サリチの戦い (1) The Action off Cape Sarych (1) : 1914.11.18 |
1914年8月に第一次大戦が勃発したとき、世界の海軍には程度の差こそあれ、多数の旧式な主力艦が残存していた。ほんの10年前、日露戦争時には最新鋭だった戦艦や装甲巡洋艦である。
これは、1906年にイギリスで完成した画期的な新型戦艦『ドレッドノート』がもたらした事態で、それまでの倍の主砲戦力と、3〜4ノット差の速力を安定して発揮できる突出した能力は、当時完成しつつあった新戦艦までをも一気に旧式化したのである。
これにより、海軍は艦隊の基準を弩級(ド級=ドレッドノート水準の意)戦艦の数に置かなくてはならなくなり、完成したばかりの旧式戦力を抱えたまま、新しい艦隊の創生を始めなければならなかったのだ。
最も多くド級戦艦を保有していたイギリス海軍でも、開戦時には一コ戦艦戦隊が準ド級戦艦である『キング・エドワード七世』級で編成されていたし、ドイツではかなり後まで前ド級戦艦の戦隊が主力の一部になっている。それでも、両国にとってこれらは名目上の主力であり、実際にはせいぜい後詰の役割を担う程度だった。
ところが、世界大戦というくらいで、その戦場は世界各地に広がっており、そしてそこにはまだ、ド級戦艦の津波が押し寄せていない海が残っていた。この小文が描くのは、そういう海で起きた戦いであり、一方が単独のド級巡洋戦艦、一方が前ド級艦の艦隊という海戦である。
戦闘そのものは小規模で、ごく短い時間の偶発的な遭遇戦だったから、戦史で大きく取り扱われることはない。戦訓も重要なものではなく、情報が少なかったことから研究の対象にもなりにくかった。
しかし、対峙していた両軍は、当然に相手の存在を知っており、その戦力もおおよそ把握していたし、実際に衝突した勢力は両軍ともほぼ全戦力と言える、それなりの規模の戦闘だったのである。
現場の艦隊では現実の問題として、こうした戦闘が予期されており、対抗戦術が研究され、想定された状況に合わせての訓練も行なわれている。
それは、確かに後世の目から見れば、ほどなく消えていく兵器を用いた想定戦術なのだから、あえて研究する意味はないのかもしれない。それでもそれは、新型艦が完成して艦隊が刷新されるまで、現実に使われるべき戦術であり、その思考傾向は後の戦術の立脚点でもあるだろう。
これ以上ないほど保守的な組織である軍隊は、たとえ装備が変わっても、そうドラスティックに姿勢を変えるものではない。それゆえ、第一次大戦後、またワシントン軍縮条約以後、さらには条約明け後の戦艦を見るとき、彼らが前時代の遺物を引きずっているという意識を、常に見る側の視点に含めなければならない。
そういう意味では、ド級艦、超ド級艦を見るとき、前ド級艦で編成された艦隊が、どうやって彼らに対抗しようとしていたのかは、その思想の根源に迫る格好の材料だとも思われる。
昨日思いついた戦術で、今日を戦うことはできない。平素から、想定した戦術による訓練を艦隊に施し、必要なノウハウを集め、それに応じた改変、新装備の導入要求を断絶なく続けていなければ、艦隊はいざというときに役に立たない存在になってしまう。
攻勢を取る軍であるならば、これはまだしも楽なことだが、守勢に回るとなれば容易なことではない。それでも軍隊は、仮想敵国が準備する戦力に対して、不十分であっても手持ちの戦力で防衛の任を果たさなければならないのである。
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主力艦の定義を戦艦と巡洋戦艦に限った場合、第一次大戦において、主力艦が参戦した最初の海戦は、1914年8月28日のヘリゴランド・バイトの海戦であるが、これにはイギリス側の巡洋戦艦が加わっただけで、ドイツ側は軽巡洋艦と駆逐艦でしかない。11月1日にはコロネル沖海戦が戦われたけれども、参加した最大艦は英独どちらも装甲巡洋艦だった。
巡洋戦艦が装甲巡洋艦を一方的に撃破したフォークランド島沖海戦は12月、同じ12月のドイツ巡洋戦艦艦隊によるヨークシャー襲撃では、両軍とも出動はしたが主力艦同士はぶつからなかったから、初のド級主力艦同士の戦闘とされるのは、翌1915年1月のドッガー・バンク海戦である。
では、第一次大戦における最初の主力艦同士の戦闘というのは、これなのだろうか。
実はこれは、ドッガー・バンク海戦ではないのである。だからこそ、これは「最初の『ド級』主力艦同士の戦闘」なのであって、そうではない主力艦間の戦いは別に起こっている。
1914年11月18日に行われたサリチ岬沖の海戦は、あまり知られていない戦いであるけれども、これこそが、第一次大戦における最初の主力艦同士の戦闘なのだ。
サリチ岬沖の海戦では、前ド級戦艦を主力とするロシア黒海艦隊と、形式的にトルコ海軍籍に入っていた、ドイツの巡洋戦艦『ゲーベン』が戦っている。
この戦いでは、興味深い出来事がいくつか起きている。しかし、起きた場所と艦隊の規模、結果の小ささ、さらには勝敗が不明確だったために当事国のプロパガンダに乗らなかったことから、知名度は極端に低い。一般の書物などに扱われている範囲では、ほとんど何もわからないに等しい。
ドイツには、トルコにおける『ゲーベン』などの活動についての公刊戦史があるものの、この海戦に関する限りでは、詳しいとはお世辞にも言えない。ロシア側の記録は革命の影響などもあって明らかになっていなかったが、ソビエト連邦の崩壊によってようやくいろいろな記録が公開され、いくつかの資料が入手できるようになった。
戦史研究家マクラフリンは、これらを用いてサリチ岬沖の海戦に詳細な研究を行なっている。ここでは、その翻訳を中心に、別な角度からの視点をまじえて、この海戦を詳述してみようと思う。
●両軍の戦力
第一次大戦にトルコが参戦したとき、その海軍は、実質的にドイツの海軍提督スション少将によって指揮されていた。ドイツ地中海艦隊司令官だったスション少将は開戦直後、中部地中海において巧みにイギリス艦隊の追及を逃れ、巡洋戦艦『ゲーベン』と軽巡洋艦『ブレスラウ』をコンスタンチノープルへ持ち込んだのである。
これはドイツにとって政治的に大きな勝利であり、トルコをドイツ側に立たせる重要な影響を与えている。2隻は表向きトルコに譲渡され、『ゲーベン』は『ヤウズ・スルタン・セリム』となり、『ブレスラウ』は『ミディリ』と名を変えた。
艦は公式にはトルコ海軍の軍艦であるとされ、若干のトルコ人乗組員を乗せはしたものの、元来のドイツ人乗組員はほとんどそのまま乗務を続けている。彼らの間では、『ゲーベン』は『ゲーベン』であり、『ブレスラウ』は『ブレスラウ』のままだった。
『ゲーベン』は、ドイツ巡洋戦艦 (ドイツでは大型巡洋艦) として第二陣にあたる『モルトケ』級の一艦として、1912年に完成している。排水量はおよそ2万2千8百トン、28センチ50口径砲10門を主兵装とし、連装砲塔5基に2門ずつ装備していた。砲塔は艦首に1基、艦尾に2基が背負い式とされ、中央部両舷に1基ずつが、前後にずらせた梯形配置とされている。これにより範囲に若干の制限はあるものの、すべての砲が両舷に指向できた。
28センチ砲の砲口における砲弾の速度は、毎秒880メートルという高速で、重量302キログラムの砲弾を40秒間隔で発射できた。副砲としては15センチ砲12門が装備されており、これは片舷6門ずつが砲廓に収められている。
計画最大速力は25.5ノットとされたが、公試では計画の160パーセントほどにあたる出力を発揮し、28ノットを記録している。しかし、機関部を高能率とするために採用された高温高圧小径水管の新型ボイラーにはトラブルが多く、トルコ到着時にはかなり能力が低下していた。
ドイツ主力軍艦の例に漏れず防御は優秀で、主要部分には270ミリのクルップ装甲板が装着されていたし、水平防御、水中防御とも、当時の水準を抜いている。
軽巡洋艦『ブレスラウ』は4,570トン、10.5センチ砲を12門装備し、27ノットを発揮できた。これ以外のトルコ軍艦はほとんどが旧式艦で、戦争にはいくらも寄与していない。
1912年に完成し、すぐに海外任務に派遣されてから一度も本国へ戻っていない『ゲーベン』は、進歩した射撃指揮装置を取り付けておらず、その能力はけっして高くない。
判明している限りにおいて、『ゲーベン』には基線長3メートルの測距儀9基が装備されていたとされる。各主砲塔に1基ずつ、副砲用のものが両舷上甲板に1基ずつ、前後の司令塔に各1基である。これはカール・ツァイス製のステレオ式で、当時最高水準の測距儀だったが、観測された距離数値は、司令塔後部に陣取る砲術長へ送られて処理されるだけだった。
ドイツ本国の新鋭艦に取り付けられていた方位制御装置はなく、砲は各砲塔独立に指揮所からの指示を受けて照準され、合図によって一斉射撃を行った。入力に基づいて射程を自動的に変化させていく距離時計は、各砲塔の装置へ射程を連続的に通知するだけで、砲の仰角まではコントロールできない。
発砲のタイミングは、指揮所からのゴングによる指示によって砲ごとに引き金が引かれるため、微妙なズレがどうしてもなくならない。しかし、ドイツでは砲仰角手の操作によって、砲身を船体のローリングとは無関係に一定に保つスタビライズ方式が用いられており、このズレは命中精度には大きく影響しなかった。
当時最新装備だったイギリスの方位盤では、旋回、俯仰、発砲とも指揮所からの遠隔操作で行われ、基本的にズレは発生しない。しかし、砲は船体の動揺に対してスタビライズされていないので、発砲のタイミングはローリングの頂点付近に一定の角度を定めるようになっていた。
この傾斜角は、当然砲の仰角と合算されるから、各砲はそれを前提に調整されるわけで、これを発砲直前に変更することはできない。
発砲の瞬間、艦は完全には静止していないが、ローリングは都度必ず同じ角度まで傾くとは限らないため、設定角度が大きすぎると発砲のタイミングが来ない怖れがある。また、最大傾斜直前で発砲する場合、傾斜が戻る前にもう一度同じ傾斜角を通過するので、装填の遅れた砲に再発砲のチャンスがあるわけだ。ここでも発砲できなかった場合、その砲は他の砲が再装填を終えるまで待たねばならず、「一回休み」になってしまうのである。
このことはイギリス式の場合、避弾のために細かな転舵を繰り返していると、艦の状態が安定せず、タイミングを逸したり、動揺の動きの速い瞬間に撃ってしまうことになりかねない。
ドイツ式では、装填を終えた砲の仰角は、砲手が手動でスタビライズするため、あまり大きな影響をもたらさないけれども、砲手の疲労がそのまま精度の低下に繋がってしまう。いずれも一長一短ということだが、そういう目で記録を眺めると、また違った発見があったりもするだろう。
この時代、遠距離砲戦はまだ現実のものではなく、戦前のドイツ海軍では射程8千メートルといった距離での訓練が行われていた。距離1万メートルを超える射撃では命中率が大きく低下し、その有効性に疑問が持たれていたのだ。
比較的大口径、大射程の砲を持っていたイギリス海軍にしても、訓練で行なわれた大遠距離射撃の最大射程は16,000ヤード (14,600メートル) で、最大射程よりはだいぶ短く、これ以上の距離では射表 (射撃に必要なデータをまとめた書類) も準備されていなかった。
主たる戦場と想定された北海の、霧が多いという気象状況から、大遠距離射撃は発生しにくく、それならば艦の構造的負担になる主砲の大仰角は必要性が小さいと考えられたため、英独両主力艦の大半で意識的に最大仰角を小さく抑えられ、それは15度以下に過ぎなかった。13.5度の仰角での28センチ砲には、17,500メートルの射程があったけれども、この角度は艦の傾斜をキャンセルするために必要だったのであって、理論的な最大射程は大きな意味を持っていない。
このころに主砲が大きな仰角を持っている場合、それはしばしば対陸上射撃を意識したもので、少なくとも海軍の主流には大遠距離砲戦への意識が強くはない。一部には確かに、いくらかなりとも最大射程を大きくしておこうという意図があったらしいが、実際にそういう射撃の訓練が行なわれていたわけではないようだ。その最大の理由は、「命中が期待できない」である。
こうした設計思想で建造された『ゲーベン』では、砲塔の設計は速射が第一目的であり、遠距離射撃への要求は大きくなく、当然防御様式もこれに従っている。
一方のロシア黒海艦隊は、この時まだ建造中の新型ド級戦艦が完成しておらず、主力は準ド級艦と呼ばれる戦艦2隻だった。『ゲーベン』に対抗すべき戦艦は、以下の5隻である。
『スウィアトイ・エフスタフィ』:1911年完成、12,850トン、30.5センチ砲4門、20センチ砲4門、15センチ砲12門、16ノット
『ヨアン・ツァラトゥスト』:1911年完成、12,850トン、30.5センチ砲4門、20センチ砲4門、15センチ砲12門、16ノット
『パンテレイモン』:1905年完成、12,900トン、30.5センチ砲4門、15センチ砲16門、16ノット
『トリ・スヴィティテリア』:1897年完成、13,000トン、30.5センチ砲4門、15センチ砲14門、16ノット
『ロスティスラブ』:1900年完成、10,500トン、25センチ砲4門、15センチ砲8門、15ノット
全体の戦力として攻撃力と防御力は十分だが、どの艦も『ゲーベン』より10ノットは遅く、この要素は数がどれだけいても追いつかないものである。1905年に日本海でロシア第二太平洋艦隊 (バルチック艦隊) が大敗してからというもの、ロシア黒海艦隊は忘れられたような存在であって、やっと2隻の戦艦を名簿に加えた以外は、旧式艦をだましだまし使っているような状況だったのだ。
その指揮を取るのは、1911年に黒海艦隊司令官となったエベルガルド提督である。(彼の出自はスウェーデンで、母国語だとエベルハルトとなる)
彼の就任当時、ロシアでは新鋭の戦艦2隻が完成しているものの、すでに1906年にはイギリスの『ドレッドノート』が世に出ており、時代遅れは否めなかった。
それでも、当時の仮想敵国トルコの艦隊もまた、旧式艦のオンパレードだったから、それほどの危険はなかったのである。しかし、彼らがイギリスに2隻の新型戦艦を発注したことで、30.5センチ砲12門を持つ戦艦、『インペラトリツァ・マリア』級3隻の建造が決められた。これは後に4隻目が追加されている。(これはロシア側の見解であり、トルコに聞けばまた違った主張が返ってくるかもしれない)
エベルガルドは『ゲーベン』と『ブレスラウ』がダーダネルスに到着したと知ったとき、ただちに主力艦隊と最新の水雷艇をボスポラス海峡へ送りこみ、ダーダネルス海峡を抜けてくるこれらを撃沈してしまおうと考えた。しかし、政府は戦争が短期間で決着すると見ており、トルコはその態度を決めきれないだろうとして、彼の要求を認めなかった。
敵対するトルコが、イギリスからド級戦艦を輸入しようとしているのに、自国の対抗戦艦は完成が遅れ、しばらくは前ド級戦艦を中心とした戦力で戦わなければならないことを、エベルガルドは重く見ていた。このため、彼は独特の射撃法を研究し、艦隊を訓練している。これについては後述しよう。
それでも、当時トルコが発注していた戦艦は、34センチ砲を装備するとはいっても最大速力は21ノットであり、戦艦はともかく、巡洋艦には大きな脅威ではなかった。そのため巡洋艦の更新は後回しになり、日露戦争当時の水準でしかなかった巡洋艦は、まだしばらく現役に留まるとされたのである。突然目の前に現われた巡洋戦艦は、これらにとって非常な大敵となった。
当時のロシア黒海艦隊最良の巡洋艦は、『パミアト・メルクリア』と『カグール』であり、どちらも速力はカタログでも23ノットである。備砲は15センチ砲でしかなく、もし『ゲーベン』と出会ってしまえば、戦うことも逃げることもできないのだ。とにかく艦隊全体で、『ゲーベン』より速いのは一握りの駆逐艦だけという状況なのだから、これでは危なくて艦隊を分散できない。
海軍組織としても、1912年には有名な『ポチョムキン』の反乱があり、1913年1月のドイツ海軍参謀の言によれば、士気の低さ、軍艦の旧式化によって、黒海艦隊の実力はかなり低いものと見積もられていた。
●『ポチョムキン』は、正式には『クニャージ・ポチョムキン・タワリチェスキー』 Kniaz Potemkin Tavritcheski で、この反乱の後に『パンテレイモン』と改名されている。
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