も早い艦は1914年11月の完成
イタリア・完成数0隻、建造中6隻・最も早い艦は1913年1月15日の完成

日本・完成数0隻、建造中1隻、他に巡洋戦艦4隻を建造中・最も早い艦は1913年8月の完成

スペイン・完成数0隻、建造中3隻・最も早い艦は1913年10月の完成
アルゼンチン・完成数0隻、建造中2隻・最も早い艦は1914年12月の完成
トルコ・完成数0隻、建造中1隻・1914年8月の完成予定
チリ・完成数0隻、建造中1隻・1915年9月の完成予定

 他にもド級戦艦の入手を図った国はあるけれども、いずれも実現していない。この表はもちろん、海軍全体の実力を表しているものではなく、とてつもなく歪んでいもする。データから恣意的に特定の一部分だけを切り取れば、こういうものも作れるという見本である。このときの日本には、実力的にはド級艦に匹敵する、究極の準ド級戦艦とも言われる『河内』級2隻があったし、建造中の戦艦や巡洋戦艦は超ド級艦だった。またイタリアの『ダンテ・アリギエーリ』は、ほぼ完成している。

 進水式典が終わり、関係者のレセプションでは、ノーブル卿とバセラル提督の間で記念品がそれぞれにプレゼントされた。バセラル提督は程なく帰国しなければならず、レセプションは送別会でもあった。この時、提督は得意の絶頂にあり、ブラジル海軍は頂点とも言うべき瞬間を迎えている。しかし、その頂点は、切り立った山の頂上のように小さく、あまりにも短かった

 提督が帰国してから、ほんの数週間後、ブラジルの対外債務支払いは滞りはじめる。1913年2月、ゴムの出荷価格が大幅に低落したのだ。
 5月、ブラジルの経済情勢はどうにもならない事態となる。債務はかつて見たこともない1千1百万ポンドという金額に達しており、支払いの見通しは悪くなる一方だった。イギリス経済界も、これには敏感に反応しており、戦艦は価格の引き下げを迫られ、応じざるを得なくなるとみられた。しかし、事態ははるかに切羽詰まっており、状況は大きく転がり出す。

 この時のブラジル海軍大臣は、皮肉なことに『リオ・デ・ジャネイロ』の建造を推し進めたアレンカー提督その人であり、彼は苦渋を飲み込んで、つらい決断をしなければならなくなった。『リオ・デ・ジャネイロ』の放棄と、その売却である。
 公式には、「当該艦の仕様が、ブラジル艦隊にそぐわないものと判断されたため」と発表されたが、実情は厳しく、『ミナス・ジェライス』と『サン・パウロ』も売却しなくてはならないかもしれなかった。大海軍構想は、根こそぎ消えてなくなったのである。
 『リオ・デ・ジャネイロ』は、国際兵器市場に放り出された。その価格はおよそ275万ポンドであり、うち主なものは、85万ポンドが船体、42万ポンドが装甲板、90万ポンドが兵器関係とされる。

 アームストロング社では、これを受けて工事が中止され、800人が解雇された。首脳は直ちにロンドンへ走り、政治的解決を模索する。巨大な戦艦は、今は戯れに「英国軍艦『赤錆』 HMS Rust」などと呼ばれ、艤装岸壁に繋がれたまま、しだいにあだ名の通りになっていった。
 一部の砲塔には砲身も装備されていたが、それはたまたま作業の手順で搭載されただけだったために、あちこちの砲塔に、ほとんどでたらめに取り付けられたようなものだった。いまだ「世界最大」の称号はそのままだったが、これが本当に完成することがあるのか、誰しもがいぶかるしかなかったのである。

 この頃、南アメリカの競争とは別に、東地中海もまた紛争の渦中にあった。こちらの紛争は南米と違って単なる競争ではなく、現実の戦いが伴っていたから、戦力への渇望は緊急度の桁が違う。
 過去の大国トルコは、この100年来、領土を次々に蚕食されており、1911年にはトリポリの権利を巡ってイタリアと争っている。翌年には、これがセルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシャへと飛び火し、いわゆるバルカン戦争となった。
 余談だが、この問題についてネット上を検索したり、関連書物を探すときには、十分に注意していただきたい。まったく違った題材の「バルカン戦争」のほうが、圧倒的に有名なのである。

 20世紀に入ってから、1904年にトルコはまず、アームストロング社から巡洋艦『ハミディエ』 Hamidieh (元『アブダル・ハミド』 Abdal Hamid )を買った。
 ギリシャはこれに対抗して1909年、イタリアから建造中の強力な1万トン級装甲巡洋艦を購入している。これはギリシャ人の海運業を営む大富豪が、建造費のおよそ3割にあたる28万ポンドを寄付することで実現した。
 1911年にはこの装甲巡洋艦が完成することから、トルコは1910年、ドイツから中古品の戦艦を買っており、さらに1911年、イギリスのアームストロング社とヴィッカース社に2隻のド級戦艦を発注していた。これは13.5インチ砲10門を装備する強力な戦艦で、対応に苦慮したギリシャは、遅ればせながらも超ド級戦艦『サラミス』 Salamis を計画し、船体はドイツから、砲はアメリカから調達しようとする。

 1912年の戦争では、決定的な結果は招かなかったものの、トルコとギリシャの艦隊戦闘も起こっている。巡洋艦『ハミディエ』は、数カ月に渡って東地中海を荒らし回り、ギリシャの海運を震撼せしめた。この戦争が起こったことで、アームストロング社は戦艦の工事を中止し、ヴィッカース社だけが建造を続けた。結局アームストロング社の艦は1912年にキャンセルされてしまう。
 ブラジルが建造中だった世界最大の戦艦、この時にはすでにこれを上回る艦が建造中なのでたいした意味はないのだが、が、売りに出されたという話は、ギリシャ、トルコ両国に衝撃を持って迎えられた。トルコには、先のキャンセルを補う必要があり、そこへ『リオ・デ・ジャネイロ』が転がり込んできたのだった。両国とも、これが相手に渡ればどういうことになるか百も承知している。しかし、この争奪戦は、カネという容易には解決できないものが武器である故に、とっさの対処は困難を極めた。

 どちらの国も戦いで疲弊しており、現金を用意できはしない。ローンを組もうにも、その対外債務の大きさは、大銀行をして躊躇させるのに十分だった。また、政治的な立場も国ごとに関係が異なるし、どこか一国に一辺倒の関係をしていなかったから、無条件の肩入れもしてもらえなかった。
 トルコは海軍にこそイギリスから人を迎えていたが、陸軍はドイツよりであり、対立をまともに国の中へ持ち込んでしまっていた。手玉に取るつもりだったのかもしれないが、非常に危険な遊戯と言うしかないだろう。状況が険悪になっているなか、これから戦艦を建造するのでは、とうてい間に合わない。とりあえず、駆逐艦や小型の巡洋艦は次々に発注されていた。そこへ降って湧いたのが、ほとんど完成している戦艦の身売りである。

 この頃、イギリスとドイツは建艦競争の真っ最中で、手放すことのできる新型艦など持ってはいない。アメリカも同じことであり、出遅れたフランス、イタリアに至っては、お話にもならなかった。
 イギリスではブラジル向けに1隻、チリ向けに1隻が建造途中であり、もう1隻は起工したばかりだからどのみち間に合わない。アメリカのアルゼンチン向け戦艦も、ブラジルがすでに2隻を持っているからには、譲るわけがないのである。つまり、1914年中に入手できうる戦艦は、世界にただ1隻、ブラジルが放り出した『リオ・デ・ジャネイロ』しかないのだ。どちらもがこれに飛びついた。

 ギリシャはここで、外交上の行き違いから苦汁を嘗めることになる。彼らの新戦艦は、船体をドイツから、砲をアメリカから買うという変則的な調達を行っており、イギリスはこの受注にあずかれなかったから、彼らはギリシャに恩義もなければ、弱みを握られてもいないのだ。
 トルコは各国へ積極的に交渉使節を送り、ついにフランスの銀行から400万ポンドの融資を取り付ける。慌てたギリシャはイギリス政府に泣きついた。
「しかし、事は私企業の問題ですからな、そう仰られても、やめろと言うわけにはいかんのですよ」
「だが、彼らは異教徒ですぞ。あなた方は、同じキリスト教徒である我々を見捨てると言うのですか」
「ですから、我々には如何ともしがたい問題なのですよ。仮にギリシャが戦艦の対価を用意できるのであれば、まだ話の持っていきようもあるでしょうが、売るのだけ止めさせろと仰られても、アームストロングが納得するわけがない」

 直接にはイギリスに大きな利益をもたらしていない相手である。10年前、日露戦争の時に、やはり異教徒である日本を利するために、チリ向けに建造中だった戦艦が、ロシアの手に渡らないよう引き取って中立化したような同盟関係にもなければ、潜在的な利益も期待できないのだ。
 『リオ・デ・ジャネイロ』は、その性格上、イギリス戦艦艦隊の中に入れたのでは異質にすぎ、運用に不便である。すでに13.5インチ砲戦艦を主力とし、15インチ砲へ進もうとしている艦隊にとっては、いまさら12インチ砲に魅力はない。イギリス海軍は、あえてこれを入手しようとはしなかった。
 トルコはすでに落日の国家であり、戦艦の1隻や2隻でどうなるものでもない。ギリシャとて、無理に手をさしのばすだけの存在ではないのである。政府は事の成り行きを私企業のソロバンに任せる。

 どうにもならなかった。クルップ社をどんなに急かせてみても、完成は1915年になってからでしかない。解約して違約金を払い、『リオ・デ・ジャネイロ』を買う選択をしたところで、問題は解決しない。キャンセルされた『サラミス』は、トルコが喜んで買うだろうからだ。
 彼らは『リオ・デ・ジャネイロ』とほぼ同時期に完成する戦艦を持っている。『リオ・デ・ジャネイロ』を手に入れられなくても、対等になるだけで劣勢ではないのだ。そうなれば、時間はトルコの味方である。手をこまねいていれば、トルコは同時に2隻のド級戦艦を手に入れる。彼らがそれで何を始めるか、背筋に冷や汗が流れた。

 藁をも掴むというのだろうが、ギリシャはアメリカのとんでもない提案を聞く。それは、旧式になった戦艦『キアーサージ』 Kearsarge と『ケンタッキー』 Kentucky を譲るというものである。これは1900年に完成した戦艦で、13インチ主砲と8インチ副砲を持ってはいるものの、それを二重砲塔に装備するというゲテモノなのだ。
「こんなもの、それこそ浮かぶ棺桶じゃないか」
 その砲は、口径こそ立派だが、とうてい現用には耐えない旧式砲であり、提案を聞いた海軍大臣は、さすがにこの話を断った。

 アームストロング社にフランスの銀行から最初の100万ポンドが届き、『リオ・デ・ジャネイロ』は、トルコの手に渡ることになった。新しい名は『サルタン・オスマン一世』 Sultan Osman 1 と定められる。これは、14世紀から15世紀にかけて、帝国の版図を地中海沿岸に拡大した、勇猛で知られるサルタンの名である。500年を経て、その名を冠した戦艦が宿敵ギリシャを叩きのめす図を、トルコの人々は心に描いていた。

 建造中の『レシャディエ』 Reshadieh と『サルタン・オスマン一世』は、まったく見事なほどに仕様が懸け離れている。主砲の口径も、装甲の厚さも、速力もまったく異なっているから、艦隊行動をとればどちらかの性能が宝の持ち腐れになってしまう。
 とはいえ、『サルタン・オスマン一世』の速力性能には、それなり期待もあっただろう。ギリシャの装甲巡洋艦『イェオルギオス・アヴェロフ』 Georgios Averoff の速力はほとんど同じなので、これを押さえ込むにはまさに打ってつけなのだ。でくわせば逃げられず、太刀打ちもできない相手がいるということは、巡洋艦にとって致命的である。

『イェオルギオス・アヴェロフ』の簡単な要目
常備排水量:9,958トン
全長:140.8m・幅:21.0m・吃水:7.5m
速力:22.5ノット
兵装:9.2インチ45口径砲4門、7.5インチ45口径砲8門他

 おそらく、この戦艦のスペックを知ったギリシャ海軍の首脳部は、頭を抱えるしかなかっただろう。あとは、ドイツで『サラミス』が完成するまで、事の起きないことを祈るしかない。とはいえ、世界情勢はかなりの速度で下り坂を走っている。戦争という決断が、いつ、どこで、誰によってなされるか、それは不可避とも思われた。それでも、気楽に決断できることではないだけに、時間が残っていてほしいと、誰もが考えている。
 しかし、実際の歴史は、これらの人々の思惑をすべて押し流し、誰もが準備を整えないままに、崖を転がり落ちてしまったのである。

 1914年6月28日、サラエボに銃声がとどろき、後戻りのできないすべてが始まった。



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