ドッガー・バンク海戦(6) Battle of Dogger Bank 1915-1-24 (6) |
2時間に渡り、両軍で2,000発を越える大口径砲弾が撃ち合われた海戦は、その割には非常に命中弾が少なかった。これは当然のことで、文中にもあったように、イギリス海軍は、その最大射程での対移動目標射撃訓練を行ってすらいなかったのである。射程の長いことが有利に働くアウトレンジ戦法が、まだ海軍内では一般的でなかったことを示している。
この海戦でも、そういう戦術指揮は行い得たと思われるが、射程を大きく取って、アウトレンジしながらドイツ艦隊の退路を塞ぐ戦法は、ドイツ艦隊に突撃を選択させただろう。彼我の戦力差は、距離が詰まればさほどに大きなものではない。特にムーア隊が落伍していたのでは、互角に近いのである。ビーティが、後に高速戦艦からなる第5戦艦戦隊の指揮下編入を強く求めたのは、ここに根があると思われる。
一方のドイツ海軍では、イギリス艦に比して射程の短かいことが認識されており、その最大射程での射撃は十分に意識されていた。『ブリュッヒェル』の21センチ砲は、巡洋戦艦の28、30.5センチ砲が13.5度から20度の最大仰角であるのに対し、30度の仰角が可能で、20,000メートルを越える最大射程があった。
このことも、一般には『ブリュッヒェル』が巡洋戦艦艦隊に加えられた理由とされている。その弾量の小ささには目がつぶられたのだろう。いずれドイツ側の行動には、常にイギリス海軍に対する劣等感が見られ、それがどの問題にしても根底にあるようだ。
射撃指揮装置は、方位盤装置がまだほとんどの艦に取り付けられていない。『タイガー』が、初めてこれを竣工時から取り付けたとあるように、イギリスの巡洋戦艦でも、これは戦時中の追加装備なのである。『ライオン』はこの損傷の復旧時に取り付け、『クイーン・メリー』は、まさにその工事のために戦隊にいなかったのだ。
ジェリコーはこの海戦の研究から、方位盤の早急な導入が必要だと考え、これを強く要求している。しかしながら、これは簡単な工事ではなく、指揮装置そのものの供給という問題もあるから、なかなか思うようには進んでいない。
開戦当初には、方位盤関係の各種工場から優秀な工員が軍隊へ引き抜かれたため、生産能力が低下して要求に応えられなくなり、抗議を受けた軍隊は工員の兵役を免除して送り返したりしている。
それでも新型艦から順次工事が行われ、ジュットランド海戦当時に方位盤射撃指揮装置が未装備だったのは、元輸出用だった『エリン』 Erin と『エジンコート』 Agencourt だけのようだ。『ドレッドノート』はちょうどこの工事中で、海戦に参加できなかった。ただ他の艦の装置も均一なものではなく、改良型と旧型を装備していた艦が混在している。
ドイツ側では、ジュットランド海戦時でも完全な中央管制方式には至っておらず、コントロールできたのは砲塔の旋回だけとされている。もちろん、リモートコントロールでないというだけで、電話線などによる情報管制は行われていた。
その優秀な光学技術に基づく、精度の高い測距儀についてはしばしば語られるところであるけれども、システムとしてはイギリス側に一日の長があったようだ。
『ブリュッヒェル』の喪失は、ドイツ帝国にとって大きな痛手だった。責任が追及され、艦隊の一部が行動中なのに、それへの支援をまったく考えていなかったインゲノール大将は更迭された。ヒッパーは概ね行動を是認され、後に非凡な能力を発揮することとなる。
彼の失策は、隊列の後尾に最も弱い艦を置いたことで、もし、撤退進路へ入る時に一斉回頭で『ブリュッヒェル』を先頭に出しておけば、『ブリュッヒェル』は生き長らえたかもしれないとされた。また、上空にあった飛行船を有効に使わなかったことも挙げられている。航空機は海戦に何も貢献せず、ただ『ブリュッヒェル』の生存者を救助しようとしている船を追い払っただけだったのだ。
他にも問題点を求めるのであれば、やはりイギリス海軍で繰り返された、信号の不達、誤解にも要素を見つけられる。
煤煙や天候など、物理的な問題からくる旗旒信号の不確実さは、当然、演習で明らかになっていなければならない問題であり、そのための対策がなかった理由を求めなければならない。
戦闘の初期における増速期には、煤煙が多くなるのは当然であって、その対策とすれば、無線、発光信号による補完が意味を持つ。しかし、ドッガーバンク、ジュットランドいずれの事例でも、これは十分に活用されていないようだ。
ひとつには、ここでは軽巡洋艦の速力に余裕がなく、艦隊に随伴するのがやっとで、敵状の確認や信号伝達の補助のために、任意に適当な位置へ移ることができなかったという問題がある。
演習中に、同様な理由から信号不達が起きれば、当然反省材料となり、改善されなければならない。これが表に出ない程度であったとしても、状況によって信号方法を併用するくらいは、信号係士官の裁量でできるはずである。これが為されなかったのが、旗艦の信号係士官の責任であるかのように書かれている文献もあったが、これほどの大事を、一人の下級士官の責任に帰せられるものではない。
そもそも旗旒信号は、帆船時代に指呼の距離にある艦隊で用いられたものであって、水平線にある艦と意思の疎通をするためのものではない。それに昔は煙もなかったし、短時間で視認距離を通り抜けてしまうほど、船が速くなかったのだ。
ムーアがビーティの信号を誤解したのは、まったく異なった目的の信号を同時に掲げたビーティ側に責任があるだろう。ムーアを非難するのは当たらないように思われる。
簡潔な信号だけで、艦隊のような大規模なものを意のままにコントロールするのは、困難というより不可能である。首脳間での事前の意思疎通は必須であり、もしこれが不十分だったとすれば、それは最高権限者の責任であるとしか言えない。
ビーティが、それまでの命令で単純に行動を指示するばかりでなく、自己のモチベーションを織り込んでいれば、ムーアの判断はまた違ったものになっていたかもしれない。これはまた、海軍部内で傑出した将官と評価されているビーティに、周囲の人間がついていききれなかったと考えることもできる。
それでもビーティには、艦隊を手足のように扱おうとした形跡があり、これが最終段階での意思不徹底を招いたのだろう。日露戦争の戦訓は当然消化済みのはずで、ラッキーヒットによる指揮首脳の全滅は、海軍では常に考えられることである。指揮権の継承は、意思の継承でもなければならない。不運だったと言ってしまえばそれまでだが、私には準備不足に見える。
艦隊の目とも言える軽巡洋艦を置いていってしまうほどの主力艦の高速力は、艦隊の構成をメチャクチャにしてしまい、バラけた戦力は各個撃破される危険を内在させた。もし、ヒッパーの『ザイドリッツ』が大きな損害を被っていなければ、これは現実になったかもしれない。
また、この高速力は、両軍ともに砲術側には迷惑だったようで、艦首を乗り越える青波は砲塔の運用を阻害し、水飛沫や煙は視界を塞ぐばかりでなく、測距儀などの前面ガラスそのものを汚して測的を妨げた。どちらもこれだけの高速力での射撃訓練は不充分だったらしい。
海戦の結果は、英国大衆には大勝利と発表され、ビーティはヒーローと位置付けられた。しかし、海軍内部では戦果が不十分だったと認識されており、原因の追及とスケープ・ゴート探しが始まっている。
『タイガー』のペリー艦長は、艦が前年の10月に就役したばかりで、翌月ビーティの艦隊へ加わってからは砲術訓練の機会に乏しく、それも固定目標に対するものばかりだったことが考慮され、最善を尽くしてはいたと評価された。批判は、そういう未熟な艦を2番艦の位置に置いたビーティに向けられている。
ペリー艦長と、『プリンセス・ロイアル』のブロック艦長のどちらが先任であるのか、それによっても問題は違ってくると思われる。決定的となった北東への回頭時の様子からすれば、ペリーが先任で、ブロックは独断専行できなかったように見えるのだが、そこまでは調べていない。どなたか資料をお持ちであれば、ご教示いただきたい。
ビーティは、ムーアの消極的決定に、自分の曖昧な信号が寄与していることを知っており、非難するのを避けた。それでも、ジェリコーに対して、彼が巡洋戦艦部隊の指揮官としては不適格かもしれないとほのめかしている。
チャーチルは、ムーアが指揮を引き継いだのは、間違いなく難しい状況でだったと認めているが、「幸運はそれ自体、彼にとってあまりにも曖昧で、疑わしくしか見えなかったのだろう」とした。俗に言う、「幸運の女神には後ろ髪がない」である。海軍省は彼を、カナリー諸島にある第9巡洋艦戦隊の指揮官に転任させた。
フィッシャーはムーアを激しく非難しており、「わずかでもネルソンを見習う気があるのなら、命令を正確に反映しているとは限らない信号に関わりなく、行動を続行するべきだった。命令に従うだけならバカ者にでもできる。命令に単純な服従をしないことが、戦争での最初の原則なのだ」と述べた。
もし誰かが、フィッシャー自身の命令に従わなかったとしたら、彼が何と言うのかは、ぜひ聞いてみたいものではある。
フィッシャーはまた、ペリーを「臆病者」と呼び、その更迭を望んだ。しかし、ビーティは前述のような理由からペリーを擁護している。ビーティは、セイモア信号係士官を、その無能と繰り返された失策にもかかわらず、攻撃しようとはしなかった。もう一人のスケープ・ゴートは、『タイガー』の砲術長ブルース・ガーディン Evan Bruce-Gardyne で、フィッシャーは彼の異動を強く求めている。
フィッシャーはまだ満足せず、全般にわたる調査を要求している。しかしながらチャーチルは、せっかく大衆が喜んでいる勝利に対し、これ以上水を差すことを望まなかった。政治的理由から、軍艦の欠陥などは不問に付されてしまったのである。
余談だが、ここに出てきた名前をご存知だろうか。
セイモアは、1882年のアレキサンドリア砲撃作戦当時の、イギリス地中海艦隊司令長官と同じ名である。どういう関係かは確認できないが、血縁である可能性は高い。イギリス海軍が、半ば世襲制であるかのように、多くの海軍士官、提督一族を輩出しているのは事実であり、彼もその候補の一人だったかもしれないのである。ビーティの矛先が向けられなかった理由を考えるのは、穿ち過ぎかもしれないが…
ちなみに、後詰を担っていた第三戦艦戦隊司令のブラッドフォードは、同じ戦闘で活躍した士官の名である。当時は若手の士官だったから、本人かもしれない。また、ビーティの旗艦艦長チャットフィールドは、1877年に太平洋南アメリカ沿岸で、ペルーの装甲艦『ワスカル』 Huascar と矛を交えた、フリゲイト『アメジスト』 Amethyst の艦長と同じ名なのだ。
『ブリュッヒェル』の撃沈は、フォークランド海戦の結果とあいまって、装甲巡洋艦が巡洋戦艦に敵し得ないという戦訓を固定する。そして、終始逃げるしかなかったヒッパーの態度が承認されたように、ドイツ海軍はイギリス海軍へのコンプレックスから抜けられず、ますます不活発になっていった。
高海艦隊の新司令長官には、ポール Pohl 大将が任命されたけれども、彼は健康に不安があり、数カ月のうちに体調を崩して辞任している。さらなる後任には、シェーア Scheer 提督が就任した。これでも判るように、人事は適切な人間の配置ではなく、皇室や軍上層部の恣意によっていたのだ。これでは、海軍が独立した意思決定などできるわけもない。
大きな作戦は、上層部のご機嫌伺いの果てにようやく決定され、計画は周知となってから発動されるだろう。一般に、ここでの情報漏れは暗号解読によるとされているが、諜報戦においてソースの秘匿は当然のことである。真相など、そうそう表に出るはずもない。戦争中の文献では、当然だが暗号解読だということも隠されている。
★マグデブルグ事件について
文中にあった暗号漏洩に関しては、ドイツの軽巡洋艦『マグデブルグ』 Magdeburg 号事件が有名である。
バルト海艦隊に所属していた『マグデブルグ』は、開戦直後の1914年8月26日、ロシア沿岸での作戦途上、濃霧によって航路を失し、ロシア信号所の直下に座礁してしまう。離礁できないうちにロシア巡洋艦が襲来したため、艦長は乗組員を随伴の駆逐艦に移し、船体を爆破した。
巡洋艦の攻撃を受けながらの慌しい退却だったため、その破壊は徹底を欠き、後日、ロシア海軍がこの残骸を調査すると、艦内や近辺の海底からドイツ海軍の暗号書が拾い上げられたのである。逸話として、暗号書を体に縛り付けた士官の遺体があったとも言われる。彼らはこれらの資料をイギリスへ送り、これを元にして、イギリスはドイツ軍の暗号を読むことができたとされている。
★射撃指揮装置について
当時の射撃指揮、ならびにその装置については、まだ研究が十分ではないので、ごく簡単に記すだけにしよう。
第二次大戦時に、軍艦の射撃に方位盤射撃指揮装置が用いられ、高度な射撃指揮が行われていたのは周知だろう。第一次大戦時には、これは黎明期の技術であって、やっとその原形が先進国で使われはじめたところなのだ。
最も進んでいたイギリス海軍でも、いわゆる方位盤が実用になるのは第一次大戦直前のことで、プロトタイプが戦艦『ネプチューン』 Neptune に試験的に搭載され、初期型が『サンダーラー』 Thunderer に装備されて、同型艦の『オライオン』 Orion と比較試験が行われた。
これらにより有効性が認められたために、順次各艦に装備されていくのだが、開戦時にはまだほとんどの主力艦が旧態のままである。
測的は標的の現在位置、状況の観測に始まるが、詰まるところ目的は標的の未来位置の予測である。その未来位置をできるだけ正確に求め、そこへ正しく砲弾を集中させるのが砲術であるわけで、考慮すべき要素は多いものの、最終的には砲の仰角と旋回に還元される。これらを総括する言葉が射撃指揮だろう。
これは長く、まったくの「勘」で行われており、ようやく19世紀末になって近代化が始まっている。それまで目視や航海器具の応用によって測っていた標的までの距離は、測距儀によってかなり正確に求められるようになったけれども、その未来位置の「推測」は、相変わらず砲術士の職人的な「勘」に頼っていたのである。この「推測」を、機器による「算定」に変えたのが、射撃指揮装置の第一歩だった。
イギリスでドレイヤー Dreyer 、ポーレン Pollen といった人々が開発した射撃指揮装置は、これらの「勘」を「図示」、「計算」するものだったのだ。
その基礎となる測距儀の精度、各種機械を扱う人間の技量は、結果にそのまま反映されてしまうのであり、単に勘違いや計算間違いが排除できるに過ぎなかった。実際に行われた比較試験でも、好天好条件のもとでは砲側照準射撃と選ぶところがなく、悪天候や視界を妨げる要素の多い時に、高所から観測できる方位盤側が好結果を出しただけである。
それでもそれは改善であり、イギリス海軍は急速に主力艦への方位盤射撃指揮装置導入を進めている。ドイツでは方位盤は完成されず、これは戦後の導入となる。
「方位盤」と単純に言う場合、これは指揮装置のある檣頭などで装置を操作すると、その動作量が電気信号として各砲に伝えられ、砲や砲塔が機械力によって俯仰、旋回するものを指す。発射も指揮所で行われ、引き金を引くと、準備のできている砲のすべてが同時に発射された。
ごく初期のプロトタイプは、操作量のフィードバックに電気信号ではなく、ワイアそのものを用いたとされる。引っ張られたワイアの移動量を計ったのだ。精度は推して知るべしである。
ドッガー・バンク海戦時には、いわゆる方位盤はほとんどの艦が搭載しておらず、わずかに『タイガー』だけがこれを装備していた。しかしながら要員の訓練は不充分で、とうてい能力を発揮したとは言いがたい。
他の艦では、檣頭または艦橋からの観測、指揮所での諸元決定、電話もしくはテレグラフによる情報伝達、砲側での照準、号令による一斉射撃という手順だった。これには英独ともに大きな違いがなかったらしい。
いずれにせよ、諸元表がないことからも判るように、射程 20,000 メートルなどという艦対艦大遠距離射撃は、それこそ誰も行ったことのないような射撃だったのであって、当たらないのも当然と言える。
この海戦後に改良されたのは、前述したようにイギリスでは各艦への方位盤の導入であり、ドイツでは測距儀の精度向上だった。
もうひとつ、砲塔内での運用も両軍で異なっている。イギリス側の主砲塔では、装填は自由位置で行われ、任意の仰角で装填された。つまり発砲ごとに俯仰操作を行わなくてもよかったのである。しかし、砲を船体の動揺に対してスタビライズすることは考えられておらず、発砲はローリングの頂点付近で行われた。このため、発射速度は船体の動揺周期と密接に関係しており、若干の操作の遅速は、大きな発射速度向上に繋がらない。
ドイツでは固定仰角での装填だったが、装填後の砲は砲手の手動操作によって指示された仰角にスタビライズされ、任意のタイミングで発砲できた。結果、ドイツのほうが発射速度は速かったとされるのだが、砲手の疲労によってスタビライズの精度が下がる欠点を抱えている。
いずれ、これらの能力は測距儀による距離測定が土台にあり、その精度はまだ人間の能力に大きく依存していたから、これに適する人材の確保は大問題だった。逸話として、ドイツ艦隊では戦闘に赴く測距手が、女と酒を遠ざける命令を与えられたとまで言われている。
●興味深いのは、ジュットランド海戦を扱った書物における、この海戦への言及の差です。お読みいただいてお分かりと思いますが、この海戦の経過と結果は、ジュットランド海戦初期の様相に色濃く反映しています。当然のことに、欧米の文献では必ずと言っていいほど言及があり、前史として評価、対照しています。
ところが、いくつかある日本語のジュットランド海戦記では、これにほとんど触っていません。あってもわずかな事実記載だけで、分析は伴わないのです。これが日本人的気質と言えるのかもしれませんが、もしそうなら、日本人は歴史から学ばないと言われている裏付けかもしれません。
もっとも、書籍としてまとまった日本語のジュットランド海戦史は、公式の戦史を除くとほとんど存在しませんから、そういう研究も紙数の限られた雑誌記事では、割愛されざるを得ないのかもしれません。真摯な研究があっても、他の人間が価値を認めなければ、やはり埋もれてしまいます。
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