鎮遠定遠下駄に履き 4
The Nagasaki riot 1886 (4)


Chinese Armoured cruiser Lai-Yuen

清国巡洋艦『来遠』 Lai-Yuen

 艦首にクルップ21センチ砲を連装にして、20センチの装甲を持つバーベットの中に装備している。副武装の15センチ砲は中央部両舷のスポンソンに配置されていた。同型の『経遠』 King-Yuen は、1894年の黄海海戦で撃沈された。本艦も翌年2月、威海衛で日本軍水雷艇により撃沈されている。



第2章・鎮遠定遠下駄に履き

 長崎の騒動から5年、1891年(明治24年)6月30日、『鎮遠』、『定遠』を始めとする清国艦隊が神戸に入港しました。5年前の事件を忘れていない日本は、彼らを緊張まじりに迎えます。
 艦隊には前回と同じ『済遠』のほか、『来遠』、『致遠』、『靖遠』が加わり、都合6隻が神戸の港を圧しています。




 第1章で紹介しなかった新聞記事の中に、次のような小さな記事がありました。

明治19年9月2日付、郵便報知新聞より

新艦の図面
 海軍省御雇フランス人ベルタン氏が新たに考案した軍艦の図面がこのほど出来上がり、昨日海軍大臣に提出された。

 これがいわゆる三景艦の図面を指すのかどうかは、短い新聞記事からでは判然としません。
 日本海軍が目の当たりにした清国の装甲艦『鎮遠』、『定遠』の威力に慄然とし、フランスから造船技師エミール・ベルタンを招聘、その指導の下に対抗戦力として、『松島』、『厳島』、『橋立』の三景艦を建造したのは有名であり、その起工は1888年 (明治21年) 初頭のことでした。
 『鎮遠』、『定遠』の就役は1884年 (清国到着は1885年11月) のことですから、すでに情報としては知っていたわけですが、ほとんどの関係者が現物を見たのは、この長崎訪問の時が初めてだったはずです。

 とはいえ、入港は8月の10日、図面提出が9月1日ですから、わずか3週間しかないわけで、これをきっかけとして上記記事の図面が書かれたと考えるのには無理があるでしょう。せいぜいラフスケッチくらいしか描けないと思われます。
 また、長崎騒動のときに、すでにベルタンが日本に来ていたのは間違いなく (来日は明治19年2月ころ)、この騒動が三景艦建造の直接の契機となったとするのには、いささか疑問も残ります。この図面が三景艦を指しているという証拠もないので、偶然の一致かもしれませんが。
 それでも、それまで漠然としていた危機感が、現実のものとなったのは疑いもないでしょう。

 なにはともあれ、日本海軍がこれらの対抗戦力を建造し、就役させていたのは事実であり、『松島』がこの明治24年の3月、『厳島』が8月に完成しています。両艦ともフランスでの建造ですから、『松島』もまだ戦力にはなっていません。日本へ到着したのは翌25年のことです。
 そして7月10日、清国艦隊は横浜へ入港します。及び腰で清国艦隊を迎えた人々は、前回の長崎訪問時の騒動を思い起こし、腫れ物に触るように接しはじめました。

IJN Itsukushima

三景艦の1隻『厳島』

 本艦と『松島』がフランスで建造され、本艦と同型の『橋立』が横須賀で建造されている。完成は1891年8月だが、到着は翌年になった。常備排水量4217トン、水線長91.8メートル、16.5ノット、32センチ砲1門を30センチの装甲を持つバーベットに収めていた。本艦と『橋立』は艦首に露砲塔を持つが、『松島』は後部に主砲を持っていたため、シルエットは大きく異なる。




●明治24年 (1891年) 7月4日付、東京日日新聞より

 今回、北洋艦隊の日本巡航について、李中堂は丁提督との申し合わせにより、水兵の上陸を許さない方針を固めたとされる。提督は艦隊乗組員に対してこの旨を告げ、停泊中の心得も諭したという。それゆえ、横浜でも水兵はまったく上陸しない可能性がある。
 しかし、伝え聞くところによれば、先ごろ清国を訪問した我が軍艦の乗組員はひとかたならぬ厚情を受けたということで、せっかく来日した水兵たちに日本の土を踏ませもせずに帰らせるのも残念なことである。政府も、できれば入港した丁提督と申し合わせ、相応の規則を設けた上で、一日だけでも上陸させてやりたいと考えているそうだ。両国の兵士が椅子を並べ、歓談すれば互いに喜ばしいことだろう。

 今回、丁提督は6隻の清国艦隊を率いて神戸に来航した。数日のうちには横浜を訪れるものとされる。この艦隊は、
『鎮遠』・甲鉄艦・排水量7,400トン・6,000馬力・砲6門
『定遠』・同上
『来遠』・巡洋甲鉄・2,900トン・5,000馬力・砲5門
『致遠』・巡洋艦・2,300トン・7,500馬力・砲5門
『靖遠』・同上
『済遠』・巡洋艦・2,350トン・2,800馬力・砲6門
からなる。これらはすべて清国の軍艦であり、北洋の防備に当たるものとされ、まさに珍客と言わなければならない。(表の数字はおおむね正確です)

 我が海軍のある司令官は、かつて我が国の軍艦とともに清国を訪れた際、並々ならぬ厚遇を受け、両国の平和を永く保つために大きな力となったことを実感し、次には必ず我が国へ来航して、その親交を深めてほしいと丁提督に語ったそうである。提督もこれを喜び、必ず訪問すると言っていたそうだ。今回、南北艦隊の大演習が行われた機会をとらえ、この訪問が実現したものであるという。
 およそ各国の軍備は、有事に備えてのものであるけれども、この艦隊は場合によっては敵になるかもしれず、また頼もしき味方となって外敵に当たるかもしれない。日清両艦隊が敵対するも、味方となるも、ただ両国政府の方針如何である。

 艦隊はいわば機械であり、例えれば鬼切膝丸のような名刀でもある。他国がその名刀を我々に博覧させるのであれば、それ相応の礼儀を持って迎えなければならない。手を清め、姿勢を正して受け取り、鞘より抜き出だして、その地金の質、焼入れの具合、煮え、銘などを観察してその切れ味を推察し、厳かに鞘に収め、一礼して返付するのである。
 その刀は自分に切り付けることがあるかもしれず、ともに切っ先を揃えて敵に立ち向かうかもしれない。かつて武士と武士は、このようにして互いの武器への礼を重んじたものだった。

 近年では、国家と国家が、互いの武器である兵士、軍艦に同じような礼儀を持って当たらなければならない。すなわち、今回来航した清国艦隊に対しても、我が艦隊はこれを礼遇しなければならないのである。各港の人民においても同様であり、彼ら将兵を優遇するべきであろう。日清両国は互いに助け合う仲であり、軽んじたり侮辱したりする相手ではない。
 今日の世相は、ややもすれば欧米人を畏敬し、清国人を軽蔑する傾向があるけれども、これは大きな心得違いであると言わざるを得ない。




●7月13日付、毎日新聞より

清国水兵の上陸
 清国北洋艦隊の旗艦『定遠』、『鎮遠』両艦の水兵百名あまりと士官4名は、11日午後1時40分より4時頃までに西波止場から上陸し、三々五々市内を散策した。陶器、漆器、骨董店などに立ち寄るものが多かったけれども、実際に購入した例は少ない。ある店で日本刀二振りを買い入れた清国人が目立ったくらいである。
 全体に飲食店や酒肴を商う店に立ち寄ることはなく、その方面の規律はかなり厳しいようである。

日本と清国の軍艦比較
 ここに取り上げる清国の軍艦6隻は、いずれも現在横浜に停泊中で、清国艦隊中もっとも屈強なものである。
 併記した日本の軍艦6隻は常備艦隊に所属するもので、これまたもっとも強力な軍艦である。
 清国の軍艦6隻が、同数の日本軍艦に比べて優越しているのは一目瞭然であり、日本人はこれを見て如何に考えるべきであろうか。次号で小生の意見を述べようと思う。

清国軍艦
『定遠』・装甲艦・排水量7,430トン、速力14ノット、長さ308フィート、1887年建造 (1881年進水)
『鎮遠』・装甲艦・7,430トン、14ノット、308フィート、1882年建造 (1882年進水)
『経遠』・装甲艦・2,850トン、16ノット、270フィート、1887年建造 (1887年進水)
『来遠』・装甲艦・2,850トン、16ノット、270フィート、1887年建造 (1887年進水)
『致遠』・巡洋艦・2,300トン、18ノット、250フィート、1886年建造 (1886年進水)
『靖遠』・巡洋艦・2,300トン、18ノット、250フィート、1886年建造 (1886年進水)
合計・25,160トン、96ノット、1,656フィート

日本軍艦
『扶桑』・装甲艦・3,718トン、13ノット、220フィート、1877年建造 (1877年進水)
『高千穂』・巡洋艦・3,650トン、18ノット、300フィート、1885年建造 (1886年進水)
『浪速』・巡洋艦・3,650トン、18ノット、300フィート、1885年建造 (1885年進水)
『高雄』・巡洋艦・1,760トン、15ノット、230フィート、1885年建造 (1888年進水)
『葛城』・巡洋艦・1,476トン、13ノット、206フィート、1885年建造 (1885年進水)
『大和』・巡洋艦・1,476トン、13ノット、206フィート、1885年建造 (1885年進水)
合計・15,730トン、90ノット、1,462フィート

 こちらの比較表の数字もおおむね正確なようですが、建造年には若干の誤りがありますので、カッコ書きに正しい数字を入れておきました。新聞に出典は記されていません。なお1フィートは30.48センチメートルです。
 排水量の合計はともかく、速力や長さを足し算してどうなるのかと思われるでしょうが、割り算を必要とする「平均」という概念は、当時の庶民には理解が辛かったかもしれません。いずれ、意味のない数字であることには間違いないのですが。
 また、この年の3月、すでにフランスで完成していたはずの『松島』については、何も触れられていません。それほど秘密にされていたとも思えないのですが、なぜ言及されていないのか、それもこの後の展開を見る上での予備知識としてご記憶ください。




●明治24年7月15日付、毎日新聞より

清国軍艦定遠号宴会
 清国北洋艦隊水師提督丁汝昌氏および日本駐在欽差大臣李経方氏の主催により、昨14日午前10時より旗艦『定遠』艦上において、我が国の貴顕紳士を招いた大宴会が開催された。北白川殿下、松方総理大臣を始め、大臣、次官、陸海軍将校や新聞記者まで、およそ500名が招待されている。清国艦隊各艦の小蒸気艇は早朝から波止場に現れ、船首に黄龍の旗を押し立てて、これらの人々の輸送にあたった。
 『定遠』は満艦飾を施し、舷門には丁提督、李公使を始め、各艦の艦長たちが整列して来賓を迎える。楽隊が演奏する中、甲板にはラムネ、氷、様々な巻きタバコなどが用意されていた。『定遠』の排水量、出力などは先に紹介したとおりだが、艦長室、士官室には様々な美術品が展示され、盆栽、写真なども置かれていた。病室には数名の患者がいたけれども、きわめて清潔であった。

 同艦は7千トンの大艦であり、装備する砲もまた巨大で、30.5センチ砲4門、15センチ砲2門が、その主なものである。来賓は乗り組み士官の案内により、艦内をくまなく巡覧した。
 やがて12時ころから西洋料理の立食会場が設けられ、賓客はかつ飲み、かつ語りて、それぞれに十分満足したうえで、波止場へと送り返されている。舞踏会の準備もなされ、プログラムまで配布されたものの、あまりにも女性が少ないため、この催しは見送られてしまった。

●7月15日付、毎日新聞より (前記事に続いて掲載)

 『扶桑』は日本海軍中第一等の軍艦であり、清国艦の見学を終えた人々の中に『扶桑』見物を言い出した人がいた。新聞記者数名がこれに同調し、『扶桑』の佐藤艦長はこの申し出に対し、ただちにボートを準備して一行を迎えてくれた。
 午後1時ころ『扶桑』に到着し、艦長、副長以下は懇ろに出迎えてくれた。しばし休憩した後、2時間ほどもかけて艦内全体を案内され、親しく語り合ってから4時ころには灯台局の近くまで送っていただいた。

 佐藤艦長の曰くには、「これまで日本人と海軍はまったく他人のような関係であったが、これではとても海軍の拡張はできない。これからも軍艦を見学していただき、不備な点があれば遠慮なく新聞紙上に論じられたい」とのことである。
 同艦は建造からすでに10年以上が過ぎているものの、どこといって損傷はなく、ただボイラーの衰耗が激しいため、これの交換が発注されているという。新機関が取り付けられれば、12〜3ノットの速力は十分に発揮できるだろうということだ。

●7月15日付、毎日新聞より (前記事と同一面に掲載)

英国東洋艦隊旗艦の入港
 英国東洋艦隊に所属する『インプレス』号は、昨日午前10時30分、神戸より横浜に到着した。同艦には新任の副提督、海軍中将兼東洋艦隊司令長官リッチャルド氏が乗り組んでいる。清国軍艦『定遠』は7千トンの巨艦であるが、『インプレス』は8千トンを越える巨大さであるという。
 『インプレス』の入港に仔細があるわけではなく、例年7月ごろに横浜を訪れるのは恒例であって、しばらく停泊した後、函館、ウラジオストークを巡回して本拠の香港へ戻るものである。

 この三つの記事が同一面に配されているのには、なにか思惑が感じられるところでもあります。『扶桑』の記事は時系列的にも不自然ではないのですが、あえて『インプレス』の記事を並べたあたり、意識して構成されたのではないかと考えたくなるのです。
 この『インプレス』ですが、どうやらこれは『インペリュース』 Imperieuse のようです。1886年に完成した初期の装甲巡洋艦で、8,500トン、16ノット、9.2インチ (234ミリ) 砲4門、6インチ (152ミリ) 砲10門を装備していました。1889年から1894年まで、在中国艦隊の旗艦を務めていたということですから、まず間違いないでしょう。



HMS Imperieuse

イギリス装甲巡洋艦『インペリュース』




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