鎮遠定遠下駄に履き 5
The Nagasaki riot 1886 (5)


●明治24年 (1891年) 7月16日付、毎日新聞より

『定遠』の構造
 清国艦隊旗艦の『定遠』は、ドイツ・キール会社の建造になり、艦内の諸設備もすべてドイツ製のものである。艦の下層には、石炭庫、機関室、糧食庫などがあり、その上層両舷には士官私室が並んでいる。その広さは日本間の6畳から4畳くらいで、寝台が備え付けられている。
 廊下を挟んで艦中央部には厨房があり、艦首側は病室になっていて採光、通風ともよい。さらにその上、檣楼の直下には二間続きの艦長室があって絨毯が敷き詰められている。司令塔は楕円形で、横2間 (3.6メートル)、長さ5、6間 (10メートルほど) もあったように見えた。
 ちなみに清国海軍では、帆柱の上下、艦体の運転、兵士の進退など、すべてに英国式を取り入れている。天津には兵学校があって、イギリス人ランバート氏が教頭を務め、毎年30人ほどの卒業生を送り出しているという。

 ここで「病室」と紹介されている部屋は、もしかすると士官室 (wardroom) のことかもしれません。wardroom は「士官室」であるものの、ward は「病棟、病室」をも意味し、ward room と2単語に受け取ると、まさに「病室」になってしまうのです。これに起因すると思われる誤訳は、しばしば見掛けられるものですので、ご注意ください。
 『定遠』級の艦長室は、写真などで見る限り、主檣直下の艦尾よりにあったようです。司令塔の長さ10メートルというのは変ですから、なにかの間違いか勘違いでしょう。砲塔の上にある空中甲板 (flying bridge) は、二つの砲塔をまたぐために20メートル近い長さがあり、航海艦橋はこの上に置かれていました。




●7月16日付、毎日新聞より

清国艦見物余談
 一昨日の清国艦見物では、素人、玄人が入り混じって、各国軍艦のにわか品評会があちこちで行われていた。当日の港内には、英米日清そのほかの軍艦が十数隻もおり、それぞれに妍(けん)を競っているが、清国艦の右に出るものはない。
 清国海軍は最近急速に充実し、ことに今回来訪した『定遠』、『鎮遠』などは、船体の防御といい、武器の強力さといい、ヨーロッパの軍艦と比べても見劣りしない。これに比べるべき日本軍艦は『扶桑』唯一だが、清国艦と比較すれば小さく、速力も遅くて恥ずかしいばかりである。

 波止場を離れて軍艦群の間を『定遠』へ向かう途中、ある紳士は仲間とともにこれを大いに嘆き、ため息まじりに周囲を見回していたけれども、ふと1隻の軍艦に目をとめた。
 これは船体を白く塗っているものの、非常に古い船であることは一見して隠しようもなく、紳士はこれを指して、「どこの軍艦かは知らないが、もし軍艦の大小優劣をもって国勢を測るのであれば、あれは世界中で最も貧弱な国の軍艦だろう。兵器の競争が盛んな今日、あのような老艦を外国へ派遣して恥じないというのは、どういう神経なのだろうか」と、いぶかしんでいた。

 近付くにつれ、その艦の旗が明らかになってくれば、なんとそれは、まごうかたなきアメリカ合衆国の旗であった。世界第一の富裕国といわれるアメリカ合衆国の軍艦『モノカシー』 Monocacy だったのである。
 かの紳士もこれには驚き、あのアメリカ合衆国がこのような老朽艦をもってして、それでも世界に覇を称えられるのであれば、軍艦の大小、武器の優劣など、まったく意味を成さないのだろうかと、また更なる論議を始めのであった。

 『モノカシー』は確かにアメリカ合衆国の軍艦で、当時アジアにあり、後には1900年の義和団事件でも連合国艦隊に加わっています。排水量1,370トン、12ノットという船ですが、建造は1866年で、このころすでに、めったに見られなくなっていた外輪砲艦なのです。艦に誇りを持っていただろう乗組員はともかく、外交官などは相当に恥ずかしい思いをしていたのではないでしょうか。

 当時のアメリカ海軍は南北戦争の遺産のようなシロモノで、ニュー・ネイビー計画の巡洋艦が、やっと数えるほどしか在りませんでした。当時極東にいたアメリカ軍艦は、確認できるものがもう1隻あるものの、こちらは1872年建造、2,394トンの木造スループで、この年の内に除籍されています。
 別段、合衆国が何か志を持って老朽小艦を外交の前面に押し立てていたわけではなく、本当にそんな艦しか持っていなかったのです。この1891年にようやく有力な巡洋艦『オリンピア』が起工され、数年後にはアメリカも、諸列強と肩を並べられるだけの看板を張るようになりました。



USS Monocacy

アメリカ合衆国の木造外輪砲艦『モノカシー』 Monocacy

 南北戦争中の計画艦で、戦後の1866年に完成している。常備排水量1370トン、長さ255フィート(77.7メートル)、当時の備砲は、5.3インチ(135ミリ)前装施条砲! 2門、8インチ(203ミリ)前装滑腔砲!!4門他とされる。




●7月14日付、毎日新聞より

海軍落胆
 読者の皆さんは、昨日の毎日新聞に掲載された日清軍艦の比較表 (鎮遠定遠下駄に履き [4] 参照) をご覧になっただろうか。現在横浜に停泊中の清国軍艦6隻は、同海軍中から選抜されたものであり、日本の軍艦6隻も日本海軍中屈指のものである。
 両国の軍艦を比較すれば、まず、清国艦隊の排水量は合計で25,160トンであり、我が6隻は15,730トンでしかない。第二にその速力は合計96ノットで、我れは90ノットである。第三にその長さは1,656フィートだが、我が6隻の合計は1,462フィートでしかない。
 清国艦のうち4隻は装甲艦だが、日本艦では1隻だけである。清国艦は『鎮遠』のみやや建造年度が古いものの、他の5隻はみな1886年以降に進水したものだ。我が方では『扶桑』が1877年で、他も1885年の進水である。

 このように両国艦隊を比較してみれば、年齢にしても、性質にしても、容量、速力、長さのいずれでも、我が方は清国に及ばない。
 清国は現在、人口で我が国の10倍を数えるけれども、19世紀の文明という面では、我が国が彼らに数段勝っていると考えられる。それゆえ、実力では決して劣っていないと信じている。
 小生は、清国の艦隊が横浜に到着したおり、必ずや日本海軍拡張の世論が巻き起こるものと期待していた。しかし、彼らが神戸に到着してからすでに2週間が経過し、その軍艦をつぶさに実見した者があまたいるというのに、全国津々浦々数百の新聞のいずれにも、「日本海軍拡張すべし」という論評は現れていない。日本のため、海軍のためにも、ため息しか出ないところである。

 かねてより小生が論じているように、今日の日本海軍は海軍省の海軍であって、日本の海軍ではないという意識が人々にあり、そのために清国海軍の威力を目の当たりにしても、声が上がらないのだろう。
 たしかに日本は、英米国などに比べれば貧しい。それでも国庫は年を追うごとに余裕を増している。人心ひとたびこれを期すれば、七千トンの軍艦数隻を海上に浮かべることはけっして困難ではない。
 それなのに、へさきを並べて見せつけられた優越に見て見ぬ振りをし、人々は海軍の存在を忘れたかのように振舞っている。人民と海軍は完全に隔絶しているとする論評も、あながち否定できないものである。

 海軍軍人がどれほど軍艦の建造を切望しようと、国庫に650万円もの余剰金が有ろうと、人々が海軍に恃む(たのむ=期待する)ところがなければ、現在の海軍の維持ですら負担が大きいと思われてしまう。
 海軍軍人の中には、その地位にふさわしい能力を持つ人もあるが、概して小数であり、その名誉を輝かすにはとうてい芳しくない人が幅を利かせている。彼らは有能なる小数によって自分たちの基盤が維持されているにもかかわらず、これを片隅に追いやろうとしているのだ。
 こういう現実を見てしまうと、さしもの小生でも、現下ただちに海軍を拡張すべしと、声を大にするのがためらわれてしまうのである。

 さて、ここでようやく海軍と一般人民との心理的離隔が話題になっています。文中で筆者が触れているように、過去にもそういう論調の記事があったようですが、当該記事を見つけてはいません。
 「海軍省の海軍」とは言い得たものですが、海軍というものへの一般庶民の無理解は、特別日本に限られたことではないのです。自他共に認める海軍国であるイギリスにおいてでさえ、しばしばこの問題に対する軍人の嘆きが見られるのですから。その責がどちらにあるのは、また別な問題ですが。

 南北戦争終了後、アメリカは海軍を「閉鎖」してしまいましたし、ロシアでは常に次席です。フランス海軍は日干しになり、ドイツも大海軍など夢の夢でした。当の清国では、海軍予算が皇帝別荘の庭園造りに流用される始末なのです。
 1890年にマハンの有名な論文が発表され、この問題に対する論理基盤となりました。前述の新聞記事は、論説者がこの論文に接した結果かもしれません。




●7月16日付、毎日新聞より

海軍落胆・続
 日本海軍を拡張しようとするならば、まず日本人に海軍というものを知らしめなければならない。海軍を知らしめるためには、海軍と人民との間にある溝を埋めなければならない。それにはまず、軍艦、造船所などを開放して、人々に親しくこれらを見てもらうのがひとつの方策だけれども、よりいっそう海軍を身近なものにしてもらう方法がある。
 それは、国内外を問わず、人々に満足を与えるような海軍の功績を眼前に示すことなのだ。日本海軍にいまひとつ信用がないのは、これまでの海軍に、人々の目に見える形での働きがなかったためである。

 一例を挙げれば、昨年トルコ軍艦『エルトグロール』が紀州沖で難破した際の対応がある。同艦は沈没し、乗組員数十人が死亡、わずかな生存者も衰弱が激しく、生命が危ぶまれるほどであった。
 このとき、必ずや我が海軍が遭難地点へ真っ先に駆けつけ、救助に当たったに違いないと人々は信じただろう。しかしながら、実際に遭難場所へ最初に到着したのは、神戸に停泊していたドイツ軍艦なのである。
 我が軍艦は東京湾から出発したので、たしかに距離的にはいくらか遠い。それでも、急を聞いてから出帆するまで丸一日も遅れたという事実を知れば、海軍への期待がしぼんでしまうのも致し方ない。
 海軍省は、航海費用の支出を大蔵省がすぐに認めてくれなかったためだと言い、その言にも一理あるものの、大衆はこれを海軍の責任としか見ないだろう。

 また、先般揚子江沿岸周辺で発生した暴動のおりにも、同様の状況があった。暴動発生地点に近い上海の人々は、その害の及ぶことを怖れ、保護してくれる自国軍隊の来着を心待ちにした。
 これに応じて、たまたま日本にいたアメリカ、フランスの軍艦は直ちに出港し、自国民保護に向かったのである。ところが日本海軍は、数日遅れてやっと出動する体たらくであり、居留民の失望は大きかった。
 これとてもすべてが海軍の責任というわけではない。特に我が国の外交官は通信などに疎漏が多く、万事対応が後手に回るきらいがある。これが遅れの原因のひとつではあろうけれども、海軍省にも責任がないわけではないのだ。これらは海軍が評判を落とした最近の事例である。

 海軍では薩摩閥が幅を利かせ、これに嫌気した者たちは演習のたびに病気届を出すとも言う。これもまた、海軍の信用を落としている。
 清国軍艦が来訪し、日本軍艦の不完全なところがあからさまになっても、誰も海軍をもっと充実しようと言わないのには、こういう原因があるのだ。
 今や海軍は、旧来の鎖港主義、すなわち人民拒絶主義を改め、努めて人民との交流を深めなければなるまい。

 本日、清国軍艦に衆議院、貴族院の議員が招待されたことは、我が海軍のためにもいくらかは良い影響があるだろう。それでも、海軍が功績を上げ、海軍の必要性を人民に知らしめなければ、海軍拡張説は社会の話題にもならないのだ。
 小生は改めて海軍に望む。政府の姿勢が不完全なのであれば、これを申し立てて改善を求めよ。航海費用支出について不便な点があるのならば、これを改めさせよ。遊戯に向かう熱情を転じ、職務上の技術に習熟せよ。そうでなければ、屈強な隣国の軍艦が何度訪れても、人民は自分の海軍を他国のもののようにしか見ないであろう。




 なんとも辛辣な記事ですが、海軍に対する愛情のほとばしりとも読めます。これほどまでに当時の海軍が国民人心から離隔していたという事実は、ちょっと意外でもありました。しかし薩摩閥は、海軍部内でも問題視されており、山本権兵衛の大ナタに繋がります。

 日本海軍が当時、民衆に認められていない海軍だったという記事は、私がだいぶ前に読んだ雑誌記事を思いださせました。

 第二次世界大戦の開戦も間近なころ、たしか豊後水道かどこかで難破した船の生存者の言葉だったと思います。
 ようやく沈む船から逃れ、波間に漂っているとき、高速で接近してきた大型船があったそうです。近づくに従い、それが日本海軍の航空母艦であることが判ったのですが、演習中の空母は遭難者に気付きながらも足を止めることなく、「ワレ作戦中」とだけ信号して、何も救助活動をせずに通り過ぎたというのです。
 これを書いた人は、その勇姿に見惚れ、悪感情を抱いていなかったようでしたが、この軍艦の行動は、現在ならまったく考えられないものでしょう。

 演習中であるならば空母が単独で行動するはずはなく、当然に随伴する駆逐艦がいたはずですが、それについて書かれていたかは記憶にありません。ずいぶん昔に読んだ記事ですし、内容は記憶しているだけなので、細部に誤りはあるかもしれません。
 それでも、演習中の海軍が、国民の危難を横目で見て無視するというのは、読んだ当時かなりショックでした。それだけ鮮烈な記憶となって残っているわけです。

 ここで紹介した新聞記事に見られるような、人民と乖離し、冷たい視線を向けられていた海軍が、その一身に国民の注目を集めたのは、1894年、この時からわずか3年後、日清戦争での大活躍によってでした。
 つまり、その存在価値の誇示は、この新聞記事に望まれていた救助でも保護でもなく、戦いに勝つことによって達成されたのです。そのために、日本海軍は人々を守る軍隊ではなく、ひたすら戦う軍隊になってしまったのかもしれません。




参考文献
All the world's fighting ships 1860-1905/Conway Maritime Press
Chinese Steam Navy (The) /Richard N. J. Wright/Chatham (2000)
Warships of the Civil War Navies/Paul H. Silverstone/Naval Institute Press




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