地獄の番犬ケルベロス(1) The Life of HMVS Cerberus (1) |
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●HMVSは Her Majesty Victorian Ship の略です。大英帝国ヴィクトリア植民地軍艦とでも訳すのでしょうか。 このページは、2001年3月から4月にかけて「海防史料研究所」掲示板に連載したものです。それ以後、さらなる資料を入手しているのですが、とりあえず原形のまま掲載いたします。 現在、オーストラリアには防波堤となっている本艦の保存計画があり、関係者がホームページを立ち上げて支援活動を求めています。 もちろん日本語のページはありませんので、古い原稿ではありますが、サーベラスのページを作成することでその存在を知らしめ、活動の援助になればと考えました。今、リンクの可否について照会中ですが、末尾に一方的なリンクを掲載しておきますので、ご参照ください。 |
オリンピックの喧騒も去った、オーストラリアの南端に近いメルボルンの町外れ、そろそろ肌寒くなってきたサンドリンガムの海岸に、赤錆びた異様な物体がいくらか傾いた様子で横たわっている。満潮ともなれば、その姿はほとんど海水に漬かってしまい、打ち寄せる波に叩かれるままだ。この物体がここへ据えられてから、すでに四分の三世紀が経ようとしているけれども、その形はほとんど変わっておらず、物体がことのほか堅牢であることを示している。
近寄ってみれば、これが異形ではあっても元は船だったと容易に理解される。形はまさに船舶のそれそのものなのだ。甲板には船を岸壁へ繋ぐための、あたりまえの装備が取り付けられているし、先端の波切りは見間違えようがない。
黄色く塗られた大きな板が目につく。「注意!」と大書された看板には、危険だから立ち入るなと書かれている。この「元は船である物体」の上に立てば、足下の板張りは朽ち果て、木材がはがれて鉄板がむき出しになっている。開口部には網が張られ、内部は暗くてようやく覗けるだけだ。目を凝らして覗き込んだ円筒形の不可思議な構造物の中には、巨大な大砲が眠っていた。
時は19世紀半ばへ戻る。オーストラリアがイギリスの植民地として栄えはじめた頃、まだオーストラリアという名称は一般的でなく、それぞれの地方は、それぞれの独立した植民地として存在していたのである。彼らがここへ来たのはずいぶんと昔の話になるが、それはここでの主題ではない。メルボルンを中心とするヴィクトリア植民地はそれなりに繁栄しており、そろそろ金庫にカギを掛ける心配をしなくてはならなくなっていた。
新しい要塞の構築が計画されたものの、これを町に近接して造るか、湾の入り口にあるものを強化するかで意見が分かれる。ポート・フィッリップ Port Phillip 湾の入り口を抑えれば、メルボルンばかりでなく、湾内の他の村も防御できることになるからだ。町の近くへ要塞を作っても、広い湾内に上陸できる場所はいくらでもあるのだから、射程外から迂回されるだけだとする主張が一方にある。
しかし、すでに蒸気船が実用化されていた当時では、軍艦はほんの二、三回の砲撃を受けるだけで、致命傷を被らずに湾口の要塞の射程を通り抜けてしまうだろうという見解もあった。そうなれば敵艦に手が届かなくなるばかりでなく、要塞の守備兵は町の防衛に寄与できなくなってしまうのだ。砲の数を増す解決もあるだろうが、必要な人員も増えてしまい、人口の希薄な植民地には荷が重い。
当時の大砲は射程が短く、装填にかかる時間が長いために、実効力のある戦力とするには条件が厳しかったのだ。協議はまとまらず、時間だけが過ぎていく。
そうこうしているうちに、メルボルンはロシア巡洋艦の訪問を受ける。巡洋艦は高らかに礼砲の砲声を轟かせながら湾内へ入ってきたが、返礼をするべき要塞は沈黙したままだ。なんと、彼らはそのための準備をしていなかったのである。弾薬庫にはカギが掛かり、そのカギを誰が持っているのかさえ定かではない。こんな場合に当直はどうすればいいのか、それすら誰も知らなかった。
礼を返されなかったロシア人は、さすがに「礼儀知らず」と罵りはしなかったけれども、ニヒルな笑い顔には、「田舎者め」と書いてあるようにしか見えなかった。答礼のなかった理由を正式に尋ねられた当局者は、顔を真っ赤にしてしどろもどろの言い訳をするしかなかったのである。
大慌てで陸海両軍からなる委員会が設けられ、いくつかの事例が研究される。湾口の要塞と、これに協同する浮き砲台の建造が、最も効果的だろうと結論された。これに同意したヴィクトリア政府は、イギリス本国と意見を交換し、1863年に造船所から見積もりを提示させている。残念ながらこの時に提案された軍艦の詳細は不明なのだが、当時の雑誌には「コールズ艦長の砲塔艦」の図などが掲載されている。
計画は、両政府の政権交代などによって遅滞し、時代遅れの木造艦を押しつけようとする本国政府と、最新型の装甲艦を要求する植民地政府は、なかなか接点を見出だせずにいた。
アメリカ南北戦争の終わり頃、南軍の通商破壊艦『シェナンドー』 Shenandoah が、メルボルンへ入港する。彼らは船体の修理と物資の補給を要求し、町はこの要求を撥ねつけられなかった。
アメリカ南北戦争に対して、厳正な中立を維持するという本国政府の言明は無視され、修理と補給が行われると、たっぷりと休養し、ここで雇われた乗組員の補充までした『シェナンドー』は、三週間後に出港して作戦を続行した。
この行為、否、止めようとしなかった政府の無作為は、後にアメリカ政府からの抗議の対象となり、他の事例も含めて、7年後に387万5千ドルという賠償金支払いへ繋がった。ヴィクトリア政府は、断ろうにもそれだけの軍備はなく、言いなりになるしかなかったのだと申し立てた。植民地軍は、たった一隻の巡洋艦にすら対処できなかったのである。
●ポート・フィリップ湾は、オーストラリア東南端とタスマニア島に挟まれたバス海峡に面しています。かなり広い湾で、日本で言えば伊勢湾くらいにあたるでしょうか。形状も東西をひっくり返したような形で、似ていなくはありません。メルボルンはちょうど名古屋の位置にあります。 |
懸案となっていた問題でもあり、1865年4月7日、イギリスはすべての植民地に対して、軍事用の船舶を建造、整備する権限を与えることとなった。「植民地海軍防衛法」 (Colonial Naval Defence Act) の制定である。これに基づく軍艦は、本国の予算で建造され、植民地に貸与されて、植民地の予算で維持、運用されることになった。戦時には本国海軍の指揮下へ入るものとされている。
「メルボルン港防御のための軍艦」の設計は、ヴィクトリアの希望を入れ、海軍の主任設計官リード E. J. Reed へ委ねられる。こうして、当時最新鋭とされた軍艦が建造されはじめた。船体の建造費は117,556ポンド。ヴィクトリア政府は、1万2千ポンドほどで砲と砲架を調達した。砲弾は、鋳鉄のものが一個あたり2ポンド、鋼鉄のそれは12ポンドの価格である。
これこそ、130年を経た今、サンドリンガムの海岸に横たわる廃船の正体なのだ。その名を『サーベラス』 Cerberus と言う。神話に登場する、頭が三つ、尾が蛇になっている地獄の番犬ケルベロスの英語名である。
リードはこれの設計に当たって、自国で開発されたコールズ式砲塔と、アメリカ南北戦争で活躍した『モニター』 Monitor の設計を融合しようとした。
船体は『モニター』に比べて遥かに大きいが、同じように乾舷は非常に低い。常備状態では90センチほどしかなく、波があるか前進するかすれば、甲板は簡単に水浸しになる。これは敵艦からの標的面積を小さくするためで、『モニター』では30センチほどだった。
エリクソンが設計した『モニター』では、この低い船体の上に円筒形の砲塔を直接乗せていたのだが、リードが採用したコールズの砲塔は、エリクソンのそれと違って円筒形の回転部分のうち、下半分を甲板下へ収容する必要がある。しかし、直径が8メートルもある穴を上甲板に開けるのは、乾舷が1メートルに満たないことと考え合わせれば危険過ぎるし、船体構造に大きな負担を掛けることにもなる。
そこでリードは、この砲塔をそっくり上甲板の上へ乗せ、下半分を装甲された上構で覆う方式を考え出した。この上構は船体としての強度を持っておらず、ただ強固な装甲で囲まれた空間を造り出すだけである。これをブレストワーク breastwork と言い、これゆえ、この種の艦はブレストワーク・モニターと呼ばれる。
ブレストワークは、重量を節約する目的と前後甲板間の交通を確保するために、両舷に通路を残した寸法とされ、砲塔の下半分を収容する必要から砲塔より大きな寸法を持つ。こうして船体、ブレストワーク、砲塔は、三段重ねのお供え餅のような積み重なった形状となった。
『モニター』の完成からは5年を超える歳月が経過しており、その間に砲は大きく進歩している。すでに『モニター』の装甲レベルでは不足しているのだ。そこで『サーベラス』は、船体に8インチ (203ミリ) から6インチ (152ミリ) 、ブレストワークに9インチ (229ミリ) の分厚い装甲鈑を張り巡らせた。砲塔も9インチの装甲で囲まれているが、正面だけは10インチ (254ミリ) とさらに厚くされている。
『サーベラス』が『モニター』の三倍の大きさを持つのは、これだけの装甲鈑の重量を浮かばせなければならないからでもある。その砲塔も二つあり、新型の大砲であることも考慮すれば、攻撃能力は三倍を大きく超えるだろう。
砲塔は前後の中心線上に一基ずつ置かれる。ブレストワークは前後の砲塔の基部を繋いでひとまわり大きく囲う小判型の平面とされ、長さは34.3メートル、幅は10メートルよりいくらか大きい。これは上甲板から2.1メートルの高さがあり、その上に突き出す砲塔は高さが2メートルに満たなかった。まったくの円筒形だから、正面をいくらかでも外れた砲弾は、装甲鈑へ斜めに当たる形となって容易に跳ね返されてしまう。
『サーベラス』にはさらに、艦内のタンクへ海水を導入し、乾舷をいっそう低める仕掛けがあった。こうすれば標的面積はずっと小さくなり、装甲鈑は水中深くまでを覆うことになる。またこれは、浅瀬の多い湾内での行動に不可避な、座礁からのリカバリーを自力で行い得る特性でもある。ジャッキを内蔵しているようなもので、タンクの水を排出すれば簡単に離礁できるのだ。
船としての長さは68.6メートル、幅は13.7メートルあり、常備排水量は3,344トン、満載では3,400トンを越える。吃水は4.7メートルあり、『モニター』よりはずっと深いけれども、攻めてくるであろう航洋軍艦よりはかなり浅く、行動の自由は大きい。スクリューは二つあり、左右の回転数を変えるだけで向きが変えられるから、機動力の大きな助けとなっている。『モニター』が1軸で、運動性の悪かったことからの改良だろう。
機動力の源泉となるエンジンは、往復動の蒸気機関が2基装備されたが、合計出力は1,369馬力しかなく、平水無風でも速力は10ノットに満たない。まあ、洋上を走り回るわけではないので、これでも足りると言えるのだが。石炭の搭載量も210トンしかないから、幾日動き続けられるものでもない。
やはり『モニター』同様、帆装は見捨てられた。長い航海は考えられず、主に湾内で動き回るだけだから、必要がないとされたのだ。少ない乗組員では扱いきれもしないし、そのために乗組員を増やそうにも、乗る場所がないのである。
帆柱がなくなったことによって、甲板上の砲塔からは射撃の邪魔になるものもなくなった。その姿は帆装軍艦を見慣れたものからは異形でしかなく、これをまったく新しい軍艦と捉えるか、奇形のゲテモノと見るかは意見の分かれたところだ。
建造はタインのパルマース社へ委託され、1867年9月1日に起工されている。1年を幾らか超えて、1868年の12月2日には進水式を迎えた。
1867年といえば、前年にはオーストリアとイタリアの間で戦われたリッサの海戦が行われており、ここでは衝角が猛威を振るっている。砲撃で装甲が打ち破れず、体当たりによってトドメを刺す戦法が成功したため、各国海軍に戦訓として取り入れられているのだ。
しかし、『サーベラス』には衝角がない。防御用の重装甲艦としては必須とも思われる装備のはずなのだが、リードはこれを設定しなかった。
これは、あまりにも乾舷が低いために、艦首の水線下へ突起物を設けると、前進した時に海水が上甲板へ上がってくるのが、コントロールできなくなるためではないかと考えられる。でっぷりと太った船型だから、艦首波は簡単に甲板を越えるのだが、それがいっそう酷くなってしまうのだ。甲板上を水が覆えば、その重量で艦首はいっそう沈下してしまうし、浸水の心配もしなくてはならない。復原力も悪化する。強力な砲を艦首正面へ向けて発射できることからも、あえて不利になる装備を採用する理由はなかったのだろう。
ここで、当時の一般的な航洋軍艦の性能を見ていただこう。つまり、『サーベラス』と撃ち合う可能性のある軍艦である。
まずは名前の出たものから。
アメリカ南軍・通商破壊艦『シェナンドー』・1864年完成(元は兵員輸送船)
排水量:1,160トン、全長:70メートル、木鉄混成船体、装甲なし、汽走速力:9ノット、武装:8インチ滑腔砲4門・32ポンド砲2門・12ポンド砲2門、乗員109人
ロシア海軍・汽帆装巡洋艦『アスコルド』 Askold ・1864年完成
排水量:2,200トン、全長:66メートル、木造船体、装甲なし、汽走速力:10ノット、武装:滑腔砲17門 (サイズ不明) 、乗員324人
ドイツ海軍・汽帆装コルベット『アリアドネ』 Ariadne ・1872年完成
排水量:2,039トン、全長:68メートル、木造船体、装甲なし、汽走速力:14ノット、武装:150ミリ砲6門・120ミリ砲2門、乗員233人
フランス海軍・汽帆装装甲艦『ラ・ガリソニエール』 La Galissonniere ・1874年完成
排水量:4,645トン、全長:78メートル、木造船体、装甲:舷側150ミリ・砲廓120ミリ、汽走速力:12.7ノット、武装:239ミリ砲6門・120ミリ砲4門、乗員352人
こんなところだろうか。当時、主力装甲艦を海外へ出している国はイギリス以外になく、フランスの二等級艦『ラ・ガリソニエール』が最大の強敵といったところである。この艦は極東に配備されていた。
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