ゲーベンが開きし門
第一部・第三章
The Goeben opens the gate : part 1 : chap.3



SMS_Breslau

ドイツ軽巡洋艦『ブレスラウ』



第3章・平和なアドリア海

■"Two lone ships"より
 7月29日、私たちはポーラを離れ、石炭を入手するためにトリエステへ向かった。短い航海だったけれども、修理されたボイラーは期待通りの性能を示している。トリエステへ到着するやいなや、私たちは石炭を積みはじめた。載炭には多くの障害があり、非常に時間が掛かっている。
 翌日の夜、まだ満載になるほどの石炭は積み込まれていなかったけれども、『ゲーベン』は南東へ針路を取って進んでおり、暗闇の中を巡航速力で航海していた。

 ときおり、月が気まぐれに雲の間から顔を出すと、イタリアの海岸に山並みの輪郭が望めた。海岸にポツンとした光がきらめき、ゆっくりと後ろへ流れていく。タービンは単調な音階で回転し、スクリューの振動も一定のリズムでうなりを奏で、アドリア海の海水を押し分けて、艦は闇の中を滑るように進んでいる。
 奇妙に落ち着かない、それでいて何か興奮を従える雰囲気が、この航海には伴っていた。通常、艦がどこへ向かっているのかは乗組員に知らされているけれども、今回は通知がなかった。ほんの一握りの人数が、艦がどこへ向かっているのかを知っているだけなのだ。それが不安を呼んでいたのかもしれない。

 夜は過ぎ去った。しかし、空中には不可思議な雰囲気が満ち溢れていた。何かが進められている。異常に多い無線通信は、世界が急激に動いていることを示している。『ゲーベン』の無線室はおおわらわだった。
 この日も、私たちはアドリア海を南へ進み続けた。青い海はキラキラと光を反射して鏡のように静かだった。イタリア海岸のパノラマは飛ぶ如くに過ぎ去り、やがて薄明かりの中のシルエットになると、徐々に消えていった。トリエステを出て、二度目の夜が更ける。そして私たちは、何が起きるのかをまだまったく知らない。

 8月1日の夜が明け、私たちはイタリアのかかと、ブリンディジで載炭を行う予定だと知らされる。『ゲーベン』は速力を上げて南へ進み続け、午後、ブリンディジの沖合いに錨を下ろした。ここで私たちは、トリエステで積みきれなかった分と、ここまでに使った分を補充できるはずだった。二日間の航海で使われた量はけっして少なくなく、燃料補給は緊急の要件になっていたのだ。ブリンディジには、そのための準備がなされているはずだった。
 静かだった海は、いくらか波が立ちはじめている。艦内では載炭のための準備が進められていたが、派遣されるはずの石炭船はいっこうに姿を見せない。『ゲーベン』は航路を塞ぐ形で待っていた。

 やがて港から小さな汽船がやってくると、イタリア人は波が高いために石炭船を沖へ出せないと言ってきたのである。彼らは、石炭船が『ゲーベン』と擦れあえば、船縁を壊されて沈没するかもしれないと言い立てる。確かに海は荒れてきていた。しかし、それほど危険とは思えない状況であり、これは彼らが単に、石炭を供給しないための口実にしたに過ぎない。やればできただろうが、イタリア人は動かなかった。
 この同盟国は、まったく当てにならないように思われた。埒が明かないので、私たちは錨を上げ、さらに南へ進んでいく。

 イタリア人の不合理な行動により、私たちの行先は非常に限定されたものになった。まず、石炭を確保しなければならない。もし、戦争が始まるのであれば、一応は同盟国であるはずのイタリアが、多くを期待できない消極的な存在であることが、次第に明らかになる。
 基地を持たない私たちが、はるかに優勢な敵に対して何ができるか、私たちには空想をもてあそぶのがせいぜいだった。

 やがて北東方向に石炭の煤煙が発見された。幅の狭い船のシルエットが、夕方の空にぼんやりとにじんでいる。それは我らの指揮官、スション提督の命令で、『ゲーベン』に合流しようとしている軽巡洋艦『ブレスラウ』がドゥラッツォからやってきたのだった。
 『ゲーベン』がコンスタンチノープルを訪れていたとき、新型の高速軽巡洋艦『ブレスラウ』は、風雲急を告げるアルバニア沿岸に派遣されており、革命の危険にさらされている貴族の手助けやドイツ大使の保護に行っていたのだ。スション提督からの呼び出しがあるまで、『ブレスラウ』はドゥラッツォにいて、保護活動を行っていたのである。

 今、挨拶を交わした『ブレスラウ』は『ゲーベン』の後方に続き、2隻はドイツ海軍地中海艦隊を編成した。『ゲーベン』艦内は、小さいとはいえ味方の艦が近くにいることで勇気付けられる。私たちは『ブレスラウ』を、「妹 (英文では little sister、ドイツ語の原文は見ていないのだが、Schwesterchen もしくは単に Schwester だろうか?)」と呼ぶようになった。
 大きく、強力な『ゲーベン』に比べると、『ブレスラウ』は小さく、細くて、可憐にさえ見えた。それでも『ブレスラウ』は、『ゲーベン』に引けを取らない速力が発揮できた。その最大速力は28ノットで、『ゲーベン』とほとんど変わらないのである。

 やがて夜が更ける。夏の夜はますます重苦しく、不吉な何かを連れてくるような印象だった。艦隊は滑らかに進み、夜は闇の中にわずかな星の光を、置き忘れたかのように散らしているだけだった。すべては静寂に包まれ、海は眠っていた。艦首が切り分ける波の音と、単調なエンジンの調が眠気を誘う。
 しかし、世界の政治情勢は、いっそう悪い方向へと傾いていた。いつ戦争が始まってもおかしくない。戦時法規は繰り返し訓示され、それぞれの認識票が確認される。下甲板の噂話は途切れることがなかった。すべての乗組員は、近付きつつある状況を見詰めている。その先にある未来を隠しているベールに穴をあけるほどに。
 否応もなく、私たちはすぐにすべてを知ることになるだろうが、今はただ、どんな危険が待ち受けているかを想像することしかできない。

 ロシアは確実に戦いを始める。フランスがそれを座して見ているだけとは思えない。彼らは機会を掴もうとするだろう。しかし、海では何が起きるのか。イギリスはどういう態度をとるのだろうか。そして、どの国が私たちと同盟を結び、共に戦うのだろうか。多くの者は、『ゲーベン』と『ブレスラウ』が、オーストリア、イタリアの艦隊と協同して戦うと考えていた。
 世界大戦の前夜、私たちがオトラント海峡を抜けてメッシナへ向かっているとき、私たちはこの先我が身に起こるだろうことについて、そこにある運命について、何の手掛かりも持っていなかった。




Admiral Souchon

ドイツ海軍提督スション提督

 写真は中将時代のもの



●ドイツ海軍
 7月10日に『ゲーベン』がポーラへ入港すると、ただちに水管の交換工事が開始され、突貫工事によって7月18日には4460本の水管が新品になり、かなりの速力が回復したと考えられた。それでも完全な整備にはほど遠く、28ノットなどとうてい望み得る状態ではなかった。
 ドイツ地中海艦隊、艦隊とは言っても実質『ゲーベン』と『ブレスラウ』の2隻だけだが、その艦隊を指揮するのは俊才の誉れ高いスション Wilhelm Anton Theodor Souchon 少将である。1913年10月23日、『ゲーベン』に将旗を掲げた彼は、艦隊に最大限の効率発揮を求め、開戦時にいかなる行動を取るべきか、熟考を重ねていた。彼はめったに酒を飲まず、まったくタバコを吸わないという厳格な指揮官だったが、その戦略的指揮能力は、他をして羨ませるものであるのは間違いない。

 戦争になったとき、『ゲーベン』の取り得る行動には、いくつかの選択肢がある。まず、政府が計画しているように、戦争がフランス、ロシアとのみ行われるのであれば、2隻は地中海に残り、両国の艦船を地中海で自由に行動させない任務が重要になる。フランス海軍はド級戦艦の整備を進めているけれども、まだ数は少なく、速力の点で『ゲーベン』の脅威にはならないし、数多ある装甲巡洋艦は、ただの好餌でしかない。ジブラルタルの通過に大きな障害はないから、必要であれば本国帰還も難しくはないだろう。
 戦前の取り決めでは、ロシア、フランス対ドイツ、オーストリア、イタリアの戦争が始まった場合には、地中海のドイツ艦はこれら同盟国海軍の一員として行動することになっており、メッシナがその行動中心点とされていた。三国同盟の地中海艦隊が集合すれば、フランス艦隊に十分に対抗できる。

 しかし、もし同盟国に先んじてイギリスが参戦すれば、地中海にいることは絶望的に危険な状況になる。仮にアドリア海の奥に根拠地を得られたとしても、オトラント海峡を閉鎖されれば自由な出撃はできなくなるし、無理に出て行けば帰り道を塞がれ、圧倒的な戦力を差し向けられてしまう。否応なくオーストリア艦隊の一員としてしか行動できなくなり、そのオーストリア海軍には、2隻と行動を共にできる能力のある有力艦が少なく、指揮権の問題も大きく存在する。艦は無事かもしれないが、宝の持ち腐れになってしまうだろう。

 大西洋への突破は、地中海の西航では誰にも見つからないなど不可能に近いし、ジブラルタル海峡通過をまず確実に捕捉されるため、英仏海峡での迎撃を覚悟せざるを得ず、大きな迂回路をとるだけの航続力もないことから、非現実的な選択肢であった。
 それでも短期間のうちにフランスを屈服させるか、イタリアが同盟を履行して参戦してくれれば、それらの港湾が自由に使えるようになるので、イギリス艦隊の一部を地中海に誘引する目的からも、戦後に地中海の海上覇権からまったく疎外されないためにも、『ゲーベン』の存在は大きな意味を持つことになる。

 確認しておくが、第一次世界大戦が始まったときに、戦争が4年以上も続くなどと予測した者はいくらもなく、政府や軍の中枢にはほとんど皆無だったことを忘れてはならない。準備されている砲弾は2週間で撃ち尽すと計算され、戦争は遅くもクリスマスまでには終わるだろうと言われていたように、彼らの意識の中には短期での決着しかなく、戦略的作戦の大半は、それを前提に組み立てられているのだ。それどころか、実際に戦争が始まる直前まで、戦争は回避されるだろうという楽観的な観測がしばしば流され、準備に対する抵抗となっていたのである。

 戦争の危機が非常に切迫したものになってきたことと、イギリス艦隊の配備情報から、スション提督はアドリア海に閉じ込められる状態を避けるために出動を命じた。7月29日、ゲーベンはポーラを出港し、試運転を兼ねて、石炭補給のためにトリエステへ向かう。機関は順調に作動した。載炭を終え、南東へ向かって8月1日には、オトラント海峡に面するイタリアのブリンディジへ入港する。戦争は、すでに厳しい足音が聞こえる状況になっていた。

 ところが同盟国であるはずのブリンディジのイタリア当局者は、石炭の供給を渋り、天候の悪化を言い訳にして石炭船の派遣を先延ばしにした。トリエステで十分な補給が受けられなかったこともあり、このままオトラント海峡を押さえられたのでは動きが取れなくなるので、『ゲーベン』は抜錨するとさらに南へ向かい、途中アルバニアから呼び寄せられた『ブレスラウ』と合流する。ロシア、フランスとの戦争は、ほぼ現実のものとなっており、その夜、艦隊は動員令を受け取った。なお、このときの『ゲーベン』艦長はアッカーマン Ackermann 大佐、『ブレスラウ』はケットナー Kettner 中佐が指揮を執っている。

 『ブレスラウ』は、アルバニアに新任した国王、ドイツ人のヴィート王子が、国内回教系の反乱にあって地中海岸のドゥラッツォに閉じ込められている状況を保護するため、英国など各国の軍艦と共に同地に留まっていたものである。この軽巡洋艦は、1914年春にトリエステの民間造船所で大整備を受けており、状況は良好だった。このとき、英国海軍はドゥラッツォに、主に旧式戦艦『キング・エドワード七世』を駐留させていたが、7月29日夜、同艦はマルタへ向けて出帆した。
 このブリンディジでは、『ゲーベン』の入港に先駆けて、いったんドゥラッツォから離れた『ブレスラウ』が8月1日早朝に入港し、石炭船の手配のために一士官を上陸させている。彼は『ゲーベン』に拾われて艦隊へ戻り、メッシナで『ブレスラウ』へ帰った。この士官こそ、なんとあのカール・デーニッツの若かりし頃の姿であった。

★スション提督 Souchon:これまでの日本語文献では、この名前をゾーヒョン、ゾーホン、スウホンなどと読んでいるものが多いが、古い文献の中にもスションもしくはスーションと表記されているものがある。東大戦史研の古賀氏の調査によれば、彼の出自はフランスであり、読みの表記としてはスションが正しいとされる。それでも正確な発音はカナ表記などできないので、興味をお持ちの方はフランス語に堪能な方などにお問い合わせいただきたい。
 資料によれば父親は、ユグノーの肖像画家だったという。

★ドゥラッツォ Durazzo は、現在の地図では名前が変わっているようであり、おそらくはアルバニア中部の大都市、チラナの西方、海岸にある町ドゥラス Durre:s と思われる。街のある湾も同じ名である。ドゥラスから対岸イタリアのブリンディジまでは、80浬ほどである。(5文字目のeは、上に点が二つついている)
 ヴィート王子は亡命を勧める意見を無視してアルバニアに居続けたのだが、その後、戦争が始まったために忘れられた存在となり、9月になってウィーンへ脱出したとされる。

★"Two lone ships"の著者は本文中で、乗り込んできたはずのデーニッツ将校についてなにも書いていないが、この戦記が出版されたのは1920年代のことであり、この段階でのデーニッツは特別有名な存在ではないから当然だろう。著者がこの時期にどこへ配属されていたのかには言及がなく、場所によっては一士官の乗艦を知らなくても不思議ではない。




▲イギリス海軍
 7月22日、ミルンはアレクサンドリアでノア泊地司令官への転任通知を受領し、8月29日までに『インフレキシブル』でチャタムへ戻り、30日には着任するよう求められた。しかし27日、英海軍省はミルン提督に宛て、戦争が回避不能である見通しを通知する。彼は留任され、ただちにマルタへ戻って、敵対を予想される軍勢に対する準備を要求されている。『インフレキシブル』は載炭を終えて戦闘準備を整え、マルタ島で待機するように命じられた。

 このときアレクサンドリアにいたミルンには、旗艦『インフレキシブル』、『インデファティガブル』、『ウォーリア』、『ブラック・プリンス』、『チャタム』、『ダブリン』、『グロスター』と13隻の駆逐艦が一緒にいる。通知から12時間後、艦隊はアレクサンドリアを出発した。
 このときの情報では、全般に緊張はそれほど強くなく、すぐに戦争が始まるような兆候はなかった。セルビアがオーストリアの要求を呑み、戦争が回避されるという誤った見通しを伝えた電報も、緊張感を和らげている。艦隊は照準訓練を続けながらだったが、比較的ゆっくりとした速力でマルタへ向かっていた。

 地中海艦隊の次席指揮官トルーブリッジ少将は、装甲巡洋艦『ディフェンス』とともにアルバニアのドゥラッツォ沖にあり、戦隊に合流して戦闘準備を整えるよう要求されている。
 『ディフェンス』には、『インドミタブル』と整備を終えたばかりの『デューク・オブ・エジンバラ』が付随しており、前者はオーバーホールをするべき時期を4ヶ月もすぎていたから、7月23日に一足早くマルタへ戻り、ただちに工廠入りして不良になっていた電気配線の修理に取り掛かっている。27日には、多くの機械類が分解されていたけれども、ただちに再組み立てが行われ、急速に戦闘態勢を整えた。

 チャーチルは海軍省に対し、『ゲーベン』に対抗する戦隊を二つにするため、巡洋戦艦『ニュー・ジーランド』を地中海へ派遣すべきかを検討させたが、海軍省は補強の必要はないと考えている。
 ベルギーの中立が侵される可能性に対して、7月29日に英国内閣は対応を協議し、その反応が法律上の義務よりも、政策的に決定されるだろうことを確認している。チャーチルは海軍を即応体制に置くと決め、29日14時、艦隊に警告の電報が送られた。
 7月29日、艦隊は日中にマルタへ到着し、英国海軍地中海艦隊はグランド・ハーバーに集結した。しかし、チャーチルの通知がミルンの手に渡ったのは、22時をすぎた頃だった。

 そして翌日、チャーチルは余計なひと言を発している。
「ドイツとフランスとの戦争が始まれば、イギリスはフランスに与してこれに参加するだろう。イタリアは中立を保つと期待され、ギリシャが同盟することは大いに有り得る。スペインは友好的であり、あるいは同盟するかもしれない。イタリアの態度は非常に不確実であるが、その去就がはっきりしないうちに、貴戦隊がオーストリア艦隊と戦闘することは厳に慎重であられたい。貴官の最優先任務は、アフリカからフランスへ送られる陸軍輸送船の保護である。オーストリア艦隊、もしくはドイツ艦隊が、これの妨害をしようとする可能性があって、特に『ゲーベン』には十分な注意が必要である。可能であればこれを捕捉、追跡して、開戦と同時に処分されるべく計られたい。貴官がフランス海軍指揮官との協議を必要とする時期に関しては、さらなる無線通信によって通知する」

 ここまでは問題あるまい。疑念が生じたのは、次の文章である。
「(A) 「優越した戦力」との戦闘は、それが (B) 大戦闘の一部でない限り、実行されないよう図られたい。貴戦隊の一般的速力は、これらの諸問題の解決に資するはずである。我々は地中海の戦力を増強する方針を持っており、貴艦隊は無用な損耗を避けなければならない」
 (A) は、(オーストリア海軍主力艦隊のような)、(B) は、(フランス海軍との協同で行われる) という文言だったらしいが、電文の推敲中に削除された。このため、交戦を制限される対象が具体的に何であるのか、ミルンやトルーブリッジには読めなくなってしまったのだ。

 おそらく、チャーチルの頭の中にはオーストリア艦隊があったのだろうし、可能性としてイタリア艦隊の敵対も織り込まれていただろう。『ゲーベン』と『ブレスラウ』でしかないドイツ艦隊が、はたしてこれに含まれるのか、ミルンたちには明確に判断できなかったし、彼らはそれを確認しようともしなかった。いずれにせよ、チャーチルがこの電文を送ったことは、そもそも蛇足だったのだ。ミルンはすでに、オーストリア艦隊との交戦を避けるよう命じられていたのだから。
 そして戦前の研究では、巡洋戦艦に対する装甲巡洋艦は、かなり不当に戦闘力を小さく見積もられている。演習などでは、一方的に撃たれて損害を出し、逃げることもできない危険な存在と認識されていたのだ。このことは、トルーブリッジにとって大きな心の重荷になっている。彼の4隻の装甲巡洋艦は、果たして『ゲーベン』1隻に優越されているのだろうか?

第3章終わり




to previous  前へ 次へ  to next



―*― ご意見、ご質問はメールまたは掲示板へお願いします ―*―

スパム対策のため下記のアドレスは画像です。ご面倒ですが、キーボードから打ち込んでください。

mail to



to wardroom  士官室へ戻る