ゲーベンが開きし門 第四部・第三章 The Goeben opens the gate : part 4 : chap.3 |
第3章・ロシア黒海艦隊の最後
■"Two lone ships"より
数ヶ月後には現実となる、野蛮とも言い得る強烈な変革はまだ始まっていなかったけれども、戦争の衝撃がツァーリの巨大な帝国を揺るがせはじめている最初の足音は、すでにそれと理解されるほど鮮明になってきていた。
帝国はまず、ケレンスキーの民主的な政権によって取って代わられる。しかしながら改革の機運と体制の変転は止まるところを知らず、革命の波は自分自身を威嚇することで暴力的な広がりを見せ、新たな転覆は時間の問題だった。
この時期、当然のことながら、我らが古きライバル、ロシア黒海艦隊はほとんど姿を見せなかった。『ゲーベン』と『ブレスラウ』にとっては、平穏な日々が続いていたのである。オスマニエにおける私の仕事にも変調はなく、日常の通信への妨害は確実に少なくなっていた。
6月の中旬、私は強烈な高熱によって起き上がれなくなり、翌日、状況はさらに悪化していた。オスマニエの医療担当者は、私をただちにサン・フノワの元フランス人学校に設けられていた海軍病院へ送り込むしか、手段を見出せなかった。運び込まれた私は、校庭に特設された隔離病棟へ入院させられたのである。
翌日、血液検査の結果、私はマラリアと発疹チフスについて陽性であると宣告され、大量のキニーネに漬け込まれてしまった。
二週間後、私は隔離病棟から出され、主病棟に移されることになった。しかしながら、主病棟の食事が隔離病棟のそれに比べて粗悪であるという噂を聞いていた私は、病棟を移りたくなかった。医者は私の要請を理解し、新たな感染の問題を恐れないのならば、隔離病棟に残留してよいと言ってくれた。それは、私には何も心配のないことだったから、私はそのままベッドに居座ったのである。
この病棟には、伝染病の種類に対応して10の病室があり、それぞれに10床のベッドが置かれているが、死があまりにも頻繁であるため、それとは別にベッドを用意された小さな部屋がある。…臨終部屋だ!
どんな患者も、ここへ運び込まれたときには番号が振られる。当然私たちは、その番号によってそれぞれに敬意を払うのだ。
ある日、酷い赤痢にかかった患者が搬入されてきた。三日後、彼は臨終部屋へ移されたのである。それはもう、時間の問題でしかなかったのだ。
この部屋の窓の前にはプラムの木があり、大きく成長していて、死に瀕した男は、横たわったままその木を凝視していた。一日中、彼は誘惑的に熟した、その果実を見詰めていたのだ。
彼はひどく弱っており、ほとんど歩くことができなかった。それにもかかわらず、彼はある夜にそっと起きだし、なんとか庭へ出て、プラムを口へ運んだのである。当然、これは彼の死期を早めることになり、数時間後、彼は息絶えた。
こうした単調な日々は、ひとつの明るいニュースによって打ち破られた。6月23日、『ブレスラウ』が長いこと私たちを悩ませていた、シュランゲ島の無線所を制圧したのである。
砲火によって無線機と信号所を破壊し、上陸部隊を送って要員を捕虜にしたのだ。
そのときまでに、私の入院期間は4週間になっていた。ある日、仲間の一人、R氏が来院し、私が1917年1月に下士官へ昇進したことを告げてくれた。
もう7月だぜ!
いつものことで、こうしたことは本国から遠い南に伝わるまでに、長い長い時間がかかるのだ。そして2週間後、私は退院した。それがどれほど長く感じられたことか!?
オスマニエの無線所へ戻ったとき、私は大歓迎を受けた。
8月の中ごろ、私たちは無線所を移転するという命令を受け、ボスポラスの近く、マスラクへ引っ越した。新しい場所からはほんの200メートル先に、シュシュリからテラピアへ向かう道路が走っている。道路の反対側には、ドイツ人の農民と彼の一家が住まっていて、私たちはすぐに親しい友人同士になった。
このころには食糧事情がかなり悪くなっていたから、町には食料がほとんどなく、彼の家も多くの家畜を供出させられていた。すでに彼の農場には2匹の豚しか残っておらず、それすらも町のホテルでの食事に供しなければならなかった。
ホテルから残飯や余り物が搬出されるとき、餓死しそうな住民がそれを襲撃し、略奪するのを防ぐため、警察官の保護が必要なほどだった。コンスタンチノープルの実状は、それほどに酷かったのである。飢餓の悪魔は、その頭を持ち上げつつあったのだ。
ロシア艦隊がまったく出撃しようとしなくなっていたため、私たちの仕事量も非常に少なくなっていた。しかし、その一方で私たちは、翌日口に入れるものを心配しなければならなかったのだ。もう長いこと肉を食べていなかったし、私たちは自分で自分を養うしかないと実感していた。
そしてある朝、びっくりする事態が起きた。S氏が、後ろ足と思われる大きな肉の塊を持っていたのだ。彼はそれを、屠殺されたばかりの牝牛のものだと説明したが、どこで手に入れたかは、けっして言おうとしなかった。
12月の上旬の話で、外はべらぼうに寒かった。すでに雪も降りはじめており、郊外は白いマントに包まれている。
私たちは貴重な肉を小さく切り分け、二つの大きなボールにいっぱいにした。夜になれば屋外の水が凍るほどだったから、私たちはかなりの時間、その肉を保存することができた。S氏は上機嫌で、昼食のためにステーキの準備をしていた。
皆がそれを食べてしまった後になって、彼はその肉の正体が何であったか、わかるかと尋ねた。私たちはそれを、きっと足を折ったために屠殺しなければならなかった牝牛の肉だろうと結論した。
彼は笑い出し、それが馬であることを告げたのである。皆は大いに笑ったけれども、トルコ人の番兵や使用人たちは、その日のうちに私たちに対して口をきかなくなった。彼らは馬を食べることを忌まわしいと考える、生粋のクルド人だったのだ。
ジェマル (使用人か?) は私たちに対して腹を立てていた。しかし、彼は私たちがそうしたタブーに無知であったことを知り、許してくれたのである。それでも彼は、残った肉に触れることを拒否した。
私たちはそろそろ、今年のクリスマスをこの場所で祝えるのか、できるとすれば如何に為すべきかを考えはじめていたのだが、12月22日の朝に突然、コンスタンチノープルから自動車が迎えに来て、私はただちに私物をまとめ、『ゲネラル』へ出頭しろという命令を受けた。
私は、いったい何事かを尋ねたけれども、彼自身何も知らないようで、それでもただちに行動しなければならず、実際にそうしていた。私は大急ぎで仲間に別れを告げ、2時間後には『ゲネラル』に乗り、司令部士官へ到着を報告していた。
彼は、本国海軍省の命令により、私がすでに休戦委員会の代表、ホプマン海軍中将の通訳として任命されていることを告げた。すぐにブカレストへ向かわなければならない。委員会はすでに出向途上にあり、そこで合流しなければならないのだ。私物の輸送を急いで行うために、自動車を与えられすらした。
私は自分の関係書類を整理し、22時にはバルカン鉄道に乗って、長い旅行に出発していたのである。
この夜行列車には、何か神秘的な印象があった。不意に私は、4年前に『ゲーベン』に乗組むため、アルプスを越えて北海からイタリアへ旅行したことを思い出していた。あれから4年後、今度はバルカン鉄道の列車に乗っている。
1917年12月24日に、私はソフィアへ到着した。そこでブカレスト行きに乗り換えなければならない。私は見知らぬドイツ軍の兵舎でクリスマスイブを過ごし、翌日から旅行を続けて27日に目的地へ到着し、ホプマン提督の副官に到着を報告した。
さしあたっての仕事はなかった。私は年配のルーマニア人女性の住宅に宿舎を割り当てられ、そこには多くのドイツ兵が住まっていて、非常に快適だった。
このときにはマッケンゼン将軍の司令部も、同じブカレストに置かれている。私は毎朝、副官に報告しなければならなかったが、今のところ私が必要になる仕事はないようだった。
1月10日に朝の報告をしたとき、彼は私に、すぐにコンスタンチノープルへ戻り、『ブレスラウ』に乗艦するようになるはずだと語った。『ブレスラウ』への、この急な転属にはびっくりしたものだ。理由を尋ねると、副官は私を信用しているらしく、『ゲーベン』と『ブレスラウ』がダーダネルスから出撃して、イギリス海軍を攻撃する予定だと話してくれた。『ブレスラウ』には通信士が不足しており、それが私を送り返す理由だった。
私は、自分の健康がそうした任務に耐えうるかどうか疑問を抱いていたのだが、結局、ブカレストに残留することになった。それから私は、A.O.K.Mの暗号課に配属された。
数日後、『ゲーベン』と『ブレスラウ』が出撃し、海峡の外側にあるイギリス海軍の基地とされていたインブロス島を襲い、2隻のモニターと何隻かの輸送船を沈めて、無線所や灯台を破壊したという知らせを受け取った。しかし、その直後に破滅が訪れていたのである。
ダーダネルスへ戻る途中で、『ブレスラウ』は触雷し、沈没してしまったのだ。『ゲーベン』はこの惨事を目撃して、四つ目の機雷にぶつかって沈んでいく『ブレスラウ』の支援に駆けつけようとしたが、自身も三つの機雷に触れて大破し、現場から離れるのがやっとで救援作業ができなかった。
『ゲーベン』は『ブレスラウ』の乗組員を救助することもできず、急速に沈没したために生存者は少なくて、後にイギリスの駆逐艦によってわずかな数が拾い上げられたに過ぎない。
艦腹にいくつもの大穴が開いた状態で、『ゲーベン』は苦闘し、なんとかナガラまで撤退したものの、そこで砂州に擱座する不運にみまわれた。動けなくなった『ゲーベン』は、イギリス軍の航空機による数え切れないほどの攻撃を受けたが、対空砲による反撃が功を奏して、大きな被害は受けなかった。合計で15.4トンの爆弾が投下されたというものの、『ゲーベン』はなんとか離礁に成功し、生還したのである。
その後も『ゲーベン』は、若干の空襲にさらされた。最初にイギリスの航空機がステニアの上空に現れ、『ゲーベン』を爆撃しようとしたのは、1917年6月のことである。このときには2発の爆弾が投下され、『ゲーベン』には命中しなかったものの、隣接して係留されていた2隻の水雷艇に被害があった。
最後の作戦で『ブレスラウ』は、戦闘旗を翻したまま沈没している。乗組員は常に変わらず、超人的な能力を発揮し、英雄の勇気を持って任務を遂行したのだが、イギリスの駆逐艦が彼らを拾い上げるまで、数時間に渡って1月の冷たい海水に浸かっていなければならなかったから、多くの者は海水に体温を奪われて、三分の二ほどが救助される前に絶命したとされる。これが『ブレスラウ』の最期だった。
この知らせは、私に大きな衝撃を与えた。何度も共に行動し、その存在を誇りにしていた『ブレスラウ』が、永久に失われてしまったのだ。『ゲーベン』は、深く傷つきながらも、ドイツの海外派遣巡洋艦の最後の一隻として、なお命脈を保っている。
この戦争では多くの人々が命を失い、あるいは海底深くに葬られている。しかし、『ゲーベン』と『ブレスラウ』の名は、国民がけっして忘れることのできない誇りであり、そのことは海の底に眠る彼らにとっての慰めであり、静かな満足なのだ。
これまで、我が海軍の海外派遣巡洋艦の偉業について、どれほど多くのことが語られただろうか。しかし、あなたは『ゲーベン』と『ブレスラウ』の行動について、何を知っているだろう。ただ、メッシナからダーダネルスへの突破に成功した、ひと月にも満たない短い物語だろうか。
長い戦争の間に、遠い黒海で起きた出来事は、ほんのわずかな一部分がドイツに届いただけでしかない。それでも『ゲーベン』と『ブレスラウ』は、この巨大な戦争において、選ばれた艦だけが成しえた、偉大な成功を収めているのである。
2隻の航海の詳細な全貌を記すことは、あまりにも長すぎる物語になってしまうだろう。ここで私はただ、最も重要と思われる出来事を語るだけであり、それがやっと可能な範囲なのだ。
この戦争を通じて、黒海における『ゲーベン』は、のべ2万浬の偉大なる航海をしたのだが、『ブレスラウ』はなんと3万5千浬を走破したのである。
いったい何人が、ダーダネルスの血まみれの戦場において最も信頼された機関銃隊が、『ゲーベン』と『ブレスラウ』から派遣されたものであるかを知っているだろうか?
あるいは、この2隻が黒海へ入ったことによって、オデッサからコーカサス、バツームに至るロシア人にどれほどの恐怖をもたらしたか?
あるいは、ロシア艦隊が自分たちの天下と考えていた黒海の海上すべてに、その優越を大きく揺るがせた存在となったことか?
幾たびも大きな損傷を受け、傷ついた体を引きずるようにしてステニアへ戻ってくる『ゲーベン』と『ブレスラウ』の姿が、何を意味するのか?
セヴァストポリの占領、バツームへの急襲、ルーマニアへの、そして黒海沿岸全体へのドイツ軍進出において、常に露払いをしたのは、『ゲーベン』と『ブレスラウ』の砲だったのである。
すでに2隻の当初の乗組員は、全トルコ艦隊へ分散していた。彼らはダーダネルスばかりでなく、あるいはユーフラテスで、あるいはダマスカスで見出されるのである。
2隻の軍艦は、地中海における連合軍の圧倒的な優位に強烈な楔を打ち込み、ロシア艦隊に重大な損害を与えたのだ。数え切れないほどの駆逐艦、水雷艇、輸送船が、潜水艦が沈められ、あるいは破壊された。そして戦艦にすら大きな損傷が与えられたのだ。
大量の兵士が、2隻の庇護の下にトルコ東部の戦場へと運ばれ、多くの石炭船がボスポラスとゾングルダクを往復し、『ゲーベン』と『ブレスラウ』に保護されて任務を全うしたのである。こうした偉業は、艦の効率を最大に保たせた的確な指導と、乗組員全体の規律によってこそ、成し遂げられたのである。
いかなる偉大な成功も、等しく艦と乗組員が調和した力を発揮し、危険を乗り越える勇気を持つことによってもたらされるのである。
『ゲーベン』と『ブレスラウ』!
その名は不滅であり、けっして失われることはない!
それでは、世界大戦に大きな影響を与えた、この偉大なる二隻について、残る記憶を語ることにしよう。
ブカレストでは、私はただ退屈しているだけだった。ロシアで革命が起こり、ルーマニアが1918年3月15日に講和条約に調印したため、私の属する休戦委員会はオデッサへ移ることになった。ここでその組織は、「黒海海事技術委員会 "Nautical Technical Commission to the Black Sea"」と名を変えた。
私たちはブライラを経由してオデッサに入り、そこにはコンスタンチノープルから来た練習船『ローレライ』が待ち受けていた。私たちはオデッサに長くとどまることなく、乗船してセヴァストポリへと進んだ。
5月1日には、クリミア半島全体が、セヴァストポリも含めてアイヒホルン軍団によって占領されている。5月2日に『ローレライ』は、その最中に到着したのである。
セヴァストポリで、委員会はブールバード公園を背後に控え、海岸を見下ろすキストホテルに司令部を置いた。港のそう遠くない場所には、ロシア海軍が参謀本部を置いていた古い大きな戦艦、『ゲオルギ・ポピエドノセッツ』が係留されている。
今、空っぽの艦は干からびていたが、そこに無線機が置かれ、強力な無線室として使用されることになった。これは黒海周辺のすべての無線局に対する中継局として、委員会の業務に大きな役割を果たした。ここでは、オデッサ、ケルチ、ポチ、ゾングルダク、オスマニエ、ヴァルナやコンスタンツァと、安定した良好な連絡を保つことができた。
ドイツ本国から呼び寄せられる必要な人員が揃うまでという制限付きだったが、私は『ゲオルギ・ポピエドノセッツ』に設けられた無線局の主任に任命された。彼らが到着するまでにも、たくさんの仕事があった。忙しさの中では、時間は飛ぶように過ぎていく。
ときおり私は、外出できる自由時間に、要塞の近代的な砲台を見にいった。そこに300を超える数の砲を見るにつけ、1914年10月のあの日、『ゲーベン』がどうしてひとつの命中弾もなしに、この砲台の手の中から出てくることができたのかをいぶかるのだった。『ゲーベン』は25分間にわたって、この海岸要塞から撃たれ続けたのである。これこそが本物の奇跡なのだろう。
セヴァストポリは美しい天然の良港である。入江の奥行きは7キロメートルほどあり、その幅はほぼ1キロメートルである。湾は入口近くで二又になっており、もうひとつの入江は奥行きが2キロメートル、幅が500から800メートルほどだ。私たちの無線局がある戦艦は、ここに停泊している。
湾の最も奥にはセヴァストポリの主無線局があり、ここからでもその高い無線塔を見ることができた。それは今、ドイツとロシアの陸軍が共同で管理している。革命に加わらなかったロシア人は、私たちと友好な関係を築いているのだ。
やはり湾の奥、北側の陸近くには、1916年の爆発によって沈没した、『インペラトリツァ・マリア』がひっくり返って竜骨をあらわにし、赤い腹を見せている。
ロシア人はなんとかして『マリア』を回収しようと試みを続けており、沈没から1年後には逆様のまま浮かび上がらせることに成功している。水密隔壁を閉じ、船底の穴は修理されて、四つの三連装砲塔は取り外されている。これらはかなり巧妙な手腕と認められた。
昼も夜も、ポンプはうなりを上げて船体の中へ空気を送り込み、海水を押し出していく。最終的に、その船体からはすべての浸水が排除された。問題は、これをどうやって元のように表に返すか、だった。
その試みが成功したと思われた瞬間、『マリア』はまた沈んでしまったのである。作業は繰り返され、『マリア』は再び、竜骨を空へ向けたままの姿で浮かび上がったのだが、どうやってこれを表に返すかの方法は、まだ見つけられていない。
『マリア』からそう遠くないところに、港の入口を塞いで威嚇するように、我らが『ゲーベン』の美しい姿がある。機雷の損傷はまだ修理されていなかったけれども、最小限の応急処置を行っただけで、『ゲーベン』はクリミア半島の占領を聞き、セヴァストポリへの道をたどったのだ。
『ゲーベン』は海外にいる私たちに残された、最後の巡洋艦である。そして今、悲劇的な終末を迎えているひとつの歴史に立ち会っているのだ。
そして私たちの背後、小さな港にはロシア黒海艦隊がひしめくように並べられている。そこにはしかし、『インペラトリツァ・マリア』の姉妹艦である超ド級戦艦『アレクサンドル三世』の姿がなかった。これは1917年に完成したばかりの現役の軍艦である。他に巡洋艦『カグール』、仮装巡洋艦『アルマーズ』と数隻の駆逐艦も消えていた。これらはクリミア占領の直後に、ノヴォロシスクへ向けて脱出したとされる。
港に繋がれた4隻の戦艦は、重々しい30.5センチ砲を装備しており、危険で、巨大に見えた。それぞれには少数のドイツ兵が監視として乗り込んでいる。あちこちのロシア艦では、必要とされる修理作業が行われており、人の動きが見られる。
『ゲーベン』の砲弾は、それなりの効果を挙げていた。砲廓の隔壁、甲板、砲塔といったところに砲弾による損傷の跡が残っている。今、ロシアの黒海艦隊は、入江の片隅に放棄され、活力を失っているように見える。これこそが、偉大な好敵手の終焉なのだ!
1918年6月には、ロシア黒海艦隊の全艦船が、ドイツの支配下にあった。ノヴォロシスクへ脱出した艦艇も降伏させられた。彼らはセヴァストポリへの回航を命じられ、指定された停泊位置で武装解除を待っているのだった。
私はロシア軍艦へ乗り込み、砲を使用不能にし、魚雷を運び出し、無線機の心臓部分から重要な部品を外して無力化する作業班に組み入れられた。
その日が来た。午前10時に、ロシア艦隊の残りがセヴァストポリへ到着した。
『ゲーベン』の砲塔は威嚇するように旋回し、『アレクサンドル三世』、そのときにはすでに名を変えられて『ヴォルヤ』となっていた超ド級戦艦に指向される。接近してくる大戦艦は、不安の残ったまなざしで見詰められていた。
誰にも確信はなかった。ロシア人は、まだ『ゲーベン』を破壊するつもりかもしれない。しかし、すべては静かに進行した。戦艦は水路に錨を下ろす。
私たちは正午に蒸気艇で出動し、武装解除が始まった。『ヴォルヤ』はなんとすさまじい戦艦であることか!
その戦闘能力を間近に見たとき、砲術士官は言葉を失っていた。しかし、その栄光の日は訪れることなく、過去のものになろうとしている。尾栓はひとつずつ巨砲から外され、蒸気艇に移される。さらに魚雷と、私たちが解体した無線機の心臓部が積み込まれていった。
そのすべてにラベルが貼られ、素性が克明に記録された。これらの部品はセヴァストポリの海軍兵器庫へ運ばれていく。翌日、これらの艦艇はセヴァストポリ港内へ入れられ、定められた停泊位置に係留された。今、全ロシア黒海艦隊は、まったく無力に横たわっている。
これこそが、その終末なのだ!
●ドイツ/トルコ海軍
第2章でわずかに触れられている『ブレスラウ』によるシュランゲ (蛇) 島の無線所襲撃は、同艦が1917年6月23日から25日にかけて行った、ドナウ河口周辺への機雷敷設作戦の副産物として行われた作戦である。
25日未明から同島へ接近した『ブレスラウ』は、砲撃の後に若干の上陸部隊を送り、無線所を徹底的に破壊した。この警報に基づいてロシア艦隊は出動し、ド級戦艦『インペラトリツァ・エカテリーナ二世』と数隻の駆逐艦が『ブレスラウ』に迫っている。
12時過ぎ、南へ向かって逃走する『ブレスラウ』の後方から駆逐艦が接近すると共に、左舷側に戦艦が姿を見せ、14時13分には距離25000メートルから射撃を行ってきた。そのまま、敵を引きずるようにしてボスポラスへ帰着するものの、退路を遮断される可能性はかなり高かった。
1918年1月20日に行われた『ゲーベン』と『ブレスラウ』のダーダネルス出撃は、明らかに連合軍の不意を突いており、作戦が成功していれば見事なヒットエンドランだっただろう。
しかしながら、海峡外に構築されていた連合軍の機雷原は、敷設や保守作業を確認していたはずのトルコ側の情報に粗漏が多く、未知の機雷堤が数多くあったのだ。しかも島が見えている状態でありながら航法を誤るといった初歩的なミスがあり、まず『ゲーベン』が触雷する。
損害は小さくなかったけれども、致命傷ではなく、作戦の継続は可能であるとして、両艦はさらに進撃し、インブロス島へ近付いて、所在のモニター『ラグラン』 Raglan と『M28』に砲撃を浴びせた。
いかに14インチ (36センチ) 砲を装備しているとは言っても、2門しかなく移動目標との戦闘など想定されていない陸上砲撃用のモニターでは、巡洋戦艦の敵にはならず、一方的に破壊されている。さらに灯台、無線所などが攻撃され、まったく予想していない砲撃を受けた連合軍は、大慌てで対抗戦力をかき集めようとした。
このとき、こうした攻撃に備えて待機していたはずの戦艦『ロード・ネルソン』と『アガメムノン』は、エーゲ海西部のサロニカに後退しており、現地に有力な水上戦力は存在していなかったのだ。
攻撃を終え、次の目標を求める段になって、航法装置におきた故障のために作戦は放棄され、海峡へ戻ることになった。ここで艦隊は島から離れすぎ、濃密な機雷原へ踏み込んでしまう。
まず『ブレスラウ』が触雷し、一時的に行動不能となって漂流を始める。やがて後進をかけるが不運にも機雷堤をなぞるように流されたため、次々に触雷を繰り返してしまい、さしも頑丈な軽巡洋艦も耐え切れず、4発の機雷を爆発させて急速に沈没した。(5発とする資料もある)
これを援助しようとしていた『ゲーベン』も触雷し、『ブレスラウ』が沈没してしまったことから生存者の救助を呼び寄せた駆逐艦に任せて帰還しようとする。しかし、連合軍側の駆逐艦が攻勢に転じたため、劣勢なトルコ駆逐艦では『ブレスラウ』の沈没地点に接近できず、救助は断念されて、生存者はすべて連合軍によって拾い上げられた。
来た道をたどって海峡へ戻ろうとする『ゲーベン』だったけれども、最初に触雷した機雷堤でまたも機雷にぶつかり、合計3発が船体に大穴を開けた。それでも内部に致命的な損傷はなく、『ゲーベン』は安全な海峡内への撤退に成功する。
しかし、ナガラの屈曲部を通過する際、転舵地点を誤って砂州に乗り上げ、動けなくなってしまう。このとき、トルコ軍側にはこれといって送れる援軍がなく、連合軍にも手近に強力な戦力がなかった。
トルコ軍は可能な限りの艦船をかき集め、なんとか『ゲーベン』を砂洲から引き下ろそうとするが、連合軍の爆撃による妨害もあり、なかなか成功しなかった。
ようやく26日になって、旧式戦艦『トゥールグット・レイス』が到着し、『ゲーベン』に対して前後逆向きに横付けして短い曳航索を繋ぎ、スクリューの発生させる水流を『ゲーベン』の擱座している艦首底へ送り込む。この方策が功を奏し、『ゲーベン』はようやく海底から離れ、コンスタンチノープルへ引き上げることができた。
▲連合軍
目の前に好餌をぶらさげられた連合軍だったけれども、海峡内をナガラまで侵入するのは、駆逐艦にはとうてい不可能なことであり、ガリポリ半島の反対側からではモニターによる間接射撃もできない。近くに出撃準備を整えている潜水艦もいなかった。
そこでまず、偵察や散発的な陸上攻撃に従事していた航空機がかき集められるものの、付近に飛行場がないため存在するのは水上機だけだった。当時、現地に所在していた水上機母艦はなく、水上機部隊だけがムドロス島に展開していた。その運用する機体は、当時でも若干旧式に属する機体であり、しかも用意されていたのは陸上爆撃用の小型爆弾しかなく、甲板に装甲を持つ『ゲーベン』に致命傷を与えるのはほとんど不可能だった。
しかし、水上機の運用海面はガリポリ半島の外側でトルコ軍側からの脅威がなく、基地が脅かされる心配はなかったから、とりあえず作戦可能な機体が片っ端から投入されたのである。このころにはトルコ軍の敷設した機雷や防潜網の外側に、連合軍が敷設した潜水艦防御網があったため、枢軸軍側も潜水艦による海峡突破ができなくなっており、水上機母艦はまったく安全だったから、こちらも近辺にある艦がかき集められる。
海面から飛び上がった攻撃機は、低いガリポリ半島の山を飛び越え、すぐそこで動けなくなっている『ゲーベン』を爆撃しては基地へ戻り、爆弾と燃料を補給して再出撃できる。
これに対して『ゲーベン』は、4門の88ミリ高角砲で対抗するが、やがてトルコ軍の戦闘機も参加し、熾烈な空中戦闘が始まった。
1月20日には4機が爆撃したものの命中させられず、翌日に行われた4波の攻撃も、わずかに112ポンド (50キログラム) 爆弾1発を命中させられたにすぎない。さらに二日間、戦闘機の援護のもと、昼夜にわたって攻撃が繰り返されたが、強力な防御対空砲火に阻まれて有効な攻撃ができなかった。この中では攻撃機が1機撃墜されている。
結局20日から24日にかけて、イギリス海軍航空隊 (RNAS=Royal Naval Air Service) は200ソーティを超える出撃を行い、合計15.4トンの爆弾が投下されたけれども、命中した爆弾は小さなものが2発だけで、ほとんど効果はなかったのである。
『ゲーベン』が動けないのだから、魚雷を使えれば確実に命中させられるのだが、その準備がなく、大急ぎで到着した『アーク・ロイアル』 Ark Royal から14インチ (36センチ) 魚雷を積んだショート水上機が出撃したものの、低性能の機体は重い魚雷を積むと離水できず、いたずらに海面を走り回るだけだった。
24日には『エンプレス』 Empress が加わり、翌日には18インチ (46センチ) 魚雷を積める新型機を載せた『マンクスマン』 Manxman が到着したけれども、その日は天候が悪くて飛べず、26日には『ゲーベン』が離礁に成功してしまい、ついに凱歌が上げられなかった。
この事件は、動けない主力艦に対して200ソーティもの航空攻撃が企てられながら、戦史上はほとんど無視されている。この失敗は航空機による主力艦攻撃は難しいという結論を導いた可能性が高く、後にアメリカのミッチェル将軍が試みた実験の、いわば反論されるべき母体となった戦訓ではないかと思われるのだが・・・
また、急派されたイギリス海軍の潜水艦『E14』は、28日になって海峡へ到着したものの、すでに『ゲーベン』の姿はなく、付近に残っていた機雷戦艦艇に向けて魚雷を発射したけれども、魚雷は沈船に当たって爆発し、集中反撃を受けた『E14』は陸上砲台からの砲弾が命中して撃沈された。生存者は9名である。
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