ゲーベンが開きし門
第一部・第八章
The Goeben opens the gate : part 1 : chap.8



gain on HMSs

ゲーベンの速力に追従できず、引き離されるイギリス艦隊



第8章・再びメッシナ

■"Two lone ships"より
 こうしてドイツの2隻の巡洋艦は、メッシナへ戻った。今回はいくらかでも素早く、石炭の補給ができるだろうか。三日前の経験からすれば、「同盟国」とは名ばかりのように見えるこの国では、あまり大きな望みは持てそうもなかった。そして、その間にイギリスやフランスが何をしてくるか。
 彼らが、『ゲーベン』と『ブレスラウ』がここにいることを知るまでに、どれほどの時間もかかるまい。彼らはチャンスを掴み、海峡の両側を塞ぐだろう。時間さえあれば、彼らがそれをしないほど愚かだろうとは、とうてい期待できなかった。石炭は必要不可欠だったものの、それは私たちを穴の奥へ押し込みもしたのだ。

 しかし、事の重大さにもかかわらず、私たちは非常に陽気だった。もし、私たちがここから出られなくなっても、それは私たち自身の過失ではない。出られるなら、石炭さえあればなんとかなる。こうして載炭のための準備はすべて整ったけれども、肝心の石炭は送られてこなかった。すでに日は高く、正午を過ぎている。
 まぶしい日光は海面をキラキラと輝かせ、光が踊っているかのようだった。船体は耐え難いほどに温度が上がり、熱を発散している。午後もまた、石炭の兆候もないままに過ぎ去っていく。私たちが待機した場所でイタリア人に対して、口々にどれほどの悪罵を並べたか、とても書き表すことができない。やむをえず、私たちは自分たちにできる作業を実行することになった。

 港内には、無線によって警報を受け、避難してきたドイツ船が多くあった。戦争が始まったからには、彼らは捕えられる危険なしに外洋を走れなかったから、ここから出ることができない。私たちは、彼らが持っている余分な石炭をかき集めることにしたのだ。
 船が次々に『ゲーベン』の舷側に呼び寄せられる。こうした船からの石炭の積み替えは、想像を絶する困難を伴う。一般に船の石炭庫は、石炭を効率的に積み込めるようにはなっていても、そこから石炭を運び出すようには造られていないからだ。しかし、他に手段はなかった。

 石炭は汽船のボイラー室で袋詰にされ、上への開口のある場所まで人力で運ばれなければならない。工具が持ち込まれ、搬出の効率を上げるために邪魔になるものが切り取られる。手すりやデッキの一部までが剥ぎ取られた。
 私たちには昨日のイギリス巡洋戦艦との競争に勝った興奮が尾を引いており、皆が疲れてはいたけれども、いっそう力強く働くのだった。実際には休養が必要だったのだが、男たちはわが身にムチを振るって力を尽くした。命じられてイヤイヤ行われるのではなく、皆が自分の仕事に意義を感じていた。その仕事以外の要求はとりあえず後廻しになる。

 一隻からの積み替えが終わると、すぐに次の船が寄せられてきた。石炭は絶え間なく炭庫へ落とし込まれたが、あまり質のよくないものが多く、とうてい満足できる量にはならなかった。夕方になってようやく、イタリアからの石炭船が政府の許可を得て到着した。仮にも同盟国の人間に、たったこれだけのことをさせるのに、私たちはなんという迂遠な交渉をしなければならなかったことか。私たちは、イタリアが今のところ中立を堅持することを望んでいるのだと痛感したが、それは呪うべき状況だった。

 片舷での載炭が進んでいる間、反対側には『ゲネラル』が横付けし、不用品や余剰物資が移されている。そしてそれをはるかに上回る量の石炭が、『ゲネラル』から積み移されていた。とにかくたくさんの石炭が必要だった。私たちの前に残っている航程は長く、燃料が多ければ、それだけ多くの選択肢が確保される。午後と夕方はこうして過ぎ去り、夜が訪れた。
 しかし、昼の太陽に熱せられた船体の熱は簡単には抜けず、夜になっても艦内はいっこうに涼しくならなかった。乗組員は皆、疲労の極限にあったけれども、誰もが不平を言うでもなく、黙々と働き続けている。『ゲーベン』の楽隊は、疲労を追い払い、皆を元気付けるために活発な演奏をしながら、石炭の隙間を縫うように行進していた。何時間も、そんな状態が続いたのである。誰も、どれだけ時間がたったのかなど、気にしてもいなかった。

 奇妙な状況だった。長い灰色の『ゲーベン』を、様々な汽船やハシケが取り囲んでいる。石炭で一杯になった袋が汽船のハッチから吊り上げられると、船を横切って軍艦の甲板に降ろされ、そこに中身をぶちまけるのである。空っぽになった袋はすぐに戻され、次の袋が同じように運ばれてくる。甲板上ではシャベルが休みなく動かされ、山になった石炭が炭庫へ落とし込まれる。

 それは軍楽隊の演奏など、すぐ近くにいない限りかき消されて聞こえなくなるような、名状しがたい騒音の塊だった。そのかたまった船の周囲には、いくらか離れてシチリア人たちの姿があり、彼らはそこで何が行われているのかを見ていた。誰もが作業の様子を見ようとしていたのである。しかし、あらためて見なければならないようなものがそこにあったとは思えない。その興味の度合いからすれば、彼らはこれまで一度も載炭を見たことがないかのようだった。彼らは、決意を持って死地に赴く者たちを見に来ていたのだ。

 私たちは、まったく自分たちの仕事に熱中していたから、彼らの無遠慮な様子を気にしてもいなかった。私たちには時間がなく、同僚と話をするヒマさえなかったから、周囲のことなど見ていなかったのだ。ペチャクチャと際限なくおしゃべりをし、笑い、叫び、歌っている彼らは、ただ邪魔なだけであって、うっとうしい存在でしかなかった。私たちは彼らを艦に近づけないよう、十分な注意を払ったつもりだったけれども、後になって調べてみると、ずいぶんとたくさんの物が盗まれたようだった。

 周囲の噂では、私たちはすぐにメッシナを出なければならなくなると言われていた。実際、夜に入るとイタリアの海軍士官たちが艦を訪れ、イタリアが厳正な中立を維持する方針であると伝えてきた。その場合の国際法規に則れば、私たちは24時間以内の退去を要求されることになる。
 状況を掌握したスション提督は、この要求を見事に切り返し、申し入れのあった今、このときが法規に言う24時間の起点であると宣言した。イタリアの士官は慌てていたが、引き下がるしかなかった。この結論によって、私たちは貴重な時間を勝ち取り、より多くの石炭を積み得るチャンスを得た。また、敵軍の行動についての情報も得られるだろう。だが、長くなればなるほど、閉ざされようとしている袋の口は、狭くなるばかりでもある。

 夜の11時になって、まだ載炭作業がハイピッチで進んでいる中、家族や友人に宛てて送るようにと、乗組員全員に5枚ずつのハガキが支給された。真っ黒に汚れたまま、スコップを放り出した手は鉛筆を握り、汗をしたたらせながら、それが最後になるかもしれない別れの挨拶が、短い言葉で書き連ねられた。書き終わった者は次々にスコップを握りなおし、石炭の山を崩しにいくのだった。
 ところが、私の実家はロシア領にあり、ドイツ国内に親戚も友人もいなかったから、ハガキを送る先がなかった。そこで、私はハガキが足らないという仲間に、それを分け与えたのである。

 すべての乗組員が、載炭というただひとつの行為に集中し、全力を尽くしていた。誰もがぶっ倒れる寸前だったのだ。そのとき、『ゲネラル』は大きな助力を与えてくれた。一等、二等の客室が開放され、ふかふかのベッドに真っ白なシーツが提供された。疲れきって動けなくなった男たちは、何も考えずに着替えることもなく、そのありがたい抱擁の中に身を投げた。ほんの30分、活力を取り戻した男たちは、再びの苦役に汗を流すのだ。

 『ゲーベン』は一日中、これ以上ないほどの騒音に包まれていたから、眠るなどとうてい不可能だっただろうが、『ゲネラル』は静かだった。男たちはすべてを忘れ、死体のように眠った。
 『ゲーベン』と『ゲネラル』の厨房は、男たちの力の源となる食べ物を作り出すのに大わらわだった。パン、コーヒー、レモネード、チョコレートからディナーまで、食物庫のあらゆる食べ物が惜しげもなく提供された。喉の渇いた乗組員の一部は、抜け目なく『ゲネラル』のビール保管庫へ忍び込みさえした。

 8月6日の夜が明けた。新しい日は、何を運び込んでくるのだろう。すでに1200トンの石炭が積み込まれていたが、けっして十分ではなかった。1200トンの石炭積み込みは、設備の整った給炭所でなら、ほんの3、4時間で終わる仕事である。しかし、ここでは超人的な努力と犠牲が要求された。
 設備を欠いた船からの石炭移送は、本当にとてつもなく厄介な作業なのである。それでも他に方法はなく、作業は続けられるしかない。すでに12時間、私たちはぶっ通しで載炭を続けている。

 その一方、港内のドイツ船からは、軍役を志願するものが後を絶たなかった。彼らは医者の診断を受け、十分な健康体であるものは艦隊に受け入れられた。不健康なものや、十分な能力に欠けるものは帰らされ、がっくりと肩を落としていた。
 あまりの忙しさに、私たちは自分たちの危機について考えることを忘れていたが、私たちが罠の上に座っている状況は何も変わっていない。『ゲーベン』の無線室は、夜通しイギリスやフランスの無線通信に波長を合わせ、なんとかして彼らの通信を聞こうとしていた。檣上の見張りは、ひっきりなしに近付いてくる煙を報告してくる。

 私たちは彼らの街道の、交差点の上に座っているのだ。彼らがメッシナ海峡の両側に戦力を集めるのは当然のことであり、港に入ってくる船からは、イギリスやフランスの軍艦を見たという知らせが伝わってくる。もちろん、これは当然に予想されたことだった。
 圧倒的な戦力を持つ彼らはまた、私たちが遅かれ早かれ、この中立地帯から出て行かなければならないことを知っている。昨日のイタリア士官の宣言は、これの期限にまったく疑いの余地を残していなかった。私たちの同盟者であるはずの彼らは、仲間であるはずの私たちを、不確実で無慈悲な「運命」の手に委ねようとしている。いや、それどころではなかったのだ。彼らは公式に、すべての暗号電報の発信を禁じていた。
 電報が使えないので、私たちは状況を報告することができずにいたが、とあるイタリアの無線局が好意を見せ、私たちの無線通信を本国へ転送してくれた。彼らは当局の命令を無視して、これを実行してくれたのだ。

 時刻はすでに正午に達している。
 男たちは疲れ果て、これ以上の仕事を続けるのは困難だった。シャベルを握ったままの手ではマメが潰れ、甲板に突っ伏している姿も少なくない。ほとんどのものは呆けたように気力を失っている。
 ようやく、スション提督は載炭の中止を命じたが、すでに大半の部署は動いておらず、言わずもがなの命令だった。この段階で、1500トンが積み込まれていた。男たちには休養が必要だったけれども、載炭を終えた艦は片付けられ、清掃されなければならない。17時には出港する予定だった。

 『ゲーベン』と『ブレスラウ』は、再びの行動へ向かって準備を整えていく。そのとき、私たちは耳を疑うような通知を受け取ったのである。すでに18時間、ぶっ通しで続けられた載炭は、目標を失い、危うくすべてを無に帰するところだったのだ。
 新たな事態の展開は、呑み込むのにやや時間を要した。「コンスタンチノープルへ向かえ」という命令が取り消されたのだ。これはいったい、何を意味するのだろう。軍令部の最高命令が取り消されるというのは、どういうことなのか。私たちはわけがわからなくなった。
 さらなる通知が到着する。「政治的な理由で、コンスタンチノープルへの入港は許可されていない」。同盟条約の締結にもかかわらず、トルコとの関係は解決していなかった。

 私たちは、ゴールへ飛び込む最後のひと走りの直前に、手綱を強く引かれたのである。何か、重大な問題が起きたに違いなかった。大きな疑問が目の前に転がっている。「では、どうすればいいんだ?」
 私たちはメッシナに留まることができない。同盟国であるはずのイタリアは、冷たくドアを閉めてしまっている。他に残る選択肢は、残る同盟国オーストリアに逃げ込むため、アドリア海への突破を図るしかない。これは厳しい現状から解放される唯一の道だろう。イギリスとフランスの圧倒的な戦力の前で、『ゲーベン』と『ブレスラウ』がこれ以上地中海に留まるのは、自殺行為でしかないのだから。

 しかし、これには重大な問題がある。そもそも、オーストリアへの道は開かれているのだろうか。イギリスは当然、唯一の道であるオトラント海峡を監視しているだろう。突破を許さないだけの陣を敷いているはずだ。彼らが、私たちがアドリア海へ入ろうとしていることを考えないはずがない。それは狂気の行動であり、彼らにとっては望むところなのだ。
 そして、この同盟国オーストリアは、まだイギリスとの戦争を始めていない。

 私たちが最初にメッシナへ駆け込んだとき、道が開いていたという事実は、私たちに十分な思考の材料を与えてくれる。私たちはここで、三国同盟の他の二つの国の艦隊を見ることになるかもしれないと期待していた。この可能性についての検討はなされていなかったが、イタリアの艦隊も、オーストリアの艦隊も、そこには現れなかった。それゆえ、私たちが実際にオーストリアの協力を得られるかの確証はなかったのである。
 私たちは孤独だった。遠く祖国から切り離され、圧倒的に強力な敵に取り囲まれながら、気まぐれな同盟者の援助を受けられず、自分たちしか頼るもののない存在なのである。『ゲーベン』と『ブレスラウ』にとって、前途は暗黒に閉ざされているかのようだった。世界を覆う暗雲は、メッシナに錨を下ろしている2隻の船を、そのほんの裾で轢き潰してしまいそうだった。

 しかし、我らが提督は、この不確実な状況に立ち向かった。彼は黒海へ飛び込み、ロシアとの戦いを行おうと決心したのである。これは彼ばかりではなく、艦隊全体に対するおよそ最大の決断だった。彼に課せられた責任は重く、誰とも分かち合うことのできないものだった。1500人の生命と、2隻の軍艦のすべてが、彼の指揮官としての決断に委ねられたのである。その責任の重さには計り知れないものがある。
 成功へ導かれる決断をすることは、これに比べればはるかに容易であろう。しかし、私たちの前には成功への道など何も見えていなかったのだ。わずかな希望の糸は次々に断ち切られ、すり潰されてしまった。それでも私たちは、道を進まなければならない。他に方法はないのだから。

 地中海で戦い続けることは、敵のはるかに超越した戦力を考えれば、オトラント海峡を突破してアドリア海へ入ろうとする以上に困難なことだった。ジブラルタルを突破して本国へ帰還する道は、それらよりもさらに不可能であり、真っ先に除外された考えだった。
 敵の戦力は、じわじわと2隻のドイツ巡洋艦を追い詰めてくる。時間は彼らの味方だった。私たちに生きる術があるとすれば、それは唯一、迅速な行動にかかっている。私たちは敵の罠に落ち、圧倒的な戦力に取り囲まれて、何をなすこともできずに無念のまま討ち取られなければならないのか。ぐるぐると回りながら撃たれ続け、国に対してなんら寄与するところないままに、細切れに刻まれなければならないのか。

 いや、けっしてそんなことはない。
 もし、運命が私たちの生存を許さないにしても、敵は安価にそれを手に入れるべきではない。十分に高価な対価を払わせなければならない。それを実現するためには、まず東への突破を果たさなければならない。避けようもない確実な破滅から逃れるためには、他に方法はないのだ。
 東、はるかに遠い黒海に、そのゴールは置かれる。それがどれほど無鉄砲な試みであるか、知らないわけではない。トルコは私たちに、ダーダネルスとボスポラスを通過させるだろうか。トルコとの関係は、けっして楽観できるようなものではない。

 そして仮に突破したとして、黒海には何が待ち構えているだろうか。根拠地も、補給所もなく、ロシアの強大な艦隊を相手にして、私たちはどこまで巡洋艦戦略を実行できるだろうか。最後の石炭がなくなるか、最後の砲弾が心臓をえぐるかして、『ゲーベン』と『ブレスラウ』の運命は尽きるだろう。それでも、そこでの敵戦力の優越性は、ここ地中海よりはずっと比率が小さい。黒海でなら、私たちには敵の船を沈めるチャンスがあり、港を破壊する機会もあるだろう。祖国のために戦うことができるのだ。
 『ゲーベン』と『ブレスラウ』は、人々が誇りを持って語る名になり得るだろうし、ロシアの優勢な艦隊が私たちを仕留めるまでは、生き長らえて世界を驚かすこともできる。

 再び私たちは目指すべき目的を持った。相変わらず霧に包まれたような、不確実なものではあったけれども、当面の仕事をする原動力になる目標だった。しかし、まず、それにはこの魔女の大釜から抜け出さなければならない。何をするにしても、それが先決なのだ。
 司令部は、私たちがダーダネルスを目指すために、最善の手段を探り、困難を排除する手立てを考えていた。その一方、私たちはトルコへ向かう進路上に、どんな障害が配置されているかを知らない。いかなる危険が待ち受けているのか、水平線の向こうにどんな強敵が待ち構えているのか、『ゲーベン』と『ブレスラウ』にどんな未来が覆いかぶさってくるのか、何ひとつ確かなことはなかった。

 前の夜に配布されたハガキは、おそらく私たちが生きていた最後の証になるだろうものだった。皆はそこに愛する者への別れの挨拶を書き、万感を込めてサインした。それでも私たちは、けっして意気消沈していたわけではない。困難は実感されていたし、危機は目の前にあったけれども、それは私たちから大きなエネルギーを引き出す原動力でもあり、私たちはけっして敵に引けを取らない足を持ち、強力な腕を持っているのである。
 ドイツ海軍の誇りは、けっして見掛け倒しではないのだ。艦の甲板を日差しから守っていたオーニングはすべて撤去され、すべてをあからさまにした砲塔と構造物は、遮るものなく力を発揮できるだけに整えられた。奇妙に落ち着いた、それでいて熱気に満ちた雰囲気が、2隻の巡洋艦を覆っている。




The author Georg Kopp

高速航行中の『ブレスラウ』の艦尾波




●ドイツ海軍
 『ゲーベン』のメッシナ投錨後まもなくの9時37分、軍令部から対英開戦の正式通知が届いた。この瞬間にも一部のドイツ外交筋は、イタリアに倣ってイギリスもまた中立を維持するかもしれないという、希望的観測を行っている。
 とかく協力を渋るイタリア当局者に対し、艦隊参謀ブッシェは強力な説得を行い、石炭の供給こそ受けられなかったものの、同地に貯蔵されているドイツ所有石炭の積載は、かろうじて認められた。実際にはこの中に、港内にいたイギリスの石炭船から買い付けられた石炭もあったようだ。

 『ゲーベン』、『ブレスラウ』とも前日の競争でかなりの量を消費しており、残量は最大積載量の半分を切っていたとされる。ドイツ国籍の船舶から運び出された石炭は、効率の悪い手段ではあったものの、休みなく炭庫へ運び込まれていく。
 また、イタリア政府が暗号通信を禁止したので、有線電信は送受信とも拒絶されたけれども、一部無線所は電報の転送を行い、本国との連絡はなんとか維持された。

 8月5日18時、ドイツ本国から、「オーストリア艦隊の協力は疑問である」という通知が届いた。さらにオーストリア艦隊のハウス提督からは、暗号不備によって内容の判読できない電報が届いたものの、発信地から見てオーストリア艦隊が出動していないことは明白で、その助力は期待できなくなった。これは主として主力艦隊の準備不足によるところが大きく、オーストリア艦隊は自らがすでに始めている戦争に対して、真剣な行動を起こしていなかったのがはっきりした。
 政治的にも、オーストリアは戦火の拡大を意図しておらず、ロシアとの戦争は8月6日、イギリスとは11日になってようやく戦争が始まっている。彼らは、自分から手を出して敵を増やす意図など、まったく持っていなかったのである。

 やむをえずドイツ海軍は、躍起となって英仏艦隊の所在情報を求めたけれども、あやふやな情報以外には、確たる証拠のないものばかりだった。わずかにベルリンから、「イギリス艦隊の一隊がアドリア海にある」という通知があり、メッシナ周辺に水雷艇がいるらしいという情報ももたらされた。この海峡が監視されているのは当然であり、敵艦隊が集まる前に抜け出してしまわなければならないのは明白である。

 20時30分、数人のイタリア士官が『ゲーベン』のスション提督を訪れ、メッシナ要塞司令官の信書を手渡した。これによれば、戦争が開始された以上、中立国たるイタリアの領海への侵入は、特別の事情がない限り許可されず、24時間以内に退去しなければならないとされた。これに対しスション提督は、中立国として協力すべき義務が果たされていないことを引き合いに出し、この申し出があったたった今、20時30分を24時間の基点と考えると返答している。十分な給炭を受けずに出港するつもりはないが、6日19時までには出港するとした。
 スションはここで、エーゲ海に石炭船を送るよう手配している。滞在期限切れを間近に控えた提督は、まだ港外に有力なイギリス艦隊が到着していないことを予期していた。しかし、監視の存在は間違いなく、いずれにせよ追跡を受けるだろう。いつごろイギリス艦隊が追いついてくるのか、どこかで待ち伏せしているのか、確かな情報は何もない。

 しかし、この夜のイギリス艦隊間の通信によって、もしかしたらスションは、メッシナの近くに『グロスター』以外の発信源がないことに気付いていたかもしれない。通信の様子からは、イギリス艦隊が戸口で待ち伏せしているのではなく、海峡では『グロスター』が単独で哨戒しているだけのように思われた。
 運命の旅立ちを翌朝に控えながらも、奇妙に静かなイギリス海軍の対応は、彼らに道が残っていると思わせるものでもあった。二度目のメッシナでの、36時間に及ぶ滞在は、出口が塞がれるには十分な時間だったのであり、いかに石炭が必要であっても、費やすには高価にすぎる時間だったはずだ。スションには、何らかの確信があったようにしか思えない。

 これは推測だが、彼はメッシナで時間を費やすことにより、イギリス艦隊をオトラント海峡へ先回りさせようと考えたのではなかろうか。中途半端に行動して、たまたま敵が近くにいる状況を避けるためには、敵を最重要地点に集めてしまうのもひとつの方法なのだ。彼らは、ドイツ艦隊の行く先がそこにしかないと考えているはずなのだから。

 そしてスション提督は出港に際し、以下のような命令を発している。
 1、一般状況:敵情は明らかでない。本職の推定するところによれば、敵艦隊主力はアドリア海にあり、メッシナ海峡の両出口は監視されているものと思われる。
 2、艦隊の目的:東へ向かって突破し、ダーダネルス海峡への到達を試みる。
 3、実施要綱:『ゲーベン』は17時に出港、速力17ノット、『ブレスラウ』は後方5浬を続航し、夜を待って合流する。艦隊はまず、アドリア海へ向かうような印象を与えるように行動する。陽動の目的が達せられるようであれば、夜間不意に右転し、全速力にてマタパン岬へ向かって敵を出し抜き、可能であれば敵艦の追跡を振り切るよう試みる。

 4、石炭船は本職の指令のごとく、8月8日以降はマレア岬に、8月10日以後1隻はサントリーニ南方20浬に、他の2隻はチャナクにて待機するものとする。
 5、客船『ゲネラル』は、19時に出港してシチリア島海岸に密接して航行し、サントリーニに到達するよう努力せよ。もし捕獲される恐れが発生した場合は、極力無線にて報告すること。もし、本職から以後の命令が与えられない場合には、ローレライよりの命令を受けよ。同艦の電報宛名は、サントリーニ在泊第二日において、コンスタンチノープルの「ボワロー」を用いよ。

 この命令は8月6日10時30分に発せられたが、その30分後の午前11時、スションは衝撃的な電報を受け取った。「政治的な理由から、現在のところコンスタンチノープルへの入港は不可能である」
 実際には、そもそも8月2日のトルコへの突破命令は、ティルピッツがフォン・ポール軍令部長の意見に反して皇帝を動かし、命令を出させたものであって、今回の電報は外務省の抗議によって発信されたものである。
 だが、英国艦隊は西と北への出口を塞いでおり、コンスタンチノープルへ入れなければ、ドイツ艦隊は罠にかかったネズミも同然である。艦隊はどこへ行くべきなのか。




HMS Gloucester

イギリス軽巡洋艦『グロスター』



▲イギリス海軍
 巡洋戦艦と『ダブリン』が『ゲーベン』を見失った深夜、ドイツへの宣戦布告が通知され、艦隊は全兵器の使用を許可された。ほんの数時間の差で、『ゲーベン』は最大の強敵の射程を一発も撃たれることなく潜り抜けたのである。
 8月5日午前1時、ドイツ艦はそれぞれシチリア島の北にあり、メッシナへ向かっていた。『ダブリン』は呼び戻され、2隻の巡洋戦艦との合流を命じられている。ミルンの『インフレキシブル』は2隻の軽巡洋艦を伴って、シチリア島の南側をやはり西へ進んでおり、トルーブリッジの戦隊がアドリア海の入り口にあって、『グロスター』だけがメッシナの南口へ向かっていた。ミルンは未だ、ドイツ艦隊の最終的な脱出方向を西と考えており、最大の懸案はフランス輸送船の保護だった。

 『ゲーベン』が自分たちより3ノット半優速であるなら、防御線を突破されない位置にいなければならない。ドイツの石炭船がマジョルカ島のパルマにあるという情報があり、彼らはサルディニアの南を通って西へ向かうはずだった。
 バッテンバーグはミルンに、英独開戦後のメッシナ海峡の通過を禁じた。メッシナ海峡から西へ向かうシチリア島の南側航路は北側航路より長く、効果的に通過を妨害するなら、あえて南側へ出る理由はない。イタリアを刺激する行動を避けさせたのだが、これはドイツ艦隊が西へ向かった場合に大きな障害とはならなくても、東へ向かった場合には重い足枷になってしまいかねない。つまり彼らはなお、ドイツ艦隊が西方へ突破するものと信じているのだ。

 トルーブリッジがアドリア海の入口を塞いでおり、スエズの通過はおそらく不可能であるし、エーゲ海は袋小路以外の何ものでもない。今のミルンにとって重要な情報は、オーストリア艦隊の動向と、イタリア政府の姿勢である。いずれかの海軍が行動を始めれば、状況は劇的に変化する。ミルンが海軍省に、「オーストリアは中立を維持するや?」と尋ねた電信は、8月5日朝7時55分まで、ロンドンでは受信できなかった。

 この返答が届いたのは、同日昼過ぎである。
「オーストリアはフランス、イギリスに対して宣戦を布告していない。しかし、オーストリア艦隊に不意を突かれないためと、ドイツ艦隊の遁入を阻止するため、オトラント海峡の監視は継続すること」
 この電信では、ミルンとトルーブリッジに対する、優勢な敵との交戦を避けるようにとの訓令が変更されていない。後に問題になるのは、事前に示されていた「優勢な敵」が、具体的に何を意味するのか、だった。オーストリア主力艦隊は言うまでもないだろうが、『ゲーベン』がこれに含まれるかは対抗する戦力によって変化し、解釈は微妙なところである。

 『ゲーベン』に対抗できない戦力はどれなのか、その戦力を対抗可能な強度に引き上げるには、何をするべきなのか、どういう組み合わせをすれば、戦力を最も効果的に配置できるのか、ミルン司令長官は課せられた仕事をこなすのに、果たして十分な能力を持っていたのだろうか。
 ドイツ艦隊がメッシナへ向かっているのではないかという推測はほどなく、現地の領事からの報告で裏付けられた。
「正体不明の軍艦がメッシナ沖にあり」。
 通報を受けたミルンは、ただちに『ダブリン』を分離して、載炭のためにマルタへ向かわせ、巡洋戦艦にはシチリアの西への移動を命じた。自身も『インフレキシブル』とともに集合地点へ向かう。彼は3隻の巡洋戦艦を集合させ、シチリアの西に鉄壁の陣を敷いた。

 一方、トルーブリッジにとって、事態はそれほど安閑としたものではなかった。領事からの通報では、ドイツ艦がメッシナ付近で目撃されたとわかるだけで、入港せずに通り抜けた可能性が排除できなかったのである。そのため、2隻がそのままアドリア海へ向かっている可能性が想定され、戦隊はこの仮定に対応して行動を起こした。ドイツ艦隊がそのまま進んだ場合に、夜のうちに接近できるコースが設定される。

 ドイツ艦隊が前々日にいったんメッシナを出て、アルジェリア海岸を襲い、そのまま西へ向かわずにメッシナへ舞い戻ったという事実は、トルーブリッジにいくつかの推理を導かせる。
 ひとつは、彼らの目的が石炭にあると見るものである。一度目のメッシナ寄港で十分な量が得られず、メッシナ所在の誰かから、再度の載炭の確約を得ている可能性がある。しかし、開戦となったからには、そうたやすく石炭は得られないだろうし、外交的な圧力もかけられるだろう。仮に石炭が手に入るにしても、載炭に時間はかかるし、その次の目的地が、西にせよ東にせよ、それ以前の推測から増えるわけではない。どう対応するかはミルンの仕事だ。

 石炭の必要性が小さいか、補給のアテがない場合、アルジェリア攻撃は以後の行動と密接には関係していないとも考えられる。上層部からの命令か、フランスに対する行き当たりばったりの宣言的な攻撃かもしれない。それならば彼らは当然、手持ちの燃料で到達できる場所へ向かっているはずで、メッシナはその途中にあるに過ぎないということも考えられる。
 その目的地は当然にアドリア海だろうし、その場合には『インドミタブル』たちをすでに置き去りにしていることから、メッシナで立ち止まらず、一気にオトラント海峡を目指す可能性が高い。今はそこに、少なくとも2隻の巡洋戦艦がいないことを知っているのだから。

 『ディフェンス』はおおわらわで戦闘準備を進め、艦内の木製備品は下ろす余裕もなかったために舷外へ投棄された。プカプカと浮かんでいる艦長の執務机が行動の痕跡にならないよう、慎重に欺瞞コースを取りつつ、すべてが艦尾から放り投げられる。
 その日の午後、トルーブリッジはミルンに宛て、作戦の目論見を通知した。「我々は我々に有利な射程で交戦するため、狭隘な水域で交戦するよう立ち回る所存である」

 ミルンはこれに返して、『ダブリン』と複数の駆逐艦を増援に送るとトルーブリッジへ知らせたが、『ダブリン』はまだシチリア島の西側にあり、マルタへ戻って給炭しなければ、先の行動はおぼつかなかった。ミルンはこの駆逐艦が、攻撃の最初の機会を与えられるものと考えている。ミルンはこれについて、駆逐艦はシルエットが小さく、接近しての攻撃に適しているし、それが失敗した場合でも、トルーブリッジの攻撃行動を妨害するものではないと考えていた。彼はこの見解を、駆逐艦隊の指揮官から聞かされるはずだった。
 残念ながら、トルーブリッジは駆逐艦の派遣をこのようには受け取らず、夜戦では駆逐艦を用いろということと考えている。

 18時40分、トルーブリッジはミルンに通信した。「我々は『ゲーベン』を阻止するために行動を起こしている。燃料があれば水雷戦隊もこれに合流するはずである」
 トルーブリッジの駆逐艦隊は、すでに前日午後には載炭のためにマルタへ帰っているはずだったが、ミルンは戦争開始の警告を受け、これをギリシャ沿岸へ戻していた。しかし、これに石炭を送る船は、上記トルーブリッジの通信よりさらに後まで、マルタを出発していない。駆逐艦は乏しい燃料を焚いて沖へ出たが、なおいっそう燃料を減らしてしまっただけだった。

 トルーブリッジは艦隊の艦長たちに、視覚信号で通信を送っている。
「『ゲーベン』がメッシナを通過し、アドリア海へ入ろうとする場合、我々は彼らに戦いを強いなければならない。しかし、『ゲーベン』の主砲は射程で我々の砲のそれを4000ヤードほど上回っている。我々は砲を有効に用いるため、陸地を利用して『ゲーベン』の動きを制約するように行動する。『ゲーベン』がメッシナへ入港せずに通り抜けたか否かは未確認だが、可能性に備えなければならない」

 トルーブリッジは、ドイツ艦隊がそのままメッシナ海峡を通過してきた場合、23時頃にコロンナ Calonna 岬 (イタリアの長靴の足の裏、タラント湾の西端にある岬) の位置に達すると想定して、その付近へ進出した。この日の天候は静穏で月は明るく、ほとんど昼と変わらない視界があったと記録されている。艦隊は戦闘準備を整え、全乗組員を夜間配置に待機させて、その瞬間を待った。しかし、ドイツ艦隊は出てこなかったのである。
 実際には、ドイツ艦隊はメッシナで載炭し、滞在は24時間を大きく越えたのだった。ようやく22時になってトルーブリッジは、『ゲーベン』がまだメッシナ港内にいるという通知を受け、初めて『ゲーベン』のメッシナ入港を知り、その夜の戦闘が起きないことを確信した。4時間にわたって緊張を持続し、虚しく待ちぼうけを食わされた艦隊は、足取りも重くオトラント海峡へ戻っていく。

 『インドミタブル』のケネディは、2隻の巡洋戦艦と『ダブリン』でメッシナの北口に網を張るべきと考えていた。彼の想定では、南口は『インフレキシブル』が塞ぐはずだった。しかし、ミルンはなお、『ゲーベン』が西への突破を図ると考えており、万一の突破を恐れている。彼は3隻の巡洋戦艦を集合させて、シチリア島の西、ボン岬の北側に哨戒線を張ることとした。『ダブリン』を分離したケネディは巡洋戦艦の速力を落とし、低速で西へ向かっている。
 ケネディはこのとき、ミルンの決定に対して抗議していない。
「言うだけ無駄だからね。彼は決して命令を変更しようとはしないし、そう要求されたことに腹を立てるだけだ。それにもしかしたら、彼は私より多くのドイツ軍に関する情報を握っているのかもしれない」

 ミルンは『インフレキシブル』とともにマルタを離れ、途中『チャタム』、『ウェイマス』を拾って、ケネディたちと合流する。後に彼は、このときの自身の見解を吐露している。
「最初に私の頭にあったものは、フランス陸軍輸送船の保護だった。彼らが我々より3ノット半優速であるのなら、彼らが西へ向かったとき、切り離されない位置に陣取る必要があった。彼らはサルディニアとコルシカの間、コルシカとヨーロッパ本土の間を通ることも可能だったが、フランスの巡洋艦に発見された場合のことと、潜水艦の脅威があるために、そちらへは向かわないと考えられた。マジョルカ島のパルマにドイツの石炭船がいるという情報もあり、西へ向かうならサルディニアの南を通るはずである」
 だが彼は、フランス海軍の配備についてほとんど知るところはなく、この二つの海峡に実際に監視が存在しているのか、確信はなかったはずだ。もっとも、スションもそれは知らないはずだし、見つかれば遠回りしすぎていることから後の行動が困難になる。合理的には使われない道だろうことは間違いない。

 ミルンは5日朝、3隻の巡洋戦艦をパンテレリアの北に集結させた。『チャタム』はこの朝、退避の遅れたドイツ汽船『カヴァク』 Kawak を洋上で捕獲している。
 ケネディ艦長は、ミルンが会合点をパンテレリア島から見える場所に設定したことが不満だった。そこにドイツのスパイがいれば、艦隊は丸見えなのである。おそらくドイツ艦隊は、シチリア島の西にイギリスの巡洋戦艦が3隻と、軽巡洋艦が集結していることを、無線で知るだろう。

 石炭の問題も重要だった。前日の追跡の後、『インドミタブル』の石炭は満載量の3分の2ほどであり、不均等に消費されていたため、第二缶室の石炭量は少なくなっていた。これにより、ケネディは最大速力を維持できるのが30時間に過ぎないと報告している。これを聞いたミルンは、載炭のために『インドミタブル』をビゼルタへ送り、これによってフランス軍との連絡も取れると考えた。
 スションがメッシナにいるという、確実な情報がもたらされた。報告によれば、『ゲーベン』は5日朝、7時45分にメッシナへ到着した。『ブレスラウ』はこれより2時間前に到着している。イタリア当局が石炭船の派遣を拒んだため、ドイツ艦隊は困難を圧して港内のドイツ商船から石炭を受け取りはじめたという。

 このときローマ駐在の英国大使レンネル・ロッドは、ドイツ艦隊が英国の石炭船から石炭を入手しようとしていることを突き止めた。この船は、ヒューゴー・シュティンネスというドイツの会社向けのウェルシュ炭を積み込んでおり、前日の夕方に到着したばかりで、そのときにはイギリスはまだ戦争状態になかった。5日朝8時、エッガート船長がボートで陸上へ向かったとき、彼は間近にドイツの軍艦が停泊していることに気付いたものの、それが自分の身に災いを振りかけるとは考えてもみなかった。

 ロッドはただちにメッシナの領事館に電報を打ち、エッガート船長が敵に石炭を供給しないよう警告したため、彼は大事な商売相手を失うことになる。わずかでも行き違いがあったなら、その石炭はそっくり『ゲーベン』の炭庫に収まっていただろう。英国外務省の対応はあちこちで後手に回り、ドイツ艦隊への石炭供給を黙認しようとするイタリアの手の先で、やっとの思いでドアを閉めて回るのだった。それでもイタリアはスション提督に通知を送り、24時間の滞在期限が切れる時刻を明確にしている。彼らは、6日夕方までには出港しなければならない。

 チャーチルが7月30日に発した、「優勢な戦力との戦闘を避けよ」という電文は、このときまだミルンとトルーブリッジの頭上に重くのしかかっていた。バッテンバーグが発した電報は、まだしも『ゲーベン』と『ブレスラウ』がオーストリアの艦隊と合流しようとする場合、攻撃されるべき存在であると読めるものだったが、ミルンはより明確に、トルーブリッジに彼らとの戦闘を命じておくべきだった。
 当時の一般的感覚で、4隻の新鋭装甲巡洋艦と1隻の巡洋戦艦のどちらが優勢であるのか、明確な回答のできる者はいなかっただろう。戦う海面や、時間帯、天候、それぞれの技量によって天秤は傾くが、それが傾く程度の差であることは、なぜか当事者には正確に把握されなかったようだ。

 就役直後に本国を離れ、2年近くも海外で行動していた『ゲーベン』が、かなりの準備を必要とする、移動目標に対する大遠距離射撃の訓練をできるわけもないことは、半ば当然だろう。1万5千メートルもの距離で動き回る目標を相手に、練習もなしに砲弾を当てられるはずがない。
 その一方で、トルーブリッジの装甲巡洋艦は就役以来現役にあった艦であり、少なくとも乗組員は艦に熟練していたはずである。もし、就役6年の主力艦が訓練未熟であるならば、それは管理者自身の責任でしかない。

 この事件についての戦史では、この問題について触れられているものがない。彼らが『ゲーベン』の遠距離射撃能力について、カタログ通りの十全のものであると思い込んでしまった理由はわからないのだ。
 こうした、相手の能力への評価を考察なしに最大値に置いてしまう誤りは、開戦当時の英国海軍には多く見られたところであり、どうも怪しい情報操作を感じる部分でもある。

 もうひとつ、この戦争の初期において常に忘れてはならないのは、誰もこれが4年も続くとは考えていないことである。長くてもせいぜい半年の戦争では、会敵の機会は少ないだろうが、そこで手柄を立てなければならないと思っても、相手の手柄になってしまう可能性を考慮しないわけにはいかない。長期の消耗戦であれば、劣勢な旧式戦力で優勢な敵戦力をわずかずつでもかじり取るのが、それなりに意味のある戦いになるだろうけれども、短期戦では犬死でしかないのだ。

第8章終わり




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