鎮遠定遠下駄に履き 2 The Nagasaki riot 1886 (2) |
●明治19年(1886年)8月19日付毎日新聞より
★府下 (当時は東京府) のコレラ (虎列刺)・17日の新患者は以下の通り
麹町区麹町1丁目、同9丁目・各1人、同10丁目・2人
飯田町5丁目、下六番町、平河町1丁目・各1人
神田区三河町2丁目・2人、同3丁目、錦町1丁目、三崎町2丁目・各1人
猿楽町・2人、橋本町1丁目・1人、
などなどと30行余りも患者発生の状況が記され、合計で206人が新たにコレラ患者と認定されている。その中で死者は79人とあり、患者の累計数は3,907人となっている。
遡って8月1日、この日の毎日新聞では、まだコレラ流行地として指定された府県は11に過ぎず、大阪、兵庫を中心とした瀬戸内海沿岸地区以外では、京都、三重、神奈川の名が挙げられているだけです。しかし、8月7日になって政府は東京も流行地に指定し、検疫体制を強化しました。 |
ちょっと当時の世相を見てみよう。
横浜のコレラ蔓延による経済活動の低下は著しいもので、興行物などは禁止され、作物の域外移出も制限されている。すでに人々は疫病禍を恐れ、門を閉ざして逼塞しているから、普段ならば人出の多い場所も、今は閑散としている。
人々の口に不思議として上がっているのは、コレラはそもそも不潔な場所を好み、そういう場所を根城にして広がっていくもののはずだから、横浜の南京町のような人が避けて通るほどの不潔な場所ならば、そこの住民はコレラで死に絶えているはずなのに、実際には患者数が非常に少ないということである。
これについては、専門家が次のように語っている。
「清人の不潔であることは確かに間違いないのだが、こと食物に関しては、彼らはけっして生水を飲まず、火の通っていないものを食べない。これは先進国民である西洋人ですら及ばないほどの徹底ぶりなのだ」
また別な記事では、
「コレラに罹る人には、伝染というより自家製というべき人もまま見られる。ある人は大量の焼酎を飲んだ後で冷や豆腐を食い、氷水を5杯も飲んで夜中に発病し、そのまま死亡した。アワビや刺身など、普段は食べられない人々も、その安値に負けて買い込み、これを大量に食べてはコレラに罹っている」
「人力車夫の中には、自ら進んで患者の輸送にあたるものもあるが、これは義侠心ではなく、ここを先途と稼ぎまくる腹であって、警察署に入り浸って患者の発生を待っている始末なのだ」
などと述べている。
コレラの伝染メカニズムが、まだ完全に解明されておらず、生の情報としての防御方法も、少なくとも大衆の理解にかかってはいなかったのでしょう。中国人街の逸話のように、その伝染を防ぐ方法がおぼろげなりとも理解されている一方で、平気で生の魚を食べているのです。 |
新聞でも、怪しげな民間療法を記事として掲載しており、まさに「藁をも掴む」という表現がぴったりの世情だった。その一方で、患者を避病院 (隔離病院) へ運ぶ命令自体が、庶民からは死刑宣告のように受け取られ、コレラに罹ったかどうかではなく、病院へ運ばれることが死の宣告であるという誤った観念が生まれている。このため患者を隠そうとする動きがあり、これが手当てを遅らせ、また再感染を招いたようだ。
21日付の毎日新聞では、官報からの最新情報としてコレラの患者数が報告されている。
東京府・患者3,814人、死者2,052人
京都府・患者1,836人、死者1,485人
大阪府・患者14,515人、死者11,112人
神奈川県・患者3,656人、死者2,236人
兵庫県・患者4,540人、死者3,408人
長崎県・患者673人、死者379人
新潟県・患者2,790人、死者1,431人
千葉県・患者1,054人、死者601人
福井県・患者1,459人、死者892人
富山県・患者3,688人、死者2,184人
岡山県・患者1,564人、死者806人
広島県・患者3,789人、死者2,413人
山口県・患者1,915人、死者1,023人
和歌山県・患者1,901人、死者1,273人
愛媛県・患者2,630人、死者1.304人
などなどとあり、
合計・患者59,187人、死者37,554人
という尋常でない数字によって結ばれている。
記事には何のコメントもありませんが、二日前、19日の紙面には1万人に満たない死者数が記載されていましたから、わずか二日でそれが4倍に増えたわけです。しかしながら、そのさらに二日前の17日には、これは715人でしかありませんでした。人に言葉を失わせるには、十分な威力のある数字でしょう。 |
統計によれば、明治19年の日本国総人口は、およそ3,854万人とされています。これは現在の約三分の一ですから、この罹患者数と死者数がどれほど大きな数字なのか、ご理解いただけるでしょう。それでも、人口が半分になったというようなヨーロッパの黒死病 (ペスト) よりは、だいぶましなわけです。 |
この8月21日の紙面から、4回に亘って「近時に感ありて東洋の大勢を論ず」という大上段に構えた社説が毎日新聞1面のトップに掲載されています。相当に冗長な文章であり、内容にも重複が多いため、全文をここに載せる意味もなさそうですから、要約を紹介するだけにしましょう。
●明治19年8月21日付から26日付毎日新聞より
近時に感ありて東洋の大勢を論ず
このたびの清国海軍水兵が引き起こした騒乱については、その性質を正確に考察しなければならない。これを、水兵にありがちな「酒に酔った上での失態」に過ぎないと捉えるのは、彼らが計画を立て、徒党を組んで警察官を襲っていること、その指揮に士官があたった形跡のあること、武器を用いていることなどからして正当とは言えない。地元の清人もがこれに加わったという情報もあり、騒乱と言うより、暴動、襲撃に近いと考えるべきだろう。首謀者、実行者は必ず究明し、処罰されなければなるまい。
その一方で、これを清国艦隊による計画的な襲撃とするのも的を外している。現在の日清関係は平穏であり、清国はロシアとの朝鮮半島争奪問題を抱えているのだから、好んで敵を増やそうとする理由はない。騒動の責任追及は、これを起こした当事者にとどまるべきであり、清国がこれを自ら処分する限りにおいて、我々がそれ以上の干渉をする理由はあるまい。明日にも戦争が起きるというような流言蜚語に惑わされぬよう、慎重に事を見据えたいものだ。
ここは、彼らがこれをどう処理するのか、国家、軍としての謝罪表明、関係者の処分、被害者への賠償など、なされるべきことを冷静に見守ろうではないか。
一部の英字新聞に、事を起こしたのが日本の警察官で、清国兵が被害者であるかのような歪んだ記述が見られるけれども、種々の証拠を勘案すれば、これがまったく無根拠であると理解される。無責任な言動は慎んでいただかなくてはならない。
事件のおおよそは、こんなところです。 |
8月23日、『済遠』、『威遠』の2隻は先行して出航し、やがて載炭を終えた『鎮遠』、『定遠』も出航した。行く先は朝鮮半島ということである。
ここで、当時の清国軍艦と、日本海軍軍艦の要目を比較しておきます。
清国
『鎮遠』、『定遠』:装甲艦:1884年ドイツ・フルカン社建造:
常備排水量7,220トン、長さ94メートル、速力15.7ノット
兵装305ミリ20口径砲4門、150ミリ砲2門、35センチ魚雷発射管3門
装甲・水線部36センチ、バーベット36センチ
『済遠』:防護巡洋艦:1885年ドイツ・フルカン社建造:
常備排水量2,300トン、長さ72メートル、速力16.5ノット
兵装210ミリ35口径砲2門、150ミリ砲1門、38センチ魚雷発射管4門
装甲・バーベット36センチ、甲板10センチ
『威遠』:木鉄交造スループ:1880年ころ清国福州造船所建造:
常備排水量1,100トン、長さ64メートル、速力11ノット
兵装178ミリ砲1門、120ミリ砲6門
長崎には寄港していないけれども、艦隊にあったもの
『超勇』、『揚威』:巡洋艦:1881年イギリス・アームストロング社建造:
常備排水量1,380トン、長さ64メートル、速力16.5ノット
兵装254ミリ砲2門、120ミリ砲4門
日本
『扶桑』:装甲艦:1878年イギリス・サミューダ社建造:
常備排水量3,717トン、長さ67メートル、速力13ノット
兵装239ミリ砲4門、170ミリ砲2門
装甲・水線部23センチ、砲廓20センチ
『金剛』、『比叡』:装甲コルベット:1878年イギリス建造:
常備排水量2,200トン、長さ67メートル、速力14ノット
兵装170ミリ砲3門、150ミリ砲6門
装甲・水線部11.5センチ
『龍驤』:装甲コルベット:1869年イギリス建造:
常備排水量1,429トン、長さ65メートル、速力9ノット
兵装165ミリ砲2門、140ミリ砲10門
装甲・水線部11.5センチ
『浪速』:防護巡洋艦:1885年イギリス・アームストロング社建造:
常備排水量3,650トン、長さ91メートル、速力18.5ノット
兵装260ミリ砲2門、150ミリ砲6門、36センチ魚雷発射管4門
『筑紫』:巡洋艦:1883年イギリス・アームストロング社建造:
常備排水量1,350トン、長さ64メートル、速力16.5ノット
兵装254ミリ砲2門、120ミリ砲4門
日本軍艦はほとんどが古く、砲も旧式なものが大半を占めます。『扶桑』以外は装甲も薄く、『龍驤』は古くて実働能力に疑問があります。他にまだ『東』が存在していましたが、1888年には船体の腐朽によって除籍されるくらいなので、戦闘能力があったとは思えません。巡洋艦『筑紫』は、清国の『超勇』、『揚威』とほぼ同型の艦で、1883年に南米チリから購入されています。
事件当時の長崎では、10日まで『清輝』、『比叡』の2隻が在泊していたものの、当日は出航した後であり、長崎には日本海軍水兵は一人もいませんでした。もし、事件のときに近くにいれば、国民の危難に見て見ぬ振りなどできるはずもないでしょうから、騒動はいっそうの大事になったかもしれません。これは不幸中の幸いだったと見ることもできるでしょうか。
興味深いのは、新聞紙上にこれら軍艦の比較記事が見られないことです。あえて比べたくもないでしょうが、世論の喚起という意思は持っていないように見えます。これは、第2章で再び清国艦隊が日本を訪れたときの、論調の変化との対比が興味深いところです。
こうして、一都市を灰燼に帰することのできるような艦隊とのトラブルという、未曾有の経験をした日本国民ですが、庶民の意識としてはコレラのほうがはるかに強烈で、艦隊が引き揚げると話題にはならなくなります。
しかし、ちょくちょく起きていた伝染病騒ぎよりは、近代軍艦の艦隊というあまりポピュラーではない来客のほうが、知識階級にとっては衝撃の大きい出来事であり、また、彼らが5年後に再び日本を訪れたため、蒸し返された記憶は世論の形成に力を持つまでになりました。
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