ゲーベンが開きし門 第一部・第一章 The Goeben opens the gate : part 1 : chap.1 |
第1章・地中海へ
■"Two lone ships"より
1914年の1月、暗い冬の闇を突き破るように、列車は南へ向かって驀進していた。ときおり、なにかのライトが暗闇の中で一瞬キラリと輝くのだが、それが何なのかを確かめる暇もなく、光は後方へ飛び去ってすぐに見えなくなった。ほどなくブレーキが軋み、列車は短い間止まっていたが、やがて再びの快走をはじめる。
乗客は車輪がレールの継ぎ目を踏む音を聞き続け、私は単調なリズムにいささか飽きてきて、ここ数日の出来事と、先に待っているものに思いを巡らせていた。なんとも驚くほどのことが、立て続けに起き、また起きようとしていた。
昨日はヴィルヘルムスハーフェンで、多くの人々の間に別れの儀式があり、そこにはいくらかねたむような感情もあった。なんと言っても私たちは、アルプスを越えていく列車に乗り込み、雪と氷の世界から春へ向かっていくのだから、分厚いコートの肩や帽子の上に白い雪を積もらせている人からすれば、忘れてしまったような暖かさへ想いを馳せている私たちに、いくらか恨めしい気持ちを持つのもいたしかたないだろう。
夜が明ければ間もなく海が見えてくる。青い海の上は溢れんばかりのまばゆい光に満たされ、私には新しい出会いがあるに違いない。
私は南部ロシアに居住するドイツ国民であり、1911年からは義務兵役のために、家族から離れてキールへと住まいを移していた。軍務についてからの時間は飛ぶように去り、定められた期間はまもなく終わりを告げようとしている。10月になれば、私は熟練水兵として義務兵役を満たし、故郷へ戻るはずだった。だが、その前に突然、『ゲーベン』への乗組みを命じられたのである。
命令書では、私はジェノヴァで『ゲーベン』に乗組み、その巡航の間に残りの兵役期間を満たし、おそらくはコンスタンチノープルへ寄港した折に艦から離れ、そこに定係されている駐泊艦『ローレライ』に移ってから、黒海を横切って懐かしい我が家へ向かうはずだった。
私はもちろん、小躍りするような期待に満ち溢れていた。海軍に所属した人間なら誰もがそうであるように、海外で任務にあたる軍艦への勤務を望んでいたからだ。今、その機会が訪れ、しかもその場は光り輝く地中海なのだ。見たこともない外国、見分けもつかない外国人、わくわくするような期待と、ほんのわずか、スパイスのような不安とが、私の心を支配している。ジェノヴァの駅で列車から降りたとき、私はこの先の4年間をも、『ゲーベン』を「家」として過ごすことになろうとは、まったく考えてもいなかったのである。
ドイツ海軍の新鋭巡洋戦艦『ゲーベン』、地中海において最も強力かつ快速の軍艦『ゲーベン』、私にとって、これは喜びに満ちた再会だった。かつて私は、キール港でこの新しい巡洋戦艦を望見し、いくらか痛みの伴う羨望の眼差しで見詰めていたことがあるのだ。今、その艦への乗組みを命じられ、私の胸は期待に高鳴り、誇りと喜びの感情が綯い混ざっている。
この艦こそが、南部ヨーロッパにドイツの存在を知らしめるものであり、その存在をねたましく思う人々も、その旗に敬意を表さないわけにはいかないだけの、意思と力のシンボルだった。『ゲーベン』は、それがそこに存在しているというだけで、挑戦の意思を感じさせずにはおかない強力な軍艦だったのである。
●ドイツ海軍
1911年3月28日、ドイツ海軍の大型巡洋艦『ゲーベン』 Goeben は、ハンブルクのブロム・ウント・フォス社で生を受けた。大型巡洋艦 grossenkreuzer というのは帝政ドイツ海軍独特の艦種であり、イギリスの一等巡洋艦にあたるものの、その包含する範囲は一致しない。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、各国海軍は一般に装甲巡洋艦 armoured cruiser と呼ばれる、比較的大型の巡洋艦を数多く整備していた。これらの中には時の主力戦艦に匹敵するほどの排水量を持つものもあり、大きな海上機動力を主たる能力としつつ、それなりに強力な武装を施された軍艦だった。
1906年の、十分な航洋性と速力を兼ね備えた『ドレッドノート』級戦艦の出現により、これらの存在は攻防両面で上回られる戦艦との行動能力差を失い、その存在に危機的状況を迎えた。これへの対応は各国さまざまであり、ド級戦艦に先鞭をつけたイギリスは、装甲巡洋艦を飛躍的に強化した『インヴィンシブル』 Invincible 級を世に送り出す。ドイツ海軍もこれに対抗して、大型巡洋艦『フォン・デア・タン』 Von der Tann を建造した。
『ゲーベン』は、『フォン・デア・タン』に続く第二世代の大型巡洋艦として、同型の『モルトケ』 Moltke に一年ほど遅れ、基本的に同じ設計で建造されたものである。イギリスでは極端な性能の飛躍から、艦種名称を戦闘巡洋艦と改称するが、帝政ドイツでは大型巡洋艦の呼称は変更されず、最後までそのままだった。
ここでは、一般の書物での呼称との混乱を避ける目的で、『インヴィンシブル』、『フォン・デア・タン』以降の該当艦を、どちらも日本式に巡洋戦艦と呼ぶ。また、ドイツでは小型巡洋艦と呼ばれるものを、より一般的な名称である軽巡洋艦と表記する。
1912年の秋、地中海東部のトルコを中心とした地域は、政治的不安定さを増し、各国はこの地域の安全に重大な関心を寄せている。当時ドイツは、1910年に旧式戦艦2隻をトルコに譲渡し、その戦力向上に寄与するなど、トルコとの結びつきを強くしつつあるところだったものの、海軍にはオブザーバーとして多くのイギリス人士官が入り込んでおり、彼らの新型戦艦もイギリスの造船所で建造中であったから、比較的陸軍と強く結びついていたドイツとは、奇妙なねじれが起きている。
ドイツ海軍自身は、トルコ水域にはコンスタンチノープル (イスタンブール) に定係の駐泊艦『ローレライ』を置き、巡航する練習艦や軽巡洋艦をときおり寄港させているだけで、戦力になるような存在は持っていなかった。
この状況を改善するためと、地中海におけるショウイング・ザ・フラッグの効果を狙って、政府は同年8月に完成したばかりの『ゲーベン』に、やはり新鋭の軽巡洋艦『ブレスラウ』 Breslau (1912年5月完成) を付属させ、これを地中海へ送り込んで、ドイツの海外政策を後押しする存在にしようと考えた。
両艦はそれぞれ、11月6日、5日に出発している。新鋭巡洋戦艦は、完成したとはいえ、艦内機器の調整などは完全には終わっておらず、慣熟訓練も未了のまま故国を後にし、地中海へ入る。この後、50年の齢を重ねる同艦だが、二度とこの生誕の地へ戻ることはなかった。
▲イギリス海軍
19世紀後半、フランスがまだイギリスの現実的な仮想敵国だった頃、地中海艦隊は英国海軍の最重要艦隊であり、その司令長官の地位は、英国海軍の現役士官にとって最高峰を意味するものだった。しかし、1870年にプロイセンとの戦いに敗れたフランスの、イギリスへの敵対が非現実的なものになり、その海軍が明らかに英国より劣勢になるに従って、地中海艦隊の重要性は相対的に低下し、配備される艦艇も減少していた。
それでも、英国海軍地中海艦隊司令長官の地位は、該当地域に有力国が多く、外交的には重要な位置にあったから、それなりにステイタスを伴うものであり、重要な役職には違いなかった。1914年の夏を迎える頃、その地位にあったのはミルン海軍中将 Vice-Admiral Sir Archibald Berkeley Milne である。
ミルン提督の人となりについては、手元にさしたる資料があるわけでもなく、ここでの主題でもないのだが、物語の一方の主役であることには間違いない。その彼に、フィッシャーは辛らつな批評を行っている。フィッシャー元帥は1912年、アスキス首相 Asquith、マッケナ海相 McKenna やチャーチルのいる前で、イーシャー子爵 Esher に向かい、「ミルンはまったく役に立たない指揮官です。それが今は、現役の先任提督ですからね」と、口にしたという。
彼が英国艦隊司令長官への道である地中海艦隊司令長官に任命されると聞いたときには、激しくチャーチルを罵り、「ミルンは使いものにならない司令官」だと非難している。しかし、フィッシャーのこの手の極端な反応は毎度のことで、近くにいる人たちはその割引度合を心得ていたが、実際にミルンは特別有能でもない代わりに無能でもなく、平時の提督としての事務仕事に困るような存在ではなかったようだ。
艦隊内での彼のあだ名は ”Arky Barky” で、フィッシャーは彼を “Sir B Mean” 「B-平均卿」と呼んでいる。
1914年5月15日に『ゲーベン』は、トルコの首都コンスタンチノープルを訪れている。これに対抗したミルンは6月25日に、『インフレキシブル』と共にダーダネルス海峡を通過した。こうした、ドイツ艦訪問の後を受けて行われるイギリス艦の訪問は習慣的になっていたものであり、カイゼルに言わせれば、「スープの中につばを吐いてまわる」行為ということになる。
彼はサルタンのマームード五世に謁見したが、ミルンが退出した後、彼は通訳に対して、「あいつはただの低能だな」と、囁いたという。28日には宮殿でのパーティの最中にサラエボの事件が通報され、ミルンは早々に退席したが、その背中へ向かっては、「逃げ出すのにかっこうの口実ができたな」と、笑い声が浴びせられたともいう。
この時点で、イギリスではトルコの発注になる超ド級戦艦『レシャディエ』と、ブラジルの発注で建造され、トルコに転売されていた『サルタン・オスマン一世』が建造中であり、イギリスとトルコの関係はけっして悪くはない。
さて、ドイツとの戦争が現実化してきたとき、同盟関係にあって相互協力を基調としていた英仏両国は、両海軍の配備を効率的にするため、その調整を行っている。ここでは基本的に大西洋岸はイギリスの守備範囲とされ、フランスはここに有力な艦隊を置かない。主力は地中海側に集中され、ドイツとの同盟関係にあるイタリア、オーストリアの艦隊に対抗する。英国地中海艦隊はこれを補助しつつ、メッシナ海峡、ボン岬以東を守備範囲とすることになっていた。
ところが、ミルン提督がフランス艦隊の司令長官ラペイレール Augustin Boue de Lapeyrere 提督より先任であったため、このままでは命令系統に矛盾をきたす恐れがあるとされ、彼を本国へ呼び戻し、別な将官をその任に充てる必要があると考えられた。実際に召還命令は発されており、戦争が旬日も遅れれば、開戦時の英国地中海艦隊は別な提督、おそらくはトルーブリッジ少将 Rear-Admiral Ernest Charles Thomas Troubridge の指揮下にあったはずである。
トルーブリッジの人となりは、おいおい語ることになるが、あだ名は彼が銀髪であったため、”The Silver King” というものだった。これらのあだ名にどんな感情が込められているのかは、私にはわからない。
また、配備されていた戦力のうち巡洋戦艦『インヴィンシブル』 Invincible は、調子の悪かった主砲塔の電動機器を水圧機に交換する目的で本国へ帰還していたが、工事が短期間に終わるという見通しから、これの代替補強は見送りとなり、地中海艦隊の巡洋戦艦は一時的に3隻となっていた。
『ゲーベン』の存在は当然知られており、それへの対抗として巡洋戦艦が配置されていたのだが、英国海軍は一対一の戦闘に自信が持てなかったらしく、基本的に二対一での戦闘が想定されている。この場合、3隻という数では半端が生じてしまい、1隻が予備兵力化してしまう。このことはこの後の巡洋戦艦の運用上、大きな齟齬をきたす原因となった。
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