ドッガー・バンク海戦(2)
Battle of Dogger Bank 1915-1-24 (2)




H.M.S. Lion

イギリス巡洋戦艦『ライオン』 Lion



第一幕、第一場、英国海軍省執務室、1915年1月23日午後
「閣下、奴らがまた出てきます」、部屋へ入ってきたウィルソン提督が話しかけた。
「いつだ」、チャーチルがぶっきらぼうに返す。
「今夜です。ビーティがてぐすね引いています」
「フフン……こんどこそ叩き潰してやる」、深々と煙を吸い込んでから、指先の葉巻がへし折られた。

 ドイツ艦隊の出撃は、情報部の暗号解読によって、彼らがまだヘリゴランド・バイトを抜け出す以前にイギリス側に察知されており、イギリス海軍省は急遽待ち伏せ作戦を立てると同時に、各艦隊に出撃を命じた。無線信号の方位測定から発信位置を特定するシステムも稼働しており、ドイツ海軍の行動は、かなり正確に把握されてしまっている。動員された艦隊は、後のジュットランド海戦と比較しても大きな遜色がないほどの大部隊だった。彼らは厳重な無線封止の下に行動を始める。

 一方のドイツ海軍では、主力を指揮するインゲノール提督が、つい数日前にグランド・フリートが北海方面に出動していたことから、載炭作業のために行動できないだろうと推測して、自らの艦隊に出撃を準備させていない。偵察としては若干のツェッペリン飛行船が行動していたくらいで、これらも作戦予定海面へ到達しておらず、情報はないに等しかった。
 偵察艦隊を指揮するヒッパー提督は、後衛をまったく当てにできない状態で出撃しなければならなかった。ヒッパーも、まさかイギリス艦隊が罠の口を大きく開いて待っているとは思っておらず、15ノットののんびりした速力で、その顎の下へと艦隊を進めている。



 朝7時、会合の予定時間に、イギリス艦隊は南北から接近してドッガー・バンクで出会う。水雷戦隊を先導するティルウィットの軽巡洋艦がビーティの前方に見え、駆逐艦隊はそのさらに後方にあった。グーデナフの軽巡洋艦も巡洋戦艦に続いている。合同した艦隊は陣形を整えながら、東へ向きを変えた。

 ハリッジ艦隊では、『オーロラ』の指揮する第1駆逐艦隊が、濃霧のために出港が遅れ、『アレシューザ』から30分ほど後方を進行していた。この遅れにより、『アレシューザ』が通り過ぎた後の海面に現れたドイツ艦隊を発見することになる。
 7時15分、イギリスの軽巡洋艦『オーロラ』は、ドイツ艦隊左翼にいた『コールベルク』を東方に発見した。敵艦の存在はただちに通報され、駆逐艦隊は戦闘準備を整える。この時、ビーティの巡洋戦艦は水平線のすぐ向こうにおり、グランド・フリートはすでに北海を南下しつつあった。
 海は穏やかで、風向きは北東ないし東微北、風力3から4の軽風、夜が明けるところで靄は薄く、視界はたっぷり20キロメートルはあったとされる。

 軽巡洋艦隊ではただちに砲火が交換され、距離5,000メートルでイギリスの6インチ砲弾は、『コールベルク』に2発の命中弾を与え、5名を死傷させている。ドイツ側もイギリス艦に3発を命中させたが、その装備するのは10.5センチ砲でしかなく、損害は軽かった。
 ヒッパーの巡洋戦艦部隊は支援のために北西へ向かい、『コールベルク』はイギリス軽巡洋艦をおびき寄せようと撤退進路へ入る。
 夜明けの水平線に発砲の閃光を認めたビーティは、ただちに戦闘地点へ針路を取り、速力を18ノットから23ノットへと上げる。イギリス艦隊にとっては、遭遇は少々早すぎ、陣形も不揃いで、南へ回り込むにはかなり急がなければならなかった。
 ビーティとヒッパーは、水平線の向こう側で、互いに衝突針路を取っている。

 7時30分、『サウサンプトン』は南東に別なドイツ軽巡洋艦を発見する。これは右翼にいた『シュトラルズント』と『グラウデンツ』で、まもなく巡洋戦艦の大きな煙柱も視野に入ってきた。
 この通報によってイギリス艦隊は色めき立ち、彼らはほぼ理想的な状況の下に、ドイツ艦隊を捕らえたと確信する。

 この時、『コールベルク』もイギリス巡洋戦艦の煤煙を望見し、ヒッパーに対して警報を発するのだが、その報告では「大型艦8隻」となっており、ヒッパーはその解釈に苦しむ。
 彼はビーティの艦隊がそれほど多くないことを知っており、可能性として、これはジェリコーのグランド・フリートの前衛かもしれないと考える。もしそうなら、ビーティの艦隊は別にいることになるから、このままの針路を進むことは自殺的である。
 ヒッパーは状況を重く見て、ただちに東南東へ向きを変え、撤退針路へ入った。同時にインゲノールへ通信を送り、左舷後方に軽巡洋艦4隻の艦隊がおり、他に3隻の軽巡洋艦と、少なくとも26隻の駆逐艦がいることを通知した。さらに、その後方には動きの速いいくつかの煤煙が見えるとも報告している。
 高海艦隊はただちに出撃準備を始めたが、出撃には4時間を要するとみられ、とうてい間に合うわけもない。それでもインゲノールはまだ、ヒッパーが安全に帰還できるものと考えていた。

 7時50分、南東へ向けて速力を上げていたビーティは、およそ23キロメートル先にヒッパーを発見する。ビーティは25ノットへ増速し、ドイツ艦隊の南側へ回り込もうとする。グーデナフの軽巡洋艦隊は、ドイツ艦隊の北側を進む。
 左翼を先行するグーデナフからはより視界が開けており、8時23分、敵情を確認してビーティとジェリコーへ報告する。「北緯55度4分、東経4度4分にて、巡洋戦艦4隻を含む敵艦隊を発見、針路東南東、追跡中」、スカウトのお手本のような報告だった。

 イギリス艦隊の接近は速く、ヒッパーは艦隊の速力を上げるものの、23ノットとされる『ブリュッヒェル』の最大速力が全体の足を引っ張っている。艦列は先頭が旗艦『ザイドリッツ』で、『モルトケ』、『デアフリンガー』と続き、最後尾が『ブリュッヒェル』だった。
 8時25分、『ブリュッヒェル』は21センチ主砲を、急速に接近してくるイギリスの駆逐艦隊へ向けて発砲し、これを追い払った。グーデナフは迂闊に射程に入らないよう、接触を保ちながらもドイツ艦隊の左舷側を進む。真後ろからの追跡を避けたのは、ドイツ艦隊が機雷を投下する可能性も考えられたためである。駆逐艦隊はこれらの後方に展開していた。
 ドイツ艦隊はようやく21ノットに達しているが、すでに増速していたイギリス巡洋戦艦隊の接近は急であり、水平線にその姿が見えはじめている。



●軍艦の速力が、公試時に記録されたデータを上回ることはめったになく、整備状況によってはかなり下回るのが通例です。『ブリュッヒェル』の最大速力は、カタログでは24.25ノットですが、公試では25.5ノットを記録しており、このときの実際の速力は判然としません。
 現場の艦でも、ログを流して計測するわけではなく、周囲に目標となる固定点もありませんから、一般には機関の回転数で速力を判断しています。ですから、風向き、海流、スリップなどで実際の速力は食い違い、高速力での航法ではときおり大きな間違いを生むことがあります。
 ドッガー・バンクはかなり浅い海ですので、大型艦の速力発揮には不利だったはずですが、これはお互い様なので問題にはならないでしょう。



 ビーティは26ノットへの増速を命じ、さらに27、28ノットへと加速する。ムーアの『ニュー・ジーランド』はこれに追従できず、ジリジリと取り残されていく。『インドミタブル』の速力はさらに遅く、ほとんど射程に入れなかった。
 各艦のボイラーはうなりをあげて空気を吸い込み、石炭焚きの艦では、その供給に大わらわとなった。特にドイツのしんがりである『ブリュッヒェル』では、全員の生死が機関部員の働き如何にかかっており、ボイラー室は灼熱地獄の様相を呈している。それでも機関室からの信号は、「もっと蒸気を」ばかりだった。

 8時52分、ビーティはついに29ノットを命じるが、これを達成できる艦はなく、これは単に艦隊を鼓舞するための命令だったのだろう。同じ時刻、ビーティは『ブリュッヒェル』へ向けて、およそ20,000メートルの大遠距離からの射撃を命じた。
 旗艦艦長のチャットフィールド Chatfield は、艦が14,600メートル (16,000ヤード) より遠距離での射撃訓練を実施したことがなく、そもそも射撃指揮装置にそれだけの距離での諸元表がないので、斉射は無駄弾になるだけだと進言し、許可を得て『ライオン』の中部Q砲塔から最大仰角による1発だけの試射を行った。これは案の定、大きな近弾となっている。

 ビーティは『ライオン』から『ブリュッヒェル』へ向けて、スローペースの測距射撃を始める。一発ごとに近付いてくる水柱は、『ブリュッヒェル』には死神の足跡のように思えただろう。



●試射の目標が『ザイドリッツ』だとする資料もあります。これには疑問を感じるのですが、挑戦状的な射撃であるのならば、敵旗艦へ向けるのも不自然ではなく思えます。もっとも、近くへ落ちなければ意味を成しません。その後の射撃では、『ライオン』は『ブリュッヒェル』を目標にしていますから、これはやはり『ブリュッヒェル』へ向けたと考えるのが順当でしょう。

●速力29ノットはご愛嬌でしょうが、実際には27ノットくらいだったようです。『タイガー』は旗艦に追従できたものの、『プリンセス・ロイアル』は若干遅れ気味だったとする文献もあります。
 相対速力は接近の度合いから計れるのですが、射程に入った後、後部砲塔を使うために艦隊を展開するのが通常ですから、方位が正確に判らないと確実な速力差は計算できません。私の手元にある限りの、相互の位置関係を示す資料では、計算すると速力差は4ノットくらいとなりますので、おおよそ符合します。

●『ライオン』がQ砲塔を使ったのは、中央部にあってピッチングの影響が小さいのと、砲煙が艦橋からの観測を妨げないこと、後部のX砲塔より艦首側の射界が広いことなどによるのでしょう。
 戦闘航跡図から見る限りでは、この時に中央、後部の砲塔からはドイツ艦が射撃できない角度にあったと思われます。いくらか針路を変えたように見えるので、試射のために角度を開いたのかもしれません。同じ図では、直後に平行針路へ戻っています。砲撃をB砲塔からとする資料もあります。



 9時5分、距離が18,000メートル (20,000ヤード) を切ったことから、ビーティは麾下の艦長に向け、「砲撃開始、交戦せよ」 "Open fire and engage the enemy" と信号した。ビーティは艦隊を軽い梯型陣に展開し、全砲での射撃を可能にする。
 『ライオン』は13.5インチ主砲を『デアフリンガー』へ向けて、一斉射撃を始める。『タイガー』と『プリンセス・ロイアル』は『ブリュッヒェル』を目標とするが、まだわずかに距離が足らない。『ニュー・ジーランド』以下は、未だ射程に到達していなかった。

 すでにヒッパーも砲戦のために艦隊を展開していたけれども、最大射程の短さから、距離が縮まる9時10分まで射撃を始められなかった。
 ドイツ艦隊からは濛々と煤煙が上がっており、これが後続の艦を隠すために、イギリス艦隊からの照準は難しかった。さらにドイツ艦隊では対敵側前方を駆逐艦が走っていて、この煤煙も艦隊を隠す働きをしている。ドイツ側もまた、この煙によって敵が見えなくなっていた。
 9時14分までに、『タイガー』と『プリンセス・ロイアル』は、『ブリュッヒェル』への射撃を開始している。

 最初の命中弾はイギリス側が記録した。『ブリュッヒェル』に1発が命中したけれども、大きな被害にはなっていない。煙のためにしばしば視界が塞がれるのと、徐々に前方の艦に追いつくので、イギリス側はかなり繁雑に目標を変更している。実質、最もよく見える目標を攻撃していて、それは混乱に近かった。



●ほぼ巡洋戦艦に近い速力を持ち、28センチ砲に匹敵する射程を持つ大仰角の21センチ砲を装備することから、その保有巡洋戦艦数がイギリス巡洋戦艦群に見劣りすることもあって、『ブリュッヒェル』は巡洋戦艦艦隊に組み込まれていました。
 しかしながら、これは艦隊全体の速力を制限する要素となり、大きな失敗であったと評価されています。カタログ上の速力では、『フォン・デア・タン』とわずか0.5ノットの違いでしかないのですが、主機はレシプロであり、一般にドイツのタービン主機装備艦がカタログ以上の実力を持っていたため、実質的な差はずっと大きかったようです。

 実際に『ブリュッヒェル』が就役した当時のイギリス巡洋戦艦である『インヴィンシブル』級との比較であれば、確かに砲力では遠く及ばないものの、速力では公試で25.5ノットを記録しているくらいで大きな遜色がありません。この追撃戦でも『ニュー・ジーランド』以下は落伍しており、相手がより新型で強力な『ライオン』級なのでは、仮にここにいたのが『フォン・デア・タン』であったとしても、無事で済んだとは確言できないのです。



map of battle no.1

海戦初期の両軍位置関係とそれぞれの航跡を示す
 旗印は命中弾のあった時間と場所、命中した艦を表している



 緒戦のこの段階で、イギリス側の砲撃はよくドイツ艦を夾叉しており、数発の命中弾を得ている。1発は前述の『ブリュッヒェル』へのもので、『ザイドリッツ』と『デアフリンガー』がにも命中弾があった。イギリス艦では『ライオン』だけが2発被弾しているものの、この時期の命中弾では、どちらにも深刻な被害は出ていない。
 ドイツ側では、自艦の煤煙と発砲煙が照準の障害になっており、限界的な距離での射撃だったこともあって、成績が悪いのも当然だろう。

 9時35分、ビーティは麾下の巡洋戦艦に信号を発し、目標の割振りを行った。この命令は「相対する敵艦と交戦せよ」 "Engage the corresponding ships in the enemy line" で、左舷側に見えるドイツ艦列の、自分と相対する位置にいる相手を目標にしろということである。つまり隊列を前側から数えろということになる。
 この時、最後尾の『インドミタブル』はまだ射程に入っておらず、『ニュー・ジーランド』も遅れていて、イギリス艦隊の後尾は戦列の態をなしていなかった。実質4対4、もしくは4対3の戦闘を行っていたことになる。
 二番艦『タイガー』のペリー Pelly 艦長は、最後尾の『インドミタブル』の状況を考慮せず、通常の戦術方策に従って、余分の艦は旗艦に協力して敵の先頭艦を攻撃するべきと考え、敵の二番艦である『モルトケ』ではなく、先頭の『ザイドリッツ』を目標にした。三番艦の『プリンセス・ロイアル』以下は、順番どおり『デアフリンガー』と『ブリュッヒェル』を目標としている。
 これにより、『モルトケ』は射撃されないまま戦闘を続行することになった。そして『タイガー』の射弾は『ザイドリッツ』に脅威を与えず、『ザイドリッツ』は実質的に『ライオン』とだけ交戦することになったのである。



●イギリス艦隊の目標選定ミスは、海戦の当初には、敵艦隊へまんべんなく砲火を分配しなければならないという原則に反しています。これは、攻撃されていない艦では、乗員が落ち着いて作業でき、また観測を妨害する水柱があがらないなどの利益を得るからです。戦闘当初の恐怖心は、訓練された作業を繰り返すうちに麻痺するものなので、ある程度戦闘が継続すれば、この法則による利益は小さくなります。
 『タイガー』はこの前年に就役したばかりで、初めて完成時から方位盤射撃指揮装置を装備したとされていますが、乗組員はその扱いに熟練しておらず、また移動目標を射撃する訓練が未了だったこともあって、誤差3,000ヤード (2,700メートル) などというとんでもない外れ弾を撃っています。 (反対側にいた軽巡洋艦からの観測)
 ところが、砲術士は『ライオン』の着弾を自己のものと誤認しており、ろくな修正がなされなかったようです。諸元表がないのですから着弾までの秒時も判らず、3,000ヤードも離れた着弾では、照準眼鏡からは見えていないかもしれません。



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