ゲーベンが開きし門
第四部・第四章
The Goeben opens the gate : part 4 : chap.4



a gallant figure

『ゲーベン』の雄姿



第4章・家路

■"Two lone ships"より

 8月に突然、私はドイツ海軍省から、ロシアとドイツの間で実行された敵国系民間人の交換作業の結果として、両親がベルリンに到着しているとの知らせを受けた。私はすでに7年、両親の顔を見ておらず、彼らがまだ生きているのかどうかさえ知らずにいたのだ。
 休暇を与えられた私は、オデッサを経由してベルリンへ向かい、列車で三日間の旅の後、両親に再会したのである。再開の喜びは大きかった。そのときの私は、二つのナップザックにいっぱいの食糧品を背負ったままで、まるでクリスマスの神父さまのようだと言われた。

 10日間の休暇はあっという間に過ぎ去り、私はまた両親に別れを告げ、さまざまな荷物を背負って同じ鉄道の列車に乗り、セヴァストポリへと戻ったのである。またもや兵役に戻ったのだが、それは長く続かなかった。
 忘れもしない11月11日、夜勤に詰めていた同僚が午前4時に、ナウエンの無線局からの、労働者評議会発とされたニュースを受信したのである。
 ドイツ本国で革命が勃発していた。皇帝はすでに国外へ出たという!

 これは不意を襲った爆弾のように、私たちに衝撃をもたらした。電文はすぐにホプマン海軍中将へと送られる。もちろん、無線局は大忙しとなり、殺到するニュースに埋もれながら、私たちはドイツで何が起こっているのかに聞き耳を立てている。
 しかし、まるで拷問にあっているかのように確かな情報は送られてこず、革命の詳細なニュースが伝えられたのは、翌日になってからだった。陸海軍の将兵たちは、ようやく祖国に何が起きているのかを知らされた。フィールド・グレイの部隊も、海軍の水兵も、共に革命のニュースを冷静に受け止めている。

 まず考えなければならない最も重要な問題は、ロシアとコーカサスに展開している占領軍の撤退である! この見解は一致しており、とりあえず他の問題は後回しになった。この撤退に対して生まれるだろう潜在的な危機が、私たちを一致団結させていたのだ。
 ドイツ軍各部隊の集結地はニコライエフとされ、兵隊はそこからゴロビー Goloby へ移動させられる。そこには大きな単位のドイツ軍が集結し、南部ロシアからの列車が、次々に彼らを送り出すはずだった。

 革命のニュースがあってすぐに、兵士たちの間にも評議会が組織されたが、そこには階級的な軋轢は見られなかった。士官は相変わらず指揮を行い、尊敬を持たれている。セヴァストポリにあった部隊の行動は、遠いドイツへの旅路にあっても模範的だった。私たちは復員という大きな目標へ向かって、強く団結していたのだ。

 12月10日には、コーカサス全域に散らばっていた兵士がセヴァストポリを経由し、ニコライエフへ集合していた。そしてさらに、ドイツへと進んでいったのである。
 私たちの仕事の、最初の部分は目的を達していた。しかしまだ、次の問題がある。セヴァストポリの軍港には多くのロシア軍艦が停泊しており、要塞と共にこれを引き渡されようとしている連合軍が、いつ到着するのかは明らかになっていないのだ。

 すでに仕事はなくなっていたから、私は部隊から離れる許可をもらって、まずニコライエフへ渡り、ついで両親のいる家へと向かうことにした。私は幸運だった! 後に私は、ニコライエフからゴロビーへ向かって到着した、最後の復員列車に乗っていたことを知ったのである。
 ニコライエフ、オデッサ、セヴァストポリに残っていたすべてのドイツ兵は、サロニカの連合軍によって拘禁され、その本国帰還は半年も遅れたのだった。

 一日待たされた後、ニコライエフでは復員兵部隊の編成が行われた。それは海軍の兵士が中心で、若干の陸軍兵を含むおよそ850人からなっている。遠いドイツへの帰還は、すぐに始められた。
 だが、ニコライエフを離れた翌日、すでにそこには混沌とした状況が広がっていた。途中で立ち寄った駅には、ドイツ軍の衛兵はまったくおらず、鉄道警備隊は私たちより先に急いで立ち去ったようだった。すでにゴロビーへの道のりには、いっさいの保護がなくなっていた。

 うち捨てられた地域は、ウクライナ市民軍の部隊によって占領されつつあり、危険な状況とさらなる騒動が毎日のように発生していた。略奪を図る兵士たちが、私たちの武器に目をつけたのだ。
 駅にいたウクライナ市民軍の兵士たちは、私たちのライフルを置いていくようにと交渉を持ちかけてきたが、その提案を受け入れるわけにはいかなかった。彼らはそれを、ボルシェビキやポーランド人に対抗するために、ぜひとも必要だと言う。彼らは私たちほど幸運ではないのだ。

 しかし私たちも、いかなる代償を提示されたにしても、武器を手放すわけにはいかなかった。これを失えば、ドイツまでの長い道のりで、私たちの通過に反対しようとする勢力に対し、意志を貫く手段がなくなるのである。
 彼らは腹を立て、あらゆる手段で私たちの行動を妨害しようとしたけれども、さすがに列車を襲撃することだけはできなかった。

 それから8日間、それぞれに50ないし60人が乗った貨車での旅行を続け、そこでなんと私たちは、現在位置がオデッサから80ヴョールスタ (露里・約85キロメートル) しか離れていないことを知った。私たちがまともな地図を持っていなかったから、ウクライナ市民軍は鉄道員と手を握り、列車をぐるりとひと回りさせたのだ。
 これはちょっとヤバイ状況だった。私たちはこの8日間、不快な取引に耐えながら、なんとか結果を手に入れようとしていたのだ。それがまったく無に帰する寸前なのである。部隊には自暴自棄と無気力が芽生えてきている。そのため、このまま通過することを諦め、別な路線から北へ進むことにした。私たちはすぐに経験から学び、次の駅で地図を入手した。

 このときの機関車はロシアのもので、ロシア人の機関士と火夫の横には、青い海軍の軍服を着たハノーヴァー出身のドイツ人機関士が、リボルバーを持って乗っている。ボイラーは薪を焚いていた。
 ハノーヴァー人の機関士は、確実に私たちをドイツへ近づけてはいるが、およそノロノロとしか進まない機関車を、「ロバ爺さん」と命名していた。

 貨車の戸口には軽機関銃や重機関銃が据えられ、いかなる瞬間にも油断なく防衛の準備をしていた。この状況では、徹底的な警戒が欠くべからざるものだったのだ。駅に着くときにはいつでも、機関銃は貨車のドアに構えられ、次の駅へ進むための交渉を始める代表団を、じっと見詰めている。
 すでに周囲の土地は、かなりが雪に覆われており、列車は昼夜を分かたずに進み続けた。夜、私たちはいくらかのまとまった休息を取るために、周囲に何もない線路上に停車し、数時間の睡眠をむさぼった。

 列車の周囲には見張りが配置され、ようやく安心して眠れるのだった。時にはロシア鉄道の本線上に6時間も停車し、ほとんどの兵士が眠りにつくこともあった。たいていはライフルを握ったままで、数分間うつらうつらするのが精一杯だったのである。
 私たちはどんな瞬間にも、攻撃に備えていなければならなかった。小さな村を通りかかったときに、最近通ったドイツ兵がどんな苦難に陥ったかを、村人から聞かされていたからだ。緊張を続けることは難しかったけれども、常に警戒を怠らないことは、絶対に必要だったのだ。

 12月25日に、私たちは給水のためにボルチャ・ポチュタの小さな給水所に止まった。そのとき、ドイツ人の機関士はほんのわずかな間、機関車を離れた。その一瞬の隙をついて、ロシア人の機関士は自分の機関車を切り離し、逃走したのである。あれほどの用心をしていたにもかかわらず、私たちは混沌の中へ取り残されてしまったのだ。
 どうしようもなかった。
 それは夕方の6時ころだっただろうか、私たちは途方にくれていた。いずれにせよ、この周辺にいるだろう勢力は、私たちの存在を聞きつけて行動を起こすに違いないし、夜中に攻撃してくることが十分に予想できたから、私たちは戦う準備を始めた。機関銃は適所に配置され、見張りが立てられる。

 線路の左側には、膝の深さまで雪に埋もれた平坦な土地が広がっており、右側には森が迫っている。開けた方角は簡単に見通せたけれども、森には見張りを配置しなければならない。結局、衛兵の列が列車の全長に渡って並行に配置された。
 しかし、夜は何事もなく過ぎ去った。ボルチャ・ポチュタにはいくつかの路線があるが、私たちの進みたい方角には一本しか線路はない。これまで、どんな列車も私たちを追い越していなかった。

 翌朝の8時、機関車が一両の貨車を引いて近付いてきた。ロシア人は私たちのことを知り、隣の駅、ジメリンカから交渉人を、私たちのいる駅へ送ってきたのだ。私たちもまた、代表団を選出して、ロシア人と交渉する以外に道はなかった。私はその中の一人に加えられた。
 私たちは彼らの貨車に乗ってジメリンカの駅へ行き、その二等待合室へ招き入れられた。そこには労働者と兵士の評議会が待っており、交渉が始められる。

 ロシア人は言う。「ポーランド人やボルシェビキの暴力に対抗するためには、どうしても君たちの持つ武器が必要なのだよ」
 別なロシア人も口を挟んだ。「武器を引き渡せば、君たちを間違いなく、無事にゴロビーへ到着させるさ。神に誓うよ」
 しかし、ここまで途中で出会った人々から聞いたように、すでに通過した復員列車では略奪が行われ、ドイツ兵が身ぐるみ剥がれたという事実があった。私たちの態度ははっきりしている。要求は容れられない。

「私たちも、あなたがたと同じ労働者階級の者だ。私たちはただ、妻や子供たちの待っている家へ、無事に戻りたいだけなんだよ」
 これもまた無力だった。彼らも負けず劣らず強情であり、私たちの武器を要求する態度を変えなかったのだ。
 ロシア人は続ける。「これまでに通過した列車のドイツ兵は、武器を引き渡して国へ帰ったんだ。なぜ、君たちは同じように振舞わないのかね」
「もう、戦争は終わったんだぞ」

 交渉は4時間に渡って続いた。結局、私たちは皆と相談するからという口実で交渉を打ち切り、列車に乗ってもとの場所へ戻った。
 夕方、ロシア人の代表団が、私たちの返答を受け取るために訪れた。私たちは、翌日の武装引渡しに同意すると返事をして、彼らを帰らせた。彼らはこれに満足し、自分たちの機関車で20分ほど先のジメリンカへ戻っていった。

 夜を迎え、私たちは見張りを配置した。不意を突くために囲まれていないか、パトロール隊をかなり遠くまで派遣することさえした。相変わらず通りかかる列車はない。
 そして、夜中に奇妙な行動が始まったのである。全員が列車から降りて、これを押しはじめたのだ。目的地はジメリンカの駅である。私たちは上手い具合にラードを手に入れており、軸受に塗ってあった。

 貨車はとてつもなく重く、まったく動かないようだった。しかし、全員の力が合わさると、列車は少しずつ進みだしたのである。這うように動く列車に先行して、200メートル先を4基の重機関銃を装備したピケ隊が移動し、いかなる襲撃も撃退する準備をしていた。
 もちろん、悟られないようにできるだけ静かに進んでいた。まったく、車輪がレールの継ぎ目を踏むカタンカタンという忌々しい音が、このときほどうるさく思えたことはない。しかし、目論見は成功した。線路が平坦であったことは運がよかった。

 およそ4時間後、午前4時には、私たちはジメリンカから400メートルにまで近付いていた。重機関銃隊は、もう駅に手が届くほどだ。それから列車の側面に軽機関銃が配置され、駅全体が占拠されるのにどれほどの時間も必要ではなかった。
 状況に気付いたロシア人は、それを超能力か、あるいは悪夢だと思ったに違いない。彼らは、この事態をまったく予測していなかったのだ。ロシア人の鉄道警備員は駅を離れて、裏の自宅で平和に夢をむさぼっていた。それゆえ、私たちの接近にまったく気付かなかったのである。こうして、ロシア人のポーカーテーブルは、まったく傷ひとつなしに覆されたのだ。

 市民軍の兵士たちは誰一人、駅へ近付くことを許されなかった。その言葉に耳を傾けてももらえなかった。駅にいた全員が武装解除され、隅っこへ追いやられる。派遣された捜索隊は、一番状態のいい、高性能の機関車を選んで、私たちの列車に連結した。
 事前に定められた合図が打ち鳴らされると、全員が列車へ駆け寄り、飛び乗るなり発車する。私たちは次の目的地、プロスクロを目指した。
 5分後に列車は一時停車し、テレグラフの電線が切断される。しばらく進んでから、私たちはもう一度同じ手順を繰り返した。

 プロスクロに列車が到着したとき、ウクライナ市民軍はまったく何もできなかった。すでにいくつもの機関銃が、彼らに狙いを定めていたのだ。この策略によって、私たちは20分以内に次の機関車を見つけ出し、さらにロヴノ Rowno へ向かって出発した。
 そしてついに12月31日の19時、私たちはそれ以上妨害されることなく、ゴロビーへ到着した。ここはまだドイツの勢力下で、ドイツ人の鉄道警備隊がおり、ようやくわずかながら自分の身の回りに気を遣う余裕ができた。

 私たちの体は、およそ想像したこともないレベルで、有害な寄生虫に覆われていたのだ。このしつこい連中は、旅の間じゅう、私たちの精神と肉体を苛み続けているのである。
 体を掻くことと、シラミを潰すことに専念している間、トルコの戦友たちが、いかにしてシラミを殺さずに地面へ追い落とすかに苦労していたことを思い出さずにはいられなかった。彼らは、生き物を殺してはいけないという教義に忠実で、そのためにけっしてシラミを殺そうとはしないのだ。

 ようやく勝利への道筋が見えてきた今、私たちの願望はただひとつだった。眠らせてくれ!
 ほとんど死んでいるかのように、私たちは列車から降りようともせずに眠ってしまった。そして深夜、突然の一斉射撃の轟音で叩き起こされたのである。ほんの数秒の間に、全員が貨車から飛び降り、列車の下に這いつくばって防御態勢をとっていた。
 ゴロビー駅は大きく、いくつもの待避線を持っている。復員列車はそのひとつに引き込まれていた。いったい、どんな問題が持ち上がったのだろう。誰が、どこで撃っているんだ?

 いくつかの人影が、私たちの待避線へ近付いてくる。それは暗闇の中に、ぼんやりと見えるだけだった。明るい光の尾を曳いたロケットが打ち上げられ、その光で、私たちはフィールド・グレイの制服を識別できた。
「そこにいるのは誰だ! 答えろ! さもなければ発砲する!!」
 影は答えた。「何をカリカリしているんだい? だいたい、こんなところで何をやっているんだ?」
「攻撃を受けているんじゃないのか? でなきゃ、なぜ発砲したんだ?」

 堂々とした体格の国境守備隊員 Landwehr が答えた。「おいおい若いの! なぜって今日は大晦日だろうが! 今、ちょうど12時だ。俺たちは新年を迎えたんだよ!!」
 私たちは、互いにきょとんとした顔で隣の顔を見詰めていた。
 「たしかに、そうだ!」
 確かに今日は大晦日だった。私たちは国へ帰ることばかりを考えていたから、誰もそのことに注意を向けていなかったのだ。それから大騒ぎが始まった。

 ライフルが空へ向けてパンパンと撃ち放たれ、あちこちで手榴弾が爆発する。機関銃がバリバリと夜の空気を打ち砕き、真っ暗な空をひび割れだらけにして、けたたましい悲鳴を上げるロケットが飛んでいく。あたりは光に満ち、熟した果実がはじけるように、パチパチとはぜる花火の粒が降り注いできた。そして私たちは、ゴロビーで1918年に別れを告げたのだ。心はすっかり軽くなり、私たちは貨車へ戻ると、朝になるまで完璧に眠りこけたのである。

 翌日、私たちはゴロビーの兵士と話し合った。彼らは私たちが偉業を達成したことを祝い、まだここを通過した復員列車がほとんどないことを教えてくれた。この撤退は、確かに多くの悲劇を伴ったのだ。
 復員兵を乗せた多くの列車が、ゴロビーへ進む間に武器の引渡しを強要されていた。そして他の部隊も、しばしば大激戦を戦わなければならなかったのである。帰国途上で死亡した兵士は非常な数に上る。

 ドイツ軍部隊は、南部ロシアから離れる間に散り散りとなり、多くの悲劇を生んだ。その撤退は、それまでの威厳に満ちた進撃とは裏腹に、陰惨なものになった、さらにそれは、鉄道警備隊が姿を消したことでいっそう悲惨になり、ロシア人の、それぞれに独立した軍隊がドイツ軍の武器に目をつけ、これを手に入れようとさまざまな策略をめぐらせたことで、しばしば破局を導いたのである。

 1月2日、私たちは旅を再開し、コヴェリ、ブレスト・リトフスクを経て、ローツェンに到着した。
 ついに、ドイツの地へ戻ったのだ。




The replica of Nusret

チャナッカレ近くに展示されている、機雷敷設艦『ヌスレット』のレプリカ




★参考
 この復員行のルートは、私が当時の鉄道地図を持っていないので正確にたどることができないし、原著者の記述が完全に間違っていないという確証もない。都市名のスペルは英語式で、ウムラウトの省略があるかもしれず、ロシア語表記は不明である。
 推測するところでは、いったんオデッサ近くまで戻っているようだから、オデッサから北西へ伸びる鉄道をたどったと思われる。ジメリンカ Schmerinka、ロヴノ Rowno、コヴェリ Kowel、ブレスト・リトフスク Brest-Litowsk といった地名は、若干表記にずれはあるものの、ほぼそれと思われる都市が現在のウクライナ北西部とベラルーシにあり、このルートの延長上に見られるものの、ゴロビー Goloby は見付からない。(アルファベットは原英文のまま)

 東大戦史研の古賀氏によれば、ローツェン Lotzen は、おそらくレッツェン Lo:tzen ( o の上に点が二つ付く) で、現ポーランド北東部の都市名と思われる。名前は大きく変わってしまって、現在はギジツコ Giz`ycko ( ` は z の上につく) だとされる。またロシア語とドイツ語の間では、HとGの取り違えもしばしば起きるようで、ホロビー Holoby という地名が該当地点にあるから、おそらくはこれが文中のゴロビーだろう。

 ブレスト・リトフスクはベラルーシのポーランドとの国境に近い町で、ワルシャワまでは200キロメートルに足らず、危険なワルシャワを経由せずにドイツへ向かうため、北へ迂回して、当時はドイツ領だったバルト海海岸地方へ道をとったと思われる。
 また、途中で列車を乗り換えたという記述は見られないのだが、ブレスト・リトフスクの先ではポーランド領に入ったはずであり、軌道幅などの関係で、貨車がそのまま進めたのかにも興味が持たれる。

 西部戦線のドイツ軍と異なり、ロシア軍に勝利した東部ドイツ軍は、戦いに負けたという実感を持っておらず、勝った意識のままで撤退を命じられている。誰も武装解除する者がいなかったから、運べる限りで武器を持ったままだったし、おそらくはその行動の過程において、自尊心に源を発する衝突を繰り返したのだろう。
 一方のロシア側は、革命の混乱の中でさまざまな勢力がぶつかりあって殺戮が繰り返されているため、不必要になったはずのドイツ軍の武器が、非常な注目を集めたと思われる。

 連合軍は、彼らを足止めすることで混乱の中へ放逐するような事態を避けようとしたらしいが、すでに出発してしまっていた部隊は、その携帯する武器を狙われて襲撃されたようだ。「恨み重なるドイツ軍」といった感情もあったのだろう。原著者たちがルーマニアやポーランドの横断を避け、できるだけロシア領を経由して、最も近いドイツ領へ向かっているのは、こうした状況を裏付けていると思われる。

 一方、セヴァストポリ軍港に集められた元ロシア黒海艦隊を構成していた軍艦が、こうした勢力争いに巻き込まれてしまえば、連合軍はそれへの対処に非常な困難を覚えることになる。そうした事態を避けるため、彼らはこれらの軍艦を沈めはしなかったものの、機関などの心臓部を修理できないレベルで破壊し、抗争の具にされないようにしてしまった。資料には、蒸気シリンダーの中に爆薬を仕掛けて破壊したというような記述が見られる。

 また著者は、新年を迎える日付に気がついていなかったと言っているが、この当時、ロシアではユリウス暦を用いていたはずで、グレゴリオ暦のドイツとでは13日ほどずれているため、ロシア国内ではすぐに新年を迎えるという意識にならなかったのだろう。ゴロビーはロシア領内だから、周辺はまだ12月18日あたりだったはずだ。彼らはソヴィエト連邦になってようやく、グレゴリオ暦を採用したとされている。

第4章終わり



to previous  前へ 次へ  to next



―*― ご意見、ご質問はメールまたは掲示板へお願いします ―*―

スパム対策のため下記のアドレスは画像です。ご面倒ですが、キーボードから打ち込んでください。

mail to



to wardroom  士官室へ戻る