ゲーベンが開きし門 第三部・第三章 The Goeben opens the gate : part 3 : chap.3 |
●第3章・死を賭して戦え
■"Two lone ships"より
私たちは毎日、ケーソンが一日でも早く出来上がり、『ゲーベン』の修理が終わって外洋へ出られる日を心待ちにしていた。すでに長い時間が空費されていたけれども、苛立つ心はそれをさらに長く感じさせている。
そして、ついにその日が来た。3月18日の朝、私たちは興奮に満ちた眼差しで、二つの巨大な怪物が、ステニア入江の静かな海面を曳かれてくるのを見ていた。あれこそケーソンだ!
そのひとつずつが慎重に艦の側面へと運ばれてくる。巨大な装置はチェーンによって位置を保ちつつ、海水を満たされてゆっくりと沈められ、『ゲーベン』の舷側へ引き寄せられた。潜水夫が、それを正確に破口にあてがうために潜っていく。
ひとつのケーソンが位置を定められ、中の海水が汲み出されていく。小さな隙間には潜水夫がまいはだを詰めて漏水を止める。
当直を外れている無線員たちは、上甲板から興味深い作業を観察していた。私たちにとって最も愉快であったのは、この修理によって『ゲーベン』がかつての高速を取り戻し、黒海へ出動して思うがままに走り回るのを想像することだった。
いかに緊急の事態であっても、キリアへの短い航海であってさえ、舷側に二つの穴を抱えたままで行動するのは、けっして歓迎できない。2基の砲塔が戦闘不能であるというばかりでなく、速力が発揮できないから、『ゲーベン』は大きなハンデキャップを背負うことになるのだ。
この状態でロシア艦隊に捕捉されなかったのは幸運だった。そうなったら誰にも、ステニアへ戻れると保障できはしないのだ。艦はまもなく正規の状態に復する。そうなれば不当なリスクを冒す必要なく、海へ出られるようになる。
11時30分ころ、突然の命令が私たちの白昼夢を打ち砕いた。無線員はただちに持ち場へ戻らなければならない。虚空に何らかの動きがあるらしい。皆は直ちに無線室へ向かいながら、何が起こっているのかをいぶかっている。私はこのとき、試験に合格して昇進し、当直班のリーダーを命じられていた。
無線室ではすでに、当直士官が資料を持っており、特別な何かが起こっていることを指し示した。その朝、すでに出動していた『ブレスラウ』は、フェオドシアの魚雷工場を攻撃していた。攻撃はこれまでになく徹底的だったが、作戦はすでに数時間前に終了している。何が問題で有り得るだろうか。
『ブレスラウ』に何か起こったのだろうか。敵に発見され、それと交戦しているのだろうか。まもなく私たちは、通信の示すものを掴み出した。
英仏連合軍の大艦隊がダーダネルス沖に現れ、海峡の要塞へ向けて射撃を行っていたのだ。今回の攻撃はそれまでと異なり、何か重大な状況があるように思われた。連合軍は可能な限りの激しい砲撃を行っている。情報の増加と共に疑問を持つ余地はなくなっていった。18隻の戦艦が軽巡洋艦と掃海艇を従え、無数の駆逐艦に囲まれて、ダーダネルス海峡を突破するべく、非常な重量の砲弾を送り込んでいるのだ。
チャナクの無線局は、客船『ゲネラル』と密接な連絡を続けており、おそらくコンスタンチノープルにいるはずのスション提督に状況を報告していた。この懐かしい友人は、今は金角湾に新しくできたスタンブール橋の背後にもやわれている。
『ゲーベン』でも『ゲネラル』宛に送られてくる通信を傍受し、暗号を解読していた。これは私たちにとって、日常の業務だったのである。そして、それゆえに、ダーダネルスで今、何が起きているのかを知ることができたのである。
連合軍は今、遮二無二海峡を突破しようとしている。ダーダネルスを彼らの支配下に置こうとしているのだ。海峡に、敵艦隊の猛攻撃に対抗できるだけの防御力はあるのだろうか。それほどたくさんの軍艦があれば、どんな損失も補うことができるだろう。そうなれば防衛線はどれほど英雄的な抵抗を行おうとも、押し潰されてしまう可能性がある。防衛線がどれほどの実力を持っているのかは、自らに対する疑問であるのだが、答えは敵に尋ねるしかない。
幸い敵は、チャナクと『ゲネラル』の間の通信を妨害しようとしていなかった。そこには強い自信があったように思われる。だが、適時に情報を得られることは、私たちにとって有利に働いた。
状況はどうやら、敵艦隊の意のままにはなっていなかった。彼らは私たちの国防力の、最良の部分に相対してしていることを実感していた。敵艦隊の多くは、なにかしかの損害をこうむっているようだったが、深刻な破損ではなさそうである。彼らは、海岸砲台が効果的な射撃を送るには遠すぎる位置にいるのだ。それはまた、ダーダネルスの防衛部隊が、用意された能力を期待通りに発揮しているということでもある。
既に2月、イギリス艦隊はセデル・バールとクム・カレの要塞に激しい砲撃を加え、その能力を奪っていた。ダーダネルスの外側の門は、既に開かれてしまっているのだ。だが、これら外側の要塞は、古い城壁に時代遅れの大砲を並べただけのものだったから、確かにその破壊は難しくなかっただろう。
しかし今、敵の攻撃に対して効果的な反撃を行っている要塞は、ドイツの指導を受けて近代化された砲台であり、十分に防御されている。
チャナクは朝からずっと、敵の攻撃が苛烈であることを報告し続けている。両軍ともに、激しい砲火が応酬されている。軍艦と要塞の戦いが、いったいどちらにとってより有利なのか、この古来からの問題は、ここでもまた新たな挑戦を受けているのだ。
イギリスとフランスの戦艦は、大口径砲弾を数時間にもわたって砲台へ撃ち込み続けた。防衛側も直ちに反応し、接近してくる敵艦に向かって的確な反撃を行っている。土煙が雲のようにたなびき、舞い上がったほこりが海岸一帯にたちこめて、太陽を覆い隠す。砲台は瓦礫に埋もれ、村は燃え上がった。しかし、ドイツ人も、トルコ人も、岩のように一歩も引かなかった。
午前の時間はあっという間に過ぎ去り、両軍に膨大な損害が発生していた。ダーダネルスの各要塞は、効果的な射撃を行っている。前進してきたフランスの戦艦は、すでに手痛い反撃を喰らい、ほうほうの体で引き下がった。イギリスの戦艦も同様に被害を受けていた。しかし、まだ戦いはたけなわである。
敵艦は入れ替わり立ち代り攻撃してくる。損傷をこうむった戦艦は後方へ下がり、別な艦がその穴を埋める。何隻もの軍艦が、海峡へ踏み込んできた。
そして、フランスの戦艦『ブーヴェ』が、機雷を踏みつけて沈んだ。戦艦はわずか2分で転覆し、ほとんどの乗組員は助からなかったという。それでもなお戦いは続いた。
13時30分になって、1時間ほどの休止があった。そして再び攻撃が始まり、その頂点に達したのである。恐ろしい量の砲弾が飛び交い、互いの頭上に炸裂する。
空気は砲弾の破裂する雷鳴に打ち震えている。爆発した火薬の煙と、噴き上げられた砂塵が、文字通り海峡の要塞を覆いつくした。茶色の煙が海面を覆い、無数の砲弾によって立ち上がる水柱が林立する。
この熾烈な戦いは、およそ2時間にわたって続いた。大胆な襲撃者はしかし、トルコ軍砲台からの強力な反撃を受け、大きな損傷をこうむって撃退された。この戦闘、そして突破は、言葉では言い表せないほどの執拗さで繰り返し試みられた。それはあたかも、艦隊で要塞をすり潰そうとしているかのようだった。
16時、チャナクの無線局は、要塞の準備弾薬が危険なほどに減少していると知らせてきた。敵艦隊が無理やりに突破しようとして失敗を重ねている作戦は、砲側に用意された膨大な数の砲弾をすべて撃ち尽すという予想外の結果を招いて、彼らの意に帰する寸前になっている。状況は深刻だった。
砲弾の欠乏という恐ろしい悪魔が、今、静かに頭をもたげようとしているのだ。
ハミディエ要塞は、最も強力な防御の中心だった。彼らが最後の砲弾を発射してしまえば、戦いは終わり、海峡の突破を防ぐ手段はなくなってしまう。
いや、違う!
私たちの手の中には、まだゲームの場に出すことのできる切り札が残されている。この危機にあたって、最後の一枚を裏返す命令はまだ下っていない。
私たちにはまだ、『ゲーベン』がある。最後の一枚の切り札が、運命の車輪のスポークの間に、棒を差し込もうとしている。船体に二つの大きな傷を負ってはいても、気高い戦士は負傷をものともせずに、あたかも手負いの猛獣のように、戦いに挑むだろう。運命がその最後を告げるまで、我々は戦い続けるのだ。
命令が下る、「全ボイラーに汽醸せよ! ダーダネルスへ向けて出撃する! 連合軍艦隊の突破に備え、死を賭して戦え!」
またしても『ゲーベン』の煙突から、猛烈な煙が空へ向かって噴き上げられた。あれほど苦労して装着されたケーソンは、その場に打ち捨てられた。今はそんなものに構っている場合ではない。勇猛果敢な『ゲーベン』には、重大な使命が待っているのだ。傷ついた船体は、それでもまだ十分に装甲されており、その全能力をもって、運命の顎へと踏み込んでいくのだ。
17時、『ゲーベン』はすべての準備を整えた。10分後、私たちは壮麗なサルタンの宮殿の前を通り過ぎ、コンスタンチノープルに、おそらくはこれが最後になるだろう別れを告げる。実際にはこのとき、ほんの少数の乗組員だけしか、これが死出の旅立ちであることを知ってはいなかった。それを知っていた者たちはしかし、悲壮な覚悟を抱きつつ、黙々とそれぞれの任務に専心していた。
その瞬間は目前に迫っている。『ゲーベン』はダーダネルス海峡で、圧倒的な敵に立ち向かい、力の限りに戦うだろう。最後の瞬間が訪れるまで、戦闘旗は檣頭に翻り続け、私たちは運命の手に自らを委ねて、海の底へと沈んでいくに違いない。
チャナクから新たな報告が届いた。ハミディエ要塞の弾薬は底を突いている。『ゲーベン』は、二つの穴の存在が許す限りの速力で走っていた。敵潜水艦の攻撃から守られるため、マルマラ海へ出た『ゲーベン』は水雷艇によって囲まれている。
再度、チャナクは報告を送ってきた。ついに最後が訪れたのだろうか? しかし18時に到着した簡潔な報告は、意外な事実を伝えていた。連合軍艦隊は砲撃を中止し、海峡入口から退却しているという。
これは何を意味しているのだろう。私たちはとっさに、この出来事を理解することができなかった。まったく予想もしない展開だったのだ。私たちは、運命を操る気まぐれな神にからかわれているのだろうか?
無線室の全員が言葉を失っていた。いったい何が起こり得るのだろう。勇猛な敵が、自分たちにとっても過酷な作業によって、ようやくに熟した果実が手に入ろうというその瞬間に、すべてを投げ捨てて退くなどということがあるだろうか。それが偶然だなどということなど、有り得るだろうか?
これはもしかして、またもや秘密の通信機を通してもたらされた、恐るべき『ゲーベン』出動の知らせによるのだろうか? 私たちにはわからない。ただ、この奇妙な出来事の結果を喜ぶだけでしかなかった。薄暗い秘密のベールに覆われた軍隊の行動というものは、その目覚しさと同じくらい不可解でもある。
何であれ、海岸に展開していた砲兵隊にとっては、これ以上ない天の助けが与えられたのである。おそらく連合軍は、予想を上回る損失に驚き、作戦の継続を不可能と判断したのだろう。彼らがなぜ攻撃を断念したのかは、神のみぞ知ることだった。後に私たちは、ハミディエ要塞の最も強力な砲に、砲弾が4斉射分しか残っていなかったことを知らされた。
私たちはなお、ダーダネルス海峡へ向かっている。この休息が、ほんの一時のものであるかもしれないからだ。おそらく敵は、翌日のより強力な集中攻撃のために、新たな力を再結集しているのだろう。
その夜、私たちはマルマラ海側のダーダネルス海峡入口に陣取っていた。
今、周囲はこの上なく静かだった。戦争の騒音はどこからも聞こえてこない。錨が下ろされ、水雷防御網が展帳される。『ゲーベン』は敵軍が次に行うだろう攻撃に備え、その正面で静かに待っている。しかし、すべては静謐のままに過ぎ去っていった。
夜が明け、朝が訪れる。しかし、攻撃は始まらない。敵は立ち去り、再び現れようとしなかった。前の日、あまりの抵抗に屈した敵は、十二分に辟易したに違いない。
もし、連合軍が徹底的に攻撃を続けたなら、いったい何が起こっただろうか。おそらく彼らは海峡を突破しただろう。そしてそれが彼らの究極の目的である、トルコの崩壊につながっただろうことは、容易に想像されるのである。
結局、ダーダネルス海峡突破作戦は、連合軍艦隊に多大の損害を残しただけに終わった。4隻の戦艦が沈み、7隻が大きな被害を受けていた。人員の喪失もまた大きかった。その代償として放たれた砲弾の量に比すれば、海岸要塞の損害は大きくなかった。
要塞は一面の巨大なクレ−ターに覆われていた。ハミディエ要塞では、敷地内に落ちた砲弾は160発が数えられ、そのうちの40発は砲台に非常に近いところに弾痕を残している。しかし、それらによる損害は、敵のそれに比べれば小さかった。38センチ砲弾による砲撃を受けたことからすれば、死傷者は意外なほどに少なかったのだ。砲台の機能は失われなかった。ただ、弾薬が枯渇しただけだったのである。
トルコの軍営は偉大な歓喜に包まれている。
3月19日午後、『ゲーベン』にステニアへ戻れという命令が与えられた。私たちはまたしても、ひとつの危機を生き延びたのである。
水雷艇の強力な護衛を受けつつ、『ゲーベン』はゆっくりボスポラスへ向かい、マルマラ海を横切っていく。そして、二度と見ることはないだろうと覚悟していた、コンスタンチノープルの輝きを目に収めたのだ!
今回もまた、危機は首尾よく切り抜けられた。しかし、こんな幸運がいったいいつまで続くものだろうか。私たちは自らに未来を覗き見る能力がないことを、ありがたいと思わざるを得ない。
『ゲーベン』は再びステニア入江に戻り、身を横たえる。しかし、この二日間にはあまりにも多くの事件が起こっていた。私たちの精神が平静を取り戻すには、まだ若干の時間が必要だったのである。
翌日、二つのケーソンは船体の破口を覆うように位置を定められた。面倒な仕事が、最初から全部やり直しになったのである。私たちには、こうした作業を中断せざるを得ないような事態が再び起きないよう、幸運を願うしかなかった。
工事そのものには、長い時間は必要でなかった。二日間の昼夜兼行作業によって、すべては定位置に収まったのである。まもなく私たちは復活祭を迎えるが、それはきっと、海上で祝われるのだろう。
しばらくの間、何も事件のない日々が続いた。ある意味、この幕間は必要なものだったのである。ロシア人は奇妙なほどにおとなしかった。彼らはいったい、どんな悪巧みを考えているのだろう。
平穏な日々が不安を掻き立て、疑いの心を持たせはじめて、私たちは次の事態に対処する心構えを持てるだけになっていた。まだそれと気付いていないだけで、すでに何かが進行しているのかもしれない。
そして、実際に新しい事件が起こったのである。
3月28日の早朝、ボスポラス沖で哨戒配置についていた水雷艇が、ロシア艦隊の出現を報告してきた。まもなくロシア黒海艦隊の全力が現れ、ボスポラス海峡入口へ向かって発砲してきた。これはしかし、私たちにはお笑い種でしかなかった。
まず、イギリスとフランスがダーダネルス側で作戦行動を起こし、それに呼応して、ロシアが背中から攻撃を加えようというのだろう。海峡は両側からの攻撃を受けたが、それだけのことなのだ。
ロシア艦隊の能力は不十分であり、ボスポラスから16〜7キロメートルまでしか近づけなかったから、海岸要塞は射程が足らなくて反撃できなかったものの、艦砲射撃の効果もなかったのである。
砲撃は1時間ほど続き、主としてアナトリア側の灯台が目標にされたようだったが、いくつかの建物が破壊された程度で、ステニア入江ははるかかなたであり、脅威はまったくなかった。ほとんどの砲弾は岩だらけの崖に当たり、灯台や付属する建物に破片を浴びせた程度で、ロシア艦隊は黒海の沖へと消えていった。
彼らにしてみれば、この攻撃は英雄的な作戦だったのだろう。去っていくロシア黒海艦隊のエベルガルト司令長官は、全艦隊に向けて、この忘れ難い日を祝うメッセージを無線で送っていたのである。
ケーソンがしっかりと取り付けられ、『ゲーベン』の修理作業は順調に進んでいた。私たちはただ、作業が再び中断させられないことを願うばかりだった。昼夜を分かたない作業が続けられ、普段は静かなステニアの港に、リベットを叩く電動ハンマーの音が鳴り響いていた。
幾日もの間、この耳障りな音は絶え間なく続き、鋼鉄の肋材とT字アングルやU字棒が定位置に固定されていく、準備されていた外板が船底に取り付けられ、船体を形作っていった。
最初の夜、私たちはリベット打ちの騒音のために、ほとんど眠ることができなかった。しかし、二日目には慣れてしまい、音がしなくなると、何かが足らなくなった錯覚を起こすようになっていた。
作業は高い能率で続けられ、やがて大きな仕事が完了した。ケーソンが出来上がるのを待っている間、修理のための部材も周到に準備されていたから、作業は能率よく進んだのである。数日後には、両方の穴があらかた塞がれていた。
残りの工程は少なく、まもなく『ゲーベン』は再び戦うための準備を終えるだろう。万全の準備を整えてステニアを出撃する、その瞬間はまもなく訪れるのである。
▲連合軍
「最大の勇気と最大の愚行」
戦史にいくらかなりとも知識のある人であれば、この表題を見ただけで、これがどんな作戦について書かれたものか推測できるだろう。ダーダネルス上陸作戦は、それほどに有名な軍事行動であり、実りがなかったという点でも特異な作戦として扱われる。
ここでは、良好な研究書が多く存在する、この作戦について詳述することはしない。『ゲーベン』は、この作戦からは背景に存在するだけであって、その撃滅が目的のひとつではあれ、この果実は作戦全体が成功すれば自然に手に入るはずなので、その撃沈を主目的として行動した戦闘単位はほとんどないのだ。
「孤独な二隻」の中でも、これについて記された部分は少なく、記述も傍観者的である。それゆえここでは、主に戦記中に触れられた海上作戦について記述することにする。
まず断わっておくが、結果の失敗と膨大な損害に関わらず、この作戦の意図そのものはまったく正当なものであり、成功した場合に予想できる結果の大きさから見れば、試みることに非を唱える理由はない。最大の愚行と評価される対象は、ここにはないのである。
そもそもは、先立つ失敗がなければ行わずに済んだはずだという部分と、必要になってから立てられた作戦計画があまりにも杜撰で、齟齬のかたまりのようなものになってしまったこと、さらには政府や軍内部の戦争指導、命令系統の混乱に外交的思惑までもが邪魔をしたため、大量の戦死者がほとんど無駄死にに見える結果となり、批判の集中攻撃を受ける格好になったのだ。
一次大戦においては、こうした状況は珍しいことではなかったのだが、多くは敵の猛烈な攻撃に対処するためにやむを得ず費やされた犠牲と言える側面があって理解を得やすく、連合軍側から能動的に行われた作戦で、かつ結果を得られなかったこの作戦が、批判の標的になりやすかったところもある。
開戦から4ヶ月、フランス国内の西部戦線が、膨大な損害を生みつつ膠着するという尋常でない状況に陥り、東部戦線ではタンネンベルクでロシア軍が打ち破られたため、ドイツ軍の矛先を逸らせる方法と、ロシアへの交通路確保が重大問題になった。
ここでイギリスの戦争指導会議から、バルカン方面に戦線を新たに開くことが提案され、チャーチル、キッチナー、フィッシャーといった人々がそれぞれにアイデアを持ち寄り、結果として構想が一致しないまま、引くに引けなくなって強行するような形になった。
確かに、フランスで汲々としている陸軍にすれば、大兵力を東地中海へ割くわけにはいかなかっただろうし、特に使い道もなく遊んでいる旧式戦艦を有効に使えるという作戦は、海軍にとっても大きな負担ではない。この時点では中立を守っているギリシャにしてみれば、コンスタンチノープルを支配下に置けるとなれば軍を動かす十分な理由になる。
一連のバルカンでの戦争状況から見て、トルコ軍は士気が低下していてどれほどの抵抗力を持ってもおらず、大兵力を注ぎ込めば一気に片付けられると考えられたのは、それほど無理な判断とも思えない。
しかし、ギリシャの参加には、キリスト教徒にコンスタンチノープルを押さえられると、自分たちがそこに覇権を唱えられる可能性がなくなるとして、尻に火がついているロシア自身が反対し、陸軍を用意できないために海軍単独の作戦となることには、フィッシャー海軍卿も反対の立場をとったため、見通しのつかない状況が現出した。
普通ならさらなる調整を行わなければ、作戦は実行できなかっただろう。ここにチャーチルという人間がいなければ、たぶんこの作戦は実行されなかっただろうし、されるにしても形の異なるものになっていたはずだ。
最初に企てられたのは、艦隊によるダーダネルス海峡の強行突破である。脅威になるのは海岸砲台と機雷であるから、戦艦の砲撃で砲台を潰しつつ、掃海を行って機雷を取り除いていく。機雷がなくなれば艦隊は前進し、次の砲台を射程に入れて、これを破壊する。この作業を繰り返していけば、海峡は無防備となり、艦隊はマルマラ海へ入って、コンスタンチノープルに海上から砲を突き付けることができる。
『ゲーベン』の存在は、それがどこで出てくるにせよ、特性の活かせない狭水面での運用になるので、旧式戦艦と駆逐艦でも対処可能である。いずれ『ゲーベン』の砲弾は持っているだけでしかないから、弾よりも艦が多ければいいわけだ。
こうして、イギリス海軍のカーデン提督が立てた原案に基づき、およそ一ヶ月で突破できると予想された作戦が発動される。
1915年2月19日、イギリスの戦艦隊はフランスの戦艦4隻を加えられて膨れ上がり、まず小手調べといった調子で海岸砲台への射撃を始めた。この日には数隻の戦艦が、12インチ砲弾139発を発射しただけで作戦を終了している。
冬季には天候の良くない日が多く、艦隊は行動に好適な日を選んで作戦を実行するものとしたため、25日まで次の行動は起こされなかった。その後も散発的な攻撃が行われ、3月2日までに抵抗を排除した艦隊は海峡内へ侵入し、ナローズと呼ばれる狭隘部へ差し掛かる。8日に再び悪天候となって作戦は中断したが、このペースなら2週間でコンスタンチノープルまで進めるだろうと予測された。
しかし、狭水道で至近距離からの直射を受けるようになると、掃海艇は作業を続けられなくなり、機雷が処理できなければ戦艦が進めないため、状況は手詰まりになっていく。
こうした中で、カーデン司令長官は体調を崩し、3月17日と予定された総攻撃の直前になって辞任せざるを得なくなる。急遽後任には副司令官であったデ・ローベック提督があたることになった。
18日、総攻撃は開始され、3列の横隊を敷いた連合軍の戦艦は、海峡内の比較的広い海面に展開する。この海面は作戦開始時から繰り返し掃海が行われており、機雷の脅威は排除されていると確信されていた。
先頭のA部隊は、右から巡洋戦艦『インフレキシブル』、戦艦『ロード・ネルソン』、『アガメムノン』と、就役したばかりの高速戦艦『クィーン・エリザベス』であり、両側に支援艦として『プリンス・ジョージ*』と『トライアンフ#』が付属した。
二列目のB部隊は、ゲプラッテ海軍中将の指揮になるフランス戦艦で構成され、『シュフラン』、『ブーヴェ』、『シャルルマーニュ』と『ゴーロワ』が並び、両側にイギリスの『マジェスティック*』と『スウィフトシュア#』がついている。
さらに三列目には、『オーシャン*』、『アルビヨン*』、『イリジスタブル*』、『ヴェンジャンス*』が続き、合計で15インチ (381ミリ) 砲8門、12インチ (305ミリ) 砲54門、10インチ (254ミリ) 砲8門などがトルコ砲台に対峙することになった。
★艦名の後ろに*印のある艦は、いわゆる標準型と呼ばれる前ド級戦艦で、12インチ砲4門、6インチ (152ミリ) 砲12門の武装は共通している。#印は二等戦艦であり、主砲は10インチ砲4門、副砲は7.5インチ (190ミリ) 砲だった。 |
対抗するトルコ側の砲台は、36センチ35口径砲4門、24センチ35口径砲13門、152ミリ45口径砲3門、150ミリ40口径砲5門、移動式150ミリ曲射砲32門などである。36センチ砲は17400メートル、24センチ砲は14500メートルの最大射程を持っていた。
『インフレキシブル』は12インチ砲8門、25ノットの巡洋戦艦で、防御は弱く要塞と撃ち合うのに適した艦ではない。『ロード・ネルソン』と『アガメムノン』は、12インチ砲4門、9.2インチ (234ミリ) 砲10門を装備した準ド級戦艦で、速力を除けば実力は初期ド級戦艦に匹敵する。『クィーン・エリザベス』は、この1月に就役したばかりの新型戦艦であり、慣熟訓練を兼ねてこの任務を割り当てられた。
フランス戦艦は、いずれも日露戦争以前の完成になる旧式艦で、305ミリ砲4門と163ミリ砲もしくは140ミリ砲を備えているが、『ブーヴェ』はさらに古く、主砲を305ミリと274ミリの二本立てにした菱形砲塔配置の戦艦である。
3月18日11時25分に射撃が始まり、横列を敷いたA部隊がキリド・バハル、チャナクの砲台へ向けて砲弾を送り込む。12時を過ぎたところでB部隊が前進を命じられ、A部隊各艦の間を抜けたフランス戦艦が戦列の矢面に立ち、1000メートルほど前進して停止、猛烈な射撃を行う。
海峡には流れがあり、中心部は錨を下ろせないほど深いため、各艦は微速前進をかけて位置を保っている。やがて、『ゴーロワ』、『インフレキシブル』、『アガメムノン』に命中弾があり、小口径砲弾の命中はどの艦にもひっきりなしで、攻撃部隊には徐々に被害が累積していった。
トルコ砲台側も無傷ではなく、いくつもの砲が発砲不能となり、瓦礫や土に埋まってしまった砲台もあった。13時45分には、士気の低下もあってほとんどの砲台が射撃を継続できなくなり、砲戦は下火になる。
ここでデ・ローベックはB部隊を後退させ、後方のC部隊と交替させようとする。フランス艦隊は横一線のまま、それぞれ右に90度回って縦列となり、『シュフラン』を先頭に右回りに戦列を離れ、A部隊の右舷側をすれ違う。
13時54分、突然フランス艦隊の2番目にいた『ブーヴェ』に爆発が起こり、艦は前進しながら大きく傾斜すると、そのまま右に転覆してしまう。あっというまの沈没で、姿が見えなくなるまでに2分とかからず、639名が脱出の暇もなく溺死した。
これに勢いを得たトルコ軍は活発な射撃を再開し、16時ころまで、C部隊や支援の戦艦と激しい砲撃戦を繰り広げた。夕方となってデ・ローベックは掃海艇に出動を命じたが、16時11分、A部隊の右端にいた『インフレキシブル』が右舷艦首に触雷し、戦列を離れる。続いて5分後には『イリジスタブル』が魚雷の命中を報告し (実際には触雷)、行動不能となって駆逐艦が乗組員を回収した。
行動不能にはなったけれども、すぐに沈みそうにはなかった『イリジスタブル』を救出しようと、戦艦『オーシャン』、『スイフトシュア』が接近するも目的は果たせず、やがて『オーシャン』も触雷、砲弾が操舵装置を破壊したために、これも行動不能となる。
デ・ローベックは、作戦海域内に未知の脅威があると判断し、これ以上の被害を避けるために、艦隊を撤退させることにした。このとき、トルコの砲台には砲弾がなくなっており、攻撃を継続されれば手の打ちようがなくなるところだったのだが、そうとは知らぬ連合軍は、あと一歩のところで突入を諦めてしまったのだ。
3隻の戦艦を屠り、巡洋戦艦を大破させた未知の脅威は、3月8日にトルコ軍の『ヌスレット』 Nusret という小型敷設艦が構築した機雷堤で、他の、海峡に直交したものとは異なり、アジア側の岸に平行した形で20個の機雷を一列に並べたものだった。比較的陸岸に接近した位置にあったためか、掃海作業に引っ掛からず、航空偵察によっても発見されなかったのである。
その位置は、それまでの散発的な砲撃行動の中で、射撃を終えた戦艦が退出路として使っていた航路を見出した、トルコ陸軍のギール中佐が指示したものだった。ちなみに殊勲の『ヌスレット』は、大戦を生き抜き、記念艦として保存されているが状態は良くない。(チャナッカレで陸上に展示されているのはレプリカ)
ほとんどの乗員が退艦し、行動力を失って流されるだけになっていた2隻の戦艦は、夜になって救出も処分も思うに任せず、結局は翌朝までに沈没したのだが、その場所もわからない状況だった。
この総攻撃の実行以前に、連合軍作戦本部では、これに陸軍を参加させる計画を進めている。艦隊の突破が失敗した場合、用意された陸軍はガリポリ半島に上陸し、海峡の片側を制圧する計画だった。突破が成功すれば、軍は若干の勢力で半島を保持し、主力はそのままコンスタンチノープルへ進んで、トルコを屈服させる計画だったのだ。
このため、突破を失敗と判断した司令部は、陸軍の準備が整うまで、新たな攻撃をやめてしまったのである。この結果、砲弾を切らして屈服寸前だったトルコ軍は、立ち直る猶予を与えられることになった。
★参考
イギリス巡洋戦艦『インフレキシブル』の損害
3月18日、A部隊の最右翼にいた『インフレキシブル』は、射程12500〜14800メートル (13700〜16200ヤード) で海岸砲台との撃ち合いを演じており、その中で多くの損傷を被ったが、主たるものを列記してみよう。
この艦は12インチ砲弾182発を発射し、他艦との共同で36センチ砲2門、24センチ砲1門を戦闘不能にしている。
『インフレキシブル』の被害は、
・左舷後部の至近海面で36センチ砲弾が炸裂し、水線下の装甲鈑に歪みが生じて浸水した。
・24センチ砲弾が舷側の装甲鈑より上部に命中、直径60センチほどの穴があいた。
・24センチ砲弾が前マストに命中し、射撃指揮装置が破壊された。
・15センチ砲弾が左舷側P砲塔の左砲に命中、砲身は砲口から5メートルほどのところに亀裂を生じたため、発砲不能となった。
・おそらく105ミリと思われる曲射砲弾が前マスト頂部の信号ヤードに命中し、指揮所天蓋付近で炸裂したため、この配置にあった全員が死傷した。
・小口径砲弾によるいくつかの軽微な損傷があった。
・右舷艦首、A砲塔の直前にある水中魚雷発射管室付近で機雷 (炸薬量80キログラム) が爆発し、およそ4.5メートル四方の大穴が開いた。右舷発射管室は完全に破壊され、A砲塔では激烈な衝撃によって乗組員全員が転倒し、砲弾車もひっくり返った。浸水は前部弾薬庫に及び、さらに下部司令室にまで波及している。
この被害によって『インフレキシブル』は戦場を離れ、当初は12ノットで行動できたものの、吃水は艦首で1.6メートル増加し、艦尾が若干持ち上がっていた。浸水量は1600トンほどとされ、他の被害も合わせると2000トンに近くなっている。
応急修理の後、マルタへ向かう航海では、荒天に遭遇して前進できなくなり、随伴していた戦艦『キャノパス』によって後ろ向きに曳航されている。波浪の衝撃によって仮修理の木製パッチはもぎとられ、水密隔壁に危険が生じたのだ。
マルタのドックでさらなる処置を施した後、本修理は4月24日からジブラルタルで行われた。修理が完了したのは6月15日で、そのまま本国へ戻ってグランド・フリートに加わっている。
前へ | 次へ |
士官室へ戻る |