地獄の番犬ケルベロス(2)
The Life of HMVS Cerberus (2)


HMVS_Cerberus

1868年当時の『サーベラス』



 『サーベラス』の建造時、本艦の艤装指導と受領のために、ヴィクトリア海軍からはノーマン Norman 艦長が派遣されていたけれども、残念なことに彼は体調を崩し、12月に客死してしまう。急遽代わりの士官パンター Panter が派遣されるのだが、この間工事は中断している。パンターは1870年4月に到着したけれども、まだ若く、経験も不十分だった。
 『サーベラス』は工事を再開して完成し、公試でも要求性能をクリアしている。武装も搭載され、残された問題はオーストラリアへの回航だけとなった。

 しかし、これ以上の難題があるだろうか。
 『サーベラス』には帆がない。つまり、航海は石炭を焚いて自力推進するか、他の船に曳航してもらうしかないのである。石炭の搭載量からすれば、蒸気力による航海では石炭の補給に見通しが立たない。これほど大きな重い船を長期間曳航するとなれば、曳く側にも特殊な能力が要求されるし、そんな経験のある人間はほとんど居るまい。
 パンターは立ち往生してしまった。
 パンターの抱えた問題のひとつは、『サーベラス』が英国軍艦ではなかったことである。地球の裏側まで行こうというのに、食料も補給品もどこからも提供されなかった。そもそも何が必要なのかを誰が知っているのか、それすら判らないのだ。
 イギリス海軍省は多忙で、自分のよだれ掛けすら付けられない子供の口に、オマンマを運んではくれない。何がひとつ足りなくても、海の真ん中には転がっていないし、注文しようにも電話線は繋がっていないのである。
 途方に暮れる中、ひょっこりと海軍省の要員が現れ、諸々の準備や仮艤装を行ってくれる。彼には神の助けとも見えただろう。この時の図面、書類はグリニッジの国立海事博物館に残されており、オーストラリアの各地にコピーが保存されている。
 長期の航海に備えて、燃料を節約する目的から仮帆装が施された。舷側には隔壁が設けられ、ほとんどブレストワークを覆ってしまっている。帆柱は3本が立てられた。その姿は、イギリス海軍の航洋砲塔艦『モナーク』 Monarch のミニチュアと表現されている。

●ノーマン艦長の亡くなったのが何年の12月なのか、資料には記載がありません。当時はオーストラリアまで海底電線が敷かれていなかったと思われるので、1869年だとパンターの派遣が間に合わないように思われます。
 この場合は新たに派遣されたのではなく、同行していて代理を任ぜられたのかもしれません。香港やシンガポールまでは電信が通じていたはずですから、東南アジアからオーストラリアへの、郵船の往復による命令のやりとりなら辻褄は合います。
 1868年の12月とすると、一年以上時間があったことになりますから、経験不足の若い士官を敢えて派遣する理由が見つかりません。ここは、使い走りに連れてこられていた若いパンターが、上司の死によって突然全権を託され、右往左往しながら任務を進めていくと考えたほうが楽しそうなので、そっちだったことにしましょう。

 このような回航は、けっして初めての事例ではない。クリミア戦争では、ほとんど航海能力のない浮き砲台を黒海まで進めているし、戦後にはバミューダへ同じ船を送っている。アメリカでは、東海岸で建造されたモニター類が南米へ多く輸出され、一部はホーン岬を回ってペルーまで航海したのだ。
 アメリカ西海岸へ行ったモニターもあり、最も長距離を航海したこの種の軍艦としては、アメリカ東海岸からホーン岬、アメリカ西海岸経由で日本まで回航された『甲鉄』の名が挙げられるだろう。しかし、時期的にはそう離れておらず、どれほどノウハウの蓄積があったとも思われない。
 そして、イギリスからオーストラリアへ、軍艦としてスエズ運河経由では初めての航海が始まった。イギリスとオーストラリアは、地球の中心を挟んでほぼ向かい合う位置にあり、ダウン・アンダー (足の下) と呼ばれるくらいだから、地球半周の航海というのに掛け値はない。そしてどうやら、イギリス海軍はこの航海に別な目的を見出だしていたようだ。これについて後で触れよう。

 さて『サーベラス』は、未だ海軍へ就役していないために商船旗の下での航海を始めることとなった。このために乗組員は民間人を雇用しなければならないのだが、これが集まらない。彼らは、どう見ても航洋性に信頼の持てそうもない珍妙な船に怯え、契約書へのサインを保留した。
 さらに彼らの不安は、1870年9月6日の夜に、コールズ砲塔を装備したイギリス軍艦『キャプテン』が、強風の中に転覆して沈み、ほとんどの乗組員とともに失われたことでいっそう大きくなっている。『サーベラス』は、それよりずっと小さいのだ。
 結局パンターは、かき集めた25人の乗組員とともにチャタムを立ち、身の毛のよだつような航海をしながらマルタ島へ向かう。平底で重い船は、誰も経験したことのない揺れ方をした。砲塔や通風筒をどれほど厳重にパッキングしても、海水は容赦なく艦内へ侵入してくる。風に流され、水をかぶればいつまでも水中にいて、二度と浮き上がれないのではないかと思われた。
 舷窓がひとつもない『サーベラス』は、まったく機械力のみによって艦内に空気を送り込まれているのだが、この空気の圧力でようやく浮いているのではないかとさえ感じられるのである。

●この航海では、出発の日時がはっきり判りません。『キャプテン』の逸話が出てくるので、9月は過ぎているはずですから、航海はおよそ半年くらいと思われます。これは当時の所要日数としては長いものではなく、通常の船舶でも遅いものはこのくらいの時間を要しています。
 ちなみに、アメリカ東海岸からペルーへ送られたモニターは15カ月、日本まで行った『甲鉄』は8カ月というような数字が残っています。ただし、中国からイギリスへ向かうティー・クリッパーは、喜望岬回りの全航程を100日前後で走り抜けていますから、標準というようなものは存在しません。長距離を駆け抜けられる能力があるか、飛び石式に移動しなければならないか、さらにそれがどれだけ天候と相談しながらでなければならないかで、所要日数はまったく異なるのです。

 まだ電気照明のない時代だから、まったく窓のない艦内の明かりは、安物のローソクか臭いランプだけである。用を足しに外へ出れば、甲板の上は大西洋の荒々しい海面とまったく区別が付かず、手を放せばアメリカまで泳ぐハメになるから、慌てて戻って手頃なバケツを探すしかなかった。
 トイレは、ただでさえ狭い居住区をカーテンで仕切っただけの場所で、うっかりバケツがひっくり返って中身が暗がりへ転がってしまえば、せいぜい罵るくらいしかすることがない。
 だいたい、風呂にも入らない男たちの体臭で息もできないほどなのだから、悪臭の種がひとつくらい増えたところで、何がどう変わるものでもなかった。せめてもポンプが機械仕掛けなのは、神に感謝すべき、いや、造船所に感謝すべき慶事だっただろう。これが止まれば、間違いなく沈んでしまっただろうから。

 水兵の居住区が環境劣悪なのは、どの海軍でも大同小異だったけれども、この艦では士官にもまともな居住区がないのである。艦長室は水面下にあり、天窓をうっかりあければ、船はお尻から沈んでしまう。平底の船の揺れ方というのは、深いキールの入った帆船でどれほど荒海に慣れている男でも、30分と持たないものなのだ。ラセンを描きながら海底に引きずり込まれるような、とでも書き表すか。
 必死の努力でマルタ島へたどり着いたものの、パンターは補充の乗組員を確保するために、再び苦労しなければならなかった。多くの乗組員が、出港直前に大酒を食らって、故意に牢獄へ放り込まれる手段を選んだのである。未払いの給料よりも、命のほうが大事だと考えるのも当然だろう。
 もしかしたら、経験不足のパンターは、うっかりそれまでの給料全額を払ってしまったのかもしれない。

 ポートサイドでは、初めてのオーストラリア行きの船として歓迎されたものの、運河内で三度も座礁している。扱い難さも一級品だったのだ。言葉にしようもない難行苦行を経て、『サーベラス』はようやく、1871年4月9日にポート・フィリップへ到着した。午後にはウィリアムスタウンにもやいを取っている。
 よくもまあ無事にと思うが、不思議なことに、前述したようなモニター類似艦の長期航海では、1隻の難破船も出ていない。かえって沿岸の近距離移動で事故を起こしているくらいなのである。誰がどう見ても危ない船だから、ことさら慎重になった結果なのだろうか。

 当時のマスコミによれば、この新参者を見ようと、メルボルンの人口の大半が坂を下ったという。アーガス Argus 紙は、「港湾防御にあたる軍艦としては、まさに世界最強の存在であろう」と述べ、「最強の遠征艦隊であっても、自身に匹敵する存在を求めたいのであれば、それはここにいる」と書いている。
 他の新聞は、また違った印象を与えてくれる。絵入りオーストラリア新聞 Illustrated Australian News は、その1871年4月22日号で、「『サーベラス』の接近に伴い、その奇妙な外観から大きな失望が渦を巻いた。それは我々の見慣れた軍艦とはまったく異なり、長い航海のためにマストを取り付けられた姿は、細長いガソリンメーター (註・どのような形状のものか不明) のようにしか見えないのだ」と書いた。

 最新鋭かゲテモノかの評価は別にして、とにかく『サーベラス』は、この種の艦としてイギリス海軍が建造した初めてのものである。  主たる兵装は、口径10インチ (254ミリ) の前装施条砲4門で、二つの砲塔に2門ずつ装備されていた。砲は18トンの重量を持ち、重さ400ポンド (180キログラム) の砲弾を用いる。装填は砲を砲塔内へ引き込み、滑車装置で吊り上げた砲弾を砲口から押し込む方法だった。このため砲身は短く、14.5口径しかない。
 最大射程は4マイル (7.4キロメートル) とされたが、演習の結果では、実用上は2マイル (3.7キロメートル) だろうと見積もられている。装薬にはペレット状に固められたものが用意され、一発当たりの最大量は60ポンド (約27キログラム) ほどとされた。最大発射速度は5分に一発というところだろうが、確証はない。
 装薬の量は、同種砲の最大では70ポンド (約32キログラム) という数字が残っているので、砲身寿命も考えて少なめにされたのだろう。砲弾の初速は毎秒1,298フィート (396メートル) で、砲口に置かれた厚さ12.9インチ (328ミリ) の練鉄の装甲板を撃ち抜けたとされるが、これは装薬70ポンドでの数値である。

 まったく円筒形の砲塔は、直径が8メートルあり、4メートルほどの高さを持っていて、そのすべては水面直上の上甲板上にあった。下半分はブレストワークに囲まれ、露出している上半分だけに装甲が施されている。内部は下三分の一ほどが支持骨格構造で、ブレストワーク内の上甲板に設置された円形レールの上を旋回した。
 旋回は蒸気動力によるが、蒸気が上がっていない時は人力操作である。他の操作はすべて人力だった。このため各砲塔には37名の要員が必要とされるけれども、実際に砲塔旋回部にいるのは装填作業などに携わる十数人で、後は砲塔下のブレストワーク内に配置されている。
 機械力による揚弾装置などはないから、砲弾は1発ずつ、鉄の爪で掴むか、ロープを掛けて滑車装置で巻き上げられる。艦底の弾薬庫からブレストワークへ、ブレストワークから砲塔へ、砲塔から砲口へと、それぞれ別の行程になっていた。運搬は困難な仕事なので、砲塔内部に保管されている砲弾を撃ち尽くした後の発射速度は大幅に低下しただろう。装薬はこれとは別に、バッグに入れられ手渡しで1発分ずつ運ばれる。

 二つの砲塔の間には、非常に幅の狭い上構が設けられている。これは砲塔の射界を制限しない目的で最小限の大きさとされたが、小さすぎて内部にはどれほどのものも収容できなかった。司令塔や煙路と機関室の天窓、昇降階段だけでいっぱいになってしまうのだ。上部の面積も足らず、艦載艇や艦橋を乗せるために大きな空中甲板が取り付けられることになった。
 これは上構よりも遥かに大きく、上構からブラケットを伸ばして大きく張り出されている。前端は前部砲塔の中心位置にピボットを持った支柱を立てて支えられ、後端は後部砲塔をまたいで支柱が立てられた。これは当然後部砲塔の射界を塞ぐのだが、同時に両方の砲を遮らない位置に立てられている。おそらく、戦時には余分な部分を取り外すものと思われる。幅も広く造られ、船の運用に必要な備品が取り付けられた。それでも信号檣を立てる場所がなく、これはやむをえず機関室の天窓の中に立っていたという。
 ここの配置には明確な資料がないのだが、どうやら前から航海艦橋、昇降路と吸気筒を兼ねたボイラー室天窓、煙突、装甲司令塔、機関室天窓の順のようである。昇降階段がどこにいくつあったのかなど、細かいことは判らない。上甲板上にあるのは通風口や昇降口、係留用の諸設備、キャプスタンなどで、すべて背を低く、もしくは折り畳み式に作られていた。
 戦闘に挑む時は、上部の備品を取り払わなければならないのだが、これは非常に手間の掛かる仕事で、戦闘準備に要する時間は決して短くなかった。搭載されているボートは、戦闘時には後方へ曳航することになっている。

 設計上の乗員定数は155名で、構成は、士官13名、機関士5名、火夫14名、水兵98名、海兵隊員25名とされるが、常時これだけの人間が生活できるスペースはあるまい。とにかく横を向いた窓は、司令塔の覗き窓以外まったくないのである。居住甲板は水線下に位置し、天井は限度を越えて低い。艦首尾上甲板の中心線付近にはコーミングに囲まれた天窓があるものの、天候が悪くなれば閉鎖しなければならない。おそらく外洋へ出る場合には開けられないだろう。動力通風装置も装備されていたが、蒸気動力なのでボイラーに火が入っていなければ役に立たなかった。
 本艦のような低乾舷艦では共通した問題なのだが、便所は手頃な設置場所が確保できず、上甲板前部舷側に外舷へ張り出すようにキャンバスなどで仮小屋を作り、日常はそこで用を足していた。これも天候が悪くなれば、小屋ごと波にさらわれかねない。
 蒸気機関は手堅い選択で、2基の機関は当時のあたりまえの仕様である。ボイラーは四つあり、圧力30psi (平方センチあたり2.1キログラム) の角型缶だった。二つのスクリューは4枚の翼を持ち、直径は12フィート (3.7メートル) である。補助ボイラーが1基あり、砲塔の旋回エンジンと換気ファンを駆動した。後に蒸気舵取り機が装備されると、これの駆動にも用いられている。
 210トンの石炭でどれほどの行動力があったのか、記録は見当たらないのだが、いずれこれが問題になるような長期作戦は考えられていない。



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