砲塔の生い立ちと進化(1) Progress of Turret and Barbette (1) |
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今回は戦艦の最も重要な装備といえる砲塔について、その初期の発達を述べてみましょう。なかなか資料もないので判らない部分も多いのですが、基本的な構造と、その運用を見ていきます。
いわゆる砲塔の定義ですが、現在一般的なのは第二次世界大戦当時の戦艦の砲塔を基準にしたもので、船体内部に主要構造を持ち、砲とその付属構造が一体となって旋回するものでしょう。
多くは重厚な防御装甲を持ちますが、不充分なものもしばしば見られ、装甲の有無は必ずしも砲塔の定義には含まれません。まあ、まったく無防御のものは、近年の全自動砲に見られるくらいでしょうが。
ここでは説明にあたり、簡単な用語を定義しておきます。もちろん、これらの分別は決定的なものではなく、しばしば用語は交錯しておりますので、他の文書との比較は慎重にお願いします。
では・・・
砲塔:
全体構造を指す。別体となっている照準器や弾薬庫は含まないが、揚弾装置は含まれる場合がある。一般の用法では、しばしば下記の砲室を指している場合があり、ここでの記述をそのまま持ち込むと、食い違いが発生するかもしれない。
砲架:
砲を直接支えている構造。発砲反動を吸収する装置を含むものと、含まないものがある。
砲座:
砲架を支えている土台。俯仰を司る機能を持つ。砲塔の場合、一般に旋回する機能は持たされず、これは砲塔そのものが旋回する形になる。ごく一部に、砲塔の中で砲座が旋回するものもあるけれども、例外と考えていただきたい。
砲架が発砲反動を吸収する機能を持たない場合は、砲座と砲架は一体化していると考えられる。この場合、砲座そのものの後退をなんらかの方法で制御している。
つまり近代砲では、駐退<俯仰<旋回、という構造が、前近代では、俯仰<駐退<旋回、という順だったのである。また砲架と砲座はかなり曖昧に用いられているので、やはり注意が必要である。
バーベット:
砲塔の下部構造を防御する固定された装甲を指す。一般に円筒形をしたものを言い、船体一体のものや方形のものはシタデルと呼ばれる。これを持たない砲塔も存在する。揚弾筒だけを防御しているものは、バーベットとは呼ばない。
砲室:
旋回する露出部分を指す。必ずしも閉囲されているとは限らない。直接に砲を運用するための機器を備えている部屋だが、形状、機能範囲などは様々で、一定の基準はない。
砲眼孔(ほうがんこう):
砲室から砲身を突き出すための開口。
指揮、照準装置:
砲塔と一体になっているものだけで、方位盤のように別体になっているものは、どれほど関連が深くても砲塔の一部とは考えない。
また、しばしば砲塔の天蓋上などに関係の少ない装備品を設置する場合があるものの、主たる砲の射撃に関係しないものは、砲塔の一部とは考ない。これには子砲なども含まれ、境界が曖昧にならざるを得ない備品が存在するので、やはり注意が必要である。
そもそもの始まりは、クリミア戦争のころ、イギリスの海軍将校コールズが発案し、海軍に提案していたものとされる。彼はこれを十数個もハシケのような船体の上に並べ、それぞれに防御を与えようとしていた。
砲塔は前後端のものが中心線上にあるだけで、それ以外は両舷に並列に並んでいる。これは提案だけに終わり、現実化はしなかった。
もうひとつは、1859年にフランスが、オーストリア・ハンガリーの支配下にあった現在のイタリア北部を攻撃しようとしたとき、河川用砲艦として計画されたもので、これには固定砲塔が装備されていた。姿かたちは、この後に紹介するモニターの砲塔とよく似ているが、旋回はできず、中の砲が複数の砲門間を移動するようになっている。
モニターの設計者であるエリクソンは、すでにクリミア戦争当時に、この種の装甲艦を提案しているけれども、彼がこの河川用砲艦に関わっていたのか、その構造を知っていたのかなどは明らかではない。
■エリクソン砲塔 (アメリカ南北戦争でモニターに用いられたもの・1861〜1865年ころ)
●概要
1861年、アメリカ南北戦争中に、スウェーデンからの移民ジョン・エリクソン John Ericsson が開発したもの。厳密な定義上は砲塔ではなく、旋回する装甲砲室である。しかし、運用思想的に後の砲塔の先祖であるので、通常は通史から外されることはない。
図に示すように、船体内にあるのは旋回用の中心軸だけであって、それ以外はすべて甲板上に露出している。なおここでは、形式としてのモニターをカギカッコなしで、個艦名としての『モニター』をカギカッコつきとして区別する。
砲室の平面形は完全な円で、側面に出入口はない。交通は床下か天蓋の開口から行う。床下の開口は揚弾薬口を兼ねている。この交通穴を含め、船体から砲室内部へ持ちこまれている動力などはない。
設計当初は床を格子構造とし、旋回位置にかかわらず交通できるように考えられていたが、浸水、爆風の侵入などの問題があったために大半を塞がれ、特定の旋回位置でしか交通できなくなった。ただ、この砲塔は艦内換気の排気口を兼ねているので、どの位置にあっても完全には塞がれていないはずである。
●俯仰
旧来の方式そのままであり、前装砲の尾部をクサビ、またはネジ棒で持ち上げる。発砲の反動で、砲座は床の上を水平かそれに近い状態で後退するので、砲身は斜めに並行移動する形となり、大きな仰角をかけようとすると砲眼孔が非常に大きくなってしまう。
●揚弾
砲塔を一定の位置に回し、床の開口を甲板のそれと一致させて、滑車装置によって吊り上げる。砲室内部に余積があるので、かなりの数の砲弾が準備しておけるから、通常はこれを用いた。揚薬については不明だが、一発分ずつ手渡しで上げたか、ある程度を砲室内に保管したのだろう。
●装填
砲を後退させ、砲弾を滑車装置で吊り上げて砲口にあてがい、ラマーで押し込む。すべて人力である。
円筒型の砲室には弱点になる方向がなく、砲眼孔が最も脆弱であるので、一般に装填は砲を敵側から逸らせてから行われた。発射速度は非常に遅く、一発あたり10分近くかかったのではないだろうか。
南北戦争でのハンプトン・ローズの戦闘では、発射間隔はおよそ7分とされているものの、これは発射弾数/戦闘時間の数値 (41発/4時間半) と思われるので、限界的な間隔はこれより短いだろう。しかし、砲は2門あったから倍の時間ということになる。実際には対勢の変化に時間がかかっているので、すれ違いごとに一斉射だったとも考えられる。
●照準
どういう方法で行われたのかは不明。当時の様子を描いた絵画では、砲の脇から顔を出し、砲身の前方を透かし見ているものがあるけれども、この状態で発砲したのでは照準手は堪ったものではないから、発射の寸前に横へ逃げたのかもしれない。
ほとんどの砲塔が連装であるので、反対側の砲眼孔から照準したとも考えられる。斉射は特に意味を持たない時代だから、この砲塔では左右にまったく口径の異なった砲を装備していたのが珍しくない。例としては11インチ砲と15インチ砲というのもあった。
後期型では砲室上に、やはり円筒形の司令塔を装備したものがあり、ここから指揮したとも考えられる。
■コールズ砲塔=囲砲塔 (いほうとう/かこいほうとう・1861年から1875年ころまで)
●旋回
砲塔を回すためには、10人ほどが取りつくことのできるクランクが用意され、ギヤボックスを介して砲室下部外周に取りつけられた歯車を回した。この方式は近代砲塔になってからも、かなり後期まで、補助用の旋回装置として装備されつづけている。
砲塔旋回部はローラーの上に乗っており、重量の割には動きがよかった。このローラーは位置を決めるために、中心軸から放射状に伸びたシャフトと連結され、このシャフトがあるので砲室から真下へは交通できない。
これは、この方式そのものが、旋回橋や鉄道の転車台(もっと遡れば風車小屋)に範を取ったためと思われる。これらでは真下への交通は考える理由もないので、手軽な構造を選択しているのだろう。
中心軸は、初期にはただの鉄棒だったけれども、内部に動力用のパイプを通す必要から筒状に変わり、徐々に拡大されていく。
●俯仰
やはり原始的な方法で、それまでの方式から脱却していない。
初期のものでは、砲眼孔を極力小さくしようとする要求と、できれば大仰角が欲しいという要求を満たすため、砲室の床自体をジャッキで上下させる機構が採用された。具体的な構造を示す資料はなく、ここに掲げたイラストの原図でも、その機構は描かれていないが、『ワスカル』の砲塔にそれがあったという記述はない。
初期には最大仰角から最大俯角まで、1時間を要したとも記録にある。これは基本的に遠距離砲戦を意図した装備ではなく、対陸上砲撃で必要な仰角を確保する目的である。水面より高い位置にある、丘の上の目標を射撃するために必要だったのだ。
●揚弾
弾薬庫から主甲板までは滑車装置などで持ち上げられる。問題はシタデルから砲室への経路で、砲室下部側面の骨格構造部分から内部へ引きこむわけだが、その具体的な方法は明らかではない。おそらく滑車装置で吊り上げ、人力で補助をしながら持ちこむのだろうが、何かスマートさには欠ける。砲弾専用のチューブダクトのようなものがあったのかもしれない。
●装填
モニターの球形弾と違い、前装施条砲は椎実弾を用いているので、装填は厄介である。滑車装置で持ち上げた砲弾には、ライフルの溝に嵌合させる鋲が打ってあるので、これの位置を砲身の溝に合わせなければならないのだ。
重量200キログラムを越えるような砲弾を、砲身のライフルに合わせて回転させながら押し込むのだが、たかだか数人の人力で、これをどう動かしたのか、詳細は判らない。
●照準
この砲塔では、初期のものから砲塔そのものによって照準するやり方が採用されていた。砲室の後部天蓋から突きだした観測・照準塔があり、天蓋の前方に照星が立てられている。
■フランス式囲砲塔(1868年ころに建造された砲塔衝角艦のもの)
●概要
フランス特有の砲塔だが、基本はコールズ式である。初期に衝角艦として建造されたものは、ここに挙げるようなバーベット類似の構造を下部に持っていた。
コールズ式との大きな違いは、中心軸を中空の太いものにし、ここからの交通を考えていることである。内部には螺旋階段があり、その中心部が揚弾筒になっていた。砲弾は専用の金具で保持され、砲塔内から吊り上げられる。装薬もここを通ったのだろうが、具体的な方法は判らない。砲架そのものは旧式で、大きな進歩はしていない。
船体が木造なので、剛性を保つのはかなり難しかっただろう。集中荷重への対応も困難だったと思われる。
このように砲塔の誕生初期には、外見的によく似たものが、米、英、仏で、それぞれに開発されていました。次のページではその発達の系譜をたどっていくのですが、その道筋は国ごとに異なります。
アメリカは装甲艦の建造そのものをほとんどやめてしまい、当然のことに大きな発展もしませんでした。フランスでは少数のモニター系統艦が建造され、それなりの発展を見せていますが、主力はまったく異なった形式の砲塔へと移行してしまいました。これについては、また改めてお話しすることにいたしましょう。
と、いうことで、次のページでは主にイギリスの砲塔の発展を見ていくことになります。
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