地獄の番犬ケルベロス(3)
The Life of HMVS Cerberus (3)


as breakwater

防波堤となった『サーベラス』



 さて、新しいオモチャを手に入れたヴィクトリア政府は、当然これを見せびらかすのにご執心となった。『サーベラス』が、その旅装束を脱ぎ捨てている間にも、すでにお披露目の準備が進められていたのである。
 必要な乗組員は地元から集められたけれども、とうてい数は揃わず、ようやく任命された基幹乗組員は、パンター艦長の他に二人の砲術士、二人の機関士、六人の缶焚き、八人の水兵と二人の少年兵だけだった。これでは船が動かせないので、あちこちから臨時の人数がかき集められた。これでまともに動かせたら、たいしたものである。
 まず、錨を上げようとしたのだが、南西の手強い風に押され、人力のキャプスタンが回せない。船を錨の上へ進めなければならず、推進力を蓄えるのに約1時間が掛かり、その間待機させられた甲板の水兵たちはずぶ濡れになってしまった。
 仕事に追われたパンター艦長は、乗組員に食事の支度をしてやることをすっかり忘れている始末である。それでも彼らは、初めての乗り物に夢中で、さも陽気そうに見えたものだった。この日は視界が悪く、砲の試射はできないままとなった。

 翌日は、それでもいくらかマシだっただろうか。乗組員には帆装戦列艦『ネルソン』 Nelson から60人の水兵が派遣され、植民地議員も含め、砲撃に立ち会う許可を得た結構な数の乗客も乗り込んだ。ほんの少しばかりの火薬しか使わない儀礼用の発砲に過ぎなかったものの、観客はそれなりに楽しんだようである。この良き日は、ジーロングの手前で座礁してみせるという、ちょっとした見世物で締めくくられた。
 こうして『サーベラス』はヴィクトリア植民地の一員となり、長くこの地に在り続けることになる。その名の通り、任務は門番であり、もう一方では力の象徴だった。
 『サーベラス』の毎日は、これから数十年間にわたり、決まりきった日課を繰り返す日々となった。一年に一度行われなければならない、『サーベラス』も含んだ海軍の活動報告は、単なる書類の提出で事足りた。これは1880年代初期に国防評議会が設置されてからも、変わることはなかった。
 一年に一度の催しは復活祭の祝いである。演習が行われ、常に天候が問題になったけれども、志願者たちに大きなツケを払わせることもなく、信頼を損なわない範囲で終始している。行われる演習は一日か二日で、常に湾口の要塞との模擬戦闘だった。海軍の他の艦は艦隊運動をするだけである。
 艦隊の練度と整備状況の査察は、英国海軍の担当司令官が検査官となるのだが、そもそも彼の旗艦がメルボルンを訪れること自体が滅多になかったのだ。

 1874年9月のグーデナフ Goodenough 司令官の査察報告によれば、「完全に整頓されており、効率的である」とされた。しかし実際には、乗組員数はいざという時に十分な行動をするには少なすぎたのである。1875年には、『ネルソン』から16人を借り入れてさえ、ひとつの砲塔しか操作できなかったし、重い砲を操作するにはひ弱な少年が何人も含まれていた。
 1876年のホスキンズ Hoskins 司令官による報告に基づき、650ポンドが支出されて蒸気舵取り機が導入された。それまでの人力による操舵では、非常に多くの人手を必要とするという苦情が通ったのである。
 次に『サーベラス』は、英国軍艦『サファイア』 Sapphire の指揮官によって査察を受け、彼は「清潔で良好な状態に保たれ、エンジンもボイラーも完璧に整備されている」とした。彼は人員の不足に言及し、乗組員を確保することは、そもそも本艦が譲渡された条件だったはずであると注意を喚起している。ヴィクトリアの人々はこれを等閑視していた。この時には、蒸気動力による発電機によって電力を供給される探照灯が備え付けられている。
 その頃、高速の水雷艇によって運用される魚雷はすでに存在しており、脅威は増大しつつあった。対策として、舷側からいくらか離れたところへ鋼製の網を吊り下げる手法が開発された。魚雷はこの網に当たり、艦から離れたところで爆発してしまうはずである。1877年の査察報告では、この防御網の導入が勧告されたものの、実際に装備してみると速力が6ノットに低下してしまい、装備は取りやめられた。
 これに代わって、何門かの速射砲と機関銃がブレストワーク上に装備されている。見張り能力と射程を伸ばすために、マストにはファイティング・トップが取り付けられ、ガトリング、ノルデンフェルトといった機関砲が装備された。最後の手段としては、舷側にずらりと並んだ水兵が、接近する水雷艇に対してライフル銃を撃ちまくるという戦法まで考えられている。

●効率のよい発電機が開発される以前の探照灯は、電池式です。懐中電灯の親玉ですから、夜空を切り裂く光芒などという印象は持たないように。
 ファイティング・トップは、マストの中段に設けられた狙撃用のフラットで、水雷艇や衝撃戦法の普及に伴って予想された接近戦に備えるため、小口径の機関砲などが装備されました。「舷側に並んだ水兵」という戦法は冗談に聞こえますが、そういう訓練風景の写真が残されています。まあ、相手が持っているのは円材水雷であって、魚雷ではない時代の話ですけど。

 英国海軍の砲術士官が、『サーベラス』の乗組員を訓練するために派遣され、実地訓練の後で、彼等が砲を間違った方法で扱っていたことが判明した。次回のダグデイル Dagdale 士官による報告には、発射速度は非常に遅かったけれども、手順は正しかったと記されている。
 すべての訓練がどのように行われたかまでは判らないのだが、このような報告からは『サーベラス』乗組員の困難な業務も垣間見える。この砲塔は本来、蒸気動力によって駆動されるタテマエになっているにもかかわらず、蒸気が上げられることはまれで、たいていは手動による操作だったのだ。
 また、装薬は定量の半分もない量だったから、発砲した砲は定位置まで後座せず、装填位置までは手動のウインチで巻き戻さなければならない。これはウィリアムスタウンの住民たちからの苦情によって、全装薬での発砲が禁じられていたためなのだ。  発射速度が遅かったのは、このような理由によるのである。これから3年後には、片方の砲塔にしか配員されなくなり、同時に操作できる砲は1門に過ぎなくなっている。
 砲の再装填が完了するには、最も短い記録でも6分50秒が限度だった。これは非常に遅いと言える水準である。報告は、これが長期間にわたる砲術訓練の不実施によるものとしている。1879年8月には20発の射撃が行われたけれども、その前の射撃訓練からは実に18カ月が経過していたのだ。とうてい満足できる状況ではない。

●つまりは、査察であっても停泊したままで、通り一遍のことをやるだけだったということでしょう。なまじ人力で操作できるために、それをしなければならなかったとは、不運というしかないのでしょうか。
 この時代の巡洋艦では、砲塔などほとんどが装備していませんから、砲を人力で扱うのは当然であり、査察を行う側からすれば、なぜそんなに時間が掛かるのか容易に理解できなかったでしょう。
 当時の航洋艦が主用していたのは、最も大きいものが口径7インチ (178ミリ) 程度の前装施条砲で、砲の重量は6.5トンほどでした。『サーベラス』の10インチ砲には、18トンの重量があるのです。当時の砲塔の狭さを考えれば、観客用の席などありませんから、査察官は発砲作業中の砲塔内に入っていないと思われ、現実の状況を見てはいないと推測されます。単純に自艦の標準タイムと比べて、「なっとらん」なわけでしょう。
 もっとも上には上があるもので、砲廓で運用された最大の砲は、35トンの12インチ (305ミリ) 前装砲でした。これを人力で扱ったとされるのですが、状況は想像できません。ちょっとした戦車を、人力で押したり引いたりしているようなものなのです。

 1881年の復活祭演習において、不幸な事故が発生している。『サーベラス』の指揮とともにヴィクトリア海軍の司令を兼ねたマンデヴィル Mandeville 艦長は、機雷の敷設と爆発を実演しようと計画したのである。
 砲術士のグローブス Groves は、大きな機雷が爆発したところを見たことのある唯一の乗組員だった。何が起きたのか正確には判らないけれども、艦載艇がクイーンズクリフ Queenscliff 沖に機雷を仕掛けようとしていた時に、それが爆発してしまったのである。グローブスを含む6人が殉職した。
 その時には艦長も副長も艦に乗っておらず、査問委員会はこれを痛烈に批判している。「日常的な怠慢が、機雷の取り扱い方法から読み取れる。『サーベラス』の1881年3月4日と5日に行われた巡航は、植民地防衛のための能力向上目的というより、個人的な享楽が目当てだったように思われる」

 ボイラーにも問題が起きはじめた。ある報告では、ボイラーには50カ所ものツギが当たっていたとされる。何年も前から、計画圧力での運用は危険であると指摘もされていた。修理後も、4基のボイラーは 8 psi (平方センチあたり約0.6kg) の圧力しか掛けられなかった。12年前に建造された当初の 30psi になど、はるかに遠く及ばない。
 また砲塔の旋回用歯車にも故障が報告されているが、こちらの修理はまだ容易に思われた。ボイラーの修理は実が上がらず、これらはすべて換装されることになる。時代遅れの角型缶は撤去され、近代的な円缶がこれに代わった。
 その年のうちには一旦治まったのだけれども、1884年初頭にロシアとの戦争の危機が発生している。これによってヴィクトリア海軍には2隻の砲艦『ヴィクトリア』 Victoria と『アルバート』 Albert が派遣され、強化された。
 この年、1門の砲が発砲でひび割れてしまったのだが、たまたま太平洋にいた本国海軍所属の装甲巡洋艦『ネルソン』が同じ砲を積んでいたので、これを譲ってもらっている。
 艦隊は1885年4月になる頃、定例の復活祭訓練を行っている。メルボルンへ戻った艦隊が解散した直後、ロシアとの戦争危機が再燃し、深刻なものとなった。『サーベラス』も、その速力があまりにも低下していたためにドックへ入れられ、およそ50トンにも上るフジツボと海草が掻き落とされた。これによっても、最良だった時代の9ノットは回復しなかったとされる。結局、戦争は回避され、再び平和的な日常業務の繰り返しへと戻っていく。

●ボイラーの換装については、記述があるのはひとつの資料だけで、裏付けとなる資料がありません。簡単な工事ではないので、実際に行われたのかどうか疑問があります。

 就役から20年が近付く頃、メルボルン防御のための浮き砲台として、『サーベラス』の適性に大きな疑問が投げ掛けられはじめた。これは植民地防衛の必要から、臨時の編成としてだが英国海軍オーストラリア艦隊が創設されたことによる。また、数年間にわたる財源の減少に伴う防衛予算の削減が行われ、この二つの理由によって、特に海軍予算は大幅に減らされたのだ。
 1891年の復活祭演習で、乗艦した記者は『サーベラス』の甲板が塗装されているのに気付いた。これは甲板磨きを省略するためであり、鉄部の塗装も全般に雑で、あちこちに錆が浮いていた。揚げ句、ボートダビットの下にはクモの巣が張っていたのである。
 出港するとすぐ、蒸気舵取り機が故障した。ウィリアムスタウンへの帰途では、乗り合わせた参観士官と記者の代表によって、『サーベラス』の現状に対する痛烈な批判が行われた。批判に耐え兼ねたマン Mann 艦長は、「乗組員の仕事が多すぎる」とし、上甲板の状況については、「もともとが痛み過ぎている」と弁明した。この板張りは就役してから一度も張り替えられておらず、舵取り機はどうにも使い物にならないのだと述べている。

 不景気の影響は大きくなり、翌年は定例の復活祭演習も行われなかった。状況の悪化はさらに続く。砲艦『ヴィクトリア』と『アルバート』は売却され、海軍要員は減らされた。残ったものも給料の減額を余儀なくされている。
 それでも、この削減によって予期せぬ利益もあった。今回の2隻の砲艦の処分で、取り外された小さな補助ボイラーと発電機が『サーベラス』へ持ち込まれたのである。これはその艦内生活に若干の改善をもたらした。
 『サーベラス』の艦内は、舷側にまったく開口がないために採光も換気もないことから、常に暗く、悪臭に満ちていたのである。送風機は建造当初から設置されていたものの、これは蒸気動力によって駆動されるものだったから、ボイラーにめったに点火されることさえない状況では無用の長物だったのだ。
 実際に、『サーベラス』と同様の船体形状を持つ拡大型の『デヴァステーション』 Devastation 乗組員の言うところでは、「缶詰空気のネズミ穴 (rathole in tinned air)」と描写されているほどなのだ。
 新しい世紀が近付いた時、この老女には老衰という事実が隠すべくもなくなっていた。年老いた女優が舞台の中心から去っていくように、19世紀の末にかけて、『サーベラス』に掛けられる費用はどんどん少なくなっていく。
 旧式化した前装砲に代えて、新型の後装砲を導入しようという提案もあったが、あまりにも高価であるために断念されてしまった。  1898年には、後部砲塔の左砲の砲耳にヒビが入ったのだが、これも更新のきっかけにはならなかった。

●インドへ配備された同型艦の『マグダラ』は、この頃に備砲を新型後装砲に代えています。こちらの状況もまあ、似たようなものだったのですが。

 1987年に93歳で亡くなる直前に、リチャード・ヴィール Richard Veale 元海軍中佐から得られたレポートがある。彼は実際に『サーベラス』へ乗り組んだことのある最後の生き残りで、その艦内生活を端的に述べてくれた。
 「嵐と、臭いオイル・ランプと、低い天井だったかなあ。…そう、天井はいつも身をかがめていなければならないほど低くて、寒くて、惨めだった。快適さなんか何もなかったよ。食事はいつも陸上でだったしね」

 もうひとつのレポートがある。後に海軍少将となったハリー・フィークス Harry Feakes が、尉官時代に書いたものである。
「イングランドからメルボルンへ到着し、9時30分に到着を報告した晩は、雨降りで寒く、陰気な日だった。通路で出会った、がっしりとした年配の水兵は、オイル・ランプを手にメス・デッキへ案内してくれたが、そこは薄汚く陰鬱な雰囲気だった。さらに主機室から非常照明だけの士官居住区へと進んだ。太ったネズミが影の中でヌラリと光り、走り去った。なんともおどろおどろしい光景である。
 『艦長には明日の朝、お会いになってください』という小声の申し出とともに、私は副長のものとされる部屋へ導かれた。そこは6フィート四方 (畳二畳) しかなく、犬小屋としか言えないものだった。
 先程当直将校が入っていった、カーテンで仕切られているだけの部屋の向こうでは、グラスの縁にビンの当たるカチンという音が響く。なんてこった。しかし、この陰鬱さは、人を酒に追いやるには十分なものだっただろう。
 翌朝、目を覚ますと、疲れた頭をようやく枕から持ち上げる。しばらく、ここがどこなのか思い出せなかった。ゆらゆらと揺れる小さなオイル・ランプの光の中で、あたりをぐるりと見回すと、私が夜のあいだ閉じ込められていた狭苦しい棺桶のごときベッドの脇に、パンとお茶の入っている小さな籠が押し込まれているのが判った。
 40年以上も前、まだこのでっぷりとした船腹が装甲鈑で覆われる前には、神の与えたもうた新鮮な空気と、邪悪なものを消し去る光が、この船の中へも差し込んでいたのだろう。40年も閉じ込められた空気と汚水のおぞましさ。臭いオイル・ランプは、その不快さにとどめを刺してくれる。
 新しい仲間との友好な関係を築くべく、熱いお茶の恵みに感謝しながら、私は『この船に乗って、どのくらいになるのかね』と尋ねた。彼は忙しげに布を折り畳む仕事を続けながら、『36年でさあ、サー』と答えた」

●36年間の同一艦への勤務も有り得ないことではないのですが、この場合はからかわれただけかもしれません。

 艦の状態は着実に低下していた。1911年7月10日の英国連邦オーストラリア海軍編成表の中には、まだ確かにその名があるけれども、現実はまったく運用に耐える状態ではなかったのである。
 年老いた船は曳航されて湾を下り、イギリス連邦が受け継いだ海軍力の哀れな残滓として、最後の舞台へと向かっていった。
 1914年4月の戦争勃発により、『サーベラス』はメルボルン港の港湾防御艦に任命されたのである。彼女はここで、パトロール用の小艇やドック警備員の宿泊艦として働いた。後に敵の進入の恐れがなくなってからは警備艦としての任務も解かれ、弾薬や爆発物の貯蔵庫となっている。
 終戦後、英国は6隻のJ級潜水艦を含む余剰軍艦をオーストラリア海軍へ譲渡した。潜水艦はシドニーへ到着して改装されたが、後にジーロングへ移され、基地を設けた。『サーベラス』はここへ曳航され、潜水艦を繋いだり部品を蓄える倉庫船となるにあたって、『プラティパスU』 Platypus Uと改名された。古ぼけた警備用小型砲艦が、彼女に代わって『サーベラス』と命名されている。

●乾舷が低いので、同じように低乾舷の潜水艦を係留するには都合がよいのです。低乾舷の装甲艦では、晩年を同様の任務に就いていたものが少なくありません。

 1921年8月、潜水艦の最初のものが退役し、数カ月のうちに他のものも同様に後を追った。こうなると、一時は海軍の最新鋭として技術の粋を誇った船体にも、もはや使い道は残っていなかった。
 彼女はスクラップにされることとなり、1924年4月23日、メルボルン・サルベージ会社へ409ポンドで売却されている。1924年5月14日にはコリオ湾からウィリアムスタウンへ曳航され、真鍮や青銅といった値打ち物の金属を取り外すことから作業が始められた。
 ちょうどこの頃、ブラック・ロック・セイリング・クラブが、ポート・フィリップ湾の荒波から自分たちの引上げ斜路を保護するための方策を探していた。『サーベラス』の空っぽになった強固な船体は、この目的に合致するように思われ、150ポンドで購入する話がまとまる。費用は10ポンドずつ15の債券を売る形で賄うものとされた。
 二人のメンバーはこの出資に応じられなかったけれども、その分をサンドリンガムの町会が代わって負担する案が持ち出され、これが承認されて、廃船は買い取られた。
 1926年9月2日、ブレストワーク・モニターの船体は、ハーフ・ムーン Half Moon 湾、ブラック・ロックのすぐ先へ運ばれ、12フィート (3.7メートル) の深さの、砂と泥の海底へ沈められた。こうして、『サーベラス』の歴史における最初の60年は終わった。そして、第二の歴史が始まったのである。

●このようにして、『サーベラス』は防波堤としての第二の歴史を刻むわけですが、この七十有余年は、「ただ、そこにある」だけの歴史でした。
 現在、オーストラリアには『サーベラス』の復元、保存運動があり、船体を引き上げて修復するための計画が練られてします。しかし、かなり莫大な費用が必要なことと、長期間にわたって風波に曝された船体は痛みが激しく、浮揚作業自体が危険を伴うので、実現は困難な様子です。

 モニター類似艦は、アメリカにはまったく保存されておらず、わずかに沈没した『モニター』の船体が海底に確認されているだけです。イギリスの類似艦も残っていません。ですから、この船体が貴重であるという主張にも説得力はあります。
 最低限、ほとんど原形のままに残っている砲塔だけでも回収できないかと画策されていますが、いずれ資金面は厳しいでしょう。このページによって、日本人の協力者が一人でも生まれれば、オーストラリアの人々も喜んでくださるでしょう。

参考文献
・Three Headed Monster / Bob Nicholls
・All the world's fighting ships 1860-1905 / Conway Maritime Press
・British Battleships 1860-1950 / Oscar Parkes



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