ゲーベンが開きし門
第一部・第十三章
The Goeben opens the gate : part 1 : chap.13



Admiral A. B. Milne

ミルン海軍中将

 残念ながらトルーブリッジ少将の写真は発見できなかった



第13章・贖罪の山羊

 地中海という、それなり大きくはあっても口の閉ざされた袋の中で、数倍する戦力という網に捕らえかけられていたドイツ艦隊が、ほとんど戦いもせずに網を潜り抜けて逃げおおせたという事実は、世界最大の艦隊を維持する英国国民にとって承服できない事態であり、政府や海軍省は納税者が納得する説明をひねり出さなければならなかった。
 しかし、この問題に早急な原因究明と責任者の処罰を求める動きは、あくまでイギリス海軍のメンツに関わる部分であり、袋の隅のほころびから逃げ出した『ゲーベン』が『ヤウズ・スルタン・セリム』となっても、その軍艦にトルコ帽をかぶっただけのドイツ人が相変わらず乗組んでいるにしても、トルコがイギリスに向かって牙をむく可能性は、この時点ではさして大きなものではなかったのである。

 彼らがケンカをふっかけるべき相手はロシアであり、結果としてその同盟国であるイギリスと敵対する可能性は十分にあったけれども、そもそもオーストリアも彼らの敵なのであって、失われるものの大きさを冷静に見れば、戦争がよほどイギリス側に不利にならない限り、トルコが火中の栗を拾う理由はない。彼らは数カ月で終わるだろう戦争を傍観していればよいのであって、『ゲーベン』は外交の道具としての意味を持っても、戦いの具としては扱いきれないと思われた。
 失敗は、単に2隻の軍艦を取り逃がしただけのことであり、まさか数え切れないほどの人命を食らう悪魔を、眠っていた巣から引きずり出したとは考えられていなかったのだ。

 とりあえず苦い薬を飲み込んだ英国海軍省は、驚嘆に値する速度で、事実の追跡と責任の所在を追及しはじめる。この動きが素早かったということ自体が、彼らがこれを内部に留まる問題と考えており、政府の外交に汚点を残すような特大の失策とは考えていなかったことの証拠になるだろう。危機感は大きくなく、フランスに至ってはこの問題をまったく重要視しておらず、調査など行われてすらいなかった。

 フランスにおいては、海軍は常に次席の位置にしか置かれてこなかったし、ベルギーを突破したドイツ陸軍がパリに迫り、政府がボルドーへ避難しようかというときに、海軍がどこで何をしているのか、気にかける人物などいなかったのである。最大の敵であるはずのイタリア海軍は、中立を標榜して港から出てきておらず、オーストリア海軍はアドリア海に閉じ込められている。
 それゆえ、フランス海軍の不在は誰にとっても問題ではなく、彼らは忘れ去られた存在になっていたのだ。彼らが『ゲーベン』に対して何をなしえたかなど、期待すらされていなかったのである。

 8月12日、ミルンは戦前の予定通り、地中海艦隊司令長官の任を解かれるため、『インフレキシブル』とともにマルタへ戻るよう命じられている。巡洋戦艦2隻はエーゲ海に残り、『ゲーベン』の不意の出撃に備えることになった。
 8月14日、ミルンはマルタへ戻った。3日後、マルタ島司令官であるカーデン Carden との引継ぎを終え、彼は『インフレキシブル』でプリマスへ向かう。海軍省はこの帰路、ミルンに二つの質問を投げかけている。

 そのひとつは、8月5日にビゼルタで載炭を終えた『インドミタブル』が、『グロスター』によって追跡されている『ゲーベン』を追わなかった理由である。燃料は十分にあり、敵の位置は『グロスター』が報告してくるのだから、追跡は当然であったはずなのに、これは行われなかった。『インドミタブル』をマルタへ帯同し、無駄に時間を過ごさせた理由は何なのか?
 もうひとつは、その翌日に『ゲーベン』と『ブレスラウ』がマタパン岬へ接近しているとき、石炭の少なくなってきている『グロスター』の代わりに、そこにいた『ダブリン』をなぜ使わなかったのか、である。

 ミルンは8月26日付の手紙で、これに返答を書いている。
「『インドミタブル』がビゼルタを離れたとき、『ゲーベン』との距離はおよそ365浬でした。『ゲーベン』はアドリア海へ向かうと考えられており、そこにはトルーブリッジの艦隊がいます。彼らの西方への脱出を確実に阻止するためには、3隻の巡洋戦艦をひとつにまとめておいたほうがよいというのが、私の考えでした」
 『ダブリン』の問題には、次のような回答がなされている。
「たしかに『グロスター』の燃料は少なくなっていましたが、マタパン岬を越えての追跡を禁じていましたので、決定的な燃料不足には至らないと考えました。また、オトラント海峡監視にも軽巡洋艦は必要であり、『ダブリン』を交代させて『グロスター』をこの任務につける場合、燃料補給が必須になり、状況の変化に間に合わない可能性があったのです」

 もちろん、海軍省がこの弁明を鵜呑みにするはずはなかった。彼らの視点からすれば、『ゲーベン』の追跡失敗は回復不能の恥ずべき事実であり、この戦争におけるイギリス海軍の汚点になると考えられた。この失敗に責任のある指揮官は、これ以上艦隊の指揮に携わるべきではなく、ミスをしたのが誰なのか、その責任者は誰か、彼らは罰すべき「犯人」を探しはじめる。

 バッテンバーグは、この失敗における事実調査のために査問会を開くべきで、その取調べにトルーブリッジの召還が必要であると主張した。チャーチルはこれに同意する。
 1914年9月9日、海軍省はポーツマスの司令長官であるヘドワース・ミューズ Sir Hedworth Meux 提督に、適切なメンバーを召集し、『ゲーベン』逃亡について軍法会議を開く必要があるか否かを調査する、査問会の主宰を命じた。
 地中海から呼び戻されたトルーブリッジがポーツマスに到着したのは、査問会が開催された9月22日の、わずか1日前でしかない。ミルンの報告、各種電報類、トルーブリッジの報告書、様々な命令の記録が慎重に調査された。

 ミルンとトルーブリッジは、この打撃から逃れるために、全力を持って自己防衛を図らなければならなかった。こうした軍法会議が招集されれば、結果の如何に関わらず、被告の立場は厳しいものになる。被告となっただけで海軍内に地歩を失う可能性は、けっして小さくないのだ。それでも、獲物を網に捕らえられなかった事実は厳然として存在しており、誰かが罪をかぶらなければ、英国海軍のメンツが立たないことになる。それなりの地位にある誰かに、罪を負わせなければならない。
 この事件の時点では、後に「ロバに率いられたライオン」とまでに揶揄された、大戦初期の英国海軍首脳部に見られた失態の連続は始まっておらず、後に英国大艦隊司令長官となるビーティ提督が妻へ送った手紙に書いたという文言が、英国の飾らない正直な想いだっただろう。
「願わくはこれが、海軍に与えられた最初の、そして唯一の試練でありますように。・・・神よ、私は気分が優れません」

 誰がスケープゴートになるべきか、は、すでに決定していた。チャーチルやバッテンバーグ、海軍省作戦本部が自らの責任を認めるはずはなかったし、負わせるべき明確な失策の証拠もない。ミルンも同じことで、怠慢の匂いはあっても、それぞれの行動にはそれなりの理由が、こじつけであれ用意されており、これまた明確に否定するだけの材料はなかった。それは、責任を負わせるのに十分な将官という地位にあり、敵を目前にして追跡を放棄したという、否定しようのない事実をつきつけることのできる、第一巡洋艦戦隊司令官トルーブリッジ少将でしか有り得ない。

 もちろん、現場指揮官の行動に繰り返し、あまりにも具体的な介入を行った海軍省に責任がないはずはなく、それを暗に明に指示したバッテンバーグ、横合いから口を出しつづけたチャーチルにも、責任の一端は確かに存在する。部下に的確な指示を出さず、自らも追われる者より時間をかけた行動をし、距離を詰めようとさえしていなかったミルンにも、できるはずのことがもっと多かったのは間違いないところだ。
 しかしそれは、その場では必要に思われた、善意から出た行為であったし、できたかもしれないことをしなかっただけでもあり、それが的外れの対応だったことを批判するのは、後知恵と言い得る範囲のことでもある。一連の出来事に関わった人々の中で、指をさして咎めることのできる行動をしてしまった人物と比べれば、罪は軽いことになってしまう。

 これらはもちろん、全員の一致した不動の合意などではない。それぞれはそれぞれに落ち度を求め、互いを追及している。例えばチャーチルは、ミルンを弁護しようとする、「ミルン司令長官が、常に二つの有力な艦隊の間に敵を挟んでおこうとしたのは、まったく正しい判断であった。もし、トルーブリッジ提督が自己の義務を果たしていれば、敵が戦いを強いられただろうことには疑いがない」という意見に対して、短いが明確で、意味深長なコメントを発している。
「説明には十分に納得がいったが、結果にはまったく納得がいかない」

 バッテンバーグは、イギリスの装甲巡洋艦と『ゲーベン』の主砲間にある差を、それほど大きなものではないとして、トルーブリッジの主張を却下した。相対的に『ゲーベン』は大きな目標であり、速力差は4隻という数を利した戦術運動でカバーできるはずだとしている。ミルンもこれに同意し、トルーブリッジが巡洋戦艦の指揮下への編入を要求していないことから、彼が現有の戦力で戦えると考えていたはずだと述べた。
 トルーブリッジはこれに対し、当初、巡洋戦艦が自分の指揮下に入るはずだったのは、それがなければ『ゲーベン』に対抗できないと上層部が考えていたからだと反論する。そして、そもそも8月3日、『ゲーベン』のメッシナ出港に応じて、トルーブリッジに合流予定だった2隻の巡洋戦艦を西へ向かわせた命令の発信地は、ミルンではなく海軍省だったのである。

 ドイツ艦隊の西への脱出を阻止するという当初の大命題は、フランス海軍という大駒の存在を忘れたミルンの判断ミスにより、追跡の障害物になっていった。彼はラペイレール提督との情報交換の不首尾を理由にしているけれども、たとえ連絡が取れなくてもフランス海軍が存在しなくなるわけではないし、スションには連絡の取れていないことなどわかるはずもないのだから、それを無視して行動する理由がないのは明白である。

 ドイツ艦隊の立場になれば、西へ向かえば圧倒的なフランス艦隊の懐中へ飛び込んでいくことになるのだし、おそらくは英仏の地中海所在全戦力と戦うことになって、さらにジブラルタルの先にも死地が待っているのだから、そもそも実行すると考えるほうに無理がある。
 それと比べれば、マタパン岬やエーゲ海から引き返してオトラント海峡へ向かうという考えのほうが、いくらかなりとも現実性を持つだろう。困難な道ではあれ、その先にはとりあえずの安全地帯が待っているのだから。その意味では、トルーブリッジがオトラント海峡を開け放しにできなかった判断は、まだ理にかなっている。

 全般にイギリス艦隊内では、『ゲーベン』の脱出劇について、上層部がミルンに対して厳しい見方をしていると思われていたようだ。トルーブリッジが「逃げた」とは受け止められておらず、状況に振り回された不運な存在と考えられたものの、その行動に対して、これといって有効な弁護をひねり出せるものでもなかった。
 トルーブリッジは明らかに犠牲、「スケープゴート」であり、その言葉の示すままの立場を押しつけられた。それでも彼は、それが可能だったにもかかわらず、敵を見ようとせずに顔をそむけてしまったという、逃れようのない「罪」を背負っている。関わった人々が「誰か」を求めて周囲を見まわしたとき、実に都合のよい存在として、彼はそこにいたのだ。

 ミルンもまた、数々の失敗を犯しているのだが、その瞬間、それぞれの状況には、彼の決定を完全に否定できるだけの証拠が揃えられなかったし、なによりも大きな失敗が海軍省側にあったため、最後の詰めがかけられなかったのである。
 「オーストリアとの戦争が始まった」という、他の状況をすべて圧殺してしまう誤報は、ミルンの遅延がどれほどのものであっても、その差を吹き飛ばしてしまうだけの威力を持っている。その瞬間に『ゲーベン』を視界に捉えていない限り、イギリス艦隊は向きを変え、オトラント海峡へと向かわなければならなかったのだ。

 計算上は、もし『インドミタブル』がビゼルタからそのまま追跡に入っていた場合、オーストリアとの戦争についての誤報が発せられたとき、『ゲーベン』から15時間しか遅れていないことになるのだが、その差が56時間だろうが、たとえ3時間だろうが、何の意味もない差になってしまうのである。
 トルーブリッジの反転は、この誤報よりも前に行われたことであり、海軍省は自分に跳ね返る恐れのない事柄を、審問の中心に据えることにした。

 さまざまな問題は結局、『ゲーベン』が白昼、広い海面での戦闘で、4隻の装甲巡洋艦に優越しているかどうかという一点に収束してしまう。大局から見れば些細な机上の問題であり、おそらくは『ゲーベン』が戦いを避けただろうという、まず間違いのない推測と天秤にかけるのならば、ほとんど価値のない議論なのだが、争点はそこにしか見出せなかったのだ。

 そして、この問題が最も大きな論点になったがために、そしてトルーブリッジが自らに向けられた矛先をかわそうとしたために、彼の旗艦『ディフェンス』の艦長フォウセット・レイが、とばっちりを食うことになってしまう。
 彼は戦前、ドイツ艦の公試に立ち会ったことがあり、その28センチ砲が12800メートルの距離で、ほぼ完璧な命中率を見せたことを知っていた。その「専門的」助言が有用なものだったのか、「余計なひと言」だったのか、回避の決定を下したトルーブリッジが、自分の決心に影響したとして引き合いに出したが故に、いわばトルーブリッジを無罪にする代償として、レイの首が半分ばかり切り離されたのである。

 トルーブリッジは、巡洋艦戦隊と水雷戦隊をもって『ゲーベン』に戦いを挑んだ場合、彼らに大きな損害を、戦力にも、速力にも、与えることができなかったと考えるかと問われ、駆逐艦については燃料が十分でなく、『ゲーベン』の近くまで進出しても、自由な行動をとれなかっただろうと返答する。さらに『ゲーベン』の速力が27ノットであることを指摘し、日中、これとの戦闘を試みることは適切な作戦と考えないと答えた。

 さらに彼は、ドイツ艦隊が大きな損害なしに彼の艦隊を破壊したと考えるかと問われ、
「彼らが私の艦隊を破壊しただろうとは申し上げておりません。そうした戦闘行動は可能であったというだけで、それを実行したか否かは、まったく彼らの意志しだいだったと考えております。もし、彼らがコンスタンチノープルへの針路を維持するつもりなら、彼らが我々に与え得た損害は小さなものでしょう。しかし、数時間を費やす意志があれば、我々の損害は甚大なものになった可能性があり、半日の時間を費やす選択をすれば、我々は全艦を撃沈されたかもしれません」と、返している。

 だが委員会は、ドイツ艦の長射程射撃能力が圧倒的に高いとする、トルーブリッジとレイの見解を受け入れなかった。
 『グロスター』が『ゲーベン』を追跡していた間、彼らはその気になれば簡単に『グロスター』を始末できたはずだったのに、あえてそれをしなかったという現実から、おそらく挑戦を受けた『ゲーベン』は、その速力を利して戦闘を避けたと思われるが、もし挑戦に応じていた場合、4隻の装甲巡洋艦、2隻の軽巡洋艦、少なくとも2隻の駆逐艦が戦闘に参加可能であり、『ゲーベン』の速力を低下させるような損傷を与えることは、けっして不可能ではなかったと判断されたのだ。

 委員会の見解では、『ゲーベン』は基地から遠く離れていて補給の見通しがなく、4隻の装甲巡洋艦を相手に大遠距離射撃を行うとすれば、有効弾を得るために相当な数の砲弾を消費してしまうから、おそらくは砲弾を節約するために接近戦を挑まなければならず、そうなればトルーブリッジの艦隊にもつけいる隙ができたはずである。
 トルーブリッジは、1ないし2隻の列艦を失うことになったと推測できるものの、戦闘中にミルンの援軍が到着して、『ゲーベン』に回復不能な損傷を与えられたとも予測できる。
 また、事前に送られていた訓令中の「優越した戦力」が、オーストリア艦隊を指すものであったことは、電文中の「貴艦隊の速力は、その決定に資するものである」という部分によって明白であると解釈された。

 結果、トルーブリッジは1914年8月7日の『ゲーベン』逃走について、職務怠慢の嫌疑があり、軍法会議に出席するよう命じられた。これは彼にとって非常に厳しい状況ではあったけれども、同じ問題で量刑に死刑を含む「臆病」を理由に裁かれる可能性もあったのであり、いくらかは幸運だったと考えざるを得ない。一部にはそうした意見もあったのだが、トルーブリッジの勇敢さを個人的に知る人々は、これに賛同しなかった。
 この段階では、軍法会議でいかなる議論が戦わされ、彼がどう裁かれるかはともかくとして、海軍の心情として彼が有罪であることは、すでに決定していたのである。ところが、事態はとんでもない方向へと動いていく。

 職務上の怠慢の廉で、アーネスト・チャールズ・トーマス・トルーブリッジ Ernest Charles Thomas Troubridge 海軍少将を裁くことになった軍法会議は、1914年11月5日にポートランドで召集され、旧式戦艦『ブルワーク』艦上で開催された。イギリスで現職の海軍提督が軍法会議にかけられるという事態は、実に40年ぶりのことであり、事件の影響と考えられるトルコの敵陣営に立っての参戦が起きたばかりだったから、英国国民はその成り行きに大きな関心を寄せている。

 そして、ほとんど茶番劇のような、4日間の裁判が行われた。
 その中で彼は、いかなる損害が『ゲーベン』によってもたらされ得るか、あげつらうことはできないと言っているけれども、そのことそのものが、敵が彼らに対していかなる損害をも与え得るということを示し、優越する戦力であることの証左と考えるとしている。その比較決定に明確な指標はなく、判断は彼に任されたのであり、彼はそれを決定したのである。その決定に基づき、
「私は優越する戦力との戦闘を避けるよう命じられており、その命令通りに行動したのです。それだけです」

 この裁判には、砲術の大家パーシー・スコット大将も証人として出廷するよう、要請されている。彼は残念ながら出廷できなかったけれども、トルーブリッジのために有益な証拠を提出した。それによれば、『ディフェンス』の9.2インチ主砲の最大射程が16000ヤードであるのに対し、『ゲーベン』の28センチ砲のそれが25000ヤードを超えるということである。(実際には21300ヤード=19500メートル)
 法廷は結局、その結論として8月7日の午前6時、太陽光の下で開けた海洋上では、確かに1隻の巡洋戦艦が4隻の装甲巡洋艦にとって、「優越した戦力」で有り得ると判断した。トルーブリッジの判断は誤りとまで言い切れるものではなく、それに基づいて命令に従った行動は否定できないことになる。「失敗」の責任は宙に浮いた。

 ミルンを裁く法廷は開催されなかった。それでもミルンは、公式に非難はされなかったにしても十全の努力をしていたとは認められず、軍法会議の中で「より望ましい行動があった」と、名指しで指摘されている。
 会議は、トルーブリッジがミルンに対し、巡洋戦艦の援護が得られない場合には『ゲーベン』との戦闘を避けるという意志を、明確に伝えていなかったことを遺憾に思うと述べた。また、ミルンに対してはトルーブリッジに、「『ゲーベン』と戦え」と、明確に命じていなかったことについての疎漏を挙げてもいる。

 当時、『ゲーベン』の作戦や目的地は不明だったけれども、連合軍に対して多大の損害を与え得る潜在力を持っていたことに疑いはない。そして、ミルンは彼らを圧倒できる3隻の巡洋戦艦とともに、その200浬以内の場所にいたのである。そして何度となく、その所在位置を確実に把握していたのだ。
 それでいながら、彼は漫然と、敵から見れば最も強力な海軍力が存在していると確信できる方角にいて、頭を押さえようと敵の行動に先回りするそぶりを見せるどころか、目標との距離を詰めようとすらしていない。それでも彼は裁かれる立場にはならず、表面上この事件を無傷で切り抜けた。もちろん、レイ艦長も裁かれていない。3人ともが、有罪とされるような落ち度があったとは認められなかったのだ。

 しかし、世論はこうした灰色の決着を喜ぶはずもなく、この3人に明るい未来が待っている理由もなかった。トルーブリッジは艦隊司令官からセルビアの陸上勤務に充てられ、レイは旧式巡洋艦へ転任になった。ミルンは補されるはずだったノア泊地の司令官 (海軍卿への花道) から遠ざけられたまま、無役の提督として陸に上げられてしまう。

 バッテンバーグが地位を離れ、ミルンを蔑視していたフィッシャーが海軍省をとりしきるようになると、ミルンに収まるべき名誉あるポストが用意される理由はなかった。フィッシャーは、メッシナで『ゲーベン』が載炭しているとき、ミルンが自身の巡洋戦艦でこれに接近しようとしていなかったことを公然と非難した。ミルンを「サー・バークレー・ゲーベン」と呼んで、あからさまに軽蔑したのである。彼はトルーブリッジの行動には言及していない。
 もし巡洋戦艦がメッシナに接近していたとしても、ドイツ艦隊はその優速を利して夜間に脱出する選択ができたはずだというフィッシャーへの反論もあるが、逃げられる可能性があるから追わなくてよいなどとは、彼が認めるはずもないことだ。

 ミルンにしても、トルーブリッジにしても、自分が知っている自軍の不備を、敵が同じように知っていて、その隙を利用してくると考えている。彼らの想像の中では、敵艦はカタログ値どおりの万全な能力を有しており、その砲弾は狙ったとおりに命中する。燃料はいくらでも補給でき、協力者には事欠かない。
 翻って見る自軍の戦力は欠陥だらけであり、威力の小さい砲弾は当たらず、エンジンは消耗して速力は出ないし、燃料はすぐになくなってしまう。中立勢力は敵を利するばかりだ。指揮官二人がこれほどに自信のない、退嬰的な思考で事に当たったのでは、失敗も無理からぬところだろう。彼らが戦闘艦隊を指揮する立場にあるべきではないと判断されるのは、やむを得ないのかもしれない。

 矢面に立たされたスケープゴートはトルーブリッジだったけれども、ミルンも結局、無傷では済まなかった。巻き添えを食ったフォウセット・レイの立場は、自らが招いたこととはいえ哀れを誘う。もし、第一巡洋艦戦隊が『ゲーベン』を追い、やっとその煙を見ただけで逃げられたとしても、その場合には司令官と旗艦艦長に何も落度はなく、それなりの未来が待っていたはずなのだ。

 しかし、これらをもって彼らを無能と断ずるのは、早計のそしりをまぬかれまい。開戦の混乱の中で、猫の目のように変わる本国政府の方針に振り回され、長く実戦を経験していない艦隊の指揮官が、とりあえず自艦隊の保全を最優先に考えるのは当然でもある。
 スション提督にしても、自己の保全を最優先にした結果の成功であり、敵をして拍手させるほどの奇想天外な機略を用いたわけではなく、処分できたはずの敵艦を見逃してもいる。その結果には多く幸運が作用しているし、エラーがなかったとも言えず、敵軍の失策が後押ししてくれたようなものだった。

 実際としては、イギリス海軍はもっと簡単に『ゲーベン』を追い詰められ、圧倒的な戦力で破壊できると考えていたのだろう。スションが彼らを出し抜けた陰には、彼らの油断があったのだろうが、その脱出を活かしてしまうトルコの政治情勢という、海上戦闘とはまったく別次元の要素があったことは、イギリス海軍にとっては不運だった。
 もし、トルコが『ゲーベン』と『ブレスラウ』を抑留し、戦争に参加しなかった場合、この事件はドイツ艦隊の脱出劇だけで全幕終了となり、歴史は別な道をたどっただろう。さらにもし、トルコの参戦によって史実の戦争がドイツに有利な形で決着していれば、スションは国を救った英雄になったかもしれない。

 イフの位置を変えて、もし『ゲーベン』がコンスタンチノープルへたどり着いていなければ、トルコがいかに切歯扼腕したところで、ロシア艦隊に戦いを挑む手段を持っていないのだから、何もできなかったはずである。かといって裏切った英国に与し、ロシアの同盟国となる屈辱には耐えられなかっただろう。おそらくは歯がみをするだけで形式上は中立を維持するしかなく、いずれにせよ戦争は大きく異なった結末を迎えたに違いない。

 現代の我々が歴史を振り返って眺めれば、そうした大局的な流れは必然のものに見え、個々の事件は矮小化されてしまう。しかし、実際の歴史は小さな事件の積み重ねとして存在しているのであり、その場その場で死力を尽くした人々が築き上げた結果なのだ。この事件が「歴史を変えた」という、いささか大げさな評価を受けているのは、こうした見えにくい流れの中で、明確に「きっかけ」と言えるだけの、珍しい地位にある事件だったからである。

 さて、この事件の結果として、英仏を中心とする連合軍は、地中海の制海権になんら損傷を被っていない。他の海戦での結果判定に見られるように、戦略的状況の変化がなかったことをとらえて「勝利」と呼ぶのならば、ここでも連合軍は『ゲーベン』という危険な戦力を地中海から締め出したとして、勝ったと主張もできるだろう。実際にそういった論調もなかったわけではない。
 しかし、誰もそんなことは認めないのであり、この事件は敗北ではないにせよ、潰せるはずの敵を潰し損ねた「失敗」なのだ。だからこそ軍法会議が招集されたのだが、それでもトルコの参戦を見たイギリス海軍省は、トルーブリッジを無罪にして、事件を明確に失敗と宣言する道を避けた。海軍の失敗が外交の失敗を導いたことになってしまっては、非常に具合が悪いのである。

 このように、明白な失敗であっても、手頃に責任を負わせられる生贄がいなかったり、国家戦略的に失敗を認めたくない場合、政府は失敗を失敗と言わず、詭弁を振りかざして勝利を喧伝することがしばしばある。
 そうしたとき、軍は失敗などなかったという立場を取らなければならないから、責任者の処罰は行われず、逆にわずかな戦果をとらえて褒賞したりもする。軍事史には、両軍ともが勝ったことになっているという奇妙な戦闘は珍しくもないのだ。

 歴史には、こうした欺瞞が数え切れないほどに存在し、後世の人間を悩ませる。その虚構の裏を覗こうとしても、抹消された記録を探ることは難しく、現実の再構築は不可能に近い。一市民である我々には、悩みながら歴史の裏にある人間模様に想いを馳せるくらいしか、できることはないのかもしれない。

第13章・第一部終わり




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