ゲーベンが開きし門
第一部・第六章
The Goeben opens the gate : part 1 : chap.6



map2

8月4日10時15分の位置



第6章・虎とライオン

■"Two lone ships"より
 天候は良好だった。海は穏やかで、水平線まできれいに見渡せる。晴れ渡った空は頭上に見事な青色の半球を描いている。『ゲーベン』は着実に東へ向かっていた。隣には『ブレスラウ』も並んで走っている。
 突然、甲高い警報が静寂を突き破る。全甲板でベルの音が鳴り響いた。
「総員戦闘配置につけ!」
 ほんの短時間で、すべての乗組員は規定の配置についていた。いったい何が起きたのか?
 見張りが、私たちのほうへ向かっていると思われる2条の煙を見つけていた。それらはフィリップヴィルへ向かっているようであり、フランス軍艦と思われた。急速に接近するにつれ、影はおぼろげに軍艦の形に収束していく。

 しばらくして、それの正体が明らかになった。檣頂には英国海軍旗が翻っている。それはなんと、英国地中海艦隊の巡洋戦艦であった。それも2隻。
 これには驚いた!
 私たちは、イギリス艦隊の最も強力な腕の中に捕まっていた。
 強い緊張の下、状況が慎重に分析された。ドイツとイギリスの間で戦争が始まっているかの情報は、1時間ごとに更新されている。しかし、すでに戦争が宣言されていて、イギリス艦隊はそれを知っているが、私たちだけが知らないという可能性もないではない。

 重要なのは、冷静さと緊張に負けない強い心を維持することだった。イギリス艦隊は全速力で走り、接近してきた。やがて容易に命中弾を得られる射程に入る。
 巨大な灰色の怪物が私たちに近付き、低く身をかがめて飛び掛かろうとしているかのようだった。緊張と興奮がクライマックスを迎える。これらはイギリス地中海艦隊の最強力艦である、巡洋戦艦『インドミタブル』と『インデファティガブル』で、その攻撃力は私たちをはるかに凌駕している。

 『ゲーベン』は28センチ砲を10門、15センチ砲を12門装備しているが、『ブレスラウ』は10.5センチ砲を12門持っているだけで、これに対抗する彼らは30.5センチ砲を16門も持っているのだ。その10.2センチ補助砲だけでも、『ブレスラウ』を優越している。
 しかし、実際には何も起きなかった。
 両方の艦隊で、すべての乗組員が戦闘配置につき、艦隊は不自然な静寂を保ったまますれ違う。一般に二つの艦隊が出会ったとき、後任の司令官は先任の司令官に対して礼砲を発射する。(司令官がそこにいるかは問題ではない)

 私たちのスション提督は、英国のミルン提督より後任であり、礼砲の発射は私たちの問題だった。しかし、礼砲は発射されなかった。
 このきわどい国際状況で英独両国の艦隊が出会うのは、非常に繊細な状態だったから、ほんのわずかな誤解でも、それが後戻りできない戦闘に繋がる可能性がある。小さな砲の小さな爆煙が、大きな戦いの引き金を引いてしまうかもしれない。いずれにせよ、イギリス人はここで正式な儀礼を要求しないだろうし、それを正当に評価もしないだろう。
 私たちは正反対の針路を保ったまますれ違い、英国艦は次第に小さくなっていった。私たちはようやくホッと安堵のため息を漏らした。緊張から解放される。

 まだ英国艦の上部構造物ははっきりと見えており、その形が急激に変化しているのが見て取れた。彼らはもうもうと煙を上げて速力を増しており、疑いもなく、向きを変えて私たちを追ってきている。2隻の英国軍艦は、左右に大きく離れ、私たちの後方を両側から挟むように追いはじめた。
 また、別な煙が水平線に見えるという報告があった。まだ、なにかがこちらへ向かっているのか? その通りだった。それはイギリスの軽巡洋艦で、やはり私たちを追尾してくる。この瞬間、私たちはイギリスの全地中海艦隊を招き寄せる、甘美な獲物になってしまったのだ。




chasers

追跡してくるイギリスの巡洋戦艦



●ドイツ海軍
 8月4日10時、東北東へ針路を取っていた『ゲーベン』は、左舷側に『ブレスラウ』を発見した。『ブレスラウ』はこれより少し前、『ゲーベン』の前方を横切る形で北方へ通り抜けていたのである。両艦は接近していったが、会同がまだ完全には済んでいない10時15分、艦隊は東、右舷前方に2条の煤煙を発見した。
「『ブレスラウ』へ信号! ナポリへの針路を取れ!」
 スション提督はとっさに、『ブレスラウ』に北東へ向かうことを命じた。煙の正体が何であるにせよ、我々の行こうとしている真の目的地を悟られてはならない。スションは『ブレスラウ』の針路をナポリへ向けさせ、接近してくる煙の正体を見極めることに集中した。

「煙はかなり速い! 2隻います!」
 まず確実に商船ではない。今、煙は針路を変えたように見え、それはドイツ艦隊の前方を遮断する構えと思えた。双方は急速に接近する。
「旗が見えます! 英国海軍旗のようです!」
「総員戦闘配置! 機関室、全速待機!」

 このときの『ゲーベン』の針路は、シチリア島の北側へ出るための針路で、その延長線上にはこれといって大きな港湾がない。スション提督はあえて針路の変更をせず、敵に目的地の手掛かりを与えない行動を選んだ。
 ここでの一番の問題は、ドイツがすでにイギリスとの戦争を始めているのか否か、確実な情報がないことだった。艦隊は軍令部より、英国艦隊側からの敵対行動を警戒せよという警告を受け取っており、この巡洋戦艦が発砲してくる可能性は否定できない。

 『ゲーベン』は完全に戦闘態勢を整えていたけれども、砲はすべて繋止位置に置かれたままで、外見からは普段と変わりなく見えた。
「英国艦は『インドミタブル』と『インデファティガブル』です!」
 自ら双眼鏡を構えて英国艦を観察していた提督は、双眼鏡を近くの水兵に渡し、近付いてくる軍艦を見据えたままでつぶやく。
「間違いないな。しかし、彼らも砲塔を動かしてはいない。少なくとも我々はどちらも、戦争が始まっているという知らせには接していないようだ」

 およそ9000メートルの距離で、3隻の巡洋戦艦はすれ違う。『ブレスラウ』は英国艦の北側、ずっと遠くを通り抜けていた。
「礼砲はいかがいたしましょうか、提督?」、アッカーマン艦長が尋ねる。
「ふむ、発射するとすればこちらからだな。…この際だ、少々礼儀には欠けるかもしれんが、先に発砲したと言われて勝手に戦争を始められても困る。礼砲はなしだ」
「了解いたしました」

 互いに相手を無視するかのようにすれ違ったイギリスの軍艦は、やがて大きく針路を変え、後方から追跡する構えになった。2隻は分離し、『ゲーベン』の航跡を左右から挟むように追ってくる。
「イギリス艦が追ってきます!」
「当然だな。ここで出会ったが百年目という奴だ。このまま開戦の知らせを受け取ると同時に攻撃してくる腹だろう」

 2隻のイギリス巡洋戦艦は180度針路を変え、『ゲーベン』の後ろを付いてくる。『ゲーベン』の速力は17ノットで、特に逃げると見えるような速力ではない。そのまま12時まで、『ゲーベン』はほぼ17ノットを維持している。
「長くなりそうだな」
「はい、提督。…おい、副長を呼べ」

 アッカーマン艦長は戦闘配置にいる副長を呼び、艦内各部から人員を調達して、全長の3分の2ほどにも広がっている予備炭庫から、ボイラー室上の炭庫への石炭移動を命じた。
 前述のように、防御甲板上の炭庫は、命中弾に対する防御効果を期待されているため、即座にボイラーへは供給できない位置にまで設けられているから、これをボイラー室上まで運んでこなければ、ボイラー室では簡単に手に入る手近な炭庫の石炭を使ってしまうしかない。もし戦闘になると、余剰な人員はいなくなるので、石炭運搬は必要になってもできない作業になってしまう。

 もちろん常用炭庫だけでもかなりの時間走り続けられるけれども、すでにかなりの量が使われてしまっているし、この先どれだけの時間、全速力が必要になるかは予想できない。今のうちに運べるものを運んでおかなければ、その場になってホゾを噛むことになってしまう。ただちに輸送班が編成され、予備炭庫の石炭をボイラー室脇の常用炭庫へ移す作業が始められた。
 作業は厳しいものだったが、やがて手順は確立し、順調に使っただけの石炭が艦首尾側の炭庫から補充されるようになる。
 12時、かなり北へ離れた『ブレスラウ』に旗艦への合流が命じられ、同時に加速が始まった。
「さて、彼らを振り切れるかどうか、やってみようじゃないか。…23ノット」
「23ノット、了解!」

 機関室はただちに反応した。現在の機関状況では、23ノットは継続して発揮できる限界に近い。『ゲーベン』の24基のボイラーのうち、3基は閉鎖されており、全乗組員はボイラーの最大効率発揮のために全力を尽くした。こうした場合、戦闘準備を維持したままだと、各種の蒸気動力補機に蒸気を通じて予熱し、即応状態を保たなければならず、その分推進に使える蒸気が減ってしまう。しかし、いつ撃ちかけられるからわからないのだから、蒸気を止めるわけにもいかない。
「石炭を無駄にするな。効率よく焚くんだ!」
 後方のイギリス巡洋戦艦も、はっきりと増速を示す黒煙をもうもうと吐き出しながら、しっかりと距離を保ちつつ、航跡の両側を追ってくる。どちらが先に、この速力競争に音を上げるか。




HMS_Indomitable

イギリス巡洋戦艦『インドミタブル』



▲イギリス海軍
「前方に煤煙!」
「艦長を呼べ!」
 艦橋に呼ばれた『インドミタブル』のケネディ先任艦長は、煤煙の正体を見るために針路を変更した。
「面舵2点、煤煙の進行方向と速力を観察せよ。航海長、交差方位を取れ!」
「煤煙はかなり高速で移動中です。貨物船とは思えません、艦長」
「1隻か?」
「そのようです」

「左舷前方に煤煙!」
「おっと、おいでなすったか」
「右舷側の煤煙の下に煙突が見えます! 煙突は4本!」
「軽巡洋艦か? それなら本命はこちらということになる。取舵2点、左舷側の煤煙との交差方位を取れ」
 艦は緩やかに回頭し、『インデファティガブル』も遅れずに頭を回した。
「左舷側の煤煙は、ほとんど方位が変わらなくなりました。ほぼ真っ直ぐにこちらの方向へ向かっているようです、艦長」
「よろしい、このまま接近する」

「右舷側の艦はドイツ軽巡洋艦です!」
「総員、戦闘配置につけ! 命令あるまで発砲を禁ず! 『インデファティガブル』にも伝達!」
 ほぼ正面を向き合い、相対速力40ノット、時速74キロ、秒速20メートルほどで、3隻の巡洋戦艦は急速に接近していく。
「艦長、正面の艦はドイツの『ゲーベン』です。間違いありません!」
 判断しにくい正面からではあっても、よもや見間違うことはない。あちこちの港で何度も顔を合わせている相手だ。針路は180度反対向きだが、わずかにずれていて、このままなら互いが左舷側に相手を見てすれ違うことになる。

 戦闘準備を整えた巡洋戦艦は、砲を繋止位置に止めたまま、ドイツ艦に接近していく。
「撃ってくるでしょうか?」
「さてな、スション提督は、それほど短慮な人物ではあるまい。イギリスからドイツへの最後通牒の期限は、今夜23時、ドイツ時間で24時だ。それまでは発砲するまいよ。一応、礼砲の準備をしておけ。…各部に注意、相手艦から礼砲が発射される可能性がある!」
 慌てふためいて反撃でもしたら笑いものだ。まあ、主砲は照準していないからめったなことはないだろうし、4インチは砲廓砲に配員されているだけだ。そちらにも照準は命じていない。

 この状況での礼砲の発射は、過激な反応を呼んで実弾の応酬に繋がる可能性が高く、発射が行われないだろうことは予測されていた。両艦隊は敵意を押し隠し、無言のまますれ違う。
「艦長、こういう場合、どのくらいの距離までは、礼砲を撃たなくても失礼にはならないのでしょうか?」
「さてな、昔なら砲弾の届く距離だろうが、今はどうなのかな。まさか、水平線にいる相手にまで敬礼はせんだろう」
 ケネディ艦長は、ポーツマスで広い通りの向こう側から敬礼していた、若い士官のことを思い出して微笑んだ。こちらからは、それが誰かすらわからないというのに。

 10時40分、ケネディはミルンに宛て、報告を送る。「10時35分、北緯37度44分、東経7度56分において、『ゲーベン』、『ブレスラウ』に遭遇。敵針路は東」
 しかし、ミルンはこの報告を受信できなかった。

 6分後、ケネディは重ねて視界内の敵を追跡中と打電したが、敵艦について位置の報告はしたものの、針路は伝えなかった。
「『インドミタブル』、『インデファティガブル』は、北緯37度44分、東経7度56分において、『ゲーベン』及び『ブレスラウ』を追尾しつつあり」
 こちらはミルンに受信され、地中海艦隊は一気に緊張する。11時8分、ミルンはまだビゼルタにあった『ダブリン』のジョン・ケリー艦長に対し、『ゲーベン』と『ブレスラウ』が発見された由をフランス海軍に通知するよう命令した。さらに『ダブリン』は、ただちに出港して追跡に加わり、フランス海軍との連絡は『チャタム』が引き継ぐものとされた。

 このとき、この二番目の報告だけを読んだミルンは、両艦隊が西へ向かっているものと考えている。この報告はそのまま11時頃にはロンドンの海軍省へも伝えられたが、敵艦の進行方向が脱落した報告に対して、皆は勝手に、彼らが西へ向かっていると思い込んだのだった。
 この誤りは、以下の電文に微妙な影を落としている。

 チャーチルから海軍省を経由してミルンへ、「『ゲーベン』を確保せよ。戦争は間近である。もし、ドイツ艦隊がフランスの陸軍輸送船を攻撃するならば、交戦を許可する。しかし、その前に明確な警告を発すべし」という電報が発された。
 しかし内閣は、この問題に対して逆の決定を下した。すなわち、フランス船が攻撃されても、それで自動的に交戦を許可するものではないとしたのだ。チャーチルはこの決定に当惑していた。そのようなことが現実に行われ、英国艦隊の目前でフランス陸軍が船もろとも沈められるようなことになったら、両国の関係は決定的に悪化するだろう。

 その後、11時44分にミルンが第三の報告を受け取ったとき、その通信は暗号を誤って解読され、『ゲーベン』の針路は北と通知された。この誤報告への確認から、初めて『ゲーベン』が東へ向かっているという事実が判明するまで、ミルンも、海軍省のバッテンバーグも、チャーチルもが、彼らが西へ向かっていると考えていた。ミルンは正午過ぎになってようやく、ドイツ艦隊が東へ向かっているという正しい情報を入手する。しかしミルンは、これを確認するため、すぐには海軍省へ報告を送らず、確認を要求して続報を待った。

 この結果、内閣の命を受けた海軍省から14時5分になって送られた電文は、なおドイツ艦隊が西へ向かっていると考えられていたために実情を反映しないものとなり、以下のような内容になった。
「我々の対ドイツ最後通牒の期限は、ドイツ時間で8月4日24時である、この期限に至るまでは、なんら戦争行為を行ってはならない。期限に達して敵対行動が開始される命令は、海軍省より発せられる。前電による交戦許可は、これを取り消す」

 結局、『ゲーベン』はフランス輸送船を攻撃できるような場所にいなかったので、この問題はこれ以上発展しなかったけれども、内閣にはこのような決定がどれほど英国世界に打撃を与えるか、想像できなかったのだろう。またこのとき、海軍省はイタリアの中立を確実にするため、その領海への侵入を禁止している。
 『ゲーベン』を追跡する巡洋戦艦では、その速力をおよそ20ノットと判断している。17ノットでしかない現実との差が何に基づくものかは明らかではないけれども、彼らは『ゲーベン』の最大速力をせいぜい20ノット程度と推測しており、この後の展開との辻褄を合わせたように見えなくもない。両艦隊はそのまま、開戦の通報を待ち受ける態勢になった。

 12時、すでに北方へ離れた『ブレスラウ』は見えなくなっている。
「『ゲーベン』が速力を上げています!」
「なんだと!? 間違いないか?」
「距離は離れつつあります。煤煙も増えています。『ゲーベン』は加速中です、艦長!」
「機関室、増速せよ! 24ノット!」
 こうして、後に歴史を変えたとまでに評価されることになった、重大な競争が始まった。

第6章終わり




to previous  前へ 次へ  to next



―*― ご意見、ご質問はメールまたは掲示板へお願いします ―*―

スパム対策のため下記のアドレスは画像です。ご面倒ですが、キーボードから打ち込んでください。

mail to



to wardroom  士官室へ戻る