鎮遠定遠下駄に履き 3 The Nagasaki riot 1886 (3) |
閑話
さて、この時代の新聞では、軍の動きがしばしばベタ記事で報道されています。そのいくつかを拾ってみましょう。
●明治19年 (1886年) 8月7日付、毎日新聞より
潜水船
横須賀海軍水雷局製造の潜水船が完成し、去る4日に同港内で試験された。水面下4尺 (1.2メートル) を分速120ヤード (110メートル・およそ3.5ノット) で進行できたという。
一般に日本の潜水艦史は、明治38年のホランド艇の導入からとされていますが、これはいったい何だったのでしょうか。時期的には、ノルデンフェルトの潜水艇が開発された頃なので、誰かがこれのキットを日本へ持ち込み、組み立てて試験に供したとも考えられますが、業者の売込みだったのかもしれません。考察は専門家様にお任せしましょう。 |
●8月8日付、毎日新聞より
村田銃注文・このたび清国よりわが国へ、村田銃400挺の注文が来たということで、現在砲兵工廠にて製造中だそうである。
●8月11日付、毎日新聞より
硝子吸筒(水筒)
大山陸軍大臣が、先年欧州兵制視察の途中ドイツにおいて、戦時あるいは野営演習のおり、兵の使用していた吸筒を見る機会があった。これはガラスで作られており、皮を巻いて保護してあるために丈夫で壊れる心配がなく、軍人必需のものであると感じたという。大臣は見本を持ち帰り、各所のガラス器製造所へこれの複製を命じていたのだが、なかなか上手くいっていなかった。
このたび品川硝子製造所は、これの複製に成功し、大臣も大いに満足したということである。まず10万個の発注があり、すでに数万個が納入されたということなので、本年中には陸軍省から各鎮台へ配布されるだろう。
●8月14日付、毎日新聞より
太沽砲台の崩壊
上海のフランス語新聞が伝えるところによれば、先月25日、太沽の砲台一個が突然崩壊したという。原因は地面が陥没したためだそうだ。
●8月21日付、東京日日新聞より
神戸小野浜造船所
神戸小野浜造船所において建造された『大和』は、去る14日午後に神戸を出航し、横須賀へ向かったが、途中淡路沖において機械に故障を生じ、神戸に引き返した。この記事はすでに先日の本紙に掲載したけれども、同艦は先にベルタン氏と樺山次官が検分したおり、その構造が好ましくないという指摘を受けている。
それが原因かは判然としないものの、同艦は先の試運転でも成績が良くなく、何度となく手を入れてようやく今回の回航となったものである。18日に行われた『摩耶』の進水式でも、船体がなかなか進まないといった不手際があり、小野浜造船所はどうにも芳しくない評判を抱えてしまった。
●8月25日付、毎日新聞より
18日に小野浜造船所で行われた『摩耶』の進水命名式では、進水台になにか障碍があったらしく、ベルタン親子や海軍お歴々の参列する前で、船体が半分海に入ったところで止まってしまった。非常に締まりのない事態に立ち至ったが、その後曳船を付けて引き出し、無事に浮かんだものである。
●9月2日付、東京日日新聞より
クルップ砲製造の計画
目下ヨーロッパを巡回中の「原田海軍少匠師(原文ママ)」は、来る10月中旬に帰国する予定であるが、同氏帰国の暁には、海軍兵器製造所内にクルップ砲製造所を開設し、輸入に頼らず砲を製造できるようにする計画とされる。
『摩耶』は砲艦に類する小型艦で、排水量612トン、垂線間長47メートル、12ノット、210ミリ砲1門、120ミリ砲1門という要目です。日清戦争の黄海海戦で活躍した『赤城』の準姉妹艦でもあります。 |
軍事以外にもいろいろな記事があり、古新聞はけっこう楽しめる読み物です。
●8月11日付、東京日日新聞より
「汽船が発明されてからというもの、年を経るにしたがってその速力は増加の一途をたどっているのだから、そのうちには40ノットの速力にも達するだろう」
これはおよそ40年も前に予言されたことだと、横浜ガゼット新聞は論じている。
すでに今、大洋を20ノットの速力で疾駆する汽船があるのだから、より高速の汽船が造られるだろうことは想像に難くない。しかし、40ノットという速力の汽船はどんなものであろうか。
専門家の言に拠れば、速力40ノットの汽船を造ること自体は可能だろうが、その利用価値と費用とを勘案すれば、実現は疑問だとされる。
ソルントン学士は本年6月に出版された「フォリュム雑誌(原文ママ)」に、大洋航海速力の限度と題する一文を載せ、速力を増すことでその船体を大きくしなければならないことから、大西洋を3日半で横断するための汽船がどのようなものになるかを推測している。
その汽船を仮に、長さ800フィート、幅80フィート、吃水25フィート(240メートル×24メートル×7.6メートル)とすれば、載貨重量はおよそ3万8千トンとなる。これに20ノットの速力を与えるために必要な機関出力は、約35,000馬力にもなるだろう。
さて、この船に40ノットの速力を与えるとすれば、25万馬力が必要な計算になる。これだけの出力を得られる機関は、重量が7,500トンにもなるだろう。必要な石炭は1時間あたり175トンとして1日3,200トン、一航海に10,500トンが必要だ。これですでに1万8千トンが消費され、残りは2万トンということになる。
乗客、乗組員とその食料など生活必需品を8千トンとすれば、残余は1万8千トンである。(あちこちで計算が間違っていますが気にしないように。誤植かもしれません)
一航海に必要な経費を7万5千ドルとすれば、船客を500人乗せ、一人あたり150ドルを課すことで費用はペイできる。貨物の運賃が丸々船主の利益になるというわけだ。乗客もこれまで7日かかっていた航海が3日半で済むのだから、150ドルならば払うかもしれない。(現価に換算できれば面白いんですが…)
と、まあ、こういう計算をしているわけだが、元来汽船の速力は、何ノットにすれば航海に幾日かかって、その損得勘定はどうかという観点で決められるものだけに、超快速の汽船を造って、あまり利益もなく乗客の運賃の値上げもできないのでは面白くない。貨物などは運賃の値下げを競っている有様なのだから、彼の言うような汽船が造られる可能性はおぼつかない。
もし、なにかしかの利益があるとしてこのような汽船が造られるとすれば、それは北大西洋航路の客船に他ならないだろう。
1時間に175トンの石炭をどうやってくべるのかなど、計算の妥当性や間違いはともかくも、楽しめる話題ではあります。 |
ここでページの題名に使った「鎮遠定遠下駄に履き」というのは、明治時代の戯れ歌の一節で、私が子供の頃に聞かされたことのあるものです。内容はほとんど記憶にないのですが、「富士のお山に腰をかけ、鎮遠定遠下駄に履き・・・」という、大男を歌った歌詞だったように覚えています。つまりは、この二隻が非常に大きいものだったというたとえな訳で、当時の日本では非常な脅威ととらえられていました。
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