大戦艦 5
The Big Battleship : HMS Agincourt (5)




down-river to Walker yard

ウォーカーのアームストロング社工場へ向かう「大戦艦」、マストが折り畳まれている

 この段階ではトルコに売却されることになっており、名前は「サルタン・オスマン一世」Sultan Osman I である。
 エルジック工場から艤装のためにウォーカー工場へ向かう途中で、橋をかわすために三脚檣が折りたたまれている、非常に珍しい写真。マストは折り畳み式になっているわけではなく、ジョイント部分を外して、仮設された台の上に寝かされているだけのようだ。



第3章・「君の分はないから、帰っていいよ」

 1913年の冬が訪れる前に、ブラジル人たちはタインからほとんどいなくなった。わずかな数の下級技術者だけが、対岸の安下宿に身を寄せ、造船技術習得のために残留している。
 それも次々にいなくなり、最後に一人だけ、ロペスという男が残った。彼は地元の女性と結婚してニューカースルに住み着き、小さな雑貨屋を開いている。

 1914年が明け、大戦艦はトルコのものとして完成されると新聞に発表される。1月の半ばに建造作業は急ピッチで復活し、各種技術者が大量に戻ってきた。『赤錆』は『サルタン』と呼ばれるようになる。トルコからは、金策に奔走していたラオーフ・ベイが、戦艦の引き取りに乗り込んできた。
 仕事はまず、半年放置された錆落としから始まり、激変する国際情勢を横目で眺めながら、トルコ海軍の要求する仕様変更が行われる。とはいえ、基本的な構造はいじくりようもない。士官室の内装や、居住区への特殊な備品備え付けがメインである。何より手間のかかるのは、艦内そこいらじゅうにあるポルトガル語の銘板を取り替えることで、文面をすべて一度英語にしてからでないと、翻訳できる通訳すら見つからないのだった。

 トルコ本国では、この戦艦を購入するために通常の会計とは別に資金を調達せねばならず、羊毛、タバコ、パンにまで新たな税金が課されていた。それでも資金は足らず、官僚の給料は遅配が当然となり、街角には「我らが艦隊のために」という募金箱まで置かれている。
 つい前年まで、トルコはイタリア、ギリシャの海軍に叩かれ、こっぴどいめにあっていたのだ。世界最大、最強の戦艦が手に入れば、もうあんな惨めな思いはしなくてすむだろう。失われたものも取り戻せるに違いない。

 およそ1,100人とされる乗組員を集めるのさえ、重大な問題だった。とりあえず艦長を予定されたラオーフ・ベイと、中心的な士官がイギリスに送り込まれ、新型機器の取り扱いを学んでいた。コンスタンチノープルでも、イギリス海軍から派遣された士官が、トルコ海軍から近代兵器を扱えるだけに有能な若者を選抜し、砲術とその指揮を伝授しようとしている。
 前世紀の、とうてい実弾発射に安全を確信できない砲を用い、影も形もない射撃指揮装置の扱い方を、仮拵えの模型を作り、通じない言葉を身振り手振りで補いながら、苦心惨憺の末に伝授するのだった。もちろん、最新式の方位盤ではない。それは取り付けられる予定もなかった。

 6月の雨の朝、『サルタン・オスマン一世』は、最終艤装のためにエルジックの岸壁を離れ、新しいウォーカー工場へと向かう。未完成の戦艦は、すでに装備されている自身の機関を用いて移動を開始した。間隔の大きな2本の煙突から黒煙を曳きながら、タグに付き添われた巨大な船体が川を下っていく様は、これまたひとつの見世物として人の目を集めている。
 1ノットにも満たないような速度で、『サルタン』は進んでいく。主砲はまだまばらに装備されているだけで、ぽっかりと穴の空いただけの砲塔も多い。
 艦橋は造られておらず、仮のブリッジが船体幅一杯の長さに取り付けられ、簡単なハシゴがかけられている。中央部の砲塔をまたぐ、ボート搭載用のフライング・ブリッジは取り付けられていたが、工員はこれを「大理石のアーチ Marble Arch」と呼んでいた。

 かつてタイン川を下った船の中でも、これは出色の大きさを持つ。土手では子供たちがはしゃぎ、橋には万一の火災を恐れて消防隊が待機していた。
 途中にあるいくつかの橋をくぐるために、巨大な三脚檣は二本とも根本付近から折り畳まれて、仮設の架台に寄りかかっていた。それでも桁下がひときわ低いスウィング橋では、煙突がすれすれのところを通過していく。キング・エドワード七世鉄道橋は十分な高さがあり、問題なく通り抜けた。
 夕方、『サルタン』はウォーカー工場の埠頭にもやわれる。

 14門の主砲のうち、12門はすでに完成していて、未搭載のものも6月半ばまでには取り付けられるはずだった。しかし、最後の2門は砲身工場が設備を更新したために製造が遅れており、早くても7月にならなければ搭載できないと考えられている。船体の工事は着実に進んでおり、造船所の報告によれば、突貫作業によって7月11日には、最終的なドック入りができるとされた。作業員には、予定期日までに工事を完了すればという条件で、ボーナスが提示されている。

 6月末、アームストロング社はトルコのラオーフ・ベイに対し、7月7日には公試が始められると通知した。残るのは2門の12インチ砲と若干の6インチ砲だけであり、公試が終わる頃までには準備できると見積もられている。
 最終的なドック入りは、船体が長いこと水に浮いたままだったことを考えれば必要不可欠のことなのだが、これだけ長い船を収容できるドックは少なく、タインからでは国内で最も遠いところにあたる、デボンポート(南西部プリマス近辺)のドックまで行かなければならなかった。
 7月7日朝、晴天の下、『サルタン・オスマン一世』はもやいを解き、ウォーカー工場の岸壁を離れる。乗り組んでいるのはほとんどが造船所の工員であり、彼らに混じって、使用法を習得するために送り込まれたトルコ人乗組員が持ち場についている。やがてタグボートが離れ、大戦艦はついに自分の足で歩きはじめた。

 同じ7月、コンスタンチノープルでは、大戦艦を受領するために乗組員をイギリスへ送る算段が進められている。もう1隻の戦艦『レシャディエ』の乗組員を選抜したあとだけに、トルコ艦隊の人材は払底し、有能な人間はほとんど残っていないような始末だった。
 とはいえ、ライバルのギリシャは、アメリカから既成戦艦を買い込んでおり、これに対抗するためには、2隻の超ド級戦艦をできるだけ早くに本国へ持ち帰らなければならない。

 ギリシャでは、せっかく「浮かぶ棺桶」を断った賢明な人物を横へどけてしまい、大口径砲信奉者がアメリカの口車に乗せられたので、いまさらどうしようもないような旧式戦艦、『ミシシッピ』 Mississippi と『アイダホ』 Idaho を買い入れさせられていたのである。
 『レムノス』 Limnos、『キルキス』 Kilkis と名付けられた2隻は、7月には到着すると噂され、それなりトルコ海軍にとって脅威になるのは間違いなかった。これらを圧倒するためにも、新戦艦は必要不可欠なのである。

 この頃、イギリス政府も、東地中海の軍事バランスにとって、ド級戦艦はギリシャよりもトルコにあったほうが望ましいと考えていた。トルコは英独双方から軍事顧問を招いており、その綱引きの意味合いもあったのだろう。オーストリアとセルビアの緊張が高まる中、ロシアの軍事力と生産力がドイツには大きな圧力であり、トルコがどちらよりに立つかは、ダーダネルス海峡の通過という側面で、非常に大きい問題だった。

 ドイツ海軍も、これをただ指をくわえて見ていたわけではない。最新鋭の巡洋戦艦『ゲーベン』 Goeben を地中海へ送り込み、ドイツ海軍の旗を見せて歩くことで、沿岸国、地域へ圧力を加えている。
 イギリスもこれに対抗し、『インヴィンシブル』 Invincible、『インフレキシブル』 Inflexible、『インドミタブル』 Indomitable、『インデファティガブル』 Indefatigable の4隻の巡洋戦艦を地中海へ配置した。それでもこれらの軍艦は、同じ港で出会えば互いに挨拶を交わし、ディナーを交換する。士官同士は交友を深め、平和的、かつ和やかな時を過ごしていた。

 7月8日、『サルタン・オスマン一世』は、巡航速力で英仏海峡を下っていく。艦内には、アームストロング社の工員が数百名乗り込んだままで、細部の調整や細かい造作に携わっていた。伝声管、信号線、警報機、水圧機の調整、果ては作りつけの物入れやら、トルコ人向けに取り付けられた風呂場の設備まで、仕事は切りがない。
 9日、戦艦はデボンポートへ到着するや、ただちに乾ドックに引き込まれた。進水からすでに18カ月が経過しており、その間ずっと繋がれたままだったのだから、艦底の状態は想像に違わぬものである。すぐ隣では、イギリス自身の戦艦『ウォースパイト』 Warspite が建造中だったが、『サルタン』はこれよりもさらに長く、四つの主砲塔しか持たない『ウォースパイト』に対し、七つを持つ『サルタン』の異彩さは際だつばかりである。

 早速掻き落としや塗装が行われ、保護用の亜鉛板も取り替えられた。トルコには、この船が入れるドックはない。次にドック入りできるのがいつになるのか、誰にも判らなかった。新しいドックを建設する計画もあるのだが、とりあえず入れる物のほうを先に買ったので、容れ物を買えるのがいつになるのか、これも見当がつかない。まあ、ドックだけあっても戦争には勝てないから、仕方がないのだが。

 戦艦がドック入りしている間、乗組員のほとんどは上陸し、知らない土地の感触を楽しんだ。タインの工員たちも同じである。トラブルを避けるため、トルコ人たちが上陸するときには海兵隊が護衛につき、市内の宿舎まで同行した。なにやらパレードのような行進である。
 夜ともなれば、市内へ繰り出した面々は、怪しげなパブやそれなりの店へと消える。酒に溺れるものもあり、お定まりのトラブルも発生した。まあ、どこででも、いくらでも起きる範囲のことであったけれども。

 ドック入りも終わり、出港の前日には石炭の搭載が行われた。すでにイギリスでは重油専焼へと向かいつつあったものの、他の国では石油事情が良いわけでもなく、まだまだ石炭に頼らなければならない。総出で行われた載炭作業は、夜までに1,500トンを積み込んで終わり、甲板はきれいに洗われた。その晩の上陸は許可されなかったが、艦内では乗組員、工員、石炭船の作業員たちの酒盛りが行われ、皆がしたたかに酔っぱらっている。
 帰途の航海も穏やかで、皆は暖かな海を楽しんだ。まだ残り2門の主砲は装備されていなかったけれども、他の部分には大きな問題もなく、工員たちは報告書を仕上げ、改良すべき点も整理された。

 夜、戦艦はスピットヘッド沖を通過したが、彼らはここで忘れることのできない光景を目にする。スピットヘッドでは、ジョージ五世王の観艦式が準備されており、蝟集した200隻もの軍艦が湾内を照らす明かりは、そこに不夜城を現出していたのだ。
 24隻のド級艦を含む59隻の戦艦を始めとし、11列に並んだ艦隊は、延々数十キロにも及ぶ長さに展開している。とりわけトルコ人にとって、この光景は印象が強かった。真の海軍がどんなものか、畏怖を感じずにはいられなかったのである。
 戦艦は足を速め、タインへと急ぐ。残った砲を搭載し、一刻も早く祖国へ戻らなくてはならない。ところがトルコ人たちは、戦艦がまっすぐタインへは戻らないと聞かされる。その前に近くの標柱点へ向かい、速力公試を行うというのだ。

 『サルタン』は速力を上げる。煙突からは真っ黒な煙がもうもうと上がり、速力が19ノットから20ノットになると、艦首は波を切り分けきれなくなって、海水が副砲砲廓の脇から上甲板にまで上がってくるようになった。21ノットに達すれば船体は振動し、ものに掴まっていなければ立っていることさえ難しくなる。
 戦艦は標柱間へ22ノットを超える速力で突入した。すべての缶は全力を振り絞り、タービンは4万馬力を叩き出す。最大速力は22.42ノットと計測された。期待に違わぬ能力である。乗組員には満足の笑みが浮かんでいた。




on her trial run

「サルタン・オスマン一世」として公試中の一齣

 まだ5番砲塔に砲身が見えないので、おおよその時期は推測できる。速力はかなり速いが、全速ではなさそうだ。



 7月18日、『サルタン』は工事を中断してフォース入江へと移された。指定された碇泊位置は、ちょうど鉄道橋の真下であり、艦は通りかかる人々の好奇の目にさらされることになる。ハンブルグ・アメリカ・ラインの客船が、国際危機によって旅行を切り上げ、本国へ戻るドイツ人たちを乗せて傍らを通り過ぎていく。
 戦争への危機感は日増しに強くなっており、オーストリアがセルビアへ宣戦を布告するのは、時間の問題と思われていた。
 22日になり、戦艦はタインへ戻ることになった。この不可解な遅れも、残った砲が直ちに搭載され、照準器の調整が終われば、すべての工事が終了するというアームストロング社の言明によって忘れられた。艦長ラオーフ・ベイは、いよいよ宿敵ギリシャを叩きのめす日が来たと、ひとりごちている。

 1914年7月末の時点で、本国海域にあるド級戦艦は、巡洋戦艦も含め、イギリス24隻、ドイツ17隻とされる。これは連綿と続いてきた建艦競争の結果であり、ひとつの経過点でもある。依然、イギリスが優勢であるのは間違いなかったけれども、まだチャーチルが枕を高くできるほどではなかった。何かトラブルがあれば、勢力比は危険なほどに接近するだろう。
 当初、『サルタン』の売却先がブラジルからトルコへと変わったことを、チャーチルは歓迎していた。2隻の戦艦が与える影響は、トルコをして親イギリスへ導くと考えたからだ。しかし、1914年になって、トルコ国内に親ドイツ派の台頭が著しくなり、不安が増してきている。
「トルコに望むべきものは何もない。この出来上がるばかりの2隻の戦艦は、イギリスとドイツの現在の差、7隻をより拡大する。トルコに送ってしまえば使えはしないだろうし、下手をすれば敵に回る恐れさえあるのだ」

 7月はじめまで、タインのアームストロング社とバーロゥのヴィッカーズ社は、それぞれ戦艦の建造に全力を尽くしていた。タインで工期が4日も縮まったのがよい証拠である。建造費の最終支払いも終わり、すでに戦艦は引き渡される日を待つばかりとなっている。まもなくトルコから引き取り要員を乗せた客船が到着するはずであり、そうなれば引き渡しを拒む理由はなくなる。
 7月27日、トルコからの客船が到着し、ラオーフ・ベイは、8月2日午前8時をもって艦を引き渡すとの通知を受けた。8月1日には最後の砲が艦に搭載され、照準装置も取り付けられるはずだ。

 7月31日、ドイツからフランスへ最後通牒が交付され、チャーチルは決断する。この戦艦が1隻でもトルコへ渡り、敵対することがあれば、これに対抗するために3隻の戦艦が必要になるだろう。ただ釣り合わせるためではなく、確実に叩き潰すためには、それだけの戦力差が必要なのだ。もしトルコ人たちが、これをそのままヴィルヘルムスハーフェンへ持ち込んだらどうなるか、そんなことは想像したくもない。
 チャーチルはアームストロングへ通知する。「『サルタン・オスマン一世』を、去就の明らかでない外国政府の手に委ねることはできない。イギリス国王は同艦を接収する。よろしくご協力いただきたい」
 8月1日昼、引き渡しまで24時間を切った時点で、造船所に兵が派遣され、要所を警備するとともに、艦に残っていたトルコ人たちの追放が行われた。彼らは銃剣で追い立てられ、ボートに乗せられると、対岸で引き渡しを待つトルコ人たちを乗せた客船『ネシッド・パシャ』 Neshid Pasha へと送られる。

 満足のいく説明など、あろうはずもなかった。ラオーフ・ベイは猛烈に反発し、抵抗しようとしたが、チャーチルの態度は頑なだった。「戦艦は2隻ともイギリス政府が接収する。金銭的な問題については、後刻、両政府間で話し合われるだろう」
 何ひとつ耳を貸さず、抗議文書を受け取ろうとさえしなかった。通知を受けたトルコ政府も激高したけれども、具体的に取りうる方策はない。アームストロング社としても、肩をすくめるしかできないのだ。

 この日、ドイツはロシアに対し、戦争を開始した。翌8月2日には、ベルギーの中立を一方的に破って国境を越える。3日、フランスとドイツが戦争状態に入った。大半の人々はこれほどの激変を想像しておらず、ほとんどの国は準備もないままに戦争へ突入する。そして誰もが、この戦争は長くても数カ月、短期間で終わるものと考えていた。
 地中海にあったドイツの巡洋戦艦『ゲーベン』もまた、本国帰還の機会を失い、ドイツは貴重な巡洋戦艦戦力の中から駒をひとつ失う。せいぜいアドリア海へ入って、オーストリア海軍と行動を共にするくらいしか、生き残る道はなかった。…はずだった。

 しかし、『ゲーベン』は巧みに追撃艦隊を振り切り、コンスタンチノープルへ逃げ込んでしまう。中立国トルコは、本来ならば24時間以内にこれを国外へ出さねばならず、そうしないのなら抑留する必要があった。ドイツは、この降って湧いたような機会を最大限に利用する。なんと、『ゲーベン』をトルコに譲渡してしまったのである。
 戦艦の建造資金を調達するために街頭募金を行い、そのために髪を売った女性までいたトルコでは、イギリス政府の戦艦接収に対して反感が募っており、世論は気前良く最新鋭の戦艦をプレゼントしてくれたドイツへ急速に傾斜していく。
 本来、自国艦隊を増強し、戦争を有利に導くためだった『サルタン』と『レシャディエ』の接収は、『ゲーベン』という存在によって裏目に出ることになってしまう。アームストロング社の艤装岸壁に繋がれたままの戦艦は、『ゲーベン』同様世界戦争に大きな影響を与えたのであるが、裏舞台での存在だったために、脇役としても評価されていない。

 大戦艦には、ひっそりと13,14番目の12インチ砲が搭載された。艦は正式にイギリス海軍に移され、制式仕様に合わせるための変更が検討される。トルコ語の銘板をはがしてみれば、裏にはポルトガル語の文言が彫り込まれている。銘板は新たに作り直すしかなかった。
 他で完成しつつある戦艦には、近代装備として方位盤が装備されているけれども、『サルタン』にはそれがない。装備すべき準備もされていないし、何よりも7砲塔14門を管制する装置など、考えられてもいないのだ。
 やがて戦艦の新しい名前が発表される。『エジンコート』 Agincourt。
 それなり由緒のある、百年戦争での戦勝地の名である。しかしこれは、本来建造されるはずだった新型戦艦に予定されていた名であり、その建造が戦争の勃発によってキャンセルされたため、余った名でもあるのだ。

 こうして、ブラジルの野望『リオ・デ・ジャネイロ』は、トルコの誇り『サルタン・オスマン一世』を経て、大英帝国海軍軍艦『エジンコート』となった。わずか1年の間に三つの国の手を移るという稀有な存在はまた、ほとんど無意味とも言える「7」という主砲塔の数でもレコード・ホルダーである。
 幸いというべきか、本艦には実戦参加の場があり、1916年5月31日のジュットランド海戦では、144発の主砲弾と、111発の副砲弾を発射している。その一斉射撃の光景は、あたかも艦そのものが爆発したかのようだったと言われている。



Irrustrated by Fismajar

fismajarこと縹渺ミノル絵師の描いた、12インチ主砲14門を斉射する『エジンコート』

 このイラストは、私が絵師から直接頂戴したものですので無断再掲を禁じます。
 旗が檣頭にないのは、デザイン的な問題だそうです。絵師の他の作品は下のリンクにあります。

to other site  恍惚したいモナカへ



to (4)  4へ 6へ  to (6)



―*― ご意見、ご質問はメールまたは掲示板へお願いします ―*―

スパム対策のため下記のアドレスは画像です。ご面倒ですが、キーボードから打ち込んでください。

mail to



to wardroom  ワードルームへ戻る