ゲーベンが開きし門 第一部・第七章 The Goeben opens the gate : part 1 : chap.7 |
第7章・撃ってもよいですか?
■"Two lone ships"より
彼らが何を考えているのかは明白だった。英国人はこの瞬間にも宣戦が布告されると予想しており、そうなったらただちに私たちを撃滅するつもりなのだ。『ゲーベン』と『ブレスラウ』は、地中海にある唯一のドイツ艦隊だったから、彼らにとっては最高級の獲物であり、全艦隊を挙げて追跡する価値がある。私たちは、追跡者が後方にぴったりとつけてくるのを見ていた。
しかし、そう簡単に捕まるつもりもない。23000トンの『ゲーベン』は、掛け値なしに地中海最高速の軍艦だったし、4000トンの『ブレスラウ』も同じ速力が発揮できる。私たちは暗くなる前に、どんな犠牲を払ってでも、この追跡艦隊を振り切ってしまわなければならない。それは厳しい競争になるだろう。
イギリスの巡洋戦艦は、最大26ノットを発揮できると聞いている。だが、私たちはもっと速いはずだ。7月にボイラーの大修理を行っていたのは幸運だった。今こそ、その成果を見せるときだ。
真夏の太陽は容赦なく照りつけ、速力を上げれば艦内には熱気が充満し、甲板下では耐えられない暑さになる。それでも私たちは英国艦を振り切らねばならず、ボイラー室と炭庫では、英雄的な努力が始まっていた。正午過ぎ、天候はいくらか悪化して雲が多くなり、紺青の海は濃い鉛色に変わった。
艦内の全乗組員は、砲の操作に配置されている者、航海上欠くべからざる配置にいる者を除き、すべてが石炭の移送に携わるよう命じられる。火夫はもとより、水兵、下士官、候補生、士官の別なく、全員は一致団結してボイラーの最大効率を実現すべく働いた。石炭を運び、灰を掻き出す。耐え難い熱気は肺と心臓に大きな負担をかけた。
装甲甲板のハッチは閉鎖されており、うなりをあげる換気装置から送り込まれた空気が圧縮され、その中での重労働である。
ボイラー周辺の炭庫にある石炭は、戦闘が始まったときに使うために残されていなければならなかったから、最大速力を発揮させるための燃料は、離れたところに積まれているものを持ってくるしかない。最外方に配置された炭庫から優先的に用いられたけれども、これはかなり長い距離を運ばなければならないということでもある。この移動のために、できるだけ多くの人数が必要なのだ。
艦内は騒音に満ちていた。吸気装置は真空を求めるかのように空気を掻き集め、圧縮されたそれをボイラー室へ吹き込むと、赤熱した石炭をさらに激しく燃焼させ、煙突から吐き出される煙は轟くような音を立てている。機関室ではタービンがうなりを上げ、艦全体が激しく振動していた。
『ゲーベン』は全速力で走っている。機関室は灼熱地獄となり、半裸の火夫たちは滝のように流れ落ちる汗の中で、ボイラーに石炭を放り込み続ける。その目的に邁進する姿は、素晴らしいスペクタクルを描き出していた。
8万馬力のエネルギーが解放され、艦首は巨大な鋤のように波を引き裂く。長い灰色の船体は海水をしぶきに変え、飛沫は飛ぶように後方へと流れていった。スクリューは泡を吹き、猛烈な力で海水を押しやっている。
『ブレスラウ』も、まったく同じように苦労していた。そのほっそりとした船体は、海面を離れて飛んでいるようにも見えた。すべての煙突から、もうもうと煙を吐きながら、英国艦隊もこの追いかけっこに加わってくる。この追跡は4時間に渡った。その間、エンジンとそれに携わる男たちへの要求は、想像を絶するほどに厳しいものだった。
イギリスの巡洋戦艦は執拗なハンターだった。彼らもまた追い続けることの重要性を悟っており、諦めるということを知らないようだった。ようやく、午後遅くになって、巡洋戦艦は落伍しはじめる。彼らは追跡する力を失った。私たちは、彼らのマストがゆっくりと水平線の向こうへ消えていくのを見ていた。
やっとのことで、望みは達せられたのである。
しかしまだ、軽巡洋艦はこの速力競争に敗れておらず、しっかりと視界内に位置を保っている。今、私たちは東北東に針路を取っていた。無線室では英国艦が、マルタと忙しく通信している様子が傍受されている。彼らは、振り切られたという事実に対する驚愕を隠すことができなかった。
私たちが視界から去ったとき、彼らは大きな驚きをもっていただろう。彼らは私たちの機関の状況を、せいぜい18ノットが可能としか見ていなかった。ポーラにおける労苦は、しっかりと報われたのである。『ゲーベン』は、英国海軍が考えていたより確実に速く、危機は長く続かなかった。
夜が訪れる。私たちはまだ、コースを変えていなかった。月光はときおり、雲の隙間から弱々しく海面を照らすだけである。
そして23時、重大なニュースが到来した。私たちはそれを大きな興奮で迎える。
それはまず、『ゲーベン』の無線室で始まった。無線室はその瞬間、周囲から隔絶された聖堂のようだった。その通信を受けた通信員は、その電文に接するのが司令官と艦長に限られるということで、その内容を窺い知ることができた。
そのとき私たちは、北からの報道を聞いていた。ところが突然それは妨害され、まともに受信できなくなったのである。それでも『ゲーベン』の有能な無線通信士は、その中から ENG の3文字を識別した。これは、私たちに重大な手掛かりを与えてくれる。英国艦隊が私たちに知らせが届くのを妨害しようとしたのは、これしかなかった。「イギリスはドイツに対して宣戦を布告した」
しかしこのとき、私たちの艦隊首脳は、どこへ向かうべきか、何を行うべきかに、明確な指標を与えられていなかったのだ。
妨害を逃れたかすかな、この上もなく重要な情報を得るために、無線室は強い緊張を強いられている。奇妙な音を立てて働く不可思議な無線機械は、しかしこのとき私たちの命綱でもあった。そこから流れ出してくる情報が、私たち1500人の運命を握っているのだ。この情報がなければ、遠く祖国を離れた地中海で、私たちは道に迷った幼児のごとくに、アテもなくさまようだけだっただろう。進むべき方角すら判らず、迷いぬいた挙句に、敵の手の中へと落ちていくしかない。
彼らは、開戦の通知を私たちに届かないようにしておき、不意を突いて昼寝をしているドイツ艦隊を捕らえるつもりだったのだ。その目論見はたった今、見事に失敗した。
私たちはそのお返しとして、厄介な追跡者を振り払うことにした。艦隊はまだ、ナポリへ向かうコースを変えていない。彼らはナポリが、私たちの当座の目的地と考えているだろう。彼らに、私たちの本当の目的地がメッシナであることを悟られてはならなかったからだ。まもなく、彼らは私たちの目的を知る。
月が雲に隠れ、再び視界がなくなったとき、私たちは暗闇の中で針路を急速に東へ変えた。
「全速力!」、私たちは幽霊のように、それまでのコースから消えた。
月がまた雲の合間から顔を出したとき、そこには追われているはずの者たちがいなかった。追跡者は策略に気付かず、そのまま元のコースを進んでいたため、見事に私たちを見失ったのだ。
「やったぜ!」
この解放によって、私たちはゆったりと深呼吸ができた。それまで、戦闘配置が解除されなかったので、私たちはほとんどが配置場所の近くで仮眠しただけだった。昼前からずっと、私たちは砲のそばに立ち続けていたのだが、ようやくのことに寝床を暖める時間ができる。
それでもまだ、海は敵で一杯なのだ。4時間で当直は交代し、たっぷりと休養した者たちが交代すると、疲れた者たちは食事をし、そのまま寝入ってしまう。
なんら妨害されることなく、私たちはメッシナへ向かっていた。夜が明け、東の空が徐々に明るくなってくる。厳重な見張りは維持されていたけれども、どこにも敵艦らしい兆候はなかった。
8月5日早朝、『ゲーベン』はメッシナへ入港した。先行した『ブレスラウ』は、すでに港内にあった。『ブレスラウ』は私たちが厄介な追跡者を振り切ったとき、石炭の手配のために先行するよう命じられていたのだ。
●ドイツ海軍
イギリス艦隊が、東へ向かっている『ゲーベン』の前を押さえず、後方へ付いたということは、彼らが最も恐れていたのが西方への脱出であり、その先にいるはずの、フランス陸軍輸送船への攻撃だったからだろう。ドイツ艦隊が東へ行きたいのだと見たのならば、その前方へ位置するほうが得策である。陸上での追跡と異なり、洋上では追う者と追われる者のどちらが前にいるかは、それほど重大な問題ではないのだ。
スション提督は、シチリア島をかわすために取っていた東北東への針路を変えようとしなかった。そのまま進めばナポリの南、何もないところでイタリアにぶつかるから、英国艦隊としては『ゲーベン』の行動に予測がつけられない。
艦隊は午前中一杯、平均17ノットで航行していたけれども、この間に彼らは周到な準備を行っていた。艦内の余剰人員を編成して輸送班を作り、ボイラーから離れたところに積まれている石炭の移動を行っていたのである。大量の石炭がボイラー室の真上に積み上げられ、競争への準備は整った。
「さて、彼らを振り切れるかどうか、やってみようじゃないか。…23ノット」
「23ノット、了解!」
『ゲーベン』はゆっくりとだが、着実に加速を始めた。機関全体で音調が変化していく。それでもそれは、公試運転のときのような、破壊を予感させるような限界的な音階ではない。今の『ゲーベン』には、そんな速力は望みようもないのである。
後方の英国巡洋戦艦は、この加速に気付くのにいくらか時間が掛かった。それでも彼らはすぐに反応し、速力を上げてくる。公称25ノット、公試では26ノットを叩き出したという彼らの実力は、どのようなものか。
もし、ここで彼らを振り切れなければ、『ゲーベン』はより優勢な敵を引きずったまま戦争に突入することになる。それがどういう結果をもたらすか、知らないものは誰もいない。仮に彼らを打ちのめしたとしても、同じ程度にはこちらも傷つくだろう。戦闘力は低下し、速力も発揮できなくなる。燃料も、弾薬もなくなってしまうが、補給できる場所はない。
彼らは、仮にあの2隻が動けなくなり、よしんば失われても、まだそれに数倍する戦力を保持しているのだ。砲弾を撃ちつくし、燃料のなくなった艦に何ができるだろうか。最後まで戦って沈むか、中立国へ逃げ込んで抑留の辱めを受けるか、選択肢は多くない。
戦争が始まる前にメッシナへ逃げ込めたにしても、後ろに巡洋戦艦を引きずっていたのでは、その後に自由な行動など期待しようもない。規則によって猶予される24時間だけが、命の残り時間になる。そこで戦わずに抑留されるなど、乗組んでいる誰もが、許すはずもないことだ。
14時頃まで、イギリス巡洋戦艦はよく『ゲーベン』に追従していた。しかし、提督が可能な範囲で24ノットまでの増速を命じると、その差はわずかずつだが広がりはじめたのである。『ゲーベン』のボイラー室も、24ノットを維持するには無理があり、故障を起こすボイラーが続出して、そのつど速力は低下した。しかし、機関部員の超人的努力により、故障したボイラーは回復して戦列に加わり、再びの故障が起きるまで、速力はわずかながら向上したのである。
22ノットを切れることはめったになかったけれども、24ノットを維持することもできなかった。記録では、平均は22ノット半ほどということになっている。これとても、実際に計測されたわけではなく、全体としては天測による位置の計測から求められる進んだ距離を掛かった時間で割った数字であり、その場では機関の回転数から推測された値なのだ。長期にわたって整備を受けていない船体が、どれほど能力を低下させているかは、知る由もなかったのである。正確な数字はずっと後になって、細かな記録を分析して初めてはっきりしてくる。
やがて、明白にイギリスの巡洋戦艦は遅れはじめた。彼らはすでに22ノットすら維持できない様子で、15時50分、視界から没し、煙しか見えなくなっている。しかしこのとき、南から接近してきた軽巡洋艦『ダブリン』が追跡に加わり、こちらは頑として離れなかった。
だが、恃みとする巡洋戦艦が落伍してしまっているため、『ダブリン』は距離を詰めることができず、夜になって艦隊はこれの視界から逃れた。いつ戦争が始まったという知らせが届くかもわからない状況で、たかが軽巡洋艦1隻では、敵の巡洋戦艦の近くになど居たいはずもない。『ダブリン』が発信していると思われる電波は明らかに弱くなり、距離が開いているのは間違いなかった。『ゲーベン』は速力を落とし、『ブレスラウ』はメッシナへ先行して石炭の手配をするように命じられている。
そして深夜、イギリスとドイツは戦争を始めた。
この状況に基づき、スション提督は午前1時26分、ウィーンのドイツ大使館付武官に宛てて、「イギリス巡洋艦はメッシナからの出港を妨害するものと思われる。オーストリア軍艦をただちにメッシナへ向けて出港させ、両艦を救出させるべきと考える。フランス艦隊は地中海西部にあり」と、電報を送った。
また、1時40分にはドイツ軍令部に、2時12分にはオーストリア艦隊司令長官であるハウス提督に、「可能な限り速やかに、『ゲーベン』と『ブレスラウ』をメッシナから救出されたい。イギリス巡洋艦はメッシナ沖にいるけれども、フランス海軍は付近にいない。本艦隊は貴艦隊の来援を待って出港したい。何時ごろの到着を期待してよいか」と、双方にほぼ同じ内容の電報を送っている。
数度にわたるボイラー水管の破裂では、幸いにも死者が出なかったものの、朝になって炭庫のひとつから一人の乗組員の遺体が発見された。おそらく彼は、酸欠と過労で倒れたものと思われる。
『ブレスラウ』は8月5日の黎明時5時6分、『ゲーベン』は同じく7時45分に、死亡した水兵の水葬式を港外で執り行ってから、メッシナ港に投錨した。イタリアの駆逐艦5隻が迎えに出ており、取り囲まれるように護衛されながらの入港だった。
まず、最初の競争に勝利したドイツ艦隊だったけれども、ここが袋の中であることに変わりはない。ここから出るときには、さらなる強敵が待ち構えているに違いない。
▲イギリス海軍
このときのイギリスの巡洋戦艦2隻が装備する12インチ砲は16門あり、同時に一目標へ指向できる砲数は14門だったが、その斉射弾量は11900ポンド、約5400キログラムに達する。これに対して『ゲーベン』が装備する28センチ砲は、砲弾重量が302キログラムであり、10門の弾量は3020キログラムでしかない。
さらにイギリス海軍は、現場近くにもう1隻の巡洋戦艦『インフレキシブル』を持っており、9.2インチ砲を装備する装甲巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦15隻を擁している。幸運がどう『ゲーベン』に作用したところで、これほどのライオンと狼の群を相手に戦ったのでは、いかに虎であっても生き残れる道理はない。
★『インドミタブル』と『インフレキシブル』は同型艦、『インデファティガブル』はこれの改良型。各艦の要目、詳細は別項を参照。
また、ドイツ艦隊には拠るべき根拠地もない。最も保護の可能性が高いのはオーストリアのポーラ軍港であろうが、よしんばそこへ逃げ込んだにせよ、地中海の海運にとって脅威になるような形での出撃は困難だろう。アドリア海を誰にも見られずに抜け出すのは、まず無理だし、出てくれば戻れなくなる。イタリアの中立が維持される限り、彼らが根無し草になるのは間違いないのだ。
これらのことから、イギリス艦隊は『ゲーベン』のジブラルタルからの脱出防止と、フランス輸送船への攻撃防止を最大の目的とし、次がアドリア海への遁入阻止ということになった。艦隊はこの計画に沿って配置されようとしており、その途上で『ゲーベン』が発見されたのである。
追跡を始めた当初、速力は17ノットほどだったから、イギリス艦隊は苦もなくこれに追従でき、最も接近したときには、距離は6000メートルほどになった。『インドミタブル』の先任艦長ケネディは、ドイツ艦の魚雷射程内にいることに不安を感じている。適度に距離を取り、兵員に交代で食事を取らせ、彼らはただ、砲に装填して開戦の通知を待つばかりだった。
17ノットは、彼らが『ゲーベン』の維持可能な最大速力と見ていた数字に近く、その推測が裏付けられたようにも思われるから、もしかしたらそこに油断があったかもしれない。
『ゲーベン』が全力を振り絞って逃走を始めたとき、その速力はイギリス海軍の予想を超えたものだった。彼らはポーラでの水管整備を知らず、過去の状況から維持できる速力を18ノット、最大でも20ノットほどと見積もっていたのである。そして自軍の巡洋戦艦は、カタログでの速力が25ノット、公試では26ノットを記録しているのだから、逃げられるはずがないと考えている。
14時20分、『ブレスラウ』が北方から接近してくるのが発見された。ケネディは、ドイツ艦が航跡に投下するとうわさされていた機雷にも注意を向け、その航跡から安全な距離とるように、角度を持って後方からの追跡を続ける。『ブレスラウ』が接近してすぐ、英国艦隊にも軽巡洋艦『ダブリン』が加わった。『インドミタブル』が『ゲーベン』のほぼ真後ろにつき、左舷側を『インデファティガブル』が、右舷側を『ダブリン』が固めている。
この包囲網はしかし、『ゲーベン』が速力を上げると追従しきれなくなり、徐々に間隔は開いていく。『ゲーベン』の速力は、かなり低下しているはずという英国艦隊の予想を裏切り、少なくともイギリス巡洋戦艦と対等以上の能力を保持しているのがはっきりした。
ケネディは機関室に、なんとしても速力を維持せよと命じているが、機関室はこれに応えられなかった。口惜しさをかみ殺したケネディは、ミルンに向け報告を送る。
「ドイツ艦隊は、予想外の26ないし27ノットという高速で、我々から遠ざかりつつある。針路は東微北。我々は重油燃料をも使用しているが、『ゲーベン』はなお3ノット半ほど優速である」
16時45分、イギリス巡洋戦艦はついに振り切られ、後は『ダブリン』だけが視界内に残って追跡を続けるのみとなった。それでも『ダブリン』にはなお余力があり、ジョン・ケリー艦長は、『ブレスラウ』と交戦するべきかを問い合わせる。「交戦すべきや? ‘Shall I engage her?’」
ミルンは即座に「否定」と返答した。
17時20分、ケリーは『ブレスラウ』がまたしても『ゲーベン』から離れたと報告した。この状況に鑑み、彼は分離した2隻のどちらを追跡するべきか、指示を求めている。重要なのはもちろん『ゲーベン』だが、いざ開戦となったときに巡洋戦艦の援護抜きで近くにいたのでは、あまりにも危険にすぎるからだ。彼は結局、接近し過ぎない形で『ゲーベン』を追っている。
この報告を受けたミルンは、現在位置からだと『ブレスラウ』がシチリア島の南側を通ろうとするかもしれない可能性を考え、『チャタム』と『ウェイマス』をこの方面へ向かわせた。
夜になって、『ダブリン』は巡洋戦艦からの不意討ちを避けるため、無理な接近を控えている。これにより、速力を維持しつつ針路を変えた『ゲーベン』を見失ってしまう。『ダブリン』は19時20分、最後の接触を報告した。
「『ゲーベン』は視界外にあり、現在は乏しい陽光の中に煤煙が見えるだけである」
ここで研究者は、戦史関係読み物の奇妙な記述にぶつかる。
多くの書物で、英国巡洋戦艦は増速した『ゲーベン』を追跡して速力を上げるものの、26ノットの最大速力でも追いつけず、その速力は28ないし29ノットと書かれているのだ。はて、ドイツ側の信頼できる記録を見る限りでは、28ノットなどという速力は、どこにも見出し得ないし、ここで紹介した『インドミタブル』からの報告でも、26ないし27ノットとしか述べられていない。どこから28だの9だのという数字が出てきたのだろう。
実際にどれだけの速力が維持されたのか、証拠になるようなデータは少ないが、ドイツ側公刊戦史の航跡図を信頼できるものとして計測すれば、午後の4時間での移動距離は85ないし90浬であり、ほぼドイツ側の記録に一致する。
つまり、このときの英国巡洋戦艦は、実際には22ノットにすら追従できなかったことになるのだ。自艦がどれだけの速力で走っているのか、いかに計測装置がなくても、いや、そんなものが存在しないからこそ、艦橋や機関室でまったくわからないなどということはない。正確にはともかく、機関の回転数や艦首波、ウエーキを見れば、およその見当はつけられるはずだ。
しかし、彼らはこの速力について、詳細な報告を行わなかったように見える。実際には単に自艦よりも3ノット半ほど優速であるという、相対的な速力差のみを報告したようなのだ。そしてこのことは、ミルンやトルーブリッジに大きな誤解となって伝わり、後の展開に重大な影響を及ぼしたのである。
彼らは、自軍の巡洋戦艦の速力を、さすがに26ノットなどとは判断していなかったようだが、まさか22ノットを維持できないとは考えておらず、24ノット程度と見ていたらしい。そこから推測すれば、3ノット半優速という『ゲーベン』の最大速力は、最大限の見積もりで27ないし28ノットとなり、公試で記録されたという数字に近くなる。この数字は、既知の公試最大速力に近いだけに信憑性があり、彼らは『ゲーベン』が新造時の能力を取り戻していると考えてしまった。この後、『ゲーベン』の速力は、推定の数字だけが独り歩きを始める。そしてこうした推測には、えてして尾ひれがつきやすいのだ。
この速力では、公称23ノット、実際には機関の調子が悪い艦に引きずられて20ノットがやっとという、トルーブリッジの装甲巡洋艦には、接近できる見込みがまったくない。トルーブリッジはここで、巡洋戦艦と装甲巡洋艦の性能差を、さらに拡大する方向へ意識した。挑戦はすなわち、死を意味する、と。
しかし、彼らは重大な見落としをしている。巡洋戦艦が振り切られた後も、軽巡洋艦『ダブリン』が、『ゲーベン』を追跡し続けていたという事実である。『ダブリン』の最大速力は25ノットであり、ケリー艦長が夕刻、日没によって追跡を断念したときまで、彼らは『ゲーベン』を見失っていないのだ。
これはつまり、『ゲーベン』が25ノット以上を発揮できていないという証拠であり、その速力についてケリーに詳細な報告を求めていれば、『ゲーベン』の実力ははっきりしていたに違いない。
このときケリーもまた、自分たちが実際にどれだけの速力で走っているのか、『ゲーベン』の推定速力がどれほどなのか、詳細な報告を行っていないようだ。おそらくは要求されなかったために、彼は速力について報告せず、見失ったという事実のみが通報されたのだろう。このため、ミルンやトルーブリッジたちは、『ゲーベン』の速力を実際よりはるかに大きいものと思い込んでしまったのだ。
また『インドミタブル』のケネディ艦長は、この追跡が不首尾に終わった原因について、ボイラー前へ石炭を運ぶ人員が不足したことを挙げている。彼は後に、30人ずつ三交代で編成できる人数がいなければ、これに要求される労力を維持できないと報告した。もし追いかけるつもりなら、主砲塔から人員を割かなければならず、『ゲーベン』が立ち向かってきた場合に遅れをとる可能性がある。
しかしこれは、もしかするとイギリス艦隊側の準備が悪く、ボイラー室周辺の石炭を使い切ってしまったために、供給が追いつかなくなっただけという可能性も考えられる。後にこれを裏付けるような記述が、戦史に表れるのだ。そしてもうひとつ、両国の巡洋戦艦の性格的な相違も影響を及ぼしている可能性がある。
イギリスの巡洋戦艦は、『ドレッドノート』の思想を装甲巡洋艦に適用し、それをさらに格上げしたものである。そのため、主砲は12インチ砲を8門装備するものの副砲はなく、補助砲である4インチ砲を砲塔上にまで並べて、駆逐艦や水雷艇に対処しようとしている。この武装では、相手が大型駆逐艦以上になれば、戦闘に主砲を用いざるを得ないのだが、それはまあ、ここでの問題ではない。
副武装が少ないことから、その乗員数は800名ほどと多くなく、このときには戦時増員も行われていないから、各主砲塔と機関部や艦橋に兵員を配置すると、余剰人員がほとんどいなくなってしまうのだ。一方、ドイツの巡洋戦艦は15センチ副砲を多く装備しており、『ゲーベン』の乗員定数は1053名とされている。砲塔数が1基多くても、100人以上は頭数が多いことになる。この乗員数の差が、たまたまこのときには意味を持ったのかもしれない。
この時代すでに、砲塔や砲廓に配置された乗組員は、防炎服やガスマスクなどを装備しており、特に出入りが困難な主砲塔では、戦闘配置にいる人員を気軽に動かすことはできない。砲廓や露天砲ではまだ余裕があるから、砲弾の運搬などに用意されている人数なら、戦闘が始まる直前まで、他の仕事をさせることも可能だろう。
本題に戻ろう。グリニッジ標準時間で1914年8月4日23時、イギリスとドイツは正式に戦争に突入した。すでにあちこちで戦火は燃え上がっており、軍隊も行動を始めていて、これは形式的な宣言に過ぎないことだったが、一般には世界大戦の始まった時刻とされている。
このとき『ゲーベン』は、シチリア島の北側を東へ向かい、メッシナを目指している。『ブレスラウ』はこれに1時間ほど先行しており、やはり同じ場所へ向かっていた。
追跡を諦めたイギリスの巡洋戦艦『インドミタブル』と『インデファティガブル』は、シチリア島の西側にあって、サルディニア島とビゼルダの間に網を張るべく、7ノットの低速で西へ向かっている。ミルンの旗艦『インフレキシブル』は、マルタを出て西北西へ向かい、途中で軽巡洋艦『チャタム』と『ウェイマス』を合流させようとしている。メッシナの南出口には『グロスター』が向かっており、石炭の欠乏してきた『ダブリン』は、西方にいる巡洋戦艦に合流しようとしている。
トルーブリッジは4隻の装甲巡洋艦と共にイオニア海にあり、石炭がさらに欠乏したままの駆逐艦が、ギリシャ沿岸にいる。残りの駆逐艦はマルタにいて、フランス艦隊はアルジェ、オランに集結中である。いずれの海軍も、現にドイツ艦が存在しているとわかっている現場に、新手を送り込む様子は見せていない。明確に敵の位置へ接近しているのは、『グロスター』だけなのだ。最初に戦争を始めたオーストリアは、まだイギリスに宣戦せず、イタリアをはじめとする周辺諸国は、未だ中立を保ったままだ。
ドイツ艦隊がどこにいるのかの情報は、メッシナ海峡の南口へ向かっている軽巡洋艦『グロスター』からの報告で推測された。14時36分に、『グロスター』は『ゲーベン』のものと思われるかなり強い無線信号を傍受しており、17時にはさらに強い信号強度で受信した。これはつまり、シチリア島の北側を進んでいる『ゲーベン』が、南口へ接近している『グロスター』に近付いているということであり、彼らの目的地はメッシナと推定された。
第7章・終わり
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